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第1話

私とアーベルは、血の匂いをまとった制服のまま、隣のクラスメイトから体操服を一式、借りた。


「ありがとう。少しの間借りる。」


アーベルの声は落ち着いていた。

いつも通りの、優しくて冷静な彼の声。

その背中に隠れて、私は小さく頭を下げる。


まるで、後ろ盾がなければ世界に存在を許されないみたいに。


手にした体操服は少しだけ大きくて、制服の上から羽織ってみても、なんだか“誰かの皮を着たような”違和感があった。


……私は、本当にナズナちゃんになれているんだろうか。


アユミは――あの異常な原作の狂人は、まだそこに横たわっていた。

血と静けさの中で、動かず、喋らず、ただ沈黙している。


でも……まだ“終わってない”。

あの鋭い目は、確かに今も、心の奥で私を見ている。

姿がなくても、どこかから監視しているような……そんな圧迫感。


思考がぐるぐると、螺旋を描く。


私が何度も自殺をして、ようやく手に入れた“原作通り”の流れ。

その先にあるのは……報われる結末でも、安心でもなく。

まだ、ただの"絶望への始まり"だった。


ふと、心臓がズキリと軋む。


もし、今ここで死んでしまったら?

私はどこに戻る?

また一からやり直し?

いや、それとも……“戻れない”のかもしれない。


そして、もしこの物語が、原作が、役目が終わってしまったとき。

私の存在は……どうなる?


ナズナとしての身体。マユとしての意識。

どちらも中途半端で、どちらも仮のもの。

私は、どこにも“還る場所”を持たない。


胸が、ぎゅっと締めつけられる。

目の前の風景が、ぐらついた。

呼吸が、苦しい。


「はっ、はっ……っ」


酸素が薄い。頭が回らない。足元が不確かで、世界が傾ぐ。


その時

温もりが、背中に触れた。


「大丈夫か、ナズナ。」


アーベルだった。

彼の指が、背中をやさしく、何度も撫でる。

それは漫画の中で何度も見た“王子様”のような行動ではなかった。


もっとずっと、現実的で、人間的で、優しい仕草だった。

ほんのり耳を赤く染めて、戸惑いながらも私を支えようとする、その手が。

確かに、今この世界で生きている人間の温度だった。


ああ……


私の妄想の中のアーベルだったら。

無言で抱きしめてくれるかもしれない。


けれど、今目の前にいるのは――そんな“お人形”じゃない。


葛藤して、戸惑って、けれど見捨てずに傍にいてくれる“リアル”のアーベルだ。


そう、ここはもう――二次元の中じゃない。

画面の中じゃない。

これは現実。

私が、目を背けてきた“リアルの世界”。


マユは静かに、顔を伏せた。

そして、震える手で顔を上げる。

勇気を振り絞るように、唇を噛みしめながら。


「大丈夫よ。ありがとう、アーベル。」


……この声は、震えている。けれど――真っすぐだった。


そして、決意した。

私は、もうフィクションの中のキャラクターを“助ける側”ではない。

原作を守るためだけに死ぬのでもない。


私は――


今、目の前にいる“リアルの彼”を、救いたい。


生きて、傍で、彼の苦しみに手を伸ばしたい。

この現実で、私自身の意思で、彼の未来を選びたい。


だから――


「アーベル…、ちょっとお話が…あるんだけど。」


その声は、もはや“物語のナズナ”ではなかった。

“誰かの代理”でも、“転生者の義務”でもない。

マユ自身の声だった。


ーーーーーーーーーーーーー


原作の1話が幕を閉じた。

だが、物語が進んだことでアユミの胸に広がったのは、達成感ではなく、どうすればこの世界の「原作」を守りきれるのかという、重く冷たい焦燥感だった。


この世界において、アユミとマユは本来存在しない異物だ。

特にマユ――彼女は、アユミにとって頭の痛い存在だった。

次の2話が始まるまでの短い猶予。その間にマユが予期せぬ行動を起こさない保証など、どこにもない。


アユミは人形の中で、じっと時間をやり過ごしていた。

その身は冷たく、動かず、血にまみれた教室の床に溶け込むように横たわっている。

彼女の心は、冷静そのものだった。


この世界には、かつて彼女が知っていた"ナズナちゃん"はいない。

だからこそ、マユをナズナちゃんに「仕立て上げる」しかない――それがアユミの選んだ方法だった。

だが、たったこれだけの時間で、マユを変えきれるとは思えなかった。


しかもマユは、時折アユミに向かって、冷たく刺すような目線を送る。

それは単なる敵意ではない。

まるで、殺意に近い感情が混ざっていた。


アユミはそんなマユを暗闇の視界の中、気配だけで捉えながら、静かに今後のプランを練り続けた。

もしマユが、原作を破壊するような行動に出たなら――即座に動かなければならない。


やがて、血に濡れた制服を隠すため、マユとアーベルが教室を後にする。

その姿が完全に見えなくなったのを確認すると、アユミはすぐさま箱庭へと意識を戻し、ゆっくりと箱庭から出てきた。


長時間、本体の体を放置していたせいで、体中の関節が悲鳴を上げる。

ギシギシと音を立てるかのような感覚に耐えながら、アユミはぼんやりと教室を見渡した。


血と肉片で汚れた教室。

生徒たちの無残な亡骸が散乱する、原作通りの、いつもの光景だった。


ここが1話の後の教室か…


教室の中は、変わらず惨劇の跡で満ちていた。

無惨に引き裂かれたクラスメイトたちの肉片が、血溜まりと共に散乱している。

だが――アユミは、それを見ても何一つ心が動かなかった。


まるで、高度なバーチャルワールドに足を踏み入れたかのようだった。

現実味はない。ただ、精巧に作り込まれた"ゲームの世界"を眺めているような感覚。


もちろんアユミは理解している。

ここは遊び場ではない。

だからこそ、決してキャラクターたちに無闇に声をかけたり、オブジェクトを壊したりはしない。

原作の流れを壊さないため、"プレイヤー"としての最低限のルールを守っていた。


彼女は、瓦礫と血の海の中を、静かに歩き出す。

ワールドマップを探索するように、何かを求めるでもなく、ただ教室を見て回る。


その瞳には、もはや「恐怖」も「悲しみ」も映っていない。

あるのは、奇妙な無感動。

それは、人として大切にすべき何かが、少しずつ、確実に抜け落ちていく兆しだった。


「あ、でもセラはもう死んでるんだっけか……」


アーベルやルーズベルが今の彼女を目にすれば、「死体が歩き回っている」そう認識する他ないだろう。


だが、それは避けなければならない。

原作の流れに不要な異物を持ち込めば、思わぬ歪みを生じさせる可能性がある。


……もっとも、「危険」と言い切らなかったのには理由があった。


原作には存在しなかった、ルーズベルがセラの遺体に直接手を下す描写。

通常であれば、そんな逸脱は致命的なはずだった。

だが、物語の本筋──エンディングに至る道筋は、なお原作通りに進んでいる。


この観測結果が示すのは、多少のイレギュラーは、世界側が自動で修正・吸収する設計になっている可能性が高い、という仮説だ。

つまり、完全な原作を求める必要はない。

だが、過剰な干渉を許せば、取り返しのつかない崩壊が起きるかもしれない。

その危ういバランスを、彼女は冷静に見極めていた。


アユミは、オタク仕込みの鋭い洞察力と異様なまでの冷静さ、

そして脳内で高速回転する仮説と検証を武器に、

この世界のルールと修復力の法則を探りはじめる。

そのとき、記憶の奥底から、ある"記憶"が呼び覚まされた。

あの"少年"の事を。

考える余裕も無いほど散々殺されたが、確かに聞こえた発言。


『どうやら貴様の体は、ただの“器”のようだな。』


──器。

その言葉の意味を、アユミは即座に解析し始めた。


血と肉塊にまみれた教室の中、冷徹に、正確に、思考を進める。

思い出す。目覚めるたびに、必ず傍にあった泥水の痕跡。


仮説。──私の肉体は、泥水で作られた“器”。ならば、形を変えることも可能か?


ひとつの仮説が浮かび、アユミは行動に移す。

トイレへ向かい、鏡の前で自身の頬を引っ張り、押し、つねる。

だが、返ってくるのはただの生身の感触。

泥水のように崩れもしなければ、変形する気配もない。


──無意味か。


即座に仮説を切り捨て、次の策へ。

【創造】のスキルで、顔を覆う簡易的な仮面を作り出す。

ここまでは、想定通りだった。

しかし、ふと脳裏に浮かぶ別の記憶。


……そういえば。


何度死んでも、起き上がったときには──

服も、髪も、血まみれのはずの身なりすら、綺麗なままだったことを。


その瞬間、アユミは一切の躊躇なく行動に移った。


転がる机の支え、折れて鋭く尖った鉄パーツ。

それを迷いなく手に取り、

ためらいも、恐怖も、痛みへの拒絶すら見せず──


ズブリ、と自らの喉へ突き立てた。


湿った肉の裂ける鈍い音と、喉奥からあふれ出す生暖かい液体。

崩れ落ちる身体。


それでも、アユミの表情には、痛みも恐怖もない。

まるで、自分の肉体など、ただの機械のパーツに過ぎないかのような無関心さだった。


そして、しばらくの沈黙の後。


ぴくり、と。

アユミは再び、目を開く。


身なりは整い、血の汚れすら跡形もなくなっていた。

その姿はまるで、最初から“何もなかった”かのように完璧で。

異常な静けさが、その場に広がる。


「──よし、マユを見に行くか。」


死と再生を当然のように受け入れた少女は、

まるで散歩にでも行くような足取りで静かに立ち上がる。


その背中から、濡れたように生ぬるい気配がにじみ出る。

それは執着か、愛情か、それとも──もっと歪んだ、名もなき感情か。


誰にも止められない。

誰も、もう彼女の“身体”が何なのかを知らない。


アユミの微笑みは、どこまでも自然で、どこまでも恐ろしかった。

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