どうなっても構わないと言ったじゃないか!
「この様な弱い体では殿下のご迷惑となります」
ベッドに沢山のクッションを積んで上体を起こした彼女は静かに、しかし固く言葉を紡ぐ。
熱がまだ高いはずだというのに、僕が来たせいで寝ててくれない。
気の弱そうなふうでいて、僕の頼み事など聞いてはくれないのだ。
「ご迷惑には、なりたくないのです。どうか、どうか婚約を」
「続けるよ」
都合の悪い懇願をする彼女の声を、強引に遮った。
嘘でもそんなこと聴きたくない類の言葉だ。
「万が一に婚約をどんな形であれ無しにして、君はこの先どうするつもりなんだ」
疑問文ではない、どうにもならないだろうという行き場のない八つ当たりだ。
「……必要とあらば死も賜る覚悟です。殿下のお心が安まりますようお計らいください」
膝に掛けられたブランケットに隠したきつく握られた手が、瞼を伏せて顔を背けて誤魔化した涙が、バレないとでも思っているのか。
君の手を、君にすら傷めことを許したくないというのに。
あぁ、でも僕のために泣く君はそれでも愛しい。
「迷惑にならなければ、僕の気が済めば、君はどうなっても、死んでも良いと言うのか?」
声が震えなかっただろうか。
あまり情けない様を見せたい訳じゃない。
「はい」
肯定の返答はやけにはっきりと部屋に響いた。
「本当に?」
それに引き換え、驚くほど通らぬ念押し。
「構いません。如何様にもなさってください、殿下」
大きな病は無いが無理をすればすぐ熱を出すような弱い体で、決して自ら前に出るタイプではないのに折れることのない強い意志で、君はずっと僕の心を掻き乱すのだ。
「と、言うことですので、話を進めさせて頂きたい」
父王と、彼女の父君である公爵と、僕の3人で茶を前に集った。
「どういう訳だか今の話で分かるものか」
冷たく切り捨てる公爵は遠慮なく僕を睨む。
「なぁ、私の息子はついに頭おかしくなったか?」
公爵に問い掛けつつ実の父が哀れみの目を向けてくる。
なんとも不本意な気持ちでカップに口をつければ、温かな紅茶が僅かに心を慰めてくれた。
「酷い言われようでは」
なけなしの反論は黙殺された。
斯くして僕と彼女の将来を決める書類にサインをする両者は残念な物を見る目で僕を眇めて印を捺すのだった。
「めでたしめでたしってね」
一連の作業が終わったところで彼女と並んでソファに座る。
「殿下?」
機嫌良く紅茶を嗜む僕を彼女が先日の父たちと同じような目で見つめてくる。
なんであれ彼女の視線が此方に向くのは悪くないので構わない。
「出来ればこれからは名前で呼んで欲しいのだけど」
「そんな話はしてません」
相変わらず僕の頼みはあっさり切られてしまった。
「殿下?」
完全にお怒りである。
「はい」
これ以上の茶化は悪手だと知っている。
悲しい程に前例があるので。
前科と言わないで欲しい。
人は経験に学ぶ生き物なので。
紅茶の半分残ったカップを置き、体を彼女に相対する。
ちょうどふたりで結婚に関する書類の提出を済ませたところだ。
喜べと言える立場ではないが、怒らせたい訳でもない。
「何故あの先日の遣り取りから今日のようなけ、結婚、の、書類提出になるのですかっ」
珍しく彼女の動揺が音となって主張した。
「続けると、無しにはしないと言った」
流石に拗ねた気持ちになっても許されたい。
きちんのした手段を正式に踏んだ上での結婚である。
お披露目のための式典は後日盛大に行われる予定だ。
花嫁に責められる謂れはないのだ。ないったら。
それでも、責める目線に思ったより重い口を何とか開く。
「きみは」
紅茶を飲んだはずの喉がやけに乾く。
「君は、僕の迷惑になりたくないと言ったろ」
彼女は強く頷いた。
「僕の気が済むようにと」
「ええ、そう申し上げました」
先日とは打って変わって彼女の瞳が瞼に隠されることなく目の前にある。
「君の体を一番に考えるなら、君の幸せを一般的な価値観に照らし合わせるなら、結論は確かに僕との結婚じゃないだろう」
公爵家の領地だろうとどこだろうと、少なくとも王宮なんかより身の休まる場所で、穏やかに暮らすべきだ。
「王太子妃として体を省みず役目を熟すことなく、将来の王妃として世継ぎをもうけることなどせず、少しでも長く健やかに過ごすことも君は出来たんだろうけど」
君は僕の隣を捨てて死を賜ろうなんて思ってたようだけど、死を近付けるのはむしろ僕の隣だろう。
「私はそんな、私の先のことなどは構わないのです。そうではなくて」
悲しい顔で悲しいことを言わせるのも僕だ。
「僕は君が少しでも健やかに暮らしたいと言うなら手放すことも考えたさ……考えただけで死ぬかと思ったけど」
「縁起でもないことを仰らないで!」
苦笑交じりの言葉が冗談でないことに気付かないでくれていいのに怒ってくれる君に、僕のため無理をして寿命を縮めるよう強いるのだ。
「君が傍にいないなんて、隣にいてくれないなんて、僕にとって他にそんな迷惑な話はないよ。そして僕以上に、君を手放した後の僕を想像しただけでみんなが迷惑そうな顔で見てくる。あんな不敬が罷り通るなんて不敬罪なんてお飾りはいっそ廃止すべきだと思うくらいだ」
詰まらないことを言ったんだ。
笑ってくれたら良い。
「……僕の隣で、体をいとわせることも許さず、命を削らせることを君に強いるんだ。命をかけて子を産んでくれと言うだろうさ。でも元気な君と、君の子を抱きしめさせて欲しい」
こんな酷いこと言ったんだ。
怒ってくれたら良い。
「でも、言ったじゃないか、君が、僕の気が済むならって」
その涙が悲しみだけでないなら、思う存分泣いてくれても良い。
小さく僕の服にしがみついてボロボロと涙を零す君が、それでも僕を肯定した。
君の献身を、どこまでも都合良く受け取らせてくれ。
「君が傍に居なきゃ迷惑なんだ。ずっと隣に居てくれなきゃ僕の気が済まない。それが君に無理を強いるんだとしてもだ……だって」
僕は自分の腕の中の幸福を不格好な笑顔で強く抱きしめた。
「どうなっても構わないと言ったじゃないか!」