置き去りにされたもの(第169回芥川賞)
第169回の芥川賞は市川沙央氏の「ハンチバック」に決まりました。それについては一つ前のエッセイで感想を書いています。
ただ、あの文章を書いた後も、自分の中でどうしても納得できなかった事があります。それは市川沙央氏のインタビューでの次の発言です。
※ハフポスト日本版「「重度障害者の受賞者、なぜ”初”なのか考えてもらいたい」芥川賞・市川沙央さん、読書バリアフリーを訴える」の記事より
「私は、これまであまり当事者の作家がいなかったことを問題視してこの小説を書きました。芥川賞にも、重度障害者の受賞者も作品もあまりなかった。今回『初』だと書かれるのでしょうが、どうしてそれが2023年にもなって初めてなのか。それをみんなに考えてもらいたいと思っております」
…私はこの発言がどうしても納得できなかった。芥川賞に重度障害者の受賞者がいなかった事に対する問題視というのが、私の文学に対する知見と全く相容れないものだった。
もっとも、ネットのコメントを見ると、この発言には二通りの解釈ができるらしい。一つは、市川沙央氏が読書のバリアフリー化を訴えているという事で、障害者が読書しやすい環境が整っていなかったから、障害者で小説を書く人間が少なく、それ故に芥川賞受賞者に障害者がいなかった事。これが一つの解釈だ。
もう一つは、芥川賞に重度障害者がいなかったのは、選考委員が何らかの忖度を行っていて、障害者に賞を取らせないようにしていたのではないか、という事だ。
後者の意味で言っていたらかなり問題だが、たとえ前者の意味でも問題はあると思う。私はどちらの意味でも発生してくる問題についてだけ、考えたい。
私が問題だと思うのは、芥川賞を受賞する重度障害者が今回初めてだというのを強調する視点である。
普通に考えればこれは何も問題はないのかもしれない。ただ、本当に文学を愛する人なら、文学作品というのは賞の権威とは全く別個に存在している事がわかるはずである。
文学を愛する人なら、まずは作品そのものから受ける感動から、自らの感想、批評、創作を始めるはずである。私にはそうとしか思われない。
しかしネットを見ても、現実を見ても、「頑張って芥川賞を取りたい」とか「死ぬ気で努力してノーベル文学賞を取りたい」といった人達が沢山いる。彼らは「芥川賞」とか「ノーベル文学賞」とかいった権威だけを目指していて、具体的な作品から受ける感動というものをまともに顧慮していないように思える。
実際、こうした、ぼんやりした文学観は、私もさんざん経験した所だ。私は作家志望の人と付き合った事があるが、わずかの例外を覗くと、彼らはそもそも文学というものに興味を持っていなかった。彼らが読んでいるのは最近の日本の作家だけで、それも自分が新人賞や芥川賞に食い込む為に読んでいるという風だった。
なので今回(169回)の芥川賞にしても、私が出会ったような作家志望の人達が、あるいは賞をもらう側になり、あるいは選考委員の側になり、あるいは読者の側になり、といった現象だと考えると納得できる。文学そのものの実質性は問題となっておらず、芥川賞がどうしたこうした、という事だけがそのまま文学の本質を決めると思われている。
過去の偉大な作家というのは、生前認められなかったような人はざらにいる。そもそも芥川賞というのは単なる賞でしかないから、自分が感銘を受けた作品が賞をもらっていなかったからといって、その感銘が増減するわけではない。トルストイはノーベル文学賞を取れなかったが、だから「トルストイは駄目だ」というような人間は、軽薄な権威主義者に過ぎない。トルストイ文学はノーベル文学賞などといった権威を越えて未来においても読まれるだろう。
文学というのはそういうものだし、読む人間が一人もいなくても、自分の作品世界はこの世界を凌駕している、と自負してもいいものだ。もちろん、そうした自負は客観的な作品の内実それ自体によって証明されていなくてはならないが、いずれにしろ、芥川賞とかノーベル文学賞とかいった権威と、文学作品自体の価値とは別の話である。
しかし市川沙央氏の発言にはそういう文学に対する視点がない。芥川賞がどうであろうと、作品が素晴らしければそれでいいのだという作家としての誇りがない。私が疑問視しているのはその点である。
過去の話で言えば、ハンセン病だった北條民雄の作品が芥川賞候補になっている。例えば、この北條民雄を取り上げるなら、話としてはまだ理解できる。「北條民雄の作品は素晴らしく、私はその作品に感動したのにも関わらず、彼の作品は不当に評価されている。彼は芥川賞を取るべきだった」という主張ならまだわかる。
しかしその場合でも、北條民雄の作品の価値も、北條民雄の作品から受けた印象も芥川賞という権威には左右されないものとしてあるはずだから、そこまで強硬に主張するには及ばない。要するに芥川賞を取ったかどうかとは単なる冠の話でしかない。大切なのは作品の中身なのだから、それであれば、その内実について深く語ればいいはずだ。
私が疑問なのは、市川沙央氏の言葉にはそうした視点が欠けている事だ。自分の作品が価値があると心の底から信じられているのであれば、自分の作品が賞を取ろうが取るまいが、自信と誇りを持っていいはずだ。しかし、市川沙央氏の言葉は「どうして2023年にもなって初めてか、皆さんに考えてもらいたい」という外向けのメッセージでしかない。
こうした事は彼女の言う「当事者」性というものとも密接に絡んでくる。そもそも、作家が重度障害者であり、作品の主人公が重度障害者であり、なおかつ作者がインタビューで「私は、当事者の作家がいなかったことを問題視してこの小説を書きました」と言ってしまうと、作品と作者のアイデンティティを関係させずには、作品について論じる事は不可能になる。
こういう構図を持ち出されると、私が「ハンチバック」という作品を批判する事は、作者を批判する事になり、更には重度障害者を批判する事を意味するという風にどうしてもなってしまう。近代文学というのは、そういう関連から解き放たれようとして、努力してきたものではなかっただろうか。
しかし今や、そのような構図は一般的なものとして大衆に浸透している、と言った方がいいかもしれない。私がイメージしているのはアイドルが歌う楽曲やアイドルが出演する映画などだ。それらの作品は、アイドルそのものの存在と作品の価値を客観的に分離できない。
ジャニーズ「嵐」の楽曲を楽曲それ自体として評価する人はいないし、いたとしてもそんな人間は「嵐」の客ではない。「嵐」ファンはあくまでも、「嵐」のメンバーが好きで、そのメンバーが出演したり、歌ったりするから、そのコンテンツをも好きになっている。ここでは作品と作者は分離できないし、むしろ積極的に融合されている。
選考委員の平野啓一郎は「リプロダクティブライツ(性と生殖に関する権利)について、病気をかかえた主人公がぶつけるものは、読者の間で議論を呼ぶだろう。議論を喚起する強い力もあった。」と「ハンチバック」を評している。しかしここで言われている議論とは、社会的な議論の事で、作品の内実についての議論ではないだろう。
私は今回の一連の芥川賞現象ですっかり置き去りにされたものが一つあると思う。決して議論にもされず「当事者」にもなっていないものが一つあると思う。それは「文学」だ。文学それ自体が、ざわつく人々の群れにあって置き去りにされ、蔑ろにされている。そして誰からも気にも留められていない。
これは本来悲しむべき事なのではないだろうか。文学についての話が芥川賞という権威の話にすり替えられ、作者それ自体のアイデンティティに作品が関係づけられ、作品の意味は社会的な議論に還元されてしまう。文学作品そのものから受け取った素朴な感動、一冊の本によって救われるという素朴な経験、そういうものがこの現象からは抜け落ちている。
そしてそれは、芥川賞という現象そのものがメディアの俎上に載って、白日の下に晒され続けた結果とも言える。私はこの現象で唯一置き去りにされているのは文学そのものであると思う。文学の意味が、権威と、社会的議論に還元されてしまい、文学それ自体は、芥川賞の周辺のどこにも存在していない。人々が求めているのは、議論を呼び起こすような社会的な表象であり、作者が欲しているのは作品を利用して自分の地位が高められる事だ。
市川沙央氏の主張するような「障害者の読書バリアフリー化」というのは、正しい意見だろう。それが間違っているとは思わない。ただそうした主張と、作品それ自体の内実、価値とは別の話だ。
我々が文学に期待を持てるのは、文学作品を手段にして政治的抗弁を成し遂げた人がいる為ではない。閉ざされた世界にあっても、フィクションというものを通じてより広い世界に出ていった人がいるからだ。
例えば、私はエミリー・ブロンテの「嵐が丘」という作品が好きだ。エミリー・ブロンテはイギリスの田舎の牧師の家で生まれた。エミリー・ブロンテは三十才でなくなり、その人生は田舎の閉ざされた環境で始まり終わっている。今風に言えば大した人生経験もなかっただろう。彼女は肺結核にかかって若年で亡くなっている。
しかし「嵐が丘」という作品を読むと、彼女の情念が自由に作品世界を動いているのがよくわかる。作品そのものが作者という小さな存在を抜け出て、より広大な世界に出て行っている。閉ざされた環境において、書物を通じて想像力を鍛えて、彼女はあのような作品を書いたのだろう。
「嵐が丘」は当事者の文学ではない。「嵐が丘」は当事者を抜け出た文学だ。彼女の作品は彼女の存在を大きく抜け出ている。このような作家がいるからこそ、自己という名の狭い殻に閉じこもりながらも広い文学の世界に出ようと夢を見ている人間は希望を持つ事ができるのだろう。そしてその希望は、芥川賞やノーベル文学賞という権威にいずれは認められるだろうという希望とは違う種類の希望であると私には思われる。