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繚乱奇譚  作者: とぎー
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(あぁもう、どうしていつもこんなことに……)


 ただ大学からの帰り道をぼんやりと歩いていただけなのに。いきなりのことに、青年はひたすら混乱していた。


 紫の髪に青い瞳。露わになった胸部から思わず目を逸らせば、その下半身は煌めく鱗に包まれ、足の代わりに尾びれが生えていた。まごうことなき人魚の美しさは文字通り人の域を超えており、男ならば、いや、まともな感性を持つ人ならば誰もが見惚れてもおかしくはなかった。

 命の危機に瀕していなければ、の話ではあるが。


 人間の目は水中で物を見るために作られていない。裸眼では水底はおろか、そこらに浮かぶゴミや小石さえぼやけてあまり見えないが、どういうわけか人魚の姿だけはこの上なくはっきりと見える。光の屈折などといった物理法則をいとも容易く無視してしまうのが妖怪というものだ。そのおかげで人魚はその美しさを余すことなく人間に見せつけることができ、そして同時にその傷も残らず晒すことになる。

 そう、今も青年の腕を掴んで離さないその人魚は、傷ついていた。本来は優雅に揺れているはずの尾びれは裂かれたレースのように千切れており、下半身を覆う鱗は所々剥がれ、白い肉を覗かせる。

 彼女の不思議な可視性は、その身から離れた血液にまで及ぶらしい。傷口から溢れ出る血は水と混ざることもなく長い線を引き、だからこそその出血量が尋常でないことがよく分かる。


 相当痛い目にあったのだろう。素直に痛々しいとも、可哀想だとも思うが、その人魚はまさに傷ついた獣。そんなものを前に同情などしていたらこちらがすぐに死ぬ。

 唯一青年の希望となるのは、この人魚が見た目通り、人間の女ほどの腕力しかないことだ。足は水の渦で捕まれ、水面に浮上することこそ叶わないが、いざ噛みつかれようとしてもなんとか振り払うことはできる。かれこれ数十秒、ずっとそれだけで死から逃れ続けていた。


「……っ、ええい面倒くさい!さっさと死んだ方が楽だぞ、人間!」


 予想外の抵抗が続き、人魚が怒鳴る。自身が弱っていることもあり、獲物を仕留めきれずにいる現状に焦りを覚えたのだ。


(俺を食べても美味しくないぞ)


 嘘ではない。自分はまともなエサじゃないから逃がした方が得だ。そう伝えたくても、人魚と違い、青年が口を開けばポコポコと空気が逃げるばかりで、まともな声にはならなかった。つくづく人間に厳しい環境だと歯噛みする。

 なんとか組み合い続けているものの、時間は青年ではなく人魚の味方だった。どう逃げようとこのままでは溺れ死ぬ。なんならもう既に限界が近付いている。


 苦しい。空気が欲しい。その欲求に耐え切れず息を吸おうとしたのが決定打だった。鼻から口から、恐ろしい量の水が浸入し、むせ返る。

 死に物狂いで藻掻いても、一向に水面には届かない。青年の瞳を暗い絶望が覆う。


(ダメだ。死ぬ)


 足掻く力さえ失って、だらりと腕が水に浮く。やっと大人しくなったかと人魚が歓喜に頬を緩ませ、白い歯と赤い舌が迫ってくるのが見えたのを最後に―――。


「……………っ!?!?」


 突然、頭を殴られて人魚が動きを止めた。痛み自体はさほど深刻ではない。ただ、どうしてここで、誰から攻撃を受けたのか分からず、動揺して思わず獲物から手を放す。その隙を乱入者は逃さず、青年の腰に両手を回してしっかりと抱きしめた。

 人魚はやっと状況を理解する。この男を何者かが助けに来たのだ。しかし慌てるどころか、人魚は喜んだ。


「馬鹿め、水に飛び込むとはなんと愚かな…!」


 頭上に巨大な渦が現れる。こうすれば、たかが人間が水中から逃れられる道理はなく、獲物が増えたばかりだと慢心し――。


「――――」


 青年を助けにきた人物が、にやけながら舌を出しているのが見えた。あからさま過ぎる挑発に怒りが沸き上がり、手を伸ばしたが、その爪にかかることはなく、獲物たちが一気に遠ざかった。

 見れば、二人目の人間は腰に何か糸のようなものを巻いている。それを上から渦にも負けない力で引っ張り上げている何かがいるのだ。正義感に駆られた突発的な行動ではなく、きちんと勝算を揃えての救出…。


 これはまずい。一瞬で頭を冷やし、人魚は諦めた。これだけ体力を消費して獲物の一つも手に入れられないのはこの上なく惜しいが、命には代えられない。人魚は直ちに身を翻し、下流に向かって全力で泳ぐ。

 直後に、遠い背後で轟音が鳴り響いた。それが何かは分からないが、あの場に留まっていたらきっと死んでいるのはこちらだった。その事実に背筋を冷やしながら、人魚は逃亡を続ける。





***






「………たが、…には……既に……」


「…かった。でもかなり弱ってたから、そう遠くには行けないはずだよ」


 頭上で行われる会話が、だんだん形を持ってくる。意識が浮上するにつれて、青年は言いようのない感慨に襲われていた。


(…奇跡ってあるもんだな…)


 今度こそは絶対に死んだものだと思っていたのに。しかし、そんな悟りに近い心境は、次の瞬間に吹き飛んだ。


「ごほ、げほっ!!!げほ、おえ…っ!!!」


「ほわぁ!?びっくりした!咲乃、咲乃!この人起きたよー!!」


 突然跳ね上がった青年の真上で子供が叫ぶ。驚かせて申し訳ないと思う余裕もなく、青年は気管の中にわずかに残っていた水を追い出すので必死だった。

 子供に呼ばれた少女がこちらを振り向き、駆け寄る。


「よかった、分かりやすく生きててくれてありがとうございます」


「ごほ、それが…っ、死にかけた、人に対する、言葉、げほ、ですか…」


「死体は噎せませんから」


 ゼーハーと息を荒げる青年の背を、少女は根気強く撫で続ける。


「意識が戻ったなら一安心ですね。救急車は呼んであります。しばらくここで待ってましょう」


「っ、は、はい…ってうわあ!?」


 またもや急な反応を示した青年に、少女も肩をビクッと震わせた。しかし今度も青年はそれどころではない。少女の背後に。青年の腹より胴の太い大蛇が、舌を出し入れしながらこちらを覗き込んでいるのだ。


「う、う、後ろ……!?」


「後ろ…あぁ。すみません、驚かせてしまって」


 愕然としながら指さす青年に、少女は納得がいったように頷いた。その横に、一匹の三毛猫が現れる。口元がにんまりと笑っているような顔をしているこの猫も、しかしまともな猫ではなく、尾が二本に分かれていた。


「言った通りだろ?こいつは妖が見える人間だって」


「別に疑ってたわけじゃないけどさ」


 当たり前のように猫は人語を話し、少女も当たり前のように返事をする。青年の目覚めを真っ先に報告していたあの子供ですら、背に鳥のような羽を生やしている。どれもこれも、まともな生き物の姿ではない。

 あの場から救い出してくれた時点でそうだと分かるが、つまりは、少女は青年と同じ部類の人間ということだった。





***






 この世には、いわゆる妖怪というものがいる。普通の人には見えず、その存在を認識することすら不可能だが、確かに存在し、人にあらゆる害悪をもたらす。

 青年はその妖が見える希少な人物であった。しかし血を継いだ両親はそうではなく、同類に会うこともほぼなかった。それがこんな少女を前にしてしまったのだから、なんと頼もしいことか。


 ずぶ濡れのまま救急車に連れていかれ、諸々を終えてやっと落ち着いたところで、青年は頭を下げた。


「藤原和晴です。改めて、今日は本当にありがとうございました」


「百花咲乃です。ご無事で何より」


「いやぁ助かってくれて本当にありがとう~。別に野郎を助けたところで僕に何の利益もないんだけど、死んでたら死んでたでお嬢が泣いちゃうところだった。そう思えば、僕の徒労もいくらか救われる」


 そんな風に言うのは、大きな目が印象的な、すらりとした着物の男だった。その目が最大の特徴と言い換えてもいい。何せその顔には、目玉は一つしかついていなかったのだから。


「そんな風に言わない!…すみません、これはカルっていいます。小僧…というには身長高すぎな気もしますけど、とにかく一つ目小僧です。失礼な奴ですけど、藤原さんを最初に見つけたのはカルなので、それに免じて許してもらえると…」


「男だと知ってたら無視してたよもちろん。なんで可愛い女の子じゃなかったのさちくしょう…あいたっ!!」


 なおも悔しそうにぶつくさと文句を言うカルの頭を咲乃が叩く。


「そんなに女に飢えてるんならさっさと川に戻ってあの人魚を探してきて!とびっきりの美人だったよ!」


「そうしたいのは僕も山々なんだけどね…。さすがに今日はもう暗すぎる。そもそも人魚は誰にも見つからずに暮らすことに長年苦心した種族だ。本気で隠れられたら、いくら僕の目でも見つからないさ」


 カルはひらひらと袖を遊ばせながらそう言う。その会話の内容に、和晴は戸惑いを覚えた。二人の口ぶりからすると、まるで積極的にあの化け物に接触しようとしているように聞こえるのだ。


「もしかして、百花さんはアレを捕まえようとしてるんですか…?」


 制服は着ていないので定かではないが、少女は見たところ、高校生ほどの年齢にしか思えない。自分より年下の女の子が、怯まず人魚と対峙しようとしている。あまり当たっているとは思いたくない予想だったが、咲乃は頷いた。


「はい。妖退治が仕事なもんで、今日あの川にいたのも、元々それが目的でした。分かっているだけで既に二人、あの川で亡くなっているんですよ。早いとこなんとかしないと…」


「とはいえ、現状は広い水域でたった一匹の透明な魚を捕まえろと言われているに等しい。弱ってることに加え、要所に気休めの結界を張ってはいるけど、まだ近くに留めておけてる確証もない。正直、どうしたもんかね」


 焦る咲乃に、カルも真面目な顔をして策を練る。すっかり蚊帳の外に置かれた和晴は、しかし話が進むにつれて顔から血の気が引いていった。


「まさか川全部を凍らせたり毒を流したりするわけにもいかないし……って、どうしたんだい、これは人間がしていい色なのかい?」


 ふと、黙りこくって俯く和晴の様子がおかしいと気づき、カルが尋ねる。同じように覗き込んだ咲乃も驚いて声を上げた。


「人間がしちゃダメな色!どうしたんですか、やっぱり改まって体調悪くなりましたか、検査では大丈夫って太鼓判押されてませんでしたっけ?」


「いや…その…申し訳ありませんでした…」


「えっ、なんで?」


 今にも土下座せんとする姿勢の和晴は、ひたすらに重い罪悪感で顔を青くしていた。本当は地べたに頭をこすりつけて謝罪したいとさえ思っている。それをしないのは、病院でそれをやってしまうと咲乃の方が恥をかくというだけで。


「だって、あれでしょ、俺のせいですよね、これ…」


 あの場にいたという時点で咲乃らの捜索は間違いなく佳境に入っており、あのままいけばきっと普通に人魚を仕留めていたのだろう。そこに和晴という異物が邪魔をし、自分の救助を優先したせいで人魚を逃がし、その結果が今の「打つ手なし」という場面である。

 死にかけではあったが、あの絶望の淵で抱きしめられた腕の温もりを、和晴はしっかりと覚えている。それはそのまま、彼女の両手が塞がっていたということで。せめて自分から掴まるくらいのことができていたなら、状況は変わっていたかもしれないのに。

 和晴は、こういう状況において、責任を感じずにはいられない人物だった。


「おーっとまさかの被害者が自責の念…。一応フォロー?しときますと、あなたのおかげで標的の姿を初めて視認できたようなものなので、ナイス囮でしたよ」


「でも結局逃がしてしまい…不出来な囮ですみません……」


「頑な!」


 咲乃は和晴の顔を上げさせようと試みる。男の傷心になど興味がないといった素振りでカルをそれを眺めていたが、途中で何かに気づいたように呟いた。


「囮…囮かぁ…それはいいな」


 不穏なその言葉を咲乃が咎める。


「一般人は保護対象」


「いーやお嬢!君もこいつのせいで濡れ鼠になった以上、ここは賠償させるべきだ!

 藤原とやら、まったくお前はなんてことしてくれたんだ!のこのこ掴まって僕たちの足を引っ張り、標的を警戒心増し増しの状態で逃がし、あまつさえ男ときた!お前のせいで僕たちの作戦が台無しじゃないか!これ以上死人が出たらどうしてくれる!?」


「うっ…ぐっ…」


 指摘される言葉の一つ一つに和晴は胸を押さえ、呻きを重ねる。それを庇うように咲乃は背に回し、カルを睨みつける。


「カル、いい加減に…!」


 本気で叱りつけようと拳を上げる咲乃を、カルはそっと片手で制する。それだけで、カルが言葉通りに怒ってなどいないことは分かったが、どうしたっていい予感は浮かばない。

 とことん和晴を委縮させるべく、声を張り上げていたカルは、ここでフッと声色を柔らかくした。どれだけ理不尽な提案だろうと、これだけの鞭と共に与えられたならば、こいつは飴として受け取るだろう。そんな確信を抱いて、カルは和晴の肩に触れる。


「…だが、そんな君にも、命の恩人たるお嬢のためにできることがある。悪いと思っているならぜひ協力してもらおう」


 恐る恐る和晴が顔を上げると、カルの笑顔が真正面にあった。パーツごとの造形は和晴からみてもイケメンだと思えるくらいに整っているが、やはり目が一つしかないのがどこか恐ろしい。


「……な、何をすれば…」


「いくら隠れるのが上手い妖とはいえ、所詮は魚。しかもとびきり空腹ときた。ならやることは一つだ」


 その言葉で、和晴は己の役割を察する。その直感を後押しするように、カルは更に笑みを深める。


「――ここはひとつ、釣りをしようじゃないか」





***





「藤原さん、本当にやるんですか?というかやめません?」


 百花の確認は何度も行われた。その度に藤原はやると告げた。自分のせいで被害が拡大するかもしれないと思うと引き返せなかった。


「いいじゃないか。こいつも償いをしたくてしょうがなかったんだから、叶えてやるのが優しさってもんだよ」


 咲乃と対照的に愉快そうなカル。その二名を前に、和晴は緊張に頬を固くしていた。


「上手くやれるかは分かりませんけど…」


「大丈夫だって。君は呑気に散歩するだけでいいんだから」


 釣りとはつまり、和晴を囮に人魚をおびき寄せ、そこを捕らえようということだった。至ってシンプルな罠である。


「僕たちにとって、妖力がある人間の方が美味だ。一度あの人魚に捕まった君なら、釣り餌としては申し分ない」


「それなら私でもできると思うんだけど」


「お嬢には無理。君ほどになってしまうと美味そうな餌を超えて恐怖の対象でしかない。ステーキになっているならともかく、暴れ牛が目の前に現れたって食べたいとはならないだろ?」


「例えにデリカシーがない」


「ああ、うん。そこは僕が悪かった」


 思わぬところでつっこまれ、カルは素直に謝りつつ、話を続ける。


「藤原くん、君は川辺を好きに歩くだけでいい。見える範囲で待機するけど、奴がかかるまでは僕たちは近づけない。妙な気配がすれば警戒されるからだ。その代わり、君には命綱をつける」


 カルの言う通り、和晴の腰には細い糸が何重にも巻かれていた。咲乃がどこからともなく出したその糸は、簡単に見失ってしまうほど透明で存在感がなかったが、強度はお墨付きらしい。

 その糸の先は、大蛇の尾と結ばれていた。初めて見たときに和晴が悲鳴を上げてしまった蛇である。


「糸が不自然な動きをする、強く引っ張られる、切れる、その他異変が起こったときは、すぐに我らが麗しき不死身の吸血鬼、レディ・リリィがそこから降ってくる」


「承知しました。必ずお守りします」


 そう言ってお辞儀をしたのは、壮麗な西洋ドレスをまとった女であった。身体の構造こそ普通の人間と変わらないが、純白のドレスと金色の髪が、街灯の少ない夜の暗さをものともせずに美しく煌めくのが異常だった。水中でもぼやけることがないのが人魚なら、吸血鬼は決して夜闇に隠されることのない存在である。


「何かあった瞬間にはもう彼女がいるだろうから、使う機会がないとは思うけど、二度糸を引っ張れば君を全力で上に引き上げる。危ない、もしくは突然の空中散歩を楽しみたいと思ったときには遠慮なく合図するといい。

 最後に、後腐れのないように言っておくと、一応現場にはいるけど僕とフーちゃんは見学ね。単純にやれることがないから。どうしてお前がふんぞり返って高みの見物してるんだとかの苦情は一切受け付けません」


「はぁーい!フーちゃん役立たず!」


 鳥のような羽を生やした小さな子供の妖が、自分の発言を分かっているのかいないのか、元気よく片手を上げる。カルはともかく、こんな小さな子に頼るという絵面が受け入れられないので、そこは和晴も文句はない。

 段取りの説明を終え、いよいよ準備に入る。そんなところで、咲乃は最後にもう一度止めずにはいられなかった。


「いいんですね…?」


 引き返すなら今だと訴えるが、当の和晴が首を横に振ることはなかった。


「俺が役に立つならぜひやらせてください」


「そうだよ、お嬢。傷を癒すため、人魚は遅かれ早かれ次の獲物を探さなければならない。なら、ランダムに選ばれる被害者を探すより、確実に守り切れる囮を使った方がいい」


「……無茶したらぶっ飛ばしますからね」


 咲乃はもう反対するのはやめにした。その代わり、せめて巻き込んでしまった一般人を無事に帰してやろうと決意する。その責任感を正しく把握しながら、カルは尚も飄々と袖を振る。


「平気平気。お嬢だって分かってるじゃないか。レディ・リリィの傘の下ほど安全な場所は、この全世界を見てもそうあるもんじゃない」





***






 一度は殺されかけた化け物がいると分かり切った場所に行くのだ。いくら護衛がついているからといって、恐怖せずにはいられない。しかし。


「固いかたーい!固いよハルちゃん。そんなんじゃ無防備な餌に見えないって」


 どこから持ち出したのか、ピンクのカーディガンとサングラスをつけて、カルが嫌味を飛ばす。


「ハルちゃんって……」


 目の数と位置からして、無意味どころか邪魔にしかなっていないであろうカルのサングラスも相まって、和晴の肩から力が抜けた。なんだかもう色々とどうでもいいとさえ思ってくる。どうせ一度死にかけたんだ、夜中に川辺を歩くくらいが何だ。


「行ってきます」


「じゃあ、上で待ってますから」


 咲乃の言葉に頷くと、一同を乗せた大蛇は夜空へと飛び上がる。地面にいるときはあまり目立たず気付かなかったが、その胴体にはあろうことか足が生えていた。まさに蛇足…などと詮無いことを思いつつ。和晴は歩きだす。

 とっくに人通りなどなくなっている夜の川辺はとにかく静かで、和晴は景色を眺めていた。そうしてかれこれ数十分、かなりの距離を下ってきたが、何も起こりそうになかった。


(思えば、こんな深夜に徘徊するって不審者だよな…)


 釣り餌である以上、なるべく不自然な動きは避けた方がいいだろう。そこそこの距離を歩いてから、少し立ち止ってみることにした。何かしら心に傷を負った人という体で、草むらの上に膝を抱えて座ってみる。


(…疲れた)


 思えば、今日一日で色々ありすぎた。一度溺れかけているわけだから、体力も当然減っている。演技の一環だったが、こうしてじっとしていると、段々と眠気すら起こってくる。


 結果として、飢えた人魚を誘い出す動きとしては満点だったのかもしれない。


「……!!」


(来た…!!)


 目の前の水面が、和晴の頭上まで大きく盛り上がる。覚えのあるこの動きは、獲物を川底に引き込むための大きな手だ。

 それが眼前に迫った思った次の瞬間には、今度は視界が真っ白に染まった。その直後に轟音が響き、その光景に和晴は目を見開く。


 視界一面を覆う白色はリリィのドレスであり、カルの説明通り、異変が起きてから一瞬で降りてきたことも十分に凄いとは思う。思うが、今はそれ以上に川の様子の方が異様だった。


「な……」


 川に、穴が空いている。落下の勢いを利用して、預言者の海割りのごとく、リリィは川を割ってしまった。その中心に取り残された人魚は全身に激しいダメージを負い、かつ突如として水を奪われたことでなすすべなく倒れていた。


「そこから動かないように」


 和晴に短く告げてから、吸血鬼は地面を蹴る。押しのけた水が戻るまでのコンマ数秒、それだけでもリリィが仕事を終わらせるには十分すぎる時間である。


 何もかもが罠だったと知った人魚は激しく後悔する。なぜこんな獲物を狙ってしまったのか。だって腹が減っていた。血が止まらなかった。いや、こんなことを考えている場合じゃない。

 目の前にいるのはドレスを纏った死だ。その詳細までは分からないものの、第六感が告げていた。あれは格の違う生き物であると。その指先一つで、自分の命は容易く消し飛ばされてしまうのだと。


「嫌………」


 死を前にして、人魚は時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥った。しかし頭に浮かぶのは走馬灯などというものではなく、どうにかしてここから切り抜けるための道筋。

 必要なのはとにかく時間。もう一度身を隠せたなら、どうとでもできる。


 そして不意に、迫る吸血鬼ではなく、その背後に目を向ける。一挙一動がそのまま死に直結する刹那で、吸血鬼から目を逸らすなど自殺行為でしかない。しかし。


(あれだ…!)


 水で作られた槍が、未だに姿勢の変わらない和晴の方へ向く。割られた川面から何本も飛び出し、まっすぐに発射される。


 そうしたところで、吸血鬼が引き返す保障など、人魚にとってはどこにもありはしない。吸血鬼とあの人間は無関係かもしれない。そうでなくとも、囮に使った人間ごとき、見捨てるかもしれない。何もかも無駄で、間違っている悪あがきかもしれない。

 しかし、この場においては、それは間違いなく正解だった。


「……っ」


 背後の人間の窮地を瞬時に察したリリィは、即座に振り返る。手元にあったレースの日傘を投げると、丁度持ち手が地面に刺さり、和晴の前で開く。和晴の代わりに水の槍を受けた白い傘は、しかし貫かれることはない。

 最速で護衛対象を守る動き。しかし、たった一つのその無駄が、人魚の元へ水を呼び戻した。

 奔流がリリィに襲いかかる。かろうじて残っていた川底を蹴り、リリィは飛び退く。


「な、何が起きて…!?」


 瞬きを挟んだら目の前に傘が突き刺さってて、リリィは戻ってきている。そして水面からは絶えず水の塊が和晴目掛けて飛んでくる。何が起こったかも分からないまま、真横に落ちた水の弾が深く地面を抉り、和晴は身を竦めた。


「申し訳ありません。仕留め損ないました」


 淡々と、和晴に謝罪しながら、リリィは傘を抜いて閉じる。そして先は盾として使ったそれを、今度は剣かバットのように振り回し、全方向から襲い掛かる水の弾丸を弾き落としていた。その姿は一見優雅で、余裕がありそうにも見えるが、この吸血鬼としては非常に珍しいことに、焦りを覚えていた。

 和晴の存在も大きいだろう。しかし、足手まといであることを自覚しながらも、和晴は有名な逸話を思い出す。


「そうか…!川に入れないのか…!」


「はい」


 あっさりと肯定したが、その声は少し悔しそうにも聞こえる。吸血鬼は流水を渡れない。それでも怯まず仕事を引き受け、水を割るという強引な策をもってそれを克服したことがまずもって驚くべき点だが、それでも彼女は今、攻めあぐねていた。


「初めの一手で仕留めるつもりでした。しかし予想以上に向こうの対応が速い。もう一度川を割っても、水がある限り対処されるでしょう」


 川は既に穏やかな元の様子からかけ離れ、大きく渦を描いて激しい水流を作っている。少しでもリリィを拒むためのバリアだ。

 そしてこちらは変わらず、狙われ続けている和晴がいる。それを置いて、相手の攻撃をかいくぐり、同じ速攻を試みる。それはあまりに危険すぎる賭けで、咄嗟にリリィは選べなかった。

 咲乃らが到着するまで十数秒は掛かる。見失った以上、まだ人魚が近くにいる根拠はこの弾幕しかない。それも一秒後には終わっている話かもしれない。


「貴方はお役目を果たしてくれたというのに、心苦しいのですが…」


「あいつを少しでも留めておければいいんだな!?」


「…何を」


 一旦引くと言おうとしたところを遮られ、リリィが訝しむ。しかし時間がない。少しでも時間を稼がなければならない。


「その傘借りる!」


「は」


 返事を待たず、振りかぶったところを狙って傘の柄を掴む。その勢いを利用するように横に一回転。あまりにも予想外な背後からの不意打ちでリリィの反応が遅れ、手から傘がするりと抜ける。

 もう一度傘を開き、和晴は猛然と走った。


「うおぉぉ!」


 元々ギリギリを散策していただけあって、水面までさほど遠くはない。迷わず飛び込む。

 飲まれるのは一瞬だった。一時的に上下左右全ての感覚を失いながらも、必死に和晴は視界と意識だけは手放さないように目を開け続けた。短い時間の後、不意に勢いが止まる。渦の真下まで流されてきたのだ。


 そして目の前には、例の人魚がいた。まだ逃げてはいなかった。

 人魚の美しい顔が歪む。どんな感情からなのか、和晴には分からない。


「お前は…!」


 また会ったな。そんなことを言いたくとも、やはり和晴の方は何も言えない。再会の挨拶に代えて、すぐさま和晴は水をかいて手を伸ばし、その胴体に死に物狂いでしがみつく。


「何を…っ!!やめろ、離せ!!」


 腰にまとわりつかれた人魚は半狂乱になりながら振りほどこうと腕を振り回す。肘が脳天に直撃し、爪が瞼を切り裂き、必死の抵抗を受けながらも、和晴がその腕の力を緩めることはない。


(合図は二回…!)


 両腕のみならず足も使って相手の動きを封じ、短く二度、自分の腰から伸びている糸を強く引く。


「ごぇっ!!」


 腹を尋常でない勢いで絞られ、口から空気が溢れ出す。

 しかしその勢いの甲斐あって、両者は揉み合いながら、あっという間に水面に近づいていった。全身で人魚を掴みながら、ついに二人が水面から飛び出す。


「見なよお嬢、本当に釣り上げやがった!」


 頭上からカルの心底楽しそうな声が聞こえてくる。遥か上方に待機していた一同が、ようやく声が届くところまで下りてきていたのだ。和晴が一気に上昇した分もあり、はっきりと状況を視認した咲乃が叫ぶ。


「ばか!早く放して!!」


「でも…!!」


 今手放してしまったら、また水中に逃げられてしまう。そう考え、一層力を強める和晴に、重ねて咲乃が怒鳴る。


「いいから!もう落として平気ですから!!」


 既に遥か下になった水面を見れば、いつの間にか、その色が大きく変わっていた。白く固まったその水面は、どう見ても凍っている。何が起こったのかは全く分からないが、確かにこれなら大丈夫だ。回らない頭でもそれだけは理解し、フッと力を抜く。


 人魚を手放したことで引っ張り上げる勢いは更に増し、すぐに大蛇の背に座らされる。見下ろすと、人魚は凍った水面に衝突する寸前だった。

 和晴の想像していた段取りでは、ここでリリィがどうにかしてくれるはずだったが、もはやそれは必要なくなった。水面が凍っているということはすなわち、人魚も十分射程圏内にあるということである。

 咲乃の傍らに何か浮いている。淡い光を帯びたそれは、椿のように見える。


「よく見たまえ。あれが百花咲乃、今を生きる現人神。無数の花々をもって全てを制す、この街唯一の妖退治人だ」


 和晴を支えながら、カルが言う。赤い花の他に、透明な結晶も無数に虚空から生まれてくる。

 咲乃が手を前に伸ばす。それだけで氷の礫はまっすぐに落下を続ける人魚の全身に、吸い寄せられるように降り注ぐ。絶命した後に、ようやく死体は音を立てて氷に叩きつけられた。


「…終わった、のか…」


 あっさりといえばあっさりとした終わり方で、和晴は拍子抜けすらしてしまう。ここまでの準備を思えば、終局はあまりにも一方的だった。


「はい。まずは下りましょうか」


 咲乃の指示に従い、大蛇は凍った川面すれすれまで降下する。和晴の身を地面に下ろした後、飛び降りた咲乃は人魚の死体まで歩み寄ると、しゃがんでそっと表面に触れる。すると死体の表面がほんのり光り出し、その光は咲乃の手に吸い込まれていく。


「あれは…?」


 和晴の疑問に、カルが答える。


「あれがお嬢の力なんだ。妖の魂を取り込み、自分の力として扱う。君の命綱にしていた糸は昔に蜘蛛男から奪ったものだし、さっきの氷は雪女から奪ったものだ。やろうと思えば雷も地震も起こせる。そして今、お嬢はまた新しい妖を取り込んだ。

 つまりまた一つ人間離れしたわけだが、どうだい?彼女を怖いと思うかい?」


 言っているそばから、光はやがて形を持ち、花へと変わる。それは淡い紫が凍った水面によく映える、睡蓮の形をしていた。和晴にもなんとなく分かる。きっとあれが人魚だったものだ。


「…………どうだろ…」


 和晴は言葉に迷う。確かにあの少女は普通じゃない。あれだけの力を悠々と振るい、数々の妖を従える彼女こそ、人とは思えない。これまでの人生、妖から逃げ隠れすることしかできなかった和晴からすれば、未知の脅威に見えてもおかしくはない。

 しかし、今も眼下で広がる光景を、怖いの一言で片付けたくはないとも思った。だって、人魚を撫でる手つきと、辺りに浮かぶ花々は、あまりにも優しく見えて。


「怖いかどうかは分からないけど…綺麗…だと、思うよ…」


「…そうかい」


「お待たせしました。とにかく一度、傷の手当をしましょうか。それとももう一度病院送りになっときます?というかそっちの方がよさそうですねそうしましょう」


 咲乃は戻ってくるなりそう言った。その言葉の意味が分からず、額に手をやったときに、和晴はようやく気付く。


「…ん?ぬるぬるする…?」


 不自然な感触に手のひらを見る。するとそこは真っ赤に染まっていた。


「へ……」


 手だけではない。今や和晴の顔半分は絵具を塗りたくったように赤く染まっていた。無謀な突撃と、抵抗する人魚を押さえていた数秒で、ボロボロになっていたのだ。両脚が一番悲惨だったが、全身のありとあらゆるところに、切り傷と打撲、歯形すら見える。

 大きな傷はいつの間にかカルが布を挟んで押さえてくれているが、いかんせん手の数が足りない。そして自覚してしまえば、その止血が痛みをより一層鮮明にする。


「いっっ…!!!」


「え、嫌?嫌だってんならもういい?いいよね僕だっていい加減男と密着するのは限界だ」


 早口で言い切るや否や、カルはあろうことか、あっさりと和晴を捨てた。


「あ、ちょっ…」


 咲乃の静止ですら間に合わなかった。なけなしの応急処置であったものの、それなりに役目を果たしていた押さえが失われると同時に、和晴は全身が一気に冷たくなるのを感じる。土が吸いきれなかった血液が、急速に広がっていく。


「あっ………」


(今度こそ死ぬ)


 一気に視界が暗くなり、あっけなく和晴は意識を失った。





***






「すみません。結局退院まで面倒かけちゃって」


「いえいえ。二日で退院できてよかったです」


 まだあちこちに包帯とガーゼが目立つが、とりあえずは動いても大丈夫だと診断され、和晴は咲乃と共に病院を後にしていた。最後の最後に突然やらかした罰として荷物持ちを強制されたカルが、当てつけに文句を吐き捨てる。


「しっかしまあ、いくら一人暮らしだからってマジで誰も見舞いに来ないとか何なの?ボッチでギネスでも狙ってんの?天涯孤独でも友達の一人くらいは持ってるもんだろ人間って」


「困ったものだって自覚はある」


 特に否定もせず、苦笑気味で和晴が受け入れる。怒るなり悲しむなりすればいいだろうに、カルが言葉を持て余し、見かねた咲乃がため息をついた。


「カル、謝りなさい。土下座でもしときなさい」


「この大荷物で?二度と起き上がれなくなっちゃうけどいい?」


「俺の荷物も置き去りになるので止めていただけるとありがたいです。…そういえばこれ、どこに向かってるんです?俺の家とは違う方面なんですが」


「…………」


 みんな自然に歩いていくものだからなんとなくついてきていたが、見知らぬ繁華街にまで来るといよいよ耐え切れず、和晴は疑問を口に出した。すると咲乃は表情を固くし、後ろに侍っているリリィも無言のままで答えない。明らかにまずいことを聞いてしまった雰囲気に和晴は慌てる。てっきり自宅まで送ってもらえるものだと思い込んでいた自分が悪かったのだろうか。


「安心しなって。もうすぐだから」


 ただひとり、カルは笑顔でそう答えた。しかしどこに向かっているのかという質問の答えは貰えないまま、一同は小道から古いビルへ入る。ドアを開けると、羽の生えた小さな子供が菓子を食べながら手を振った。


「おかえり~。お兄さんはいらっしゃ~い、かな」


「はあ、やっとついた。重かったぁ」


 カルが我が物顔で荷物を放り込み、そのまま室内へ上がる。和晴は困惑の表情で入り口に立ったまま、再度尋ねる。


「あ、あの…………ここは…?」


「そこの看板を読んで分からないかい?日本語で書いてあるはずだが」


「読んだ上で聞いてるんですが」


 事務所のような部屋の前に、小さな看板が掛けられている。


 “百花妖総業”


 見間違いでなければそう書かれている。何だそれ。その下に更に小さく、「妖怪トラブル承ります!お気軽にご相談を」と付け加えられているのが更に胡散臭い。ここに来てようやく、咲乃の口から説明があった。


「今日からここが藤原さんの職場兼家になります。よろしくお願いします」


 ポカンと口を開けている和晴に、カルは軽薄な拍手を送った。


「おめでとう、君は記念すべき初の人間の構成員になったということだよ」


 ここ数日で幾度となく感じていたが、和晴はまた眩暈に襲われたような気がしていた。


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