第3話
アユミは、スキル【創造】で作った黒づくめの服に身を包み、顔を覆う黒い仮面をそっと整える。
完璧。完璧だ。
多少変な人に見えても構わない。
大事なのは、"死んだはずのセラ"とバレないこと。それだけ。
この空間を静かに、音を立てずに歩くだけで、
鼓動が速くなるのがわかる。
足音すら、息づかいすら、世界を乱す気がしてくる。
……その時だった。
カツン、カツン、と。
廊下の奥から、靴音が響いてきた。
マズい!!誰か来た!!
思考より早く身体が動く。
私は瞬時に近くの教室へと駆け込んだ。
そっと、でも素早く。
音を立てないよう、息を止めて、ドアの内側に背中を預ける。
と思ったのも束の間──
「ナズナ……お前……は、」
聞こえたのはアーベルの声。
ということは、すぐそばにナズナちゃんも──!?
私はつい、誘惑に負けてしまった。
教室の扉の隙間から、こっそりと窓へ近づき、
中を覗こうと身を乗り出した──その時。
ガシャンッ!!
壊れかけのドアの金具が、重力に負けて音を立てた。
音は爆音にすら感じられて、心臓が跳ね上がる。
やっちゃったあ!?!?
今の絶対聞こえたよね!?何か言い訳考えなきゃ!?
転んだフリ?幽霊のフリ?トイレ探してましたって言う??
焦りで頭が回らない、けど──
「ここは危ないみたいね…。早くお家に帰りましょう?」
ナズナちゃんの声が、救いのように響いた。
……助かったぁ……!!
その背中は、原作の中のナズナそのものだった。
「マユ」としての意思も、もう残っていないのかもしれない。
ふふん……これはもう、深く介入しなくても良さそうだね。
2人の足音が次第に遠ざかっていく。
私はそっと立ち上がり、事前に隠しておいた手作りの望遠鏡と、盗聴器を取り出す。
どこで作ったのかって?
簡単なことだ。
この世界は、転移前の世界に酷似している。
その記憶の奥底、箱庭から引き出した知識を、
この手で再現してみせただけ。
転移前の世界で散々失敗してきた分、こういうのは得意だった。
私は装備を整え、教室の影からそっと外を覗き、私はそっと次の行動に移った。
ナズナとアーベルは予想通り、タクシーを呼んでいる。
やっぱり。
毎日車通学なんだもんね、帰りもタクシーか使用人の迎えだと思ってた。
胸が高鳴る。まるで初めての実験に挑むみたい。
成功するか、失敗するか──わからないからこそ、ワクワクする。
盗聴器を片手でぎゅっと握りしめ、
「えいやっ」と彼らのほうに投げた。
盗聴器は軽やかに弧を描き、
──スッ、と空気に溶けていく。
一か八か、だ!
これがダメなら、望遠鏡で口の動きから会話を想像するしかない……!!
手早くヘッドホンを装着し、音量をそっと上げていく。
キィーーーン……と甲高いノイズが耳を刺し、
同時に胸の奥がキュッと締め付けられるような緊張感に包まれる。
“ガガ……ピーーー”
“……ゴソ、ゴソゴソ”
……っ!聞こえる……!?
かすかに、物音。どこかで何かが擦れる音。
これは……どこからの音……?
耳を澄ます。すると──
“ドクン、ドクン”
ん?エンジン音……?
さらに少し音量を上げると、
本当にわずかだが聞こえてきた。
“……スゥ……ハァ……”
っ……!これ、呼吸音!?
やった。やった、やった、やった!!
小さなガッツポーズを作りたくなる。
どこに入り込んだかはわからないけど、確かに“人間”の気配が聞こえている。
やっぱり私天才すぎる!!大成功!!
とはいえ、このままではこちらの姿がバレる。
私は素早く望遠鏡を手に、箱庭へと駆け込む。
──箱庭に入ると、望遠鏡用の小さな入口が現れ、
そこにそっとセットする。
ふふふ……これも計画通りだよ!
ルーズベル襲来のあの時、箱庭の中でちゃんと考えておいたんだから──!
外からは、突然空間から望遠鏡が現れたように見えるはず。
もちろん私の姿は見えない。
これで、望遠鏡越しにナズナとアーベルの動きがバッチリ見えるってわけ。
不安と興奮がごちゃ混ぜになる。
胸がドキドキと跳ねる音は、さっきの呼吸音にも負けないくらいだ。
しばらくの間、耳を澄ましても、盗聴器から聞こえてくるのはアーベルが運転手に行き先を伝える声だけだった。
ナズナ──いや、マユからの言葉は一切ない。ただ風の音、呼吸、そして微かな心音。
得られた情報といえば、アーベルの住所以外に何一つなかった。
私はゆっくりと望遠鏡を取り外し、箱庭の中へとしまう。
そして、気がつけばひとり、黙り込んでいた。
「……このままで、いいのかなぁ……」
ぽつりと漏れた言葉は、箱庭の無音空間に小さく反響した。
空気が張り詰めているのに、どこか空っぽな感覚。
漠然とした不安がじわじわと胸を蝕んでいく。
──そうだ。私は、元はただの高校生だった。
お金稼ぎで機械いじりや設計をしていたから、盗聴器や望遠鏡も作れた。
でも、人を操ったり、脅したり、殺したりなんて…そんなこと、したことなかった。
だからこそ、マユに対してこの先どんな感情を抱くのか、自分でもわからなかった。
「もっと、他のやり方があったんじゃないかなぁ……」
独り言がこぼれる。
けれど、それはもう戻れない“タラレバ”ばかりだった。
──もし私が、神聖スキルの持ち主だったら。
──もし、転生者が私だけだったら。
空想は次々浮かぶけれど、それらはただの逃避に過ぎなかった。
そしてその時、ふと、心に強い違和感が走る。
……あれ?
私は、ずっと機械いじりが好きだった。
設計図も、材料も、理屈も、わかっている。
それなのに──どうして、「時計」が作れなかったのか?
知識もある、手も動く、それでも完成しなかった。
まるで“何か”が、それを妨げているみたいに。
グラリと感覚が揺れる。
時計だけじゃない。そういえば、箱庭で「作れなかった」もの、いくつかあったような……?
……なんで?
理屈ではなく、直感が叫んでいる。
“ここ”に、何かがおかしい。
私が思っているより、箱庭は“私の頭の中の空間”ではないんじゃないか……?
違和感は、不安と共に、じわじわと背中を這い上がってくる。
思考を急回転させても、原因には辿り着けない。
ただ一つ、はっきりしているのは──
この箱庭には、“見落としていた何か”がある、ということ。
そのときだった。
さっきまで“原作を守らなきゃ”という思考を、あれほど強く持っていたはずなのに、
それがまるで、“そう思わされていた”かのような違和感として胸に残る。
私は思わず、箱庭を出た。
外の空気が、冷たく頬を撫でる。
それだけで、頭の中のざわつきがスッと鎮まっていく。
……私、変だった……?
そう問いかける前に、自分の頬を──
パンッ!!
乾いた音が、夜に響いた。
「私がやるべきなのは、原作を守ること……それを最優先に動かなきゃ……」
だけどその声は、どこか不安定だった。
まるで“それ以外を考えちゃいけない”と、自分に言い聞かせるように。
ぐっと重い腰を上げる。
今、自分がいる場所を確認しようと動き出しながら、私はまだ、心の中で“箱庭の正体”を疑っていた。
ナズナとアーベルが乗っているはずのタクシーは、どこにも見当たらなかった。
代わりに、私の目の前に現れたのは巨大な門だった。
「……門、でかっ!!」
口から自然に出た言葉がこれだった。いや、ほんとそれしか出ないって。
だってさ、これ、門だよ?ただの門なのに……二階建ての家くらいあるんだけど!?なにこのサイズ感、パワー系!?どっかの貴族かよ!!いや貴族でもこんなデカくないって!!
しかも、鉄製で真っ黒で、模様がクルクルしててゴツくて――なのにどこか優雅さもあるってどういうこと!?近づくのすらちょっと怖い。でもカッコいい。めちゃくちゃカッコいい……!
っていうか、門って……人を入れるためのものだよね?
「来ていいよ」って意味のはずなのに、この圧って、完全に「近寄んな」じゃん……。
いや無理無理無理、こんなのくぐるとか緊張して胃に穴あくわ!!
と、心の中で騒ぎながら「トントン」と試しに軽くノックしてみる。
しかし返事は無い。
手をかけて無理に開こうとした瞬間、内蔵された警報装置がわずかに唸るような振動を発したのを感じた。ここは完全に“よそ者”を拒んでいる。
「…鉄壁、ってこういうのを言うんだね」
乾いた独り言を呟いた、その時だった。
盗聴器から、アーベルの声が聞こえてくる。
"まっすぐ行くと、大きい門があるはずだ。そこに停めてくれ"
ピクリ、と身体が反応する。
そして次の瞬間、静かな奥の道から、見覚えのある車が滑るように現れた。
……見つけた。アーベルたちのタクシーだ。
その車が目指す先こそ、目の前の鉄の門の向こう――つまり、これはまさしくアーベルの家。
その現実が、一気に私の脳を突き刺してくる。
「これが……アーベルの“家”……?」
あまりにも非現実的だった。
人が住む場所とは思えない。だが、アーベルの血縁にはあの“神童”ルーズベルがいる。ならば、これくらいの豪邸でも不思議ではないのかもしれない。
「うん…まぁ…そうだよね…」
謎に納得した私は、咄嗟に彼らに見つからぬよう、道路の向こう側にある茂みに滑り込む。
膝を折り、身を縮めながら呼吸を整え、息を潜める。望遠鏡を構えて、彼らの動向を注視する。
そのときだった。
ジリリリ……と、低く響く金属音。
門のインターホンが押され、数秒の沈黙の後――ギィィ……と重たい音を立てて、ゆっくりと扉が開いていく。
それは――思わず息を呑むような、静かで上品な建物だった。
白を基調にした外壁は、まるで陽光を弾くように艶やかで、それでいて落ち着いた品格を纏っている。屋根は重厚な瓦葺き、両翼に伸びるような造りは洋館と和風建築の狭間にあるようで、不思議と目に馴染む。真ん中にある正面玄関には太い白い柱が二本、まるで訪問者を見下ろすようにそびえていて、その奥の黒いドアは静かに口を閉ざしていた。
門を入ってすぐの石畳、その両脇には丁寧に剪定された木々や花が並んでる。派手さはない。でも、一歩でも足を踏み入れたら最後、何かに取り込まれそうな空気が漂ってた。
その光景に、私はただ言葉を失った。
“……お前、ここに住んでるだろ。なんで今さら驚いてるんだ”
盗聴器越しのアーベルの声が、現実に引き戻す。
そう、ナズナ――マユはここに“住んでいる”。
見慣れている光景のはずなのだ。それでも彼女は、この屋敷を初めて見たかのように驚いていた。
「……演技じゃない。驚いてた。あれは、マユの顔だった」
私の中で、マユへの苛立ちが小さく芽を出す。
そのとき――ギィィ……と音を立てて、再び門が閉まり始めた。
「まずい…!」
このままでは、観察ができない。望遠鏡も役に立たなくなる。
私はすぐさま、箱庭へと飛び込んだ。
途端に――。
胸の奥がざわつく。
さっきまで忘れていた、あの奇妙な違和感が、一気に押し寄せてくる。
時計を作れなかった理由。自分の記憶と、今目の前にある景色の微妙な齟齬。
考えが渦を巻き、身体が熱を持ち始める。呑まれる。思考が濁る――
「だめっ……!」
叫ぶように箱庭から飛び出した。
視界が一変する。空。風。地面が遠い。
そこはアーベル邸の敷地内、高い木の上だった。私は空中に投げ出される形になり、思わず枝にしがみつく。
「う、うそ……!」
枝に腕を絡めて、幹に脚をかける。まるで猿のように太い幹にまたがり、呼吸を整える。
心臓は、爆発しそうなほど打ち続けていた。
こんな瞬間にさえ、あの違和感は私を離してくれない。
けれど今は、とにかく落ち着いて、アーベルたちの動きを見なければ。
私は震える指で望遠鏡を構え、再び観察を開始した――。
とはいえ、箱庭から出る場所はランダムなのか?それとも私が決めているのか…。
箱庭に対して、未だに拭いきれない違和感がこびりついている。まるで、心臓の内側を冷たい指先で撫でられるような、嫌な感覚。
私が作ったはずなのに、その“はず”がどんどん信じられなくなってくる。
スキル【創造】を使うには、素材、温度、配置――全てを把握し、思い描かなければならない。
でも、なぜ箱庭ができた?どうして、こんなに自然に異空間を再現できた?
…まるで、これは“初めてじゃない”みたいに。
セラという器が、何かを隠してる気がしてならない。記憶か、本能か、それとも…。
私は観察と盗聴をやめ、無意識に箱庭へ戻っていた。
だが、その瞬間、いつもの無音の世界が私の全身を包む。
――やっぱり、おかしい。
違和感が、音の代わりに空間を満たしていく。
誰もいないはずのその場所に、“何か”が潜んでいるような錯覚。
作ったはずの空間が、自分に牙を剥こうとしてるような圧力。
箱庭……私の記憶から再現した異空間。
だが、それを“私が作った”と断言できなくなっている自分がいる。
創造スキルのはずなのに、時計の仕組みは再現できない?
なぜ?なぜだ?
そんな思考の渦に呑まれていると、いきなり地面が開き、私は箱庭から放り出された。
息が詰まるほどの驚きと共に、慌てて茂みに隠れ、仮面を付ける。
そして――走る車を見つける。
ナズナとアーベルだった。
「そっか、……2話が始まるんだね…。」
私は仮面を被りながら、2話冒頭のシーンである神殿へと向かった。
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私はチャオリン・ウォン。
プイスト家直属の戦闘メイド。という役職だ。
一見すれば、物腰柔らかで小柄な少女に見えるかもしれない。
けれど私の仕事は、“戦うこと”に特化している。
今日、予定とはかなり早い時間帯にアーベル様達がご帰宅した。
いつもなら、玄関の扉が開く音一つでも、その気配を察知できるはずなのに――今回は違った。
何か、空気が違っていた。
前庭へと足を運んだ私は、思わず立ち止まってしまった。
アーベル様とナズっちが、体操服姿で……しかもボロボロの状態だったのだ。
ズタズタに破けた布、服の下から覗く血のような何か。
まさか……と、脳裏をよぎった最悪の予感は、現実のものとなっていた。
主様――ルーズベル様が、暴走したのだ。
今日という日は、彼にとって“念願の外出日”だった。
16年もの間、あの“空間”に閉じ込められていたのだから、無理もない。
周囲の者たちは、その隔離がどれほど異常かを知っていた。
【神聖】のスキル保持者であっても、そこまでの処置が必要だったのかと、全員が引くほどの徹底ぶりだった。
……けれど、主様は耐えてきた。たった一人で。
私が同情することなど許される立場ではない。
でも、それでも。
最近の彼の目は、まるで獲物を狙うかのような猛獣のようだった。
そして、もう一つ――
それとは別に、ナズっちの様子にも違和感があった。
呼吸、立ち振る舞い、視線。
一見、いつも通りに見える。けれど、どこかが違う。
心がどこかへ置き忘れられたかのような、わずかな“歪み”。
あの子は、何かを隠している……そう、確信できるレベルだった。
着替えを手伝った際、私は偶然、彼女の制服の裏地に“盗聴器のようなもの”を発見した。
精巧な造り、スキルの干渉痕跡、設置位置の巧妙さ――
プロの犯行だ。
出処を探るため、私はそれを手元に保管している。
ナズっちの様子がおかしいのは、この盗聴器とも関係しているのかもしれない。
知らない誰かが、彼女をずっと“監視していた”としたら……。
ミレイユ様――
あなたの大事な娘は、
たとえ世界を敵に回すことになっても、私が守ってみせます。
チャオリンは、静かに羽ペンを置いた。
日記帳の革表紙を指でなぞり、微かな溜息を吐く。
「……私が…守る。」
そう呟くチャオリンは、何処と無く大人びた雰囲気だった。




