出会い
夕方になり徐々に日も陰っている。多摩川にかかる大きな橋を渡る。ただ、周りの景色は目に入らない。ここまで歩いてきたのも覚えてないほどだ。
もういいか。橋本和也13歳はそう思った。
橋の上から河原を見ると鬱蒼と茂った木々が見える。近年は水量も減ったのか、河川敷が増えて一部が森のようになっている。
魅かれるようにそこに向かっていく。
近くまで来てみると、数本の樹々が折り重なるように生えており、周囲からは容易に見えない。そこに入って行く。するとなんとお誂え向きにロープが落ちているではないか。端には握り手もついているから、縄跳び用なのかもしれない。ただ、これは神からの啓示だ。さらには台替わりの段ボール箱も捨ててあった。
太い幹を持つ枝ぶりの良い樹を探す。
あった。そうなのだ。まさにここが和也の死に場所なのだ。
段ボール箱の上に乗り、ロープを結んでしっかりと枝に掛ける。2、3回引っ張って強度を確認する。大丈夫だ。ずっこけて腰を痛打するようなコントにはならない。
輪になったロープを首に掛けて、ぼんやりと考える。
ここで死んでも誰も和也のことを気にかけてはくれないだろうな。むしろいなくなってせいせいしたとか同級生たちは言うはずだ。教室の自分の机にあった花瓶の花が本物になるだけなのだ。
そして踏み台代わりにしていた段ボール箱を一気に蹴飛ばす。
うわ、想像以上に苦しい。のどが詰まるって、当たり前なのだ。首つりなんだから。しばらくして意識が飛んだ。
何故か意識が戻ってくる。ひょっとして転生したのか、これから未知なる冒険の始まりか。すると和也の目の前に髭を生やした神様がいた。
「か、神様」
白髪交じりで髭ぼうぼうの神様が話す。「あん?神様なんかじゃないぞ」
和也は周囲を見ると何故か青いビニールシートのようなものが見える。神様も立派な衣装ではない。なんかブルーの使い古しのスウェットを着ている。
「ここは異世界でしょ」
「伊勢海?東京だよ」
「え、じゃあどこ?」
「だから多摩川の河原」
和也はビニールシートを開けて外を見る。
「あ、こら、わしの家を壊すな」
なんだ。さっきの河原じゃないか。「どうしてここにいるんだ?」
「困るんだよ。こんなところで首つりなんかされたら」
和也は自分の首を触ってみる。たしかにそうだった。首を吊ったはずだ。そして首には痛みもある。とたんに咳き込む。
「前にもあそこで死んだやつがいてな。大騒ぎになって警察が聞き込みに来たんだ。俺が犯人じゃないかって疑われてな。他にも盗みをしてないかとか、取り調べまでされたんだぞ。だからここは困るの」
和也はようやく飲み込めてきた。この浮浪者が助けて、いや、邪魔をしたのか。
「じゃあ、僕の異世界ライフは?」
浮浪者は和也に真剣な顔を近づけて「いいか、死んだら終わりだぞ、異世界なんか、たわごとだ」と指さしながら言う。「まだ、若いんだろこれからいいこともあるかもしれん」
「いいことなんかないよ。とにかくもういいんだ。疲れた」
浮浪者は和也を不思議そうに見る。すると和也のお腹が鳴った。なんか情けない、こんな状態でもお腹が減るとは。
「腹が減ったか、何か食うか?」
「食うものあるの?」
「そりゃあるさ、あ、でもゴミからあさったもんじゃないぞ。空き缶回収して稼いだ金で買ったやつだ」
そういうと浮浪者は自分の後ろにある段ボール箱から何やら出してくる。
和也が受け取ってそれをみると、ちゃんとした袋入りのアンパンだった。浮浪者の言うことは本当なのか。
「飲み物いるか?」
和也がうなずくと、再び段ボールからペットボトル飲料を出してくる。2リットルサイズのお茶のようで、それを紙コップに入れて差し出す。
はたしてこの紙コップは大丈夫なのだろうか、和也がコップを観察していると、「大丈夫だぞ。多摩川で洗ってるから」と大丈夫とは思えないことを言う。
和也はアンパンを食べながら、そのお茶を飲む。はぐはぐと食べ進めていくと何故だか涙があふれてくる。
「何があったか知らないけど、俺に話してみるか?」
和也は目をしばたかせながら、浮浪者を見る。なぜだか本当に神様に見えてきた。
「学校に行くといじめられるんだ」
「そうか」
「もういやになったんだ。毎日毎日、みんなが僕を無視する。いないみたいに扱われてそれでいじられる」
「先生はいないのか?」
「いるけど、何にもしてくれないよ。先生からも無視されてる」
「先生も無視するのか?」
「この前も僕の机にいたずら書きがあったんだ。先生はそれを見ても何も言わなかった。見て見ぬふりだよ」
「まあ、先生も職業人だからな。いちいち構っていられないのかもしれない。それで、いじめられてることを話したことはあるのか?」
「先生に?」
「そうだよ。まずは大人の意見だろ」
「言ったけど、がんばって仲良くしなさいって言われた」
「うーん、それだと方法論がないな。いったいどうやって仲良くするんだ。そこがもっとも重要だろ」浮浪者のくせに難しいことを言う。「親は何か言わないのか?」
「うちは親父しかいないんだ。母親は出て行った」
「それは困ったな。それで母親はいつからいないんだ?」
「僕が5歳の時だってあんまり覚えてないけど、ふっと居なくなったんだ。それで親父に聞いたら、出て行ったらしいって」
「らしいっておかしなことを言うなあ」
「親父はメンタルを病んでるんだ」
「最悪だな。メンタルヘルスってやつか」
「そう、親父も会社でいじめられておかしくなったみたい。それで会社も辞めたんだ」
「今はどうしてるんだ?仕事が無いと困るだろ」
「少しだけ良くなったから守衛の仕事をしてる。人と接触しない仕事が良いんだって」
「守衛さんか、なるほどな。他人との接触は少ないかもな。でも夜勤もあるだろ?」
「そうなんだ。だから昼間は家にいるから僕が学校に行かないとばれるんだ」
「つまりは不登校できないんだな。最近は不登校児童も増えてるんだろ」
「各クラスに一人はいるよ。親父は学校に行かないと妙に心配するんだ」
浮浪者も紙コップにお茶を注いで飲む。
「親父にいじめの話はしたのか?」
「それとなくはしたけど、あんまり悩ませたくないし、病人だから」
浮浪者は自分の事は棚に上げて心配そうな顔をする。
「いじめってどんなことをされるんだ」
「色々だよ。まずは無視、僕がいないことにされる」
「陰険だな」
「あとは嫌がらせ。靴を隠されたり、背中を叩かれたり、足を引っかけられたり、何かそういうことをみんなで考えて楽しんでるみたいだ」
「何でそうなったんだ?」
「自分たちの思い通りにならないと気が済まないみたいで、僕が逆らったのが気に食わなかったみたい。それと家は貧乏だから汚いとか、くさいとか言って、何かと言いがかりをつけていじめるんだ」
「定番だな。ああ、そういえば、ここにもいたずらに来る連中がいるな。そういう類のやつか」
「いたずらされるの?」
「たまにな。俺みたいな底辺のやつを蔑むと、それだけで満足するんだろうな」
自分のことを底辺と言うとは認識はしてるんだ。
「そういうときはどうするの?」
「追いかけていってぶちのめすな」この浮浪者は何を言ってるのか、夢でも見てるんだろうな。「そうだ。お前もいじめてるやつらをぶちのめせばいいんだよ」
「そんなの無理だよ」
「そうか、でもやってみないとわからないだろ」
「絶対無理、昔、一度反抗してみたけど、余計にいじめがひどくなった。いじめるやつらは徒党を組んでるからどうしようもない」
「何人いるんだ。30人か?」
「はあ、それじゃあクラス全員だろ。主に3人ぐらいかな」
「3人なら楽勝だろ、俺なら10人いてもぶちのめせるぞ」
ちょっとこの人、頭も変になってるのかもしれない。
「僕は格闘技をやってるわけじゃないし、どちらかいうと運動音痴なんだよ」
「貧乏で運動音痴で頭も悪いのか」
「頭は悪くないよ」学校の順位は下から数えた方が早いけど。
「ここまでの話を聞いてると、つまりはお前が強くなればいいんだよな」
和也は上目遣いで浮浪者を見る。明らかに疑惑に満ちた顔である。この浮浪者はいったい何をいいたいのだろう。
「お前を強くしてやろうか」
「どういうこと?格闘技でも教えてくれるの?」
浮浪者はしたり顔で首を振る。「それだと10年かかっても無理だな。その頃には間違いなく学校も卒業してる」
「じゃあ、どうするんだよ」
浮浪者は目をつぶると何やら瞑想状態になる。そして急に眼を開け、いきなり和也のおでこにデコピンをかます。
「いて、何するんだよ」
「これでお前は強くなった」
「はあ、何だよ」なんと和也はからかわれたのだ。「もういいよ」そう言うとビニールハウスから出て行こうとするが、気が付いたように振り返る。
「あ、アンパンありがとう、おいしかった」
浮浪者は親指を付き出していた。和也の検討を祈るとでもいうのだろうか。
和也は外に出る。空を見ると何やら雲行きがあやしい。雨でも降るのだろうか。
それでも先ほどまでの絶望感が少し薄れた気がした。浮浪者だろうが人にやさしくされるありがたみを感じる。
今度は何か食べ物を持って行ってあげよう、そう思って家路につく。
和也は市営住宅の自宅に着く。
築30年は経っているだろう、市が管理している格安のアパートである。外観もボロボロである。家の収入が極端に少ないために入居できたらしい。
コンクリート製の3階建ての2階にある自室に戻る。
扉を開けると、父が居間でカップラーメンを食べていた。恐らく起きたばかりだ。髪はぼさぼさで髭も剃っていない。虚ろな目で和也を見る。
和也が言う。「ただいま」
父は小さく会釈したように見えた。これはいつもの光景だ。
部屋は2DKで6畳の居間と4畳半の部屋があり、申し訳程度の台所とトイレと同じ大きさのユニットバスが付いている。居間と言ってもそこにはコタツテーブルとテレビがあるだけだ。洋服類は押入れに入っているか、部屋の周囲にハンガーで吊るされている。
父は食べ終わったカップラーメンをキッチン隅のゴミ箱に入れると、出かける準備を始める。夜勤は19時から明日の5時までだ。本来は週三日で後は日勤となるはずだが、概ね週4は夜勤になっている。そっちのほうが収入が良いのと、そうやって雇い主から頼まれているらしい。断ることはまずないと、向こうも思っている。実際、我が家もそれで助かっている。
父はジャージの上下を着て、出かけていく。行く前に和也に1000円札を渡す。これはいつもの行事だ。これで一日分の生活費にしろということだ。守衛している工場はここから5㎞以上離れているが、基本は自転車で通う。交通費は出ているので少しでもお金を浮かすためだ。父の場合、薬代でお金がかかる。一時期、それも払えない状態になり、もう家族で死ぬしかないようになったこともあった。見かねた市役所の人間が支援してくれた。我が家は生活保護ギリギリの状態だったので、なんとか対応してくれたようだ。少しでも働ける人間は支援しようということらしい。
すると出かけたと思った父がすぐに戻って来た。髪が濡れている。
「カズ、合羽をくれ」
和也が外を見るとけっこうな雨になっていた。ビニール袋のような合羽を押入れから出してくる。これは確か近所のディスカウントストアで300円だった。
父はそれをかぶって出かけていく。雨にも負けず、風の強さにも負けないというより、貧乏なだけだ。
和也はこれまで生活費をやりくりして、欲しいものを買っていた。時には食べ物を節制してどうしても欲しかった漫画などを買ったりもした。ところがこのところはいじめの挙句に、金を巻き上げられることも増えてきていた。いじめ側が言うにはカンパだそうだ。
さすがにこれは先生に言うしかないと話をしたが、事実関係がはっきりしないとか言われ、対応もうやむやにされてしまった。挙句、さらにいじめがひどくなる。それ以来泣き寝入りとなっている。
いじめの首謀者は3人いる。ボス格が阿部大翔というやつで、昔からいじめの対象を見つけては、憂さ晴らしのように悪さを繰り返していた。小学校の頃からそうだったらしく、和也は中学に入ってからその対象となった。少しでも劣った部分を見つけると執拗に攻撃してくる。和也は母親がいない、家も貧乏で汚いアパート住まいだ。服も洗濯しただけでアイロンもかけていない。やはり見るからに貧相に見えるのだ。まさに恰好の餌食である。毎日あら捜しをするように、劣る部分を見つけてはいじって来る。阿部の親はどこぞの工務店をやってるそうで、子育てには無関心らしい。いわゆる放任主義というやつだ。それでやりたい放題だ。
その子分ともいうべき連中が二人いる。
一人目はでぶの番場智之。何を食ったらここまででかくなるのかというぐらいのでぶで、陰ではブタと呼ばれている。こいつは和也をサンドバッグとでも思っているのか、朝のあいさつがわりと言ってグーパンを腹に食らわしていく。文句を言うとスキンシップだろ、朝の挨拶だろとか言う。こんなあいさつは聞いたことがない。始末に負えないやつだ。親はどこかの会社の社長とか言っていた。あの体格を見ると毎日いいもの食ってるんだろうな。
次は加藤允紀。こいつはとにかく背が高い。中学生のくせに180㎝近い。力も強く、こいつのヘッドロックは強烈だ。かけられると身動きできない。
和也は今日あった忌まわしい出来事を思い出す。それでまた、死にたくなる。
美術の授業で石こうデッサンをやっていた。先生が用事で呼ばれ、自習になった時に事件は起きた。案の定、阿部が思いつく。「ヌードデッサンがしたいな」
それに子分二人が気付く。「いいな、それしようぜ」そういいながら和也の近くに来る。和也が拒否するのを無視して羽交い絞めにすると、服を脱がしにかかる。こういった行為を止めるやつはいない。見て見ぬふりをするやつ、笑いながら傍観するやつ、それと手伝うやつに分かれるだけだ。和也は見事に丸裸にされる。そして教室の真ん中でさらし者にされたのだ。
美術教師のおじいちゃん先生が戻って来た時にはもう遅い。そこには裸になった和也がいるだけだった。
教師は慌てて何やってるとは言うが、対応はそれだけでむしろ和也に「早く服を着なさい」と注意する始末だ。スマホで写真を撮ってるやつもいた。
あんな屈辱を受けてまで生きていたくない。そう思って首を吊ったのだ。
お腹が空いているのかいないのかもよくわからない。さっきのアンパンでもういいのかもしれない。テレビを見ながら、ポテチを取り出してぼりぼり食べる。
ちょうどテレビで天気予報をやっていた。なんでも多摩地方に線状降水帯が発生したそうだ。これから大雨になるらしい。
申し訳程度のカーテンを開けて窓越しに外を見る。確かにすごい雨が降っている。銀糸とでもいうのだろうか、雨粒が妙にはっきりと見える。この団地も多摩川沿いなので堤防決壊にならないといいなと思った。