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はるかな物語3「青春の光と影」  作者: 東久保 亜鈴
7/16

(7)

怪我をした日から春彦は学校を休み、家で退屈をどう紛らわせようかと、家の中をうろうろしていた。

「あんた、まるで動物園の熊みたいよ。

 まったく、そんなに行ったり来たり、うろうろされると、落ち着いて仕事が出来ないわ。」

「そう?

 まあ、気にしない、気にしない。」

「気にしないってねぇ。

 図体のでかいのがうろうろしたら、気にしないわけにいかないじゃないの。」

「はいはい。」

舞の仕事の邪魔になるので、春彦は仕方なく自分の部屋に戻ろうとした。

その時、廊下の押し入れの戸が空いていたので、思わず覗き込んでみると、そこに、重そうな段ボールが置いてあり、マジックインキで何か書かれていた。

「ねえ、母さん。

 押し入れにある何か重そうな段ボール、なに?」

「え?

 何かあったっけ?」

「うん、何かマジックで書いてあるんだけど。」

「どれどれ……。」

そう言いながら、舞は春彦の傍に来て、春彦が指をさす方を覗き込んだ。

「あら、懐かしい。

 こんなところにあったなんて。

 何で、今まで気が付かなかったんだろう。」

「え?

 何?」

春彦は興味津々と舞に尋ねた。

「これね、あのひとのレコードが入ってるの。」

「え?

 父さんの?」

舞は、懐かしそうな顔をして頷いて見せた。

「ねえ、中見ていい?」

春彦は、小さな子供がせっつくような顔をして舞にせがんだ。

「いいわよ。

 でも、重たいから、傷に触らないように気を付けるのよ。」

「うん。」

春彦はそう言いながら、段ボール箱を押し入れから廊下に引っ張り出し、中を開けてみた。

そこには、ジャケット幅が30cmのLPレコードが整然と収められていた。

「今のCDに比べると、大きいでしょう。

 それに、両面で、片面に約20~30分位しか入っていないのよ。」

「へえ。

 でもさ、今、DJか何かでは、レコード盤を手で逆回転させたり、速さを変えたりしているじゃん。」

「当たり前でしょ。

 CDで、どうやってやるのよ。

 相手は針じゃなくて、レーザーよ。」

「ま、そうかな……。」

「それより、取り出してみたら。」

「うん。」

舞も、興奮気味に春彦にせっついた。

春彦が、LPを1枚取り出すと、窓の多い建物が描かれているジャケットのレコードだった。

「わぁー、懐かしい!

 ツエッペリンじゃない。

 フィジカルグラフティよ、これ。」

「え、母さん、知ってるんだ。」

「そりゃー、そうさ。

 あの人の影響を一番受けてたんだから。」

春彦は、また、違うレコードを引っ張り出してみた。

「これ、パープルよ。

 ハイウェイスターが入ってるの。

 その後ろはスコーピオンズ。

 クリムゾンに、イエス、バッドカンパニー、クリームでしょ。

 キッスも!

 春は、キッスなんて知っているでしょ。」

「ああ、最近、宣伝で出ている隈取りみたいな化粧して、悪魔のしもべにしてやるとか言ってるグループでしょ?」

「なに、馬鹿言ってるのよ。

 それは、ジャパニーズロックバンド。

 あっ、ピンクもあるじゃない。」

舞は興奮しまくって、まるで学生時代のようにきゃっきゃっとはしゃぎながらレコードを1枚1枚眺めては、懐かしそうな声を出していた。

「エアロにTレックス、懐かしいわ。

 えー、黒船まであるじゃない。」

「ねえ、母さん。

 これ、どうやったら音が出るの?」

「へっ?

 そうか、レコードプレーヤーなんて見たことないわよね。

 一枚、中のレコードを取り出してご覧。」

「えっ?

 うっ、うん。」

春彦は、うなずいてジャケットから黒い色の円盤型のレコードを取り出した。

「あっ、その溝があるところ、傷つけちゃダメよ。

 爪で、キーってやっても傷がつくから、真ん中に溝のない部分があるでしょ。

 曲名とか、アルバム名が書いてある。

 そこを持つのよ。」

そう言われ、春彦は慌てて慎重にレコードを持ち直した。

「レコードって、盤に溝があるでしょ。

そこにレコード針を落として回転させることで音が出るのよ。

だから、その溝が命なの。

そう言う風に、レコード針を接触させて、振動?かな?

それで音を増幅させて聞かせてくれるのがレコードプレイヤーっていうのよ。」

舞は、いつもより詳しく雄弁になっていた。

「そうそう、我家にはプレーヤーおいていないけど、あの人の実家にあるわよ。」

「え?

 立花のおじいちゃん、おばあちゃんのところ?」

「そう。

 前の家、アパートで狭かったでしょ。

 今と違って、まだ、CDなんてなかったし。

 それで、レコードプレーヤーを実家に持って行って、聞きたいものをカセットテープに録音して持ち込んだのよ。」

「へえ、そうなんだ。」

「あんた、覚えてる?

 あの人が一番好きだった曲が入っているカセットテープで遊んで、テープを全部引っ張り出しちゃったこと。」

「え?

 そんなことしたっけ?」

「まあ、まだ小さかったから覚えていないわよね。

 あの人ったら、お前だから怒るに怒れず、半泣きしてたのよ。」

そういうと、舞は爆笑していた。

「あの時のあの人の顔、思い出しただけでも、涙が出てくるわ。」

「なんか、微妙だな…。」

春彦は、舞の大爆笑の原因が自分で、父の大事にしていたテープを壊したことで、笑うに笑えなかった。

「大丈夫よ。

 次の週の週末に、早速、新しいテープに録音して帰ってきたんだから。」

春彦は心なしか、ほっとした。

「でも、父さん、ハードロック好きだったんだね。」

「そうよ。

 でも、どちらかというと、ノリノリの曲が良かったみたいよ。

 確か、ディスコの曲もあったわよ。

 スリーディグリーズやアラベスク、アースにワンダーとかもね。」

「すげえ、そんなに持っていたの。」

「そうよ、まだ、実家に積んであるんじゃないかしら。」

「へえ。」

「今度行って見てごらん。」

「ああ、そうする。」

舞は、春繁が亡くなってから、立花の祖父の春吉と大喧嘩し、それがもとで今の家に移り、それ以来、絶対に一緒に行こうとはしなかった。

ただ、立花の老夫婦にとって、孫といえるのは春彦だけだったので、何かと用事を作り、春彦だけ立花の実家に行かせていた。

春彦も、舞と春吉の喧嘩の原因、というか、実際にその場にいたのでよくわかっているのだが、当初は、絶対に行こうとはしなかった。

ある時、しぶしぶ訪ねた時に、祖母のキクから春吉の真意を聞いたのと、舞も実はわかっているのだが、双方、引っ込みがつかなくなっているんだと理解し、それ以降は、舞に言われると、立花の実家に通うようになっていた。

「その人のレコードプレーヤーって、ものすごいのよ。

 学生時代、高校生の時からバイトして、全部、そのステレオにつぎ込んだのよ。」

「え?

 レコードプレーヤーって、よく、犬が聞いている絵のようなのじゃないの?」

「何馬鹿なこと言ってるの。」

舞は、真面目な顔をしている春彦を面白そうに見ていった。

「アンプでしょ、プレーヤーでしょ、チューナーにカセットデッキ、あとおっきなスピーカーがあるのよ。

 それを組み立ててならべると、畳一畳分でもあるんじゃないかしら。」

「そんなにでっかいんだ。」

「その代り、音は滅茶苦茶いいのよ。」

「へえ、そうなんだ。

 でも、そんなに大きいと持ってこれないかな。」

「え?

 持ってきて家で聞くつもりだったの?」

「うん。

 CDとどっちが音がいいかなって。

 俺もいろいろとCD借りてきて聞いてるんだけど、さすがに、こういうのは…。」

「まあ、探せばあるだろうけどね。

 そうだ、じゃあ、今度、光一と一緒に行ったらどう?

 光一は、悠美のために免許とって車買ったから、持ってこれそうだったら車に積んでもらったらどう?」

「え?

 でも、光ちゃんに悪いよ。

 まずは、俺だけ行って、どんな大きさか見て来るよ。」

「まあいいわ。

 いつ行くか決めたら教えなさい。」

「ん?

 母さん、連絡してくれるの?」

「だれがよ。

 お前が電話するんだよ。

 誰が、あんなくそ爺いと話をするもんかい。」

「まったく…。」

春彦は、拗ねた顔をしている舞を見て苦笑いをした。

いつも、実家に行くときは必ず、春彦に電話をさせ、自分は一切電話で話そうとはしなかった。

ただ、実際に行く時になると、あれを持っていけだの、これを持っていけだのいろいろ老夫婦の好きなものを土産に持たせ、帰って来ると、元気だったかと心配して根掘り葉掘り春彦から様子を聞き出していた。

そんな舞を春彦は、半分、素直じゃないと思いながら、舞の心の傷を思うと何も言えなかった。


それから数日間ほど春彦は学校を休み、週末の土日と祭日を合わせ1週間近く自宅で治療に専念していた。

その甲斐があってか、また、若さという回復力で、医者も驚くほど傷も順調に癒え、多少、歩くのにぎこちなさはあるが、頭の傷は目立たなく、腕の傷も包帯を外し、大きな絆創膏に代わり、ブラウスを着れば隠れて目立たなくなっていた。

また、休んでいる日は毎日のように佳奈が学校のノートやお菓子を持って見舞いに来ていた。

佳奈が見舞に来ると舞は喜んでお茶にお菓子を出し、3人で仲良く、もっとも佳奈と舞が中心にいろいろな話に花を咲かせていた。

「まったく、母さんは俺の見舞だっていうことを忘れて、佳奈のこと茶飲み友達と間違えているんじゃないか?

 佳奈も相手してると疲れるだろう?」

春彦は春彦の部屋で佳奈と二人きりの時に、呆れたように言った。

「そんなことないよ。

 舞さんとのお喋り、とっても面白いわよ。

 たまに、はるの小さな頃の話もしてくれるし。

 そうそう、ザリガニに指挟まれて、大泣きしたんだって?」

佳奈は、舞から聞いたことを思いだし、楽しそうに言った。

「大泣きは、大げさだよ。

 でも、ザリガニの奴、本気で挟みやがって、指がちぎれるかと思うみたいに痛かったのは確かだよ。

 だって、小学2年生の時だっけな。

 父さんも焦って、引きはがしてくれたっけ。」

春彦は昔を思い出すように言った。

佳奈は、昔を思い出し懐かしがっている春彦の顔を眺めていた。

「そうだ。

 春のお父さん、春繁さん、まだ、海外から帰ってこないの?」

「え?」

春彦は意気なり父の話になり、一瞬、たじろいだ。

春彦の父は、転校してからしばらくして、突然、他界してしまった。

春彦は、そのことを友達には、父親は海外に転勤になって日本にいないと言っていた。

舞は、春彦に何でそんな嘘をつくのかとある時尋ねてみた。

春彦は、周りから遠慮や同情されるのは嫌なので、仕事で日本にいないということにしていると舞に説明した。

舞は、しばらくどうしたものかと考えていたが、いろいろなことがあり、結局、春彦の気持ちを理解し、学校には父親がいないことを説明しないで、また、春彦がそういう風に言っていることを聞き流してくれるように頼んでいた。

それは、高校生になってもそのままだった。

当然、佳奈は、春彦の父親は海外に住んでいて、年に2,3回くらいしかあっていないという話をまともに受けていた。


「そうだね。

 なんか向うで偉くなっちゃって、まだしばらく帰って来れないみたいだよ。」

「そうなんだ…。

 でも、寂しくない?

 舞さんも寂しいんじゃないかしら。」

「まあね。

 でも、自由な人だから、母さんも諦めてるんじゃないかな。」

「そうなの……。」

佳奈は腑に落ちない顔をしていた。

「それより、もうすぐ期末テストか。

 全く忙しないな。」

「そうね。

 もう、怪我しないようにしてね。」

「はいはい。

 では、テストに出る範囲を教えてください。

 これで赤点なんか取った日には、母さんに殺されてしまいまするー。」

春彦は、佳奈に向かって手を合わせ、拝みながら言った。

「もう。」

佳奈は、そんな春彦の態度を見て笑い転げていた。

 「ん?」

不意に佳奈は春彦の視線を感じた。

「いや、今日は何か感じが違うなと思って。」

春彦は、佳奈の髪を見ながら言った。

佳奈は、いつも髪を後ろに束ねるポニーテールにしているのだが、今日は束ねていなかった。

「え?

 ああ、髪型でしょ。

 たまには普通に下ろしてもいいかなって。

 おかしい?」

佳奈は頭を左右振って見せた。

佳奈の髪はしなやかに風に舞、ほのかにシャンプーの香りが春彦の鼻をくすぐった。

「でも、触らせないからね。」

春彦が言う前に佳奈がそう言って制した。

むかしから春彦はよく佳奈の髪を触りたがり、佳奈に笑って拒否されていた。

「いや、もうそんな子供のときじゃないんだし……。」

春彦はそう言いながらも本心は、佳奈のしなやかな黒髪に触れてみたかった。


五商との件は、不思議なくらい話にもならなかった。

本来なら、怪我したほうが何かしら学校にアクションをしてくるのだが、五商の方からは一切何もなかった。

春彦の方は、春彦が怪我の理由を言わなく、また、ナイフで刺されたなど口のも出さなかったし、佳奈たちも一切口をつぐんでいたので、学校には事件のことは知られていなかった。

ただ、あの日を境に、あんなにうるさく西高の周りにいた五商の不良グループの姿が一切見えなくなった。

西高の教師は首を傾げ、どこか人気のないところに潜ったのかと噂をしていたが、結局、そういうこともなく、その内、いつもの平和な風景に戻っていた。

五商の方は、佳奈が五商にいる友人の田中に状況を聞いていた。

田中は、細かくはわからないようだが、やはりあの日を境に不良グループは解散し、皆、何か怖いものを見たのか、おとなしくなったそうだった。

リーダー格の陣は、肩の脱臼、肘の骨折、腕の靭帯破損など右腕に全治数カ月の大怪我を追い、腕をギプスで固定し、登校し始めたそうだった。

そして、他のメンバーと同じように、心を入れ替えたように服装、髪型も普通になり、まじめな普通の学生になったとのことだった。

最初は、陣の両親があまりの怪我で、学校に乗り込もうとしたが、陣の方が相手を金属バットで殴ったとか、ナイフで刺したと正直に告白したため、どう考えても自分たちに分が悪いので、だんまりを決め込んだようだった。

田中は、春彦のことを心配していたが、佳奈が笑いながら、「春彦は丈夫だから大丈夫」といった言葉を聞いて、胸をなでおろしていた。


その後、春彦の傷も癒え、学校は春休みに入っていた。

そんな春休みのある日、春彦は立花の実家に居た。

以前、舞から教えてもらった父、春繁のオーディオ・プレーヤーを見に来ていたのだった。


「ほら、春彦。

 お彼岸なんだから、立花の方にお線香上げに入って来て。」

「母さんは、行かないの?」

「ばか、誰が行くかい!

 私は、ここでしんみり飲んでいるわよ。」

「じゃあ、行くって連絡しなきゃ。」

「あ、それは大丈夫。

 お義母さんに春彦が行くって、手紙出しておいたから。」

舞は、涼しい顔をしていった。

「行ったら、この前話したあの人のオーディオセットを見ておいで。」

「手紙って……。

 電話すればいいじゃん。」

春彦はわかっていながら言った。

「なに言っているのよ!

あのくそ爺が電話に出たら電話機叩き壊しちゃうでしょ。」

「くそ爺って。」

春彦は苦笑いしながら、舞の文句を聞いていた。

そしていつものように、祖父母の好きなお菓子を手にいっぱい持たされていた。

「まったく、母さんも素直じゃないよな。

 でも、いろいろ誤解があったとしても、まだ、納得できないんだろうな。」

そんなことを考えながら、春彦は電車に乗って立花の実家に向かっていた。

立花の実家は、春彦たちが住んでいる街から、電車で1時間の奥まった田舎にあった。

周りは、まだ、田園風景が広がっているところで、電車を降り、20分程歩いた住宅地にあった。

住宅地といっても、隣近所とは田んぼ1つ2つ離れていた。

家の門をくぐり、玄関に入ると、直ぐに祖母のキクが出てきた。

「あ、おばあちゃん、こんにちは。」

「うんうん、春彦ちゃんいらっしゃい。」

キクは小柄で、笑うと目が無くなるようで春彦はキクのそんな笑顔が大好きだった。

「おお、春彦か、よく来たな。

 さ、早く上がれ、上がれ。」

恰幅の良い、坊主頭も祖父の春吉もいそいそと、居間の方から出てきた。

春吉は、この付近の伝統工芸の桐細工、下駄やタンス、また、昔ながらの蛇腹傘などを作って、この辺りでは名前が知れた職人だった。

今では、年齢のため、ゆとりを持った製作の傍らで、若手に伝統の技を教えていた。

「おじいさんたら、春彦ちゃんがいつ来るかって。

 ずっと、そわそわして門の方ばかり、見ていたのよ。」

「ばか、くだらないこと言わんで、早く春彦を家の中に上げんか。」

「そうね、さ、春彦ちゃん、上がって頂戴。」

「はい。

 あ、これ、母さんからお土産です。」

そう言って、春彦はお菓子の包みの大きな袋をキクに渡した。

「あら、まあ。

 あなたの好きな松屋の和菓子じゃない。」

そう言いながら、キクは菓子包みを春吉に見せた。

「ふん。」

春吉は知らぬ顔で、居間に戻っていった。

「まったく、頑固者なんだから。

 舞さんに嫌な思いさせちゃったのに、舞さんたら私たちのこと気にかけてくれて……。

 舞さんは、元気?

 手紙は、たまにもらうのだけど、あれからずっと会っていないし。」

キクは、しんみりと春彦に話しかけた。

「まあまあ、おばあちゃん。

 母さんは、元気ですよ。

 元気すぎて困るくらい。」

 そのうち、何とかなるでしょ。」

「ならいいけど。

 せめて私が生きている時に、昔みたいにね……。

 もう、あんなこと言わないから……。」

「おばあちゃん。」

春彦は、そう言ってうつむくキクの背中をそっと撫でていた。

「ほら、そんなところで話してないで、早くこっちに。」

「はいはい、じゃあ、春彦ちゃん、洗面所で手を洗ってらっしゃい。

 飲み物は、サイダーでいい?」

キクは、割烹着の端で目頭を拭ってから、笑顔で春彦に言った。

「うん。」

春彦は、言われたとおり洗面所で手を洗い、春吉の待つ居間に入っていった。

居間は、日本間で八畳ほどの広さで、庭とは廊下で隔たれている純日本様式の家だった。

春彦は小さい時に春繁と舞とで盆暮れ正月とことあるごとに遊びに来ていて、よく廊下で春繁とキャッチボールをしたり、おもちゃのボーリングゲームをした思い出の場所だった。

居間には仏壇もあり、先祖代々の他に春繁の写真が飾ってあった。

写真の中の春繫は優しそうな顔をして笑っていて、今にも何か春彦に話しかけてくるようだった。

春彦は、仏壇のところに行って、お線香を上げ、手を合わせた。

そして、ふと、仏壇に持ってきたお菓子が供えられているのを見た。

振り返るとキクがニコニコしながら、春吉の方を指さしていた。

あとでキクから聞かされたのだが、春吉はお菓子を受け取ると大事そうにお菓子に向かってお辞儀をして、その後、仏壇に供えていたとのことだった。

「春彦、どうだ、学校は?

 ちゃんと、勉強しているか?」

「うん、ちゃんとやってるよ。」

「おじいさん、そんな説教じみたこと言っていると、春彦ちゃん、来なくなっちゃいますよ。」

「そんなことないよな、春彦。」

春吉は純朴な性格で、キクに言われて心配そうに春彦に聞き直した。

「大丈夫だって。」

春彦がにこやかに答えると、春吉はほっとした顔をした。

しばらく、他愛のない話をした後、春吉は小声で、ぼそっと春彦に尋ねた。

「春彦。

 その……。

 舞さんは元気か?」

春吉のばつの悪そうな顔を見て、春彦は思わずキクと吹き出しそうになった。

「ええ、母さん、元気でやってますよ。

 もう、元気すぎて、いつもちょっかい出してくるんですよ。」

「そうか、そうか。

 元気なのか。

 それで、その……。」

「おじいさん!」

春吉が何かを言いかけた時、キクがピシっと制した。

春彦は春吉がなにを言いたいのか薄々感じていた。

「母さん、いつも父さんのこと話してくれて。

 今日も、父さんのオーディオ、すごいからみておいでって。」

春彦がそういうと、春吉は「そうかそうか」と、嬉しそうな顔をした。

キクは、そんな春吉の顔を何とも言えない顔で見ている。

「さ、じゃあ、ちょっとそのオーディオを見に、父さんの部屋に行ってきますね。」

「はいはい、どうぞどうぞ。

 春彦ちゃん、今日はゆっくりしていけるんでしょ?」

「え?

 はい。」

「じゃあ、夕飯、食べて行ってね。

 おばあちゃん、腕によりをかけてご馳走作ってるから。」

「わあ、楽しみだ。」

そう言って、春彦は2階にあがり、春繁の部屋に入ると、部屋は、キクが掃除したのか綺麗に整っていて、窓が開いており、心地よい風が吹き抜けていた。

春繁の部家は、籐の椅子やベッド、そして、開放感のある広い窓がある、やはり八畳くらいの広さの部屋で、床は板張りで、真ん中あたりに円形のござがひいてあった。

机は、窓のところにあり、その横に布が掛かった棚があった。

「これかな?」

春彦は小さい時の記憶で、確かこの当たりに春繁が良く音楽を鳴らしていたのを覚えていた。

布を外すとレコードプレーヤー、チューナー、アンプ、カセットデッキに大きなスピーカーがそのアンプたちを挟むように左右に一つずつ置かれていた。

「すげぇ。」

小さなときの記憶だったので、今、まじまじみると、立派なオーディオセットで、その横の棚にはレコードがLP、EP盤含めひしめくようにたくさんあった。

「動くのかな……。」

主の春繁がいなくなって、かれこれ10年近くも動かしていなかったオーディオのアンプのスイッチを春彦は、恐る恐る入れてみた。

しかし、POWERランプは点灯しなかった。

「やっぱり、だめかな…。」

そう言いながら、春彦はオーディオの棚の後ろのコンセントを覗き込んでいた。

「あっ、コンセントが外れている。

 当たり前か。」

オーディオのコンセントは、春吉が漏電を気にして抜いたのか、外れていた。

「差していいかな?」

そう思いながら、春彦はオーディオのプラグをコンセントに差し、アンプのスイッチをオンにしてみた。

今度は、アンプのPOWERランプが赤く点滅した。

「まあ、それ、未だ動くのかしら。」

いつの間にかキクが2階に上がってきていた。

「おばあちゃん、そこにあるレコード聞いていい?」

「いいわよ。

 でも、使い方わかるの?」

「うーん、たぶん。」

春彦は、目を輝かせて言った。

そんな春彦をにこやかな顔で見ながら、キクは1階に降りていった。

「さてと。」

春彦はそう言うと、レコードの棚から聞きたいレコードを物色した。

「あっ、パープルのマシンヘッドじゃないか。

 父さん、好きだったんだ。」

春彦は友人の影響で、昔のロックバンドの曲を良く聞いていた。

そんな中で、特に好きだったのがディープパープルとレッドツェッペリンだった。

「じゃあ、これかけてみよう。」

見よう見まねで、ケースからレコードを取り出し、プレーヤーに乗せたまでは良かったが、その先がどうにもわからなかった。

「うーん、困った……。

 おじいちゃんに聞いてみようかな。」

そう思い立って、1階に降りていき、春吉にレコードの掛け方を聞いてみた。

春吉は、使い方をよく覚えていて、丁寧に説明してくれた。

「レコード針が、もうすり減ってんじゃないかな。

 新しいといっても、何年も前のだが、どこかにあったはずだから、今度捜し出しておいてやるからな。」

「へー、おじいちゃん、詳しいんだ。」

「こら、当たり前だろう。

 レコードは儂の時に全盛だったんだから。

 もっと儂の時は、こんなりっぱじゃなく、小さな蓄音機だったんだがね。」

春彦に感心され、春吉はまんざらでもないと言った顔をして、部屋を出ていった。

春彦は、教わった通りに回り始めたレコード盤に張りを落とし、スピーカーの正面にある籐の椅子に腰かけた。

籐の椅子は大きく座り心地がよかった。

針を落としてから、曲が掛かり始めるまでしばらくの間、プツップツッという音が聞えていた。

曲が鳴り始めると、春彦は思わず身を乗り出す。

「すごい!!

 凄くいい音だ。

 なんか、同じ曲なのに、家のCDで聞くより数段、良い音に聞こえる。」

春彦は最初は音に感動していたが、その内、直ぐに曲に引き込まれていく。

そのまま、椅子に深く腰掛け、眼を閉じていた。

「父さんも、こうやっていつも聞いていたのかな。」

何となく、隣に父の春繁が笑いながら、こちらをみている気がしていた。

何枚かのレコードを聴いていると、キクが「夕食が出来たわよ」と呼びに来た。

「あらあら、そうやって音楽聞いている後ろ姿なんて、春彦ちゃんのお父さんにそっくりよ。

 懐かしいわね。」

「え?

 そうなんだ。

 いつも、こうやって音楽を聴いていたの?」

「そうよ。

 そして、下から呼んでも聞こえないもんだから、いつもこうやって呼びに来てたのよ。」

キクは、懐かしさで遠くを見ているようだった。

「さ、おじいさんも待っているし、ご飯が冷めちゃうから早くいらっしゃい。」

「はーい。

 じゃあ、これを片付けてから降りていきます。」

「はいはい。

 待っているからね。」

そういって、キクは階段を下りていった。

春彦は、音楽を止めて、聞いていたレコードをジャケットに仕舞い、元のところに戻した。

そして、今一度、春繁の部家を見渡し「また、聞かせてね。」と小さく呟いて、キクたちの待っている居間に下りて行く。

居間では、食べきれないくらいの御馳走が並んでいて、春吉は、すでに日本酒を飲み始めていた。

「ささ、こっちに来て好きなものお食べ。」

そう言って春吉は自分の傍の座布団のあるところに、春彦を手招きした。

「春彦も、少しは飲むのかな?」

そう言って、春吉はお猪口に日本酒を入れ、春彦に差し出した。

「え?」

春彦は、たまに舞の付き合いで舐める程度なら、お酒を飲んだことがあった。

「おじいさんたら、春彦ちゃんは、まだ、高校生よ。

 飲ませちゃだめだからね。」

キクは、怒った顔で注意した。

「なに言ってるんだ、儂も春彦くらいの時はよく飲んだものさ。」

「だって時代が違うじゃないの。

 今は、健康に悪いって未成年は禁止されているのよ。」

キクの方が常識があると春彦は思った。

「なに言ってるんだ。

春繁だったって飲んでいたじゃないか。」

「え?お父さんも高校生で飲んでいたの?」

「やーね。

 あなたのお父さんは、飲んだって言ってもお祭りとかお正月とかみんなが集まるときに少しだけよ。

 一口飲むと、顔が真っ赤になって。」

「へえ、そうだったんだ。

 じゃあ、おじいちゃん、僕もいただきます。」

そういうと、春彦は春吉の持っていたお猪口を受け取ると、春吉とキクが呆気に取られているのを後目に、グイッと一気に飲み干した。

「ごほ、ごほ。」

酒の刺激で、つい春彦はむせてしまう。

「まあ、たいへん。

 春彦ちゃん、今、お水を持ってくるからね。」

ばたばたしているキクを後目に、春吉は楽しそうに笑いだした。

「おお、立派、立派。

 さすが、儂の孫じゃ。」

「なにが、さすが儂の孫よ。

 具合が悪くなったらどうするの。

 舞さんが、春彦ちゃんを家に来させなくするわよ。」

キクが怒った顔して言った。

「あ、大丈夫。

 母さんも良く飲ませようとしているから。」

「まあ。」

キクが驚いたように目を見開く。

「あっはっは、愉快じゃな。」

そのやり取りを聞いて、春吉は豪快に笑った。

その後も夕飯の食卓は、笑いの途切れない楽しい時間だった。

「こんなに、にぎやかな食事っていつぐらいかしらね。」

キクは楽しそうに言った。

「そりゃあ、そうじゃろう。

 いつもは、ばあさんと二人だからな。」

春吉は、昔ながらの職人で頑固な性格から、勤めている工芸所の若い職人を家に呼ぶことはなかった。

その代り、よく近くの居酒屋へは飲みにつれて行ってはしていた。

「そうね。

 話すことも、いつも同じ。

 おい、飯!

 おい、風呂!

 おい、寝る!

の3つくらいかしらね。

たまには、なにか違うこと言ってくださいな。」

キクは笑いながら言った。

「3つもあれば、十分だろう。」

春吉は、悪びれもせずに答えた。

「ま、そんなこと言って。

 そういえば、さっき春繁の部屋で音楽を聴いていた春彦ちゃん、後ろ姿といい、春繁によく似てきたわね。」

「え?

 そうですか?

 似てるんですか?」

春彦はまんざらではない顔をして答えた。

春彦の記憶は、大きくていつも朗らかな父の顔を覚えていたが、音楽を聴く姿など自分の知らなかった父の話を聞くのが楽しくて仕方なかった。

「そうよ。

 それで、あのオーディオやレコードって、あの子が高校時代にアルバイトして、そのお金を全部つぎ込んで買ったのよ。」

「そうだな。

 うちの工場でアルバイトし、何に使うのかと思ったら、あれだもんな。

 だから、中学、高校時代と女っ気なしだったな。」

「そうそう、本人は、女の子に興味ない、何て言ってわよね。

 それが何でしょ、大学2年の時に初めて女の人をうちに連れてきたのよ。」

「え?

 その女の人って?」

「そう、お前の母さんじゃ。」

「そうよ、春繁から紹介したい人がいるって、いきなり言われてね。」

キクは、そういうと春吉に目配せした。

「そうだよ。

 いきなりだったもんな。

 どんな女を連れて来るのかと、ばあさんとはらはらして待っていたら、あれだ。

 おしとやかな京美人を想像していたのになぁ。」

「なに言っているの。

 すぐに気に入ったって言って大変だったじゃないの。」

「へえ、そうなんだ。」

「そうなのよ。

 家に来てすぐに元気な挨拶をして。

 ともかく、明るくて、よくしゃべるし、よく笑うしね。」

「そうそう、それに良く飲んだな。」

「おじいさんが飲ませたんじゃない。

 春繁が横でいつもはらはらしていたわよ。」

「ぷっ、母さんらしいな。」

春彦は、吹き出しながら笑った。

「いや、飲ませたんじゃなく、舞さんが飲みたそうな顔していたから、勧めただけじゃよ。

 それに、儂の晩酌の相手が出来るのは、舞さんぐらいじゃ。」

「そうよね。

 うちには子供が春繁しかいなかったから、いきなり娘が出来たみたいで。

 お料理もよく一緒に作ったし。

 そうそう、春彦ちゃんのお母さんて、2階の部屋に籐の椅子があったでしょ。

 あの椅子大きいから、春繁とよく二人で座って、いろいろはしゃいでいたわね。

 下にいる私達にも、笑い声とか丸聞こえ。」

キクは、思い出し笑いをしていた。

「へえ、母さんと父さんは、そんなだったんだ。」

「そうよ。

 そして、春彦ちゃんが生まれて、遊びに来ると、輪をかけてにぎやかになったこと。」

「そうだな。

 あの時が一番、楽しかったな。

 お前の母さんは、すごく明るく、気立て好の優しいおなごじゃ。」

春吉は、遠くを思い出すように、独り言のようだった。

「おじいさん……。」

キクは、そんな春吉の話を聞いて、少ししんみりしていた。

「それがな……。

 あいつが、早くに逝きすぎなんだよな。」

「おじいさん!」

キクは、春彦のことを思い、春吉の名前をきつめに呼んだ。

春吉は、キクの声で、はっとしたようだった。

「おう、すまん、すまん。

 で、春彦、お前の母さんは変わりないか?」

家に来た時も確か同じように聞かれたなと春彦は思った。

「元気ですよ。

 今でも父さんの写真を見ながら楽しそうにお酒飲んでいますよ。」

春彦は嫌な顔せずに答えた。

「そうか、そうか。

 ……。」

春吉は、何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。

「さあ、儂は眠くなったから上で休んでるよ。

 春彦は、ゆっくりしていきなさい。」

「はい。」

「じゃあな。」

「おじいちゃん、おやすみなさい。」

そういうと、春吉はうれしそうな顔で部屋を出ていった。

「春彦ちゃん、ちょっと待っててね。

 おじいちゃんの寝る支度してくるから。

 なんでも好きなもの食べていてね。

 そうだ、冷蔵庫にアイスクリームもあるからね。」

「はい。」

そういうと、キクはいそいそと春吉の後を追って居間から出ていき、しばらくしてから居間に戻って来る。

「春彦ちゃん、お腹は?」

「あはは、もういっぱいです。

 ご馳走さまでした。」

あきらかに倍の人数分あったおかずもほとんどなくなっていた。

「すごいわね。

 これだけ食べてくれると、作った甲斐があるわ。」

キクはテーブルの上を見て、楽しそうに言った。

「おばあちゃん、片付け、手伝いますね。」

「え?

 いいわよ、いいわよ、ゆっくりしてなさい。」

キクは、春彦の申し出をやんわり断ったが、春彦が手伝い始めたので、一緒に片づけをすることにした。

「なんか、昔を思い出すわ。

 舞ちゃんも、よく片付け一緒にやってくれたのよ。

 おじいさんと結構お酒を飲んだ後でもね。

 結婚した後は、片付けしたら飲みなおすからって、つまみまで作って春繁と。」

「へえ、おばあちゃんは飲まないんだっけ。」

「え?

 うーん、少しくらいはね。

 片付け終わった後、舞ちゃんに勧められて、お話しながら少しくらい飲んだかしら。」

「そうなんだ。

 母さんは、人を巻き込むのが上手だからね。」

「まあ。」

キクは、春彦の話を聞いて、ころころと笑い出した。

「でも、舞ちゃんも女手一つで、よくこんないい子に育て上げたわね。

 本当は、もっと、いろいろと助けてあげられたらよかったのに……。」

「あはは、母さんの悪いところばかり見て育ったから、まともに育ったんですよ。」

「まあ、そんなこと言って。」

しんみりしそうなキクを励ますように春彦はおどけて見せた。

そして、夕飯の片づけが終わりそうな頃、キクは思い出したような顔をした。

「そうそう、春彦ちゃんは、楽器に興味ある?」

「え?

 何の?」

「いいえね、春繁が使っていたエレキベースとフォークギターがあるのよ。」

「あっ、昔、父さんがフォークギターを弾いていたのは見たことあるけど、エレキベースは知らなかったな。」

「そうね。

 春繫は、アルバイトしてオーディオとエレキベースを最初に買ったの。

 その後、舞ちゃんとお付き合いする様になって、舞ちゃんにね、ベースじゃ歌えないって怒られたのよ。

 それで、また、アルバイトしてフォークギターを買ったのよ。」

(なんて、わがままな母さんなんだろう。

  父さんの困った顔が目に浮かぶ。)

春彦は心の中で、父親に同情していた。

「でもね、舞ちゃんも一緒にアルバイトして二人で買ったのよ。

 知っているでしょ?

 舞さんが、歌がすごく上手なことを。

 春繁の伴奏で、それは、それは、良い声で。

 だから、春繁も夢中になって、曲のレパートリーを増やしていたの。

 今なら、カラオケがあるでしょ。

 あのころは、カラオケなんてなかったから。」

「へえ、そうだったんですか。」

でも意外だったな。

 あの母さんが、歌が上手かったなんて。」

「ま、そんなこと言って。

 英語の歌から、なんでも上手に歌っていたわよ。

 春繁も楽しくて仕方ないって顔して、隣で演奏していたわね。」

「へえ、そんなことやってたんですね。」

「そうよ。

 だから、興味があったら今度出しておいてあげるわ。

 確か、奥の物置に入っているはずだから。」

春彦は、俄然、興味がわいてきていた。

「ええ、是非、お願いします。」

そして、片付けも済み、春彦はキクに見送られて玄関で帰り支度をしていた。

「今度会えるのは、夏休みかしらね。」

キクは少ししんみりといった。

「そうですね。

 学校があるから。

 ベースとフォークギター楽しみにしています。」

「わかったわ、おじいさんと捜して出しておいてあげるからね。」

「はい。」

春彦は、キクとエレキベースとフォークギターを見に来ると約束をして、玄関を出る。

門を出たところで、春吉の寝室のある方を振り返ると、寝室のカーテンが少し揺れていた。

「じゃあ、またね。

 おじいちゃん。」

春彦は、春吉がこっそりと見送っているのを知っていて小さな声で窓に向かって呟いた。



帰りの電車の中で春彦は、また昔のように舞も春吉もキクもみんなで楽しく過ごせないかなと考えていた。

「まっ、そのうち、何とかなるだろう。」

そう自分に言い聞かせていた。

家に帰ると、舞は何事もなかったような顔をして春彦を迎え入れた。

しかし、少しすると我慢が出来なくなったように、春彦を手招きする。

「ねえ、どうだった?

 二人とも、元気だった?

 病気していなかった?

 やつれていなかった?

 ご飯、食べてた?」

矢継ぎ早に質問を浴びせられ、春彦は、一つ一つ、きちんと答えた。

一通りの質問の答えを聞き、春吉やキクが元気なことがわかった舞は、安心したような顔をした。

「そんなに心配なら、自分で様子を見てくればいいだろう。

 それに電話だってあるんだから。」

春彦は、舞の答えがわかっていたが、意地悪そうに言った。

「誰が。

 誰があんなくそ爺の顔なんか見るもんか。

 声だって聴きたくないんだから。」

「はいはい。」

舞は、春彦が思った通りの態度だった。

「そういえば、母さん、歌、上手なんだって?」

「え?」

いきなりのことで、舞は目を白黒させる。

「おばあちゃんが教えてくれたよ。

 父さんのギターで、母さん良く歌っていたって。

 すごく上手で、父さんも楽しそうに伴奏していたって。」

「まあ、お義母さんたら、余計なことを春彦に吹き込んで。

 そんなの、昔よ。

 昔のこと。

 今じゃ、歌なんて、声も出ないわよ。」

そう言いながら、昔の楽しかったことを思いだしたのか、舞は明らかにご機嫌になっていた。

「さ、明日は学校でしょ。

 早くお風呂に入って、寝なさいね。」

「はいはい。

 そうそう、おばあちゃんが今度の夏休みまでに、ベースとフォークギターを捜して、出しておくから遊びに来てねっていってたよ。」

「へえ、まだ、あったんだ。

 あんた、弾けるの?」

「弾けるわけ訳ないだろう。」

「そうよね。

 でも、弾き始めるときっと面白いわよ。

 今度、入門書でも買ってあげようか。」

「そうだね。」

そう言いながら、春彦は着替えを取りに部屋に戻った。

その後ろで、キッチンで片付けしながら鼻歌歌って舞の声が聞こえていた。

「思い出した。

 昔、母さんは、いつも台所で料理しながら歌っていたっけ。

 悠美ちゃんも良く一緒に歌っていたな。」

懐かしい思い出の1ページを読んだように、春彦もご機嫌になっていた。


春彦を常に監視するような黒い影の存在を、春彦は知らずに青春を謳歌します。

そして、春彦の前には誘われるまま軽音部に入り、父の春繁が好きだったエレキベースに触れ、春繁の後ろ姿を追っていきます。


文中出てきた舞と春吉の確執については、『はるかな物語外伝2「一週間」』に記述していますので、興味があればお読みください。

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