上田道場
和也はまるで宇宙人に拉致されたかのように、亜里沙に引っ張られ上田道場まで来る。父はちょうど夜勤に出かけたので内緒で来た。
道場は思ったほど大きくなかった。テニスコートぐらいの広さだ。2階建てで1階が道場、2階は事務所のようだ。外からも窓ガラス越しに中が見える。数人が乱取り最中のようで元気のいい掛け声が聞こえる。
「なんか気が乗らないな」和也は元々、格闘技が好きではないし、戦いも望んでいる訳ではない。一方、亜里沙は賞金もあるが、戦いが大好きなようで自分がやるわけではないのにテンション高めである。
扉を勢いよく開けて、亜里沙が叫ぶ。「こんちは、道場破りです!」
「ばか、変なこと言うな」和也が慌てて取り繕う。
道場内で練習をしていた人間が、一斉に何事かと言う顔で見る。ただ、小学生の女の子のいたずらだとわかり笑顔になる。
上田さんも笑いながらやって来る。「よく来たね」
「おじゃまします」
中で稽古をしているのは大人もいるが子供が多い。10人くらいは小学生のようだ。
「この時間は小学生が中心だよ」
子どもたちが汗だくで必死で練習している。付き添いの母親もいるようだ。
「2階の更衣室で着替えようか」
上田さんに連れられて2階に行く。何部屋かあるようだが、手前に更衣室があり、渡された道着に着替える。柔道着と同じで白色のテレビなどでよく見るやつだ。帯も当然白だ。着替えるとなんとなく身が引き締まる。
着替え終わった和也は恥ずかしそうに一階の道場に顔を出す。亜里沙がそれを見て言う。
「かっこいいな」
和也もまんざらでもない。
上田さんが言う。「じゃあ、準備運動から始めよう、まずは怪我をしないようにしないとね」
それから柔軟体操や受け身の仕方、基礎的ルールについて説明を受ける。やはり格闘技なので、けがをしないようにと十分な注意を受ける。
上田道場はフルコンタクト、つまりは実戦を意識した直接打撃をおこなう空手を教えている。禁止項目として、急所攻撃はもちろん駄目で、頭部や顔面への攻撃も禁止している。これは危険防止の意味も大きいそうだ。フルコンタクト空手の中には頭部攻撃を認めているものもある。
それからの一時間あまりは基礎訓練を行い、格闘などはなかった。亜里沙は徐々にじれてくる。彼女の中の闘争本能が騒ぐのだろう。
「いつから殴り合いするの?」などと騒ぎ出す。
そしてついに上田さんが試合形式でやるようにと指示を出す。
「じゃあ、少し練習試合をやってみるか、藤本君と相手は、そうだな、若林やってみるか」
若林と呼ばれた人間が振り返る。和也と歳は同じぐらいだが、体格はもっと大きい。和也は160㎝ないぐらいだが、若林は170㎝近くある。がっちりとして見るからに強そうだ。
「若林は中学1年生だから、藤本君より年下だな。でも今年のジュニア大会で東京代表になったんだ」
亜里沙が叫ぶ。「カズ、相手にとって不足はないな」
和也は緊張気味だ。元からそういう性格なのだ。
上田さんは2階から防具を持ってくるという。やはり練習とはいえ、プロテクターは必須だ。ヘッドギアとグローブも付けて戦うそうだ。
上田さんがいなくなって、その若林が同僚と話をしている。
「ワカ、どうする」同僚が若林に小声で聞いている。
「うちの道場の厳しさを教えてやらないとな。道場破りとか言ってるし」そう言って口元を緩める。
「どこまでやる」
「そうだな。一発でのしてもいいけど、ちょっといたぶろうかな」
同僚は若林の肩をたたいて、「ほどほどにな」と笑う。
和也はそれどころではない。上田が言ったルールを再確認している。たしか、顔はだめで急所は論外、さらに蹴りも、あれ、蹴りはどうだったかな。元々、記憶力があんまりいい方ではない。
上田が戻ってきて二人に防具を付けさせる。
「じゃあ、試合形式でやってみます。試合時間は2分。3秒ダウンで1本、技あり2本で1本です。審判は私がやります。若林、ほどほどにな」
若林がうなずく。
上田が手を前に出し、宣言する。「はじめ!」
亜里沙が叫ぶ。「カズ、いっけー」
和也はまだルールを思い出そうとしている。すると若林が一気果敢に攻めてくる。通常はお互いに間合いを取りながら、出方を待つものだが素人だと思い、安心しきっている。
若林が和也の足元に蹴りを入れようとしている。ただ、やはり和也はその動きがスローに見えている。それを難なくかわす。若林は意外そうな顔をする。なぜ、避けられたのかが理解できていないようだ。
続いて蹴りを数回出しながら、ついにボディーに向かってパンチを出してくる。なるほどストレートで腹を狙っているのか。和也はそれを払うようにすると、そのまま右手を若林の腹に打ち込む。和也は加減がわからない。素手だとそれほど強く打つわけにはいかないが、今はグローブをしているので、それなりに撃った。
若林は思い切り打った右のパンチをかわされた反動で、前のめりになっていた。よってカウンター気味に和也のパンチが入る。
その強烈な突きで、若林はそのまま前のめりのダウンする。
道場の全員が凍り付いたようになる。それほど強烈な突きだった。一人亜里沙だけがガッツポーズをしている。
上田が倒れた若林に駆け寄る。「若林!」なんと若林は口から泡を出し、気絶していた。
「こりゃ落ちたな」そう言うと仰向けにして鳩尾を両手のひらで押した。それで目覚めると、きょろきょろと周囲を見ている。今の状況が呑み込めない。それほど和也の攻撃が早く強烈だった。
和也が若林に謝る。「ごめん。ちょっと加減がわからなくて」
若林に反応はない。相変わらず呆然としている。
上田が呆気に取られている。「藤本君は未経験なんだよな」
「すみません。今日初めてだったので、どれぐらいで撃てばいいのかわかってなかったです」
「ちょっと待て、じゃあ今のは目いっぱいでもないのか?」
「はい」申し訳なさそうに和也が言う。
上田が首を振る。「まじか」
若林がようやく我に返って和也に質問する。「空手をやるの初めてだったの?」
「はい、格闘技自体初めてです」
亜里沙が出てくる。「だからカズは最強なんだって」
上田が真剣な顔になる。「わかった。じゃあ私が相手をしよう」
道場に緊張が走る。和也と亜里沙はその事情をよくわかっていない。
上田が若林からグローブを受け取り、準備を始める。入念に準備運動を繰り返している。場長と言えども、怪我などの防止のためにもこういった準備運動は不可欠のようだ。一方、和也は先程の禁止事項や戦い方の基本を、ぶつぶついいながら復唱している。
亜里沙が若林に小声で聞いている。「上田って強いの?」
その言葉に若林がびっくりする。「知らないの?場長は元東京チャンピオンだよ。全国でも3位になったこともある」
「そうなんだ。でも昔でしょ」
「10年前だけど、今でも現役だよ。とにかく強いよ。この道場だったら栗本さんに引けを取らない」
「栗本?誰?」
「今日はいないんだけどうちの道場のナンバー1だね。今度の大会に出る人だよ。優勝候補」
「へーそうなんだ」
上田の準備が整う。
「じゃあ、はじめようか」和也がうなずく。「えーと木村君、審判をお願いするよ」
木村と言われた男性は40歳ぐらいで、おそらくこの道場の関係者だ。神妙な顔でわかりましたと言った。
その木村が開始の宣言をする。「はじめ」
上田が半身の形で手を前に出して構える。そして小刻みに動いて間合いを詰めようとする。和也は上田から発するオーラのようなものを感じる。この人は強い。
まずは相手を探るかのように上田が小刻みな蹴りを出してくる。
和也は先程と同じようにその動きがスローに見えている。本当に当てようとしているものではないので、避けることもせずにそのまま受ける。
上田は和也の動きを見切ったと判断し、正拳撃ちを放ってくる。ところが目の前から和也が消える。そして次の瞬間、腹部に強烈な衝撃を受ける。
思わず、そのまま手前に倒れこむ。上田にとってもこれほどの突きを受けるのは久々だ。
「あ、すいません」和也が倒れこんだ上田に近寄ろうとする。
上田はそれを手で制して、「大丈夫だ。遠慮するな。どんどん打ってこい」そう言って立ち上がる。
審判役の木村が言う。「技あり」その木村も驚いている。
和也はまた考える。技あり2本で一本だったか、それとも3本だったか。
上田はさらに慎重になる。先ほど受けた突きはそれこそ格闘技のプロでも出せるものではない。超一流とでもいうのだろうか、それぐらいの早さの突きだった。それよりも驚くのは和也の動作だ。一瞬、見えなくなるぐらいの回避行動ではないか。これまであれほどの動きを見たことがない。それが格闘技初めての中学生だというのだから恐れ入る。
上田は再び慎重に構えに入る。これまでの対峙したどの相手よりも強者として見ているようだ。
やはり和也は自分から撃とうとはしない。それに構えもどこか呆然と立っているだけに見える。上田が仕掛けるタイミングを計る。しかしどう考えても和也の防御はがら空きなのだ。これまでの対戦経験からして簡単に倒せるはずだ。しかし、あの動きが気になる。
時間だけが過ぎていく。和也は自分がどうしていいのかよくわからない。撃って良いのか、待つべきなのか。
それに気づいた亜里沙が叫ぶ。「カズ、時間がないよ。早くしないと」
和也が反応する。そういえば2分で終了だったか、じゃあ仕方が無い。こっちから行くか。
和也が初めて攻撃を仕掛ける。それは一瞬だった。
上田の眼前から和也が消える。そして胸部に衝撃が走り、身体が飛ばされた。その光景は誰もがその場で見たはずなのだが、はっきりとは捉えられないほどの速さだった。半導体工場で高速の機械が動いたようだ。
上田は後ろ向きで道場の畳に背中から落ちていく。受け身を取るのがやっとのことだった。脳震盪に近い衝撃でしばし呆然としていた。
木村は上擦った声で「一本、これまで」と言うしかなかった。
亜里沙が和也に駆け寄る。「カズ、やったな」
和也はやはり呆然と立ち尽くしている。自分の力が信じられないといった顔だ。
上田は座ったままで上半身を起こす。まだダメージが残っているのか、咳き込みながら和也に話しかける。
「いったい、どういうことなんだ?」
和也が驚いた顔になる。ただ、答えられない。
それを見た上田が気付く。「ああ、ちょっと後で話を聞こう」
それからは皆、上の空で稽古を続けた。和也たちは道着を着替えて終わるのを待つ。
8時過ぎに道場が終了となり、上田に連れられて和也たちは近くの定食屋に入る。
ここはこども食堂で料理を作ってくれたシェフがいる店だ。奥に続く長方形の店構えで、カウンター席と4人掛け席が二つあるだけだ。忙しい時間は過ぎたのか、他にお客さんはいなかった。
カウンターの中にいたシェフが上田を見て、「お疲れさん」という。
上田は手を上げて挨拶する。そしてカウンター席に和也たちを座らせる。
「A定食3つお願い」
「はい、了解」そういうとシェフは厨房に引っ込む。
店の奥から女の人が水を持ってきた。
「上田さんいらっしゃい」和也たちを見て、「道場の子?」と聞く。
「そうだね。今日からなんだけど」
和也と亜里沙がお辞儀をする。女性は30歳ぐらいでシェフの奥さんかもしれない。
上田はコップの水を飲むとおもむろに和也に向き直る。「じゃあ話を聞こうか」
それを受けて、和也がこれまでに起きたことの話をする。上田は目を丸くしながら和也の不思議な体験を聞いていた。
聞き終えたところでちょうど料理が出てくる。
「お腹すいたろ、食べながら話そうか」
A定食は和也たちの大好物のとんかつだった。
和也と亜里沙はいただきますと言うが早いか、猛然と食べ始める。
上田はその食欲に笑顔になる。そしてぽつりぽつりと話しだす。
「信じられない話だけど、今日の藤本君の動きを見るとそれしかないな。あれは人間の動きじゃない。それこそ神の領域だよ。やっぱりそういうことだな」
和也が食べるのをやめて上田をじっと見る。
「ああ、食べてていいよ。こっちで勝手に話すから」和也は再び食べだす。「今もいじめは無くならないんだね」
上田も食べながら話を続ける。
「うちの子供たちはもう社会人なんだけど、やっぱりいじめはあったと聞いている。当時は自殺者も出たりして、社会問題にもなった。文科省も規約を改訂したりして対策してきたはずだがね。やっぱり今もって無くならない」
「いじめてる側もよくわからないって言ってました。何故かイライラするんだって」
「人間が持つ根本的な問題なんだろうね。人が人を傷つける行為というのは、それでどこか安心するみたいな感情がある。世界的に見てもいじめに近い問題は存在してる。戦争もそうかもしれない。根っこにはそういった人間の負の感情があるのかもしれないね」
和也がうなずく。
「でもね。説教臭いことをいいたくはないけど。藤本君が身に付けた力をいじめ対策に使うのはどうかと思うよ。言い換えれば今の力は恐ろしいほどだよ。下手に使うと人を傷つける」
「そう思います」
「実はうちの道場にもいじめられた子供が来ているんだよ。空手をやって負けない力を付けたいって思いがあってね。だけど私が教えたいのはそういった力じゃないんだ。いじめに負けない心を教えたいと思ってる」
「心?」
「いじめの最も悪質なところは相手の心を傷つけることだろ」和也はうなずく。「いじめる側も自分が持ってる負の感情を思い切りぶつけてくるからね。いじめられる方はたまったもんじゃない」和也は大きくうなずく。
「でもその解決方法に力で対抗するってのはどうなのかなとも思うんだ」
「でもいじめられなくなりましたよ」
「確かにそうだよね。でもどこか違う気もするんだよ」
他に方法があるのだろうか、和也は考える。
「絵空事かもしれないけど、一番いいのはいじめてる側といじめられてる側が仲良くなることだろ」
和也に返事はない。どこか無理だと思ってる。
顔中にソースを付けた亜里沙が話に加わる。「ムリだよ」
上田が笑顔で言う。「そのとおりだね。学校の話をしたけど、社会にもいじめはあるんだよ。つまりは学校を卒業しても同じようなことが起きるってことなんだ。今はSNSとかで誹謗中傷も多いよね」
和也は父が会社をやめたのはいじめだったと聞いたことがある。やっぱり大人になってもいじめがある。
「お互い仲良くするのが理想だっていったけど、それは無理だよね。だったら少しでも相手の考えてることを掴むことも重要だと思うんだよ。何か自分とは違う考えを持ってるはずだからね。それが違うからいさかいが起きる」
和也は考える。そうなのだろうか、今のいじめっことはどこで関係がおかしくなったのだろうか。
「いじめる側も何か気に入らないことがあるから、そうなってるんだろうからね」
「それはそうかもしれないけど、僕には思いつかない」
「わかるよ。だからいじめが起きてるんだ。でもね、藤本君が今言ったことに気付けば、いじめっ子との関係も変わってくるかもしれないね」
和也は考えるが、よくわからない。
上田は話を続ける。
「それともっともよくないのは、解決方法を自殺にしてしまうことだ。藤本君が自殺しても何の解決にもならない。むしろみんなが悲しむことになる」
「どうしようもなくても?だって大人になってもいじめは続くんでしょ?もういいやって思うかもしれない」
「難しい話だけど、人が生きていくってことはいいことばかりじゃない。でもね。生きててよかったって思うこともあるはずだよ。死んだら終わりだよ。何も残らない。藤本君の家族も悲しむだろ、妹さんもそうだよね」
「あったりまえ」フォークをかざして亜里沙が言う。
「それと自殺したからって、いじめた側に制裁なんて起きないんだよ。おそらく彼らは後悔もないかもしれない。社会的に非難されたとしてもいつかみんな忘れてしまう。とにかく死んだら駄目だ」
和也は下を向く。
「だから上田道場に来た子供達には体を鍛えることもやるけど、心も鍛えてあげたいと思ってるんだ」
「どうやって?」
「道場に来ている子供たちは強くなりたいって思ってるだろ、つまり方向性はいっしょなんだ。だからそこに仲間意識が生まれやすい。それで友達関係が出来る。まあ、なかには上手くいかない場合もあるけど、小さいコミュニティだからこっちの目も届きやすい。話も聞いてあげるしね。それと重要なのは成功体験だと思うんだよ」
「成功体験?」
「うん、うちの道場は頑張れば級が上がっていくだろ、そういった自分の頑張りが結果につながるとやる気が起きないかな。私はそう思ってるんだ」
「上がっていかなかったら?」
「そんなことはないんだよ。必ず上がっていく。人によって差はでるけどね。道場では昇級するとお祝いもするんだよ。頑張れば頑張っただけ見返りが出るんだ。それが成功体験だと思ってる」
亜里沙が言う。「カズがいじめっこをぶちのめしたのも成功体験だよ」
「そうだ。それも成功体験だね。気分は良かっただろ」
「ああ、そうですね」
「そういったことが続くとモチベーションも上がるし、前向きになれる。そうなると気持ちに余裕がうまれるんだ。そういったことが心を強く出来ると思ってる」
「少しわかる気がします」
「そうか」上田さんは心底うれしそうな顔をする。
「あ、でも僕は道場には通えません。うちはお金がないから」
「うん、わかってるよ。でも大会で優勝出来たら特待生扱いできるかもしれない」
亜里沙がうれしそうな顔で言う。「ただってこと?」
「はは、そこまでは無理かもしれないけど考えとくよ」
「カズは大会に出れるの?」
「中学生だからね。一応、無差別級とうたってる大会だから、参加資格はあるはずなんだ。確認してみるよ」
シェフがカウンターに顔を出す。
「おいしかった?」
和也が嬉しそうに言う。「うまかったです」
亜里沙も言う。「腕を上げたな」
シェフは大笑いだ。「上田道場はいいところだよ。俺も昔通ったことがあるんだ」
「そうですか」
「まあ、強くは無かったけどね」
亜里沙が言う。「成功体験できなかったのか」
シェフはきょとんとしながら話す。「でも楽しかったよ。仲間も出来たしね。そういう縁でこども食堂もやってるんだ。また、来月やるから来てよね」
「はい、行きます!」二人が元気に答える。
そしてその後、和也は大会への参加を認められた。ただ、一般参加で予選から戦うこととなった。