仮死状態で婚約破棄した子息が絶縁状を突きつけられることになるお話
気がつくと喧騒の中にいた。
きらびやかなドレスに身を包んだ年若い令嬢たち。立派な式服を身に纏う子息たち。
燦然と輝くシャンデリア。その光を受け輝くグラス。テーブルに置かれた様々な料理。
伯爵子息レイディオナル・マクサタークにとっては見慣れた光景だ。何度も参加したことのある学園の夜会だった。
いつもとかわらぬ夜会だったが、彼に向けられる視線はいつもと違った。
レイディオナルの家、マクサターク伯爵家は強力な魔法使いを何人も輩出してきた武闘派の一族だった。彼自身も優秀な炎魔法の使い手であり、彼を恐れる視線には慣れていた。
だが今向けられているのは、恐れの中に驚きがある。まるでありえない物を見たかのような奇異の視線だった。
わからないというのなら、彼は今どうして夜会にいるのかもわからなかった。どうにも記憶があいまいだ。夜会の準備をした覚えがない。それまで何をしていたのかどうにも思い出せない。
何もかもが不確かな状態の中、ぐっと握りしめた右手だけに手ごたえがあった。そこにだけ、何か確かなものがあるような気がした。
なにもわからないのに、するべきことだけはなぜかわかっていた。
婚約者に会わなくてはならない。ただそれだけが頭の中を占めていた。
戸惑いながらも、とにかく婚約者に会うべく歩みを進める。進むごとに驚きの視線に迎えられた。自分は何かおかしいのだろうか。しかし身体に不具合は感じない。身にまとっているのはいつもの学生服だ。夜会に相応しい装いとは言えないが、ここまで奇異の視線を集めるものでもないはずだ。
悩みながら進むうち、ようやく婚約者のもとにたどり着いた。
彼女は壁際に立っていた。
腰まで届く、しっとりとした長い黒髪。長い前髪の間から妖しい輝き放つ銀色の瞳。身にまとうドレスは黒を基調としたものだ。要所にフリルをあしらい、上品にまとめられたそのドレスは、落ち着いた華やかさがあった。
壁の花と言うよりは、白い紙の上に零したインクのしずくを思わせる。それが子爵令嬢エモティオーナ・カスマディークという令嬢だった。
彼女の姿を認めた時、レイディオナルの頭に浮かんだのは疑問だった。彼女の下に来なければならないと思っていた。だが、何をしに来たのかはわからなかったのだ。
しかし戸惑う心とは裏腹に、彼の口からは朗々と言葉が紡がれた。
「子爵令嬢エモティオーナ・カスマディーク!」
その呼びかけにエモティオーナはやや俯いていた顔を上げる。レイディオナルの姿を認めた彼女は、目を見開いた。ここに来るまでに向けられた視線以上の驚き。まるで闇夜に魔物と出遭ったかのような顔だった。
だが、その意味を考える暇ももなく、レイディオナルの口は次なる言葉を紡いだ。
「私は真実の愛を見つけた! 君との婚約は破棄させてもらう!」
会場中に響くような大声だった。レイディオナルは自分がこの言葉を言うためにここに来たのだと確信した。しかしなぜこんなことを言わねばならないのかは、まるでわからなかった。靄がかかったように頭がはっきりしない。
その言葉を受けたエモティオーナの銀色の瞳はたちまち潤んだ。そして目じりから涙がぼろぼろと零れ落ちた。口を驚きに広げたまま、しかし声一つ上げることなく、大粒の涙を流し続けた。
初めて目にする婚約者の涙に、レイディオナルはただ茫然となった。
エモティオーナはレイディオナルを見つめながら涙を流し、レイディオナルはその瞳に吸い込まれたように視線を逸らせなかった。
永遠にも思える見つめ合いだった。
だが、それも終わった。エモティオーナはハンカチを取り出すと目をぬぐいながら、逃げるように会場を去っていった。
何が何だかわからない。ただ胸が重苦しかった。何もかもがあいまいだ。はっきりしているのは胸の重苦しさと握りしめた右手の手ごたえだけ。それらの重みが無ければ、自分の身体は夜会の喧騒にまぎれて消えてしまうのではないかと思った。
「レイディオナル様……?」
その声に目を向ければ、男爵令嬢カレスリア・カンスピラースがいた。肩まで届く真っ直ぐな金の髪。大粒の瞳の色は青。白いドレスを纏った清楚可憐な令嬢だった。
最近よくレイディオナルの近くに現れるようになった令嬢だ。
彼女はレイディオナルの姿を見ると、これ以上ないほど目を見開き、口も大きく開けていた。貴族令嬢らしからぬその顔は、ただの驚愕ではないように思えた。
そして彼女は茫然と問いかけてきた。
「レイディオナル様……生きていらしたのですか?」
何をバカなことを……そう言い返そうとしたが、言葉を発することができなかった。
肺で呼吸して、心臓が鼓動を打つ。その当たり前の感覚が、自分の身体から感じられない。彼はこのとき初めて、人間としてあるべき様々な感覚が無いことに気づいたのだ。
これまで向けられてきた驚きの視線。エモティオーナの驚愕の表情。そうした反応は、墓場で出遭った幽霊にでも向けるようなものだったのだ。
手を天井にかざせば、手のひらは光を遮らず、豪奢なシャンデリアが見えた。足元を見れば、自分の足の下の絨毯の模様が見えた。身体のどこもかしかも、半透明で透けていた。
こうした半透明の状態を知っている。幽霊だ。命を落とした人間が、生前の未練や恨み、あるいは魔法的な縛りによって、魂だけを現世にとどめた存在。不安定な存在ゆえに、その身体は透けて見えるのだ。
右手だけに確かな感触があった。その手ごたえが無ければ、半透明どころか透明になり、消え去ってしまう……そんな不安が湧いてきた。
「私は……死んだのか?」
その言葉を口にした途端、意識が遠のいた。
気づくと、レイディオナルは自室のベッドの中にいた。
先ほどまで夜会に出ていたはずだ。あれは夢だったのだろうか。それにしては記憶は鮮明だった。夢とは思えない実感が残っていた。
あたりを見回すと、ベッドわきに控えていたメイドと目が合った。彼女は驚愕に目を見開いた。あの夜会の光景が思い起こされる。あるいはこれは、あの夢の続きなのか。
だが、少し違った。
「旦那様! 旦那様を呼んでください! レイディオナル様が目を覚ましました!」
そう叫びながらメイドは部屋を飛び出していった。
レイディオナルは手を天井にかざしてみる。手のひらから天井が透けて見えるようなことはなかった。手首の動脈に触れると、確かな鼓動が感じられた。生きている。だが、身体がひどく重く感じる。とてもベッドから出る気にはなれなかった。
そうしてぼんやりしていると、父であるマクサターク伯爵がやって来た。
「レイディオナル、目を覚ましたか。どうだ、身体は大丈夫か?」
「父上……身体がひどく重く感じられますが、それ以外に異常はないようです」
「そうか……無理をすることはない。今、魔法医を呼びに行かせている」
「父上、いったい私の身に何が起きたのでしょうか?」
「事情はあとで説明する。まずは大人しく診察を受けるのだ」
すぐにかかりつけの魔法医がやって来た。
いくつかの診察を受けると、強い疲労が残っているが身体に異常がないとの診察結果になった。診察を受ける中、レイディオナルは一週間もの間、眠りについていたと聞かされた。身体の重さはその間に衰弱したためらしい。
だが、身体の異常はそれぐらいだった。
診察を終え魔法医は立ち去った。部屋には父と二人きりになった。
「父上。私はいったいどうして一週間も眠っていたのですか?」
「愚か者め。お前は一服盛られたのだ」
レイディオナルの家、マクサターク伯爵家は代々高い魔力を持っていた。攻撃魔法の精度も威力も他の追随を許さなかった。防御においても、堅固な防御魔法を有していた。正面からの戦闘において、王国最強と謳われた一族だった。
しかし、彼らが最強だったかと言えばそうでもなかった。戦闘ではおよそ負けを知らない一族ではあったが、弱点もあった。一族の者は、毒・麻痺などの状態異常に対する耐性が低かった。
また、戦術的な才覚に優れていたが戦略的な視点に欠けていた。貴族社会においては権謀術数を苦手としており、派閥争いで後れをとることが多かった。「攻めることしか知らない脳筋一族」などと陰で蔑まれることさえあった。
しかし、それでもマクサターク伯爵家は強大だった。伯爵家は王国に迫る魔物の軍勢を何度となく退けた実績があった。王国の切り札として、王家から重宝されていた。
王族に重用された、強力ではあるが搦め手には弱い一族。その立場を疎む貴族から謀略を仕掛けられることがたびたびあった。
今回の一件も、そうした事情から起きたことだと、父は説明を始めた。
婚約者の決まったレイディオナルに対し、男爵令嬢カレスリア・カンスピラースが近づいてきた。レイディオナルは幼い頃から攻撃魔法の技術に傾倒しており、色恋への興味は薄かった。しかしカレスリアはそんなことを気にせずぐいぐいと近づいてきた。
ただの色恋ならば退けられたが、彼女は攻撃魔法の構築理論や魔力の操作技術など、レイディオナルが興味を持たずにはいられない話題を巧みに振ってきた。勉強のためと言うことで話に付き合うようになった。気づけば彼女と接する時間は増えていった。
そして学園の夜会の準備を始めようと思っていたころ。カレスリアが攻撃魔法の教科書を手に質問のため訪ねてきた。攻撃魔法の話となれば、レイディオナルに断る理由はなかった。勉強のために二人で自習室で勉強することになった。その際、カレスリアが紅茶をふるまってくれたところまでは憶えている。その先が思い出せない。
「お前が飲まされた紅茶には、魔法薬が入れられていたのだ」
父の迷いない語りぶりからレイディオナルは確信した。カレスリア嬢は既に捕らえられ、洗いざらい吐かされたに違いない。
マクサターク伯爵家は、その卓越した武力ゆえに謀略にさらされることが多い。だからこそ、その事後対応には慣れていた。報復は常に徹底的で容赦がなかった。
マクサターク伯爵家の子息に薬を盛るなどということをしたカレスリアの家、カンスピラース男爵家はただでは済むまい。まず一か月と持たないだろう。社会的にも物理的にも、この世から「無くなる」ことになる。
苛烈に攻め、敵を打ち滅ぼすまで徹底的に叩く。それがマクサターク伯爵家の流儀なのだ。
おおよその事情は分かった。しかしそうなると、大きな疑問が湧いてきた。
「私は何を飲まされたのでしょうか? 霊体になって夜会に出る魔法薬など、聞いたことがありません」
カレスリアに陥れられたという事情はわかった。しかし、なぜあんなことになったのかは見当がつかなかった。
「あの娘が飲ませたのは、睡眠の魔法薬だ」
「睡眠……? 眠っただけであんなことが起きるのですか?」
「あれは不幸な事故だった。お前とあの魔法薬との相性は最悪だったのだ」
貴族社会においてレイディオナルの婚約は注目されていた。
武勇に秀でたマクサターク伯爵家に対し、婚約者エモティオーナの子爵家は呪いの魔法に長けていた。呪いに長けているということは、その防ぎ方にも通じているということだ。伯爵家は搦め手に弱いという弱点を、他家との関係を結ぶことで補おうとしたのだ。
それを脅威ととらえた反マクサターク伯爵家の貴族たちは、様々な権謀術数を企てているようだ。そしてカレスリアはその中の一人だったのだ。
カレスリアに与えられた使命は、レイディオナルの婚約を失敗させることだった。そのために近づいてきたのだ。
カレスリアは清楚可憐な風貌を武器にレイディオナルを篭絡しようとした。しかし彼は攻撃魔法に傾倒していて、色恋沙汰にまるで興味がなかった。攻撃魔法に関する勉強について相談すれば、気さくに対応してくれる。だがさりげなく女の魅力でアピールしても、彼はまるで興味を示さなかった。まるで甘い空気にはならなかったのだ。
業を煮やしたカレスリアは、睡眠の魔法薬でレイディオナルを眠らせ、暗示をかけることにした。そして夜会の場で、エモティオーナに婚約破棄を宣告させようと画策したのだ。
だがカレスリアはカスマディーク伯爵家について理解が浅かった。伯爵家の人間は強大な魔力を持つが、状態異常への魔力への耐性は低いのだ。
彼女は強大な魔力にばかり注目し、その魔力に見合うような強力な睡眠薬を用意した。ただでさえ状態異常の耐性が低い人間に対し、強力な魔法の睡眠薬を盛ったのだ。想定された効果以上に睡眠薬は効いてしまった。その上、薬に込められた魔法とレイディオナルの強大な魔力が反応して暴走し、本来のものとは異なる結果をもたらした。
レイディオナルは眠るだけにとどまらなかった。呼吸は浅くなり心拍数も大幅に低下して、仮死状態にまで陥ってしまったのだ。
最初は予定通り暗示をかけていたカレスリアだったが、あまりにもレイディオナルの反応が無いことに異常を感じた。そこで彼女はレイディオナルが死んでしまったのだと錯覚した。
夜会の時間は迫っている。出席しなければかえって怪しまれる。追い詰められたカレスリアはひとまずレイディオナルの身体を隠すと、何食わぬ顔で夜会に出席した。
しかし、その夜会にレイディオナルが霊体として現れた。
身体が限りなく死に近づき魂との結びつきが弱くなり、生霊となってしまったのだ。そしてカレスリアのかけた暗示に従って夜会に赴き、婚約者であるエモティオーナに婚約破棄を宣言したのだ。
それを目の当たりにしたカレスリアは大きく狼狽した。レイディオナルの状態を確認すべく焦って行動し、そして罪が発覚したのだった。
「そんなことになってしまっていたとは……」
「カスマディーク家の人間は搦め手で狙われやすい。普段からあれほど気をつけろと言っていたではないか」
そう責められると、レイディオナルは恥じ入るしかない。
カレスリアのことは、勉強熱心な令嬢として好ましく思っていた。何度も攻撃魔法の勉強について相談してくるので、快く応じてしまっていた。思えば、カレスリアは魔力はさほど高くなく、魔力の傾向も攻撃魔法より防御や支援に向いたものだった。その時点で不審に思うべきだった。攻撃魔法について語る楽しさに目が曇っていた。恥ずべき油断だった。
顔を伏せると、ふと、自分の手の異常に気付いた。右の手のひらの中央に、ひし形のあざができているのだ。何か見覚えのある形に思えた。
「仮死状態に陥っていた時、お前はあれを握りしめていたのだ」
レイディオナルの疑問を察したのか、父はそう言ってベッドわきの棚を指示した。そこにはあったのは、細い鎖をつけられた、ペンダントのようなアミュレットだった。全体の形としてはひし形。表面には細かい細工が施されており、中央には銀色の宝珠が嵌められれていた。美しい輝きを放っていた宝珠は、今はいくつものひびが入っていた。
「あれは誕生日にエモティオーナ嬢から贈られたアミュレットです」
「そうか……あれには魔力がこもっていた。お前の魔力と反応して、手のひらに焼き付いたのだろう。魔法医によれば身体的な異常ではないらしい。しばらくすれば消えるそうだ」
あのアミュレットは誕生日に婚約者から贈られたものだ。レイディオナルは婚約者の義務として普段から身につけるようにしていた。仮死状態になった時、無意識に握りしめたようだ。
夜会に行ったとき。右手に確かな感触があった。あれはアミュレットの魔力を感じていたのかもしれない。
「あの出来事はエモティオーナ嬢にとってもショックだったようだ。あの夜会以来、家に引きこもってふさぎ込んでいるそうだ。事情については伝えてあるが、お前が直接出向いて話をするのだ」
「……わかりました」
レイディオナルは状況を把握するのに精いっぱいで、自分がしてしまったことにまで気が回らなかった。
暗示に操られていたとはいえ、彼は婚約者に婚約破棄を宣言してしまったのである。
一週間後。十分に回復したレイディオナルは、エモティオーナの家へと向かった。
馬車の中、彼は婚約者とのこれまでの付き合いを思い出していた。
子爵令嬢エモティオーナ・カスマディーク。カスマディーク子爵家は、呪いの魔法に長けた一族であり、エモティオーナはその次女だった。
マクサターク伯爵家は魔法での戦闘に長けているが、搦め手に弱い。その弱点を補うために、防御に秀でた家との婚姻を求めていた。
カスマディーク子爵家は呪いの魔法に長けている。それはつまり、その防ぎ方にも通じているということだ。
求めていたのは家格ではなく呪いの魔法の血筋のみ。家督を継ぐことのない次女であるエモティオーナは、その意味で都合がよかった。
貴族にはありふれた、家の都合だけで決まった婚姻だった。
エモティオーナは、暗い空気を纏った令嬢だった。
腰まで届くしっとりとした黒い髪。顔半分は長い前髪で覆われている。その隙間から覗く銀色の瞳は、見る者にどこか不吉なものを感じさせる。
身にまとうドレスも黒を主体とした控え目なもので、華やかさは無い。ドレスと言うより喪服を想起させる暗さがあった。
常に伏し目がちで、常に辺りを窺うおどおどとした所作。まるでおとぎ話に出てくる悪い魔女を思わせる佇まいだった。
そんな彼女に初めて会った時、レイディオナルが抱いた印象は、『実に素晴らしい婚約者』だった。
まずエモティオーナから感じ取れる魔力だ。レイディオナルほどではなかったが、貴族の中ではかなり高く、その質もよかった。マクサターク家の伴侶として申し分ない魔力だった。
そして彼女の纏う暗い雰囲気もよかった。普通の者なら忌避するその暗さは、むしろ呪いの魔法に長けた一族としての優秀さを感じさせるものに思えた。
レイディオナルは婚約に際し、恋愛と言うものを期待していなかった。攻撃魔法に傾倒したマクサターク家の次期当主である彼にとって、婚約は家を存続させるための手段に過ぎなかったのだ。
エモティオーナとその両親を家に招いて進めた縁談の話し合いは、レイディオナルが快諾したことでとんとん拍子に進んだ。両家の合意の下、婚約は結ばれることになった。
まだ時間に余裕があったので、レイディオナルはエモティオーナを伯爵家の庭へ案内した。
礼儀作法に則りエモティオーナの手を取った。その時、彼女はひどく驚いた顔を見せた。どうやら異性との付き合いには慣れていないらしい。それはレイディオナルにとって都合がよかった。魔法での戦闘を常日頃から考えていたい彼にとって、男女の付き合いの機微を求められるのは億劫なことだったのだ。
その後も特につつがなく婚約関係は続いた。定期的に紅茶の時間を過ごした。その時の話題と言えば、レイディオナルが攻撃魔法についての話すか、エモティオーナが呪いの魔法について語るかだった。
甘い雰囲気などかけらもなかった。普通の貴族の婚約者なら退屈に感じる時間かもしれない。しかしレイディオナルにとってはとても意義のある時間だった。
エモティオーナはいつも伏し目がちで、長い前髪のせいもあり目が合うこともほとんどなかった。でも口元には時折、控え目な笑みを浮かべていた。レイディオナルと過ごす時間を退屈に感じているわけではないようだった。そして誕生日にはアミュレットを贈ってくれた。
婚約破棄の宣言を、彼女はどう受け取っただろうか。霊体が婚約破棄すると言う異常事態だ。学園の中では何らかの魔法的な事故と受け取られ、婚約破棄そのものはあまり本気で受け取られていないようだった。
もし、レイディオナルが逆の立場なら、噂には耳を貸さず毅然としていただろう。カスマディーク伯爵家の人間として、弱みを見せるなどあってはならないことだからだ。
そんなレイディオナルだから、引きこもってしまったエモティオーナのことはよくわからなかった。婚約を阻む他家の陰謀だと、きちんと事情は伝えてある。彼女に非はない。それなのに引きこもる理由が、彼にはどうにも想像がつかない。
思い起こされるのは紅茶を共にしたとき見せた、彼女の控えめな微笑み。
そして、婚約破棄を告げられた時の、涙。
「泣いている顔は初めて見たな……」
つぶやきは、馬車が轍を刻む音に紛れて消えていった。
馬車は昼過ぎにはエモティオーナの家、カスマディーク子爵家の屋敷に着いた。事前に訪問を伝えてあったこともあり、すぐに応接室に通された。
そこではエモティオーナが待っていた。いや、待ち構えていた。
腰まで届く長いしっとりとした黒髪。普段は伏し目がちで目を合わせることすら少なかったが、今は真っ直ぐにレイディオナルに向けられていた。長い前髪から覗く銀色の瞳の輝きは、禍々しささえ感じられた。
身にまとうのは黒を基調とした豪奢なドレスだ。普段は地味な服装をしていた彼女には珍しい。そのドレスの随所に魔術文字が刻まれている。彼女ばかりでなく、服自体も魔力を放っていた。おそらくこの服装がエモティオーナが呪いの魔法を使う時の正装なのだ。
婚約者を歓待する雰囲気ではない。その装いもまなざしも、敵を迎え撃つ姿だった。
『敵対者は迎撃せよ』。幼い頃からそう教育されてきたレイディオナルは、反射的に魔力を高めそうになったが、理性で抑えた。いかにエモティオーナが臨戦態勢にあろうと、今回の件はこちらに非がある。何の話を聞かずに戦いの構えをとっては、話し合いなどできなくなってしまうだろう。
甘い考えだ。つい先日、その甘さで薬を盛られた。そのことを自覚しながらも、彼は魔力を抑えた。マクサターク伯爵家の子息にしては珍しく、攻撃魔法を放つことに、なぜだか強い抵抗感を覚えたのだ。
エモティオーナが目くばせすると、部屋にいた使用人たちは出ていき、二人きりとなった。するとエモティオーナは応接室のソファに座った。
通常ならお互いに貴族の作法に則って挨拶するのが当たり前だ。なにも告げずに迎える方が先に座るなど、不作法なことだった。
だが、そういう状況ではないらしい。ひとまずレイディオナルは、彼女とテーブルをはさみ向かい合う形でソファに着いた。
座ったとたん、エモティオーナから一枚の文書と差し出した。そしてペン立てとインクをそれに添えた。
「これにご署名ください」
エモティオーナの固く冷たい声に促され、レイディオナルは文書に目を通した。
題名は「誓約書」。文書の一番下には署名欄が二か所ある。
誓約の内容は以下の通りだ。
『この誓約書に署名した者たちは、以下のことを誓約する。
一つ、両者は触れ合わない。
一つ、両者は言葉を交わさない。
一つ、両者は手紙でのやりとりを行わない。
一つ、両者は5メートル以内に接近しない……』
他にも様々に、署名した者たちの交流を禁じる事項が書き連ねてある。そして署名欄の上にはこう書かれている。
『上記の事項を破った場合、その度合いに応じた強さの呪いがかかる』
文書の四方の端には、誓約内容を囲むようにびっしりと魔術文字が書きこまれている。そこからは確かな魔力が感じられる。この誓約書は魔法の文書だ。署名して記載された禁止事項を侵した場合、本当に呪いがかかるのだろう。
この誓約書にレイディオナルとエモティオーナが名を記せば、事実上婚約は無効となる。結婚するどころではない。二人は話すどころか近づくことすらできなくなる。
つまりこの誓約書は、絶縁状なのだ。
今回の件はこちらのミスだ。婚約者に恥をかかせた。なんらかの賠償を要求されるものと覚悟していた。賠償金の準備や婚約の契約内容の変更など、調整が必要となる。父とも事前に相談し、いくつかの提案を用意してきた。
だが、事態はそんなに甘いものではなかった。
エモティオーナは、レイディオナルとの関係を完全に断つつもりなのだ。
まさかいきなりこんな誓約書を突きつけられるとは予想していなかった。あの控え目でおとなしい令嬢がここまで断固たる決意を示すとは思わなかった。
レイディオナルは思わず顔を上げ、エモティオーナの顔を見た。銀色の瞳の冷たい輝きに迎えられた。
「これにご署名ください」
彼女は同じ言葉を繰り返した。どうやら嘘や冗談ではなく、本気らしい。交渉以前の問題だった。レイディオナルは思わず深いため息をついた。
そんな彼を見ながら、エモティオーナはうっすらと笑みを浮かべた。
「今、どんなご気分ですか?」
その笑みとまなざしは、罠にかかったネズミを眺める猫を思わせた。
レイディオナルは武闘派で鳴らしたマクサターク伯爵家の子息だ。相手がこんな態度を取ったら、すぐさま攻撃魔法を放つ準備に入ったことだろう。状況によっては呪文よりも先に拳で一発入れていたかもしれない。伯爵家の人間は敵対者に容赦しないのだ。
だが今回は、まずこちらに非があった。その上、相手に先制を決められてしまった。しかも呪いを仕込んだ誓約書まで用意していたのだ。
ここまでされれば、もはや敵意も湧かなかった。
だからレイディオナルは素直な感想を漏らした。
「いや、まったく感服したよ」
「え……感服……?」
エモティオーナは目を丸くして驚いた。思えば、王国最強の伯爵家の子息である自分が、敵対した相手に掛け値なしの称賛を送るなど初めてだ。彼女が驚くのも無理が無いことに思えた。
「マクサタークは武闘派の伯爵家だ。王族であろうと軽く扱うことなどできない。表立って叛意を示す貴族など、一族の歴史においてもほとんどいなかった。いたとしても、我が一族はすぐに滅ぼしてきた。それなのに君は恐れもせず立ち向かった。その胆力には敬意を表する」
「え、ええ?」
先ほどまでの余裕ある攻撃的な様から一転して、エモティオーナは視線を泳がせ始めた。
レイディオナルは構わず称賛を続けた。
「なによりこの誓約書が素晴らしい。これに署名した時点で、君への干渉が封じられる。言葉を交わしてはならないのなら、呪文の詠唱すらままならない。次期当主である私の動きを封じたなら、事実上、伯爵家が君の家を害することはできなくなるだろう。
かと言って、署名しなかったらどうなるか。ここまで決然とした誓約書を無視して横暴を働けば、家の誇りは穢される。ただでさえ私の失態が原因だ。その汚名は数代にわたってぬぐえないに違いない。
これを出された時点で私は敗北していたのだな。ここまで見事な先制攻撃をされては、悔しいという気持ちすら湧いてこない。いや、まったく見事だ」
レイディオナルの称賛を受け、目を見開いて見つめていた。レイディオナルはそれも当然だと思った。マクサターク家の人間がこうまで潔く敗北を認めるなど、家の歴史をたどってもそう見られることではない。
だが、もう十分だ。敗者が負けた理由を語るなど、本来なら恥ずべきことだ。速やかに去るべきだ。
「君と言う優秀な令嬢を失うのは実に惜しい。だが、非は私にある。ここまで見事に絶縁を叩きつけられては文句も出ない。父には私から説明する。
さっそく署名させてもらうことにするよ」
そう言ってレイディオナルがペン立てに手を伸ばしたとき。
突然エモティオーナはペン立てとインクを取り上げた。
「ほ、本当に書かないでください!」
「まだ書いてはいけないのか……なんだ、他にもまだ要求があるのか?」
「違います! 何を当たり前のように書こうとしてるんですか!?
悲しくはないのですか!? つらくはないのですか!?
わたしのことを、なんとも思っていないのですか……!?」
先ほどまで彼をまっすぐににらみつけていた銀色の瞳がうるんでいた。今にも泣き出しそうなその姿は、レイディオナルの想像した伯爵家に敢然と立ち向かう果敢な令嬢のものではなかった。今にも泣きだしそうな乙女の姿だった。
レイディオナルは困惑した。
「『誓約書』を用意したのも、署名しろと言ったのも君じゃないか。君は一体何を言っているんだ?」
「本当に書いてもらうつもりで用意したものではありません!」
「なんだと? じゃあいったい何のために……?」
「わたしの気持ちをわかって欲しかったからです!」
予想外の言葉が出てきてレイディオナルは言葉を失った。
彼にとって誓約とは事務手続きだ。それは手順の決まった処理であり、気持ちなどという曖昧なものが入り込む余地などないものだったのだ。
「婚約破棄を告げられて、つらくて、苦しくて、悲しかった気持ちを、あなたにも味わってほしかった……!
そのためにこの誓約書を用意したのです……!」
そこまで言うと、エモティオーナは顔を伏せてしまった。
レイディオナルは頭の中で改めて、これまで起きたことを整理した。
謀略によって、レイディオナルは仮死状態になった。そして霊体となって夜会に出て、暗示されたままにエモティオーナの元へ行き、婚約破棄を告げた。
その後、エモティオーナはどうなったか。
彼女の言葉からすれば、婚約破棄を告げられたことはとても悲しいことだったらしい。それで学園にも行かず家に引きこもった。
その間に何をしていたかと言えば、レイディオナルに同じ悲しみを味わわせるためにこの誓約書を用意していたということになる。
そして家に訪れたレイディオナルに対し、誓約書を差し出した。
誓約書に署名すれば、二人は結婚はもちろん、言葉を交わすことすら不可能となる。確かにそれは、夜会で婚約破棄を宣言されるのと同じくらいの衝撃を与えることになるのかもしれない。
そこまで考えをまとめたところで、レイディオナルはめまいを覚えた。
「……じゃあ何か? 君は婚約破棄されたときの悲しみをわかってもらいたい……ただそれだけのために、わざわざこんな誓約書を用意したと言うのか?」
レイディオナルは深々とため息をついた。先ほどの感嘆のため息ではない。彼は呆れかえっていたのだ。
「君は馬鹿か!? 貴族の婚約だ! 家同士の契約だぞ! それを感情に任せてぶち壊しにするなど正気とは思えん!」
「確かに家同士の婚約です! でも貴族である前に、わたしは一人の女です! 婚約に対して、感情的になって何がいけないというのですか!?」
「感情任せで貴族が務まるものか!」
「我がカスマディーク家は呪いの魔法に長けた一族! 呪いは恨む気持ちによって成立します! 感情なしに誰を呪えると言うのですか!
むしろ感情的であることこそが、我が家では美徳とされるのです!」
レイディオナルは言葉に詰まった。彼は呪いの魔法について詳しくない。せいぜい、エモティオーナとの定期的な紅茶の席で話した程度の知識しかないのだ。呪いの魔法のために感情が必要と言われると、否定する言葉は浮かばない。
しかし魔法と感情を結びつけるということが、彼にはどうにも呑み込めない。マクサターク伯爵家は攻撃魔法に長じた一族だ。攻撃魔法の精密な制御に際し、感情は邪魔なものとなる。彼は幼い頃から、感情を律して魔法を扱うことを教え込まれてきた。
だが、エモティオーナの言葉に嘘はないのだろう。銀色に輝く彼女の瞳からは、レイディオナルを出迎えた時より強い意思が感じられた。間違いなく、彼女は本気だ。それだけは認めるしかなかった。
「……だからと言ってこんな誓約書を突きつけるのが、どんなに危険なことか考えなかったのか? 君の一族が呪いに長けていようと、本気になった我が伯爵家は止まらない。敵対者は確実に滅ぼす。君は生きてはいられないだろう」
「愛する者から婚約破棄を告げられたことこそが、わたしにとって死ぬよりつらいことでした。今更何を恐れることがありましょうか?」
「待ってくれ。そもそも私は仮死状態になっていたのだ。婚約破棄を告げたのも、暗示によるものだ。その辺の事情は伝わっているはずだ」
「ええ、聞きました。でも、だからと言って許せることではありません。たとえ暗示をかけられても、あなたは少しは抵抗すべきでした。むしろ死の瀬戸際と言う状況で、暗示に従ったというのが許せません。
何のためらいもなく婚約破棄を宣言して、そのうえ、差し出された誓約書に躊躇すらせず署名しようとして……! 許せません、ええ許せませんとも……!」
エモティオーナの言っていることはメチャクチャだった。仮死状態で暗示をかけられたという異常な状況で、そんなことを求められても困る。
そんな状況を愛の力で打ち破る奇跡を起こせるのは、物語に登場する深く愛し合った恋人同士ぐらいものだろう。
そう考えたところで、レイディオナルはこの話の前提におかしな点があることに気づいた。
「……ちょっと待ってくれ。『愛する者から婚約破棄を告げられた』とか言ったな?」
「ええ! 言いました!」
「君は私の事を愛しているというのか?」
「……はい」
恥ずかし気に、でもはっきりと。エモティオーナは頷いた。
信じられなかった。レイディオナルは色恋沙汰が分からない。彼女との付き合いも、貴族の家に生まれた子息として義務以上のことは何もしていなかった。
そこに愛が生まれる余地などあったのだろうか。疑問は口からこぼれ出た。
「いったいいつから……?」
「縁談で、初めてあなたとお会いした日。あの時、あなたはわたしの手を取ってくださいました。
呪いの魔法に長けた家に生まれたわたしは、家族からも恐れられていました。誰もわたしの手を取ろうとはしませんでした。でもあなたは、わたしの一族のことを知りながら、恐れることなくわたしの手を取ってくださいました……」
エモティオーナはかみしめるように言葉を紡ぐと、自らの手をその胸にそっと抱いた。
縁談で彼女を招いたあの日。庭を案内するために、彼女の手を取った。
呪いの一族とは知っていた。だが、彼はマクサターク伯爵家の子息だ。戦いにおいて、恐れは敗北を招くと幼い頃から仕込まれていた。貴族の礼儀作法として、あの場では令嬢の手を取ることが正しいと知っていた。
感情の挟む余地のない、ただの義務としてエモティオーナの手を取った。レイディオナルにとってなんでもない当たり前の行為だった。それをまるで大切な宝物みたいに語る彼女のことが、まるで理解できなかった。
「そんな、なんでもないことで……?」
「他人が聞けばなんでもないことなのでしょう。でもわたしにとってはかけがえのない恋の始まりなのです」
エモティオーナはそっと言葉を紡いだ。その姿があまりにも幸せそうで、温かだった。
レイディオナルの理解を越えたことだった。
「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ……」
彼女の姿があまりにまぶしく思えて、遮るように手をかざした。
「レイディオナル様、これは!?」
そのかざした手をエモティオーナは飛びついた。両手でぐっと彼の手を取った。手から伝わる彼女の熱さに驚かされた。
エモティオーナはレイディオナルの右手をしげしげと見ていた。それで思い出した。そこにはあざができていたのだ。
懐から左手でアミュレットを取り出した。エモティオーナが誕生日に贈ってくれたアミュレット。ひし形の黒い枠に、中央の銀色の宝珠。ひび割れた宝珠にかつての輝きは無い。
「あの夜会の時。仮死状態になっていた私は、このアミュレットを握りしめていたらしい。そのせいか、見ての通り宝珠はひび割れてしまったんだ……」
また彼女を怒らせてしまうかもしれない。そのことが、恐ろしく思えた。
恐れは敗北を招く。幼い頃からそう教え込まれ、恐怖と言う感情を制御していた。だが今のレイディオナルは、彼女を傷つけてしまうことを恐れていた。
「そうですか……このアミュレットは役目を果たしたのですね……」
だが、彼女は微笑んだ。穏やかな微笑みだった。
レイディオナルは一瞬、全てを忘れてその笑顔に目を奪われた。だがすぐに、聞き逃せない言葉あったことに気づいた。
「『役目を果たした』……それはどういうことだ?」
「カスマディーク家の女は、生涯の伴侶と決めた相手にアミュレットを贈る風習があるのです。
このアミュレットにはあなたを守護する呪法を込めてありました。あなたを害する呪いは、きっとあなたの持つ強大な魔法を利用すると予想して、魔力の暴走を抑える効果を重点的に施していました。
このアミュレットは限界までその効果を発揮したのでしょう。だから宝珠にこんなにもヒビが入ったのです」
そう言われて思い当たることがあった。カレスリアに盛られたのは強力な睡眠の魔法薬だった。魔法薬はレイディオナルの持つ強大な魔力と反応して暴走し、彼を仮死状態に至らせた。
だが、本当に仮死状態で済んだのだろうか。本来なら魔法薬の暴走で、仮死状態どころか死に至っていたのではないか。このアミュレットが、ギリギリの際で彼の命をつないだのかもしれない。
そして、霊体として夜会に赴いたとき。彼は右手にだけ、確かな手ごたえを感じていた。あの手ごたえが無ければ、彼の魂は肉体を離れそのまま死んでいたかもしれない。
レイディオナルは、このアミュレットのおかげで生き残れたのではないだろうか。
「……なぜ、アミュレットの効果について教えてくれなかったんだ?」
「効果を知らないまま、肌身離さず持ち歩く。その制約によって、愛しあう夫婦に最大の守護をもたらすアミュレットなのです。
あなたはちゃんと身に着けていてくださっていた。そしてこのアミュレットは、あなたをお守りすることができたのですね……」
レイディオナルは恋愛沙汰に興味が無い。男女の愛と言うものがよくわからない。
だが、今、幸せそうに語るエモティオーナの姿を前に、彼は否応なしに理解させられた。
エモティオーナは、レイディオナルのことを心から愛している。
そう知った瞬間、レイディオナルはたまらなくなり、エモティオーナの手を強引に振りほどいた。
「レイディオナル様……?」
心配そうに向けられる眼差しがレイディオナルの胸に痛みをもたらした。罪悪感という鋭い刃が、彼の胸を貫いたのだ。
出会った時から愛してくれていたエモティオーナに対し、レイディオナルは何をしてきたか。
彼女の恋心に気づかず、それどころか目を向けることすらせず、ただ義務的な付き合いを続けた。
そして悪意を持ってすり寄ってきたカレスリアに気を許し、魔法薬を盛られた。暗示に抵抗すらせず、夜会の場で婚約破棄を宣言し、エモティオーナを傷つけた。
そして今日。誓約書を出されても、その意図をまるで読み取れず、彼女の想いを踏みにじった。
レイディオナルに恋愛のことはわからない。だが、絶対に守らなければならないものがあることはよく知っていた。
レイディオナルにとって、それは家の名誉だ。もし家名を踏みにじられようなことがあれば、彼は命を懸けて抗うことだろう。
エモティオーナにとって絶対に守らなければならないのは、愛だったのだ。そのことをようやく理解した。
そしてそれを踏みにじってしまった自分の罪の重さを、レイディオナルは知ってしまったのだ。
「私は……君のことを裏切った! すまなかった!」
深々と頭を下げた。こんなことで許されるとはとても思えなかった。他にどうしていいかわからなかった。
「頭を上げてください」
「だが……!」
「もういいのです。誓約書を作ったのは、きちんと謝ってほしからなのです。
あなたはきちんと謝ってくださいました。だからもう、いいのです」
温かな声だった。優しい言葉だった。だがそのやさしさにすがるわけにはいかなかった。レイディオナルは、愚かな自分が許せなかった。
「私には君に愛してもらう資格などない!」
レイディオナルは猛然と誓約書とペンを取った。自分の名前を書きこもうとした。
自分にはエモティオーナの隣にいる資格などない。ならばこの誓約書で、二度と近づけないようにしなくてはならない。それのみが自分にできる贖罪だと思った。
だが、誓約書に書きこもうとした瞬間、彼はペンを取り落とした。右手が震えていた。どんなに抑えようとしても右手が震え、ペンを拾い上げることすらできなかった。
「仕方のない人ですね……」
エモティオーナはそうつぶやくと、レイディオナルをその胸に抱きしめた。
彼は幼い頃から厳しく魔法戦闘の訓練を受けてきた子息だ。魔力ばかりではなく、身体も鍛え上げられている。その気になれば、簡単に振りほどけるはずだった。
何としても誓約書に署名しなければならない……いくらそう思っても、身体は言うことを聞かなかった。身動きひとつ取ることができなくなっていた。
「恋愛のことはわからないというのに、愛されることにおびえるなんて、本当にバカな人……でもわたしはそんな不器用なあなただからこそ好きになって……そして愛するようになったのです」
抱きしめられる温かさと、愛しさのこもったその言葉に、ついにレイディオナルは観念した。
どれほど自分を恥じようと、エモティオーナを手放すことなどできないのだ。
恋愛はわからなかった。義務だけの付き合いだった。だが、慎ましくひたむきな愛を向け続けていたエモティオーナに対して、彼はとっくの昔に負けていたのである。
恋愛と言う初めての戦いで、レイディオナルは敗北した。
マクサターク伯爵家の子息として、敗北は恥だと教えられていた。一度は敗れたとしても、勝つまで挑むべきだとその身に刻み込まれていた。
だが、彼は今、この敗北を大切にしようと思った。恋愛において、エモティオーナには一生勝てないかもしれない。それもいいと思った。
彼女と共にいられるのなら、それもいい。心の底からそう思った。
形だけの婚約関係は、婚約破棄を宣言した時に終わった。
この日、二人は、本当の意味で『婚約者』となったのだった。
終わり
何か変わった婚約破棄を書きたいと思いました。
そこで「周りの人から指摘されて、自分が死んで幽霊になっていることに気づく」というシチュエーションを婚約破棄でやってみようと思いつきました。
幽霊になった理由付けとかあれこれ考えているうちに、「幽霊になってわざわざ婚約破棄を告げにやってきたりしたら、ヒロインはマジ切れするんじゃないだろうか」なんて思いました。
そうしたら当初の「幽霊になったことに気づく」ネタより、誓約書まわりの方にお話の比重が移ってしまいました。
相変わらずお話づくりはままならなくて難しい。でもそれが楽しいとも思うのです。
2023/12/30 19:15分頃 誤字指摘ありがとうございました! 他にも読み返して気になった細かなところを修正しました。
2024/1/30
感想で表現のおかしなところついてご指摘いただいたので修正しました!
2024/7/7
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!