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はるかな物語3「青春の光と影」  作者: 東久保 亜鈴
5/16

(5)

その後、春彦は順調に回復し、月曜日の朝、登校するために家を出る。

通学に使う駅では、改札口の近くに佳奈がうつむき加減に立っていた。

いつもなら、春彦を捜し、見つけると手を振って嬉しそうに近寄ってくるのだが、今日は、その場にうつむきながら、まるで春彦見ないように立ち尽くしていた。

春彦は、怪訝な顔をしながら、佳奈のところまで歩いて行き、声を掛ける。

「おはよう。

 どうしたの?

 元気ないじゃん。」

春彦が話しかけると、佳奈は、一瞬びっくりした様子だったが、俯いたまま口を開く。

「おはよう。

 具合、良くなった?」

「ああ、佳奈のおかげで、すっかり良くなったよ。」

春彦は元気な姿を見せるように胸を張って明るく答えた。

「そう……。」

しかし、佳奈は、そんな春彦を見ていないように、俯いたままだった。

「あれ?

 俺のこと待っててくれてたんじゃないの?」

「ううん。

 待っていた。」

「でも、なんか、暗いじゃん。」

「そう、見える?

 そんなことないよ。」

そう言いながら、佳奈は、真っ赤になった顔ではにかみ笑いをして見せた。

佳奈は、春彦の看病をした日から、今まで春彦に直接会っておらず、学校のノートは舞に渡すか、ポストに入れていた。

舞も、春彦の体調を気にして、会わずにノートだけ渡してくれているのだろうと思っていた。

が、実際、佳奈は春彦の看病をした時のことを思いだし、恥かしくて春彦の顔をまともに見ることが出来なかったからだった。

そんなことを露とも知らずに、春彦は佳奈の顔を覗き込む。

「なんか、顔、赤いぞ。

 もしかして、俺の風邪が移ったか?」

佳奈は、急に春彦の顔が近くに来たので、少しのけぞりながら急いで首を横に振った。

「ふーん。」

春彦は、考え込むようにその場に立ち尽くした。

そして、しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

「ねえ、春……。」

沈黙を破ったのは佳奈の方だった。

「ん?

 なに?」

「あのね。

 具合が悪くなった日のこと、覚えている?」

「ああ、佳奈に途中で拾われて、何とか家にたどり着いたことだろ。」

「うん。

 それから?」

「えっ?

 ああ、アイスノン用意してくれて、そうそう、佳奈が自分のタオルで巻いて、枕にしてくれたんだよな。

 その頃の、頭がぼーっとして、あんまり記憶がないんだよな。」

「え?

 どこから記憶がないの?」

佳奈は、急に元気な声を出した。

「いやー、たぶん、そこいら辺からかな。

 母さんが帰って来るまで、佳奈が看病してくれたんだよな。

 あっ!

 そうそう。」

春彦が、急に何かを思い出したような言い方をしたので、佳奈は、飛び上がりそうになった。

春彦は、少し照れくさそうにしながら、小声で言った。

「母さんから聞いたんだけど、俺、佳奈に寄りかかったんだって……。

 その…、お前のむ……。」

最後の方は、口ごもって、佳奈にはよく聞こえなかった。

「なあに?」

佳奈は、すこし安心した様に、春彦に問いかけた。

春彦は、一瞬、間を置いて、いきなり頭を下げた。

「ごめん。

 佳奈の胸に寄りかかったんだって?

 怒っている?」

春彦はすまなそうな顔で、佳奈を見あげていった。

佳奈は、大事なところを春彦が覚えていないことがわかり、半分、安堵し、半分、残念に思ったが、安堵感の方が強く、気が抜けてきた。

それと同時に、どう接しようと悩みまくっていた重圧感から解放され、気持が軽くなっていった。

「そうよ、ビックリしたんだから。

 この落とし前、いったい、どうしてくれるのかしら。」

佳奈は、笑いながら言った。

もう、いつもの佳奈に戻っていた。

「えー、じゃあ、鯛焼き、御馳走するから、許して。」

春彦は佳奈の前で手を合わせ、拝みまくった。

「まさか、鯛焼き、一匹?」

「いや、そんなことは……。」

「じゃあ、宇治金時抹茶餡子入りスーパーゴージャスな鯛焼きもいい?」

「うん、うん。」

春彦は、ひたすら頷いた。

「あとね……。

 クリーム餡子入りとね、えっと…。」

佳奈は、指を折って数えながら言っていたが、急に思い立ったように春彦の顔に目線を移した。

「あっ、春。

 学校、遅れちゃうよ。

 急がなくっちゃ。」

そう言うと、改札口に向かって小走りに進み始めた。

春彦は、佳奈の背中に向かって、聞こえないくらいの小声で言った。

「佳奈、薬、ありがとな。」

聞えるはずがない佳奈が、急に振り向いたので、春彦は、一瞬、びくっとした。

「ほら、春。

 何、ぼーっとしているの?

 電車来ちゃうよ。

 早く、早くぅ。」

「ああ、わかった。」

春彦は、ほっとしながら、佳奈の後を追って改札口に入っていった。


その後、春彦は続いていた微熱は治まったが、原因不明の頭痛には相変らず悩まされ、口数はめっきりと減っていった。

そして6月も半ば過ぎた頃、梅雨の晴れ間のある日、いつものように、公園で鯛焼きを食べながら、佳奈は怪訝そうに春彦の顔を見ながら尋ねる。

「ねえ、春。

 最近、暗いよ。」

「そうか?」

「うん。

 どこか悪いの?

 まだ、微熱とか続いているの?」

「いや、佳奈が看病してくれたから、あれから微熱は治まってるんだよ。」

「じゃあ、何か心配事でもあるの?」

「いや、大丈夫だよ。」

「何かあったら、私に話してね。」

佳奈は心底心配していた。

「大丈夫だって。

梅雨時で天気が悪いから、くさくさしてるだけだよ。」

「なら、いいけど…。」

「大丈夫だって。

 やっぱり、青空とお日様がないと、元気が出ないよ。」

「まあ、まるで光合成しているような言い方して。」

「光合成かぁ……。

 そうかもしれない。」

「何言ってるのよ。

 人間が光合成するわけないでしょ。

 葉緑体を持っている訳でもないのに。」

「おっ!

 佳奈にしちゃ、珍しいな。

 生物、得意だっけ?」

「もう、この前、生物の授業で習ったでしょ。」

「そっか。」

「そっかじゃない!」

佳奈は、笑いながら言った。

「でも、春じゃないけど、私も青空が好きだな。」

「だよな。」

春彦は、佳奈に頷いてみせた。

「お日様に暖められたお布団、ほかほかして気持ちいいし。

 洗濯ものも、気持ちいいもんね。」

「おっ、まるで主婦みたいじゃん。

 佳奈、洗濯や布団干しなんて、やってるんだ。」

「お母さんが!」

「だろうな。」

「だろうなって、なに?!」

佳奈はむっとした顔で、春彦の頭をグーで叩くふりをした。

「でも、私だって、お手伝いしているんだから……。」

小声で抗議する佳奈の頭を、春彦はそっと撫でた。

「ねえ、今度、晴れたら、どこか遊びに行こう。」

佳奈は明るい声で言った。

春彦はそんな佳奈に笑顔でうなずいて見せた。


「おい、立花。」

「ん?」

ある日、春彦は教室でいきなり福山俊介に声を掛けられた。

俊介は、締まった体つきで、短めの髪に、結構、美形の顔、しかも明るい性格で、笑顔が絶えない好男子で、女生徒からも人気があった。

春彦とは中学からの友人の一人、正確に言うと、小学校低学年からで、春彦が引っ越すまでの学校でのいい遊び相手だった。

「お前、部活に入っていないんだろう。

 どうだ?

 うちの道場で、俺の相手をしてくれないか。」

俊介の家は警備関係の会社で結構大きな規模の会社だった。

その家業の関係で、俊介の会社では柔道や空手を取り入れたような総合格闘術の道場を開き、社員の訓練に当てていた。

当然、俊介も小さい頃から、その道場で腕を磨いていた口だった。

「何言っているんだよ。

 俺、武道なんかやったことないよ。」

「いやいや、この前の柔道の授業で乱取りしていた時、結構、いい筋していたじゃん。

 受け身とかもきちんとできているし、基本が出来ているって感じだったぞ。」

春彦の学校では姿勢を正し、礼節を重んじるという教育方針から、高校1年の授業で、男子については柔道の授業が、女子は華道の授業が柔道の代わりにあった。

「ああ、あれは、小さい頃、病弱だった俺の身体を鍛えるためっていって、近所のちっさな道場に通っていたことがあって、そこで教わったんだよ。」

「それって、柔道の道場か?」

「ああ、そんなもんかな。

 ちょっと、ファンキーな先生で、柔道と空手を組み合わせたなんとか拳って言ってたかな。

 こっちは、運動代わりに身体が鍛えられたらというだけで、真剣に武闘家を目指す気はさらさらなかったし。

 何といっても、小学校低学年の時の話しだよ。」

「じゃあ、尚更、うちの道場で、俺の相手してくれないか?

 腕も磨けて、ストレス解消に持って来いだぜ」

「おいおい、お前、段とか持っていなかったか?」

「いや、そんなのないよ。

 それに段持ちになるといろいろと面倒だからさ。」

「じゃあ、実力は有段者か…。」

やれやれと春彦は思った。

「なあ、いいだろう。

 週に2回くらい、俺の相手してくれ、なっ」

俊介は手を合わせ、春彦に頼み込む。

「でも、俺じゃなくても、強い奴、他にたくさんいるだろう。」

「いや、中学の時から、お前の物腰が気になってさ。

 鍛えれば、すぐ、俺くらいになるんじゃないかなってさ。

 それに、中学からの腐れ縁だろ。

 もっと言えば、小学校で一緒に立たされた仲じゃないか。」

春彦は少し考えたが、最近、原因不明の頭痛の影響かイライラすることが多くなっていたので、俊介の言う通りストレス発散代わりにいいかと心が動いた。

「じゃあ、いいよ。

 でも、地獄の特訓とかは勘弁してくれよ。

 虎とか蛇の穴なんていやだからな。」

「OK、じゃあ決まりだ。

 火曜日と木曜日でどうだ?」

「ああ、いいよ。

 ジャージでいいのか?」

「馬鹿言うな。

 道着と防具は貸してやるよ。」

「わかった。」

「じゃあ、最初は今度の木曜日な。

 放課後迎えにくるから。」

「わかったよ。」

それだけ言うと俊介は鼻歌交じりに教室から出ていった。

春彦は、すぐに興味を失ったように、あくびをしながら、教室から外の風景を眺めていた。

「春!」

少しぼんやりとしていたところに教室に入って来た佳奈がすかさず、春彦に声をかけてきた。

「ん?」

春彦は佳奈の顔を見ながら気のないような返事をする。

「なに、惚けているの。

 しゃきっとしなさいよ。」

佳奈は笑いながら春彦の背中を叩いた。

「はいはい、で、なに?」

見ると、佳奈と一緒に慶子が立っていた。

慶子は、肩までの髪を後ろで束ね、前髪は横に流していた。

どちらかというと佳奈よりも色白で、大人しく、かよわい感じの娘で、結構、男子受けがいい娘で、事実、こっそりファンクラブが出来ているほどだった。

「春、まだ、部活入っていないんでしょ。

 社会部に入らない?」

「社会部?」

「うん、慶子が入っているんだけど、部員が少なくて、今の3年生が抜けちゃうと、慶子のほか1年生が三人しかいないんだって。

 それで、部として存続させるには、部員が5人以上いないといけないんだって。

 ということで、お願い、慶子を助けると思って。」

「…」

「立花君、社会部っていっても、日本の歴史研究が目的で、古い神社や遺跡を見学し、学内の機関紙で紹介するのが主な活動なの。

 もし、神社やお寺とか、歴史に少しでも興味あったら、一緒にやってもらえない?」

慶子は興奮してか、ほんのり顔を赤らめ、春彦に入部する様にと頼んでいた。

ほんのり頬を朱色に染めて、涙ぐんだようなうるんだ瞳の慶子に頼まれると、大抵の男子は二つ返事で直ぐに引き受けてしまうような、高校生としては色香がある方だった。

しかし、春彦は一向にその気がないのを見て、佳奈も口を挟んだ。

「どう、春。

 ここは、慶子を助けると思って、お願い。」

「それに、部室に閉じこもっているだけじゃなく、月に1度は、校外に見学に行くの。

 気分転換になっていいわよ。」

「私や木乃美も準部員で遊びに行ってるのよ。

そうそう、あと、部活に入っていると内申書にいいって。」

佳奈も必死になって、あの手この手で春彦の気を引こうとした。

特に佳奈の場合は、社会部によく入りびたっているので、必然的に春彦と一緒の時間が増えるという下心が大きかった。

「ふう、今日はよく誘われる日だな。」

二人からしつこく勧誘を受けていた春彦は、ため息交じりにぼそっと口に出した

「え?」

佳奈は、その一言に耳ざとく反応した。

「誘われるって、何か他の部に入ったの?」

「いや、俊介の道場で相手することになったんだよ。」

「えー、あの格闘家の福山君?

 春、怪我しちゃうんじゃない。」

佳奈は、部活の勧誘を忘れ、本気で心配していた。

「社会部は、毎日じゃなくていいの?」

不意に春彦に尋ねられ、慶子は飛び上がって驚いた。

「うん、毎日じゃないの。

 正式な活動日は、月水金の週3日。

 で、野外活動が月1回日曜日なの。」

「そうか。

 まるで俊介と示し合わせたみたいだな。

 俊介は火木だから、ちょうど大丈夫か。」

「え?

 じゃあ…?」

慶子は期待に目を輝かした。

「ああ、いいよ。

 歴史跡や寺社仏閣って、こう見えても、結構興味があるから。」

「やったー。

 ありがとう。」

慶子は飛び上がって、春彦の手を握って、礼を言った。

「慶子ったら、すっかり舞い上がって。」

佳奈は、そんな慶子を見て笑いながら言った。

「え?」

慶子は、握っていた春彦の手を離し、真っ赤な顔でうつむいてしまった。

実は、慶子もこっそりと春彦に好意を寄せていたが、佳奈との友情を優先させていた。

なので、一緒の時間が出来ることに、喜びが倍増していた。

「春、ありがとうね。」

「ああ、いいって。」

佳奈は慶子の飛び上がるほどの喜ぶ姿を見て、春彦に感謝していた。

慶子は、まだ、興奮冷めやらぬという顔をしながら、春彦に予定を聞く。

「じゃあ、立花君、明日からでいいの?

 いいなら、放課後迎えに来るから。」

「ああ、いいよ。」

「じゃあ、明日の放課後、お願いします。」

そう言いながら、佳奈と慶子は嬉しそうに教室をあとにした。

(やれやれ、いきなり1週間の予定が埋まっちゃったな。)

春彦は、そう思いながら欠伸をして、また、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

その日、家に帰り、春彦は部活に入ったことと、俊介の道場に誘われ、運動がてら通うことを舞に話した。

「じゃあ、これから平日は、帰りが夕方になるのね。」

「そうだね、6時過ぎるかな。」

「まあ、それはいいけど。

 春彦、ちゃんと約束、覚えてる?」

「え?

 なんだっけ。」

「なに惚けてるの。

 本気で人を殴ったり、蹴ったりしないっていう約束。」

「ああ、そうだったね。」

「まさか、あの道場の先生があんな奴だとは思わなかったから…。」

春彦が小学校低学年の時、病弱で、しょっちゅう熱を出していたのを見かね、春彦の父親の春繁と舞が相談して、春彦を近所の道場とスイミングスクールに通わせていた。

その道場は、「武道で健全な身体と精神を」をスローガンに子供たちをあつめ、柔道と空手を合わせたような独特の武道を教えていた。

道場は、師範兼館長の男が一人で切り盛りする小さなもので、最初の頃は、親切丁寧で、また、怪我をさせないように細かなところまで配慮されていて、父兄に人気の道場だったのだが。


それから、春彦の月、水、金曜日は社会部に顔を出し、火、木曜日は俊介の道場で汗を流す日々が始まった。

佳奈は、社会部の活動日には、春彦と一緒に帰るため、帰りに待ち合わせをしていた。

「そうそう、春。

 福山君の道場での稽古の相手はどうなの?

 怪我したりしない?」

部活や道場に通い始め、しばらくした頃、帰り道で佳奈は春彦に聞いた。

佳奈は、明らかに春彦が怪我していないか心配していた。

「ああ、大丈夫だよ。

 漫画やドラマのような、そんな荒っぽいものじゃないから。」

「なら、いいけど。

 怪我だけはしないでね。」

「ああ。

 それに、俊介は、弱いものいじめをするような奴じゃないから。

 俺って、弱いだろ。」

そう言いながら、春彦はとぼけた顔をしていた。

佳奈は、『呆れた』という顔をした。

「でも、急に忙しくなったよね。」

「半分は、佳奈のおかげだけど。」

「褒め言葉として聞いておこう。」

佳奈は、どうだと言わんばかりに胸を張って言った。

「でも、随分と気分も晴れたんじゃない。

 道場は、わからないけど、身体使って汗かいて。

 社会部は、美人の慶子で、目の保養になっているんじゃないの?」

「目の保養って、随分、爺臭いというか、スケベな言い方だな。」

「え?

 そうなの?」

佳奈は、初めて意味が分かったような顔をして、顔を赤らめた。

「なに?

 どういう意味でつかわれているのかわからなかったのか?

 ニュアンスでわかれよ。」

春彦は、声を出して笑っていた。

「もう。」

佳奈は、そう言いながら、ずいぶんと明るくなった春彦を嬉しく思っていた。


道場で俊介の慶子の相手をし始め、一月くらいたった夏休みに入ったころ。

夏休みに入っても暇だろうと、半ば強引に俊介に誘われ、いつも通りに俊介の道場に通い、相手をしていた。

最初のうちは、俊介も春彦を初心者扱いし、気を付けていたが、だんだんと春彦の力が素人ではなく武術の基礎ができている、また、それ以上に上級者のような力を感じ、だんだんと本気になっていた。

同じように道場で稽古をしている社員たちから見ても、春彦の力が俊介と同等のレベルではないかと見間違えるほどだった。

だが実際は、春彦は俊介に気取られないように大分手加減をしていたのだった。

「なあ、立花。

 お前、絶対に強いよ。

 しかも、普通の強さじゃない気がする。」

「え?

 なんだ、普通じゃないって。」

「うーん、なんて言うのかな。

 動きに無駄がありそうで、なさそうで。

 何か一手隠しているような。

 例えば、投げ技で、俺が投げられたとして、きれいに投げられるんだけど、本当は、それだけじゃない何かが付いてくるような、とどめの一手があるような気がしてならないんだ。」

「気のせいだろう。

 お前の相手をするのにやっと、というか、手加減してくれているお前の相手がやっとなんだから。」

「え?

 いや、俺、もう手加減してないんだけど。」

俊介は、少しすまなそうな顔をして、手を左右に振って否定した。

「嘘だろう。

 お前が、手加減しなかったら、俺、病院送りで、佳奈に大目玉喰らうことになるんだぜ。」

春彦は、そう言って渋い顔をした。

「佳奈って、菅井佳奈か。

 そういや、お前たち、昔から仲がいいな。

 よく一緒に帰っているんだろ?

 付き合っているんだってな。」

「付き合っている?

 違う、違う。

 まあ、幼馴染ってとこかな。」

「ふーん。

 でも、菅井は学校で俺の顔見ると、嫌な顔するんだぜ。

 なんか、悪いことしたかな。」

「いや、してないし、気のせいだろう。」

春彦は半分とぼけていたが、佳奈は、春彦を道場に誘った俊介のことを良く思っていなかったことは確かだった。

特に、春彦に怪我をさせるのではないかという思いから、無意識に敵対視しているようで、春彦は佳奈の話しの節々からそれを感じ取っていた。

「そういや、今度、道場に稽古をやっている姿を見に来たいっていってたっけ。」

「菅井が、か?」

「ああ」

「まあ、いいけど。

 できれば、京子とか一緒に来ないかな。」

「ふーん。」

春彦は、ニヤニヤしながら鼻で笑った。

俊介は、それを見て気色ばんだ。

「そんなんじゃねえよ。

 ただ言ってみただけだ。

 それより、稽古稽古。

 ほら。」

「はいはい、京子、京子(稽古、稽古)ね。」

「このやろう。」

からかう春彦に俊介は腕を春彦の頭に回し、締め上げる。

「降参、降参。」

春彦は、笑いながら締め上げている俊介の腕にタップし、降参の合図をした。

俊介は、春彦から腕を話したが、照れ臭そうな顔をしていた。

「じゃあ、まじめに稽古を再開するぞ。」

「はいはい。」

春彦は俊介の意外な一面を見て楽しんでいた。

(意外とお似合いかもな)

春彦はこっそりと思っていた。

「痛。」

その時、何かがピシっと弾けたように頭痛が春彦を襲った。

「ん?

 立花、どうした?」

「いや、なんでもない。」

春彦は、痛みは瞬間だったので、特に気にしないことにした。


2学期に入り、しばらくしたある日、春彦は佳奈と京子を連れて、俊介の道場に来ていた。

「おーい、俊介。

 今日は、見学の女子を二人連れてきたぞ。」

「え?

 ああ、菅井に田口か。

 ようこそ。

 むさっ苦しいところだが、楽にしていてくれ。」

俊介はすこし素っ気ない言い方をした。

それを見て、春彦は笑いをこらえていた。

2,3日前、春彦は佳奈と学校帰りに道場見学の話をしていた。

「俊介の道場、見てみたいって言っていたろ?」

「ううん、道場じゃなくて、春彦と福山君の稽古を見たいの。」

「稽古なんて見ても、つまらないんじゃないか?」

春彦がそう聞くと、佳奈はかぶりを振って答えた。

「そうじゃなくて、春彦が危ないことをしているんじゃないかって、心配なの。

 投げたり、ぶったり、蹴ったりするんでしょ?」

佳奈は心配気な顔で春彦を覗き込んだ。

「ああ、基本的には何でもありだからな。

 準備運動から、投げの型、当ての型、蹴りの型を練習してから組手と一連の稽古だよ。

 でも、『ぶったり』は、何か子供の喧嘩みたいだな。」

春彦は笑って答えたが、佳奈は聞き流すように続けた。

「組手って、本気で殴ったり蹴ったりするんでしょ。

 怪我しないの?

 ドロップキックとか、ノーザンライトスープレックスとか。」

佳奈は、父親が好んで見ているプロレスとごちゃ混ぜになっていた。

「ドロップキック?

 ノーザンライトスープレックス?

 佳奈、それってプロレス。」

「え?

 じゃあ、周りにたくさんの観客席があったりしないの?

 あとロープが張ってある四角いところで、パンツ1枚で組み合ったりとか……。」

佳奈は、不思議そうな顔をして見せた。

「違うって。

 でも、俺、ウエスタンラリアットとか好きだけどね。

 そうじゃなくて、空手や柔道。

 うーん、カンフーとかにも近いかなぁ。

 佳奈もブルース・リーの映画、見たことあるだろ?」

「ブルース・リー?

 ジャッキーチェンなら知ってるわ。

 見たことある。

 コミカルな動きで、いつも笑っちゃうの。」

「うーん、ちょっと違うかなぁ。

 じゃあさ、テレビでやっているK1は?」

「あの本気で蹴ったり、ぶったり、投げ飛ばしたりしてるやつ?

 お父さんがたまに見ているけど、すぐにお母さんとチャンネル変えちゃうの。」

「うーん。」

春彦は、引き合いに出すものがなく、甚だ困りまくっていた。

「あっ、あれは?

 この前ヒットした印度映画の『踊るボロコップ』!」

「うん、あれはこの前テレビでやってたから見たわ。

 最初は介護用に作られたロボットが、おじいちゃんの入れ歯を間違えて飲み込んでから、人間を征服しようと、悪の魔王に変身するやつでしょ。

 最初の入れ歯を飲み込むところまで、面白くて見ていたけど、その後、暴力シーンが多くて嫌だったわ。」

「じゃあさ、そのボロコップが町の道場に行って武術を学ぶところ見ただろう?」

「うん、途中から、相手の人間が殴られて口から血を出している…。

 え!

 そんな、危ないことしてるの?」

「いやいや、一応、防具で頭にかぶるもの、胴体に巻くもの、拳にはめるグローブや、足に巻く防具とかを装備するから、怪我はないよ。」

「そうなの。

 でも痛いんでしょ?」

「まあね、やはり衝撃はあるし、関節技は痛いよ。」

「ほら、危ないんじゃない。

 蹴られると何十メートルとか飛んで行っちゃうんでしょ?

 飛んでいった先の壁を突き破って、人の形の穴を開けちゃうんでしょ。

 それなのに何で福山君の稽古に付き合うの?」

佳奈は泣きそうな顔をしていた。

「あははは、蹴り飛ばされて、何十メートルも飛ぶか!

 あれは、ワイヤーアクションっていって、映画ではワイヤーで釣ってあって、あたかも飛ばされるように見せているだけだよ。

 それに、人型の穴?

 ギャグの世界だけだよ、そんなの。」

春彦は、真顔で心配している佳奈を見て、思わず吹き出していた。

「そうなの?」

佳奈は、まだ疑心案着だった。

「そうだよ。

まあ、痛いけど、怪我はしないし、ストレス発散かな。」

「ストレス発散なら、水泳でいいじゃない。

 水泳部に入るとか、近くにスイミングクラブもあるんじゃない。

 その方が、よっぽど健康的よ。」

珍しく佳奈は食い下がって言った。

まだ、佳奈の中では映画のシーンが本当の様に思えてならなかったようだった。

(まあ、最後は、ばらばらに破壊されちゃう残酷な場面だったからな。)

春彦は、引き合いに出した映画の最後にシーンを思い出し、佳奈が言っていることも一理あるかと思った。

「まあ、じゃあさ、一度、どれだけ安全か見て見ればいいよ。

 ちょうど手芸部は、今週休みなんだろ?」

「うん、先輩が今週は用事が出来たって。

 でも、見に行って平気なの?

 それに、男の人ばっかりじゃないの?」

「確かに、男の世界だな。

 いい男、いっぱいいるよ。」

「なんか、変な言い方。」

佳奈は、ぷいっと怒る仕草をした。

「でも、いつもは俊介と二人か、あと居ても一人二人かな。

 集団で稽古をするのは、時間帯が違うみたいなんだ。

 俺が相手するのは、予習復習の復習の授業の様なもんだよ。」

「ふーん、そうなんだ。」

「まあ、いいじゃん。

 一人で来れないのなら、田口なんか誘ったらどう?

 田口って、確か弓道のほかに、合気道もやっているって、佳奈言ってたじゃないか。

 田口なら、そういう武道とかに興味あるんじゃない?」

「え?

 京子?

 何で京子なの?」

話しが変わって、いきなり京子の話が出て、佳奈は怪訝そうに言った。

確かに京子は合気道もやっていて、すらっとした長身で凛とした感じで、男子に人気があった。

「いや、俊介がさ。

 どうせなら、是非、田口にも見に来て欲しいそうだよ。」

「え?

 それって、まさか…。」

佳奈は、今度は困惑した顔になっていた。

そういう話は勘が鋭い佳奈だった。

「田口って、好きな男とかいるのかな?」

春彦は、ストレートに尋ねた。

「え?

 うーん、聞いたことないなぁ。

 みんな、自分でやりたいことがある子たちばっかりだから、恋愛話はほとんど聞いたことがないわ。」

「そうなんだ。」

「でも、前に好きな人がいるって聞いた気がする……。」

佳奈は、少し考え込みながら言った。

「じゃあ、俊介の片思いってやつだな。」

「うーん、そうね。

 考えてみたら、私一人だと何か恥ずかしいから、京子に付き合ってくれないか、話してみるわ。」

「ああ、そうして。」

「ねえ、逆に、福山君ってどういう人?」

佳奈としては、京子に好意を寄せている俊介のことを知っておかないと、もし、乱暴な人物だったら絶対に連れて行かないと思っていた。

「俊介?

 ああ、あいつ、ああ見えても礼儀正しく、正義感が強く、ナイスガイだよ。

 硬派で怖そうに見えるかもしれないけど、中身は優しいし。

 ちょっとぶっきらぼうなところはあるけど。」

「ふーん、そうなんだ。」

(じゃあ、京子を連れて行っても大丈夫か。

 春が、いい人って言っているから)

佳奈は、春彦の言うことを信じ、納得した。

それから、話しがトントンと進み、佳奈と京子の二人が見学に来ることになった。

但し、あくまでも、春彦が心配で、でも、佳奈一人では行きにくいので京子に付き合ってもらうという筋書きで、俊介が京子に好意を抱いていることはおくびにも出していなかった。

「ほら、立花。

 稽古はじめるから、早く着替えて来いよ。」

ニヤニヤしている春彦を見て、俊介は意識して大きな声で言った。

「はい、はい。」

春彦は、首をすくめながら着替えに行った。

その間、佳奈と京子は道場の中を見学していた。

「あっ、そうそう菅井。」

俊介はそう言うと、佳奈に手招きをした。

佳奈と俊介は同じ小学校、中学校だったので顔見知りで、多少話したことがあったので、俊介は平気で佳奈に話しかけた。

「なぁに?」

佳奈は、京子を残して俊介の傍に近寄ってきた。

「あのさ、なにか、立花から聞いている?」

俊介は小さな声で、少し、顔を赤らめて尋ねた。

それを見て、佳奈は、春彦が話した俊介の人物観に間違いはなさそうだと思った。

「え?

 ううん。

 ただ、私が心配しているから見に来てもいいって。」

「そうか。

 田口は?」

「私が一人だと気まずいだろうからって、付き添いで来てもらったのよ。

 なんで?」

「いっ、いや、別に…。」

俊介は、半分安心し、半分気落ちしたような複雑な顔をしていた。

その顔を見て、佳奈は思わず吹き出しそうになり、一生懸命こらえていた。

「菅井は、目的があるからいいけど、田口は退屈しないかな。」

俊介は、思い切ったように切り出した。

「うーん、わからないわ。

 ねえ、京子。」

佳奈は、京子の名前を呼んで手招きした。

「なあに?」

京子はそう言いながら近づいてきた。

俊介は思いがけない状況に、緊張して、顔がこわばっていた。

「福山君が、道場、どうかって?」

「え?

 どうかって?」

「い、いや、何か聞きたいこととかないか。」

「私も弓道部に入っているし、合気道も習っているから、道場っていいよね。

 なにか、こう、気が引き締まるっていうかな。」

京子は、にこやかに答えた。

「そうなんだ、田口は弓道部だけじゃなく、合気道もやっているんだ。」

「え?

 福山君、知らなかったの?」

佳奈の思わぬ突っ込みに、俊介は言葉を失ってしまった。

「お待たせ、準備できたよ」

そこに、道着に着替え防具をまとった春彦が戻ってきた。

「おう、じゃあ、俺も防具を付けるから、ちょっと待て。」

俊介は、ここぞとばかりに話題をそらした。

「わあ、すごいね。」

佳奈は、頭の先から足まで防具を付けた春彦の姿を見て感心していた。

「へえ、ヘッドギアに顎とかも防御してるんだ」

京子が横から春彦を見て感心した様にいった。

そして着こんでいる防具の上からお腹の辺りを軽く叩いてみた。

「これなら、多少、直接パンチやキックが体に当たっても怪我はしないわね。」

「そうなんだ。」

「それに、拳や足にもプロテクターつけているから、パンチやキックの威力も押さえているのね。」

佳奈は、京子の解説に聞き入っていた。

「へえ、田口って結構詳しいんだな。」

春彦が感心する様に言うと、京子は照れたようにハニカミ笑いをして見せた。

「うん、合気道とかやっていると、自然と興味がわいて。

 こんな女の子じゃ、嫌われるかな。」

京子はどちらかというと運動選手の様に引き締まった身体で、身長は佳奈よりも高かった。

その京子が、加奈より小さくなるほど、もじもじしていた。

「そんなことないよ。

 すらっとして、かっこいいし、その内、モデルも出来るんじゃないか?」

「そうかしら。」

京子は弓道をやっているせいか、姿勢が良く、凛として見えた。

「ああ、俺は、そういうの結構好きだな。」

「えっ?」

京子が顔を赤らめると、すかさず横から佳奈が口出しした。

「こら、春。

 京子を口説かないの。」

「あっ、いや、そんなつもりじゃ。」

春彦がそういうつもりで言ったわけではないのを佳奈はよくわかっていたが、何となく面白くなかった。

「そうよ、佳奈。

 わっ、私にも、選ぶ権利があるんだから。」

京子も、慌てて言い訳の様に言った。

「わかってるわよ。

 冗談よ、冗談。

 ね、春!。」

「ああ。

 ところでこれだけ防具を身に着けているから、安全だってわかったろ。」

「そっ、そうよね。

 その道着の下も、プロテクターみたいのしてるんでしょ。

 胸やお腹も大丈夫なように。」

京子も、先程叩いて確認したのに同じことを言って、ここぞとばかりに話をそらした。

「じゃあ、春彦が言っていたみたいに怪我はしない?」

「そうね、あとは本人たちが無茶をしなければね」

京子は佳奈を安心させるように、優しく言った。

「おーい、立花、始めるぞ。」

「うぃっす。」

そう言うと春彦は俊介の待つ道場の真ん中に歩いて行った。

それから、準備運動、いろいろな型の基礎練習と続いて言った。

「かっこいい…。」

佳奈は、汗を流して稽古をする春彦に見惚れてしまっていた。

「こんな真剣な顔して、あんなに汗かいて。

なんか、いつもの春じゃないみたい。」

佳奈は思わず口を滑らせたことも忘れ食い入る様に春彦を見つめていた。

京子は、その横で佳奈を見ながら笑っていた。

春彦は、いつもゆったりした服装ばかりで、制服も大きめのだぶつき気味なので、外目はわからないが、逆三角形の締まった体つきだった。

佳奈もわかっていたが、実際に身体にぴったりした道着に、プロテクターがまた、春彦のボディラインを強調する様に見え、思わずうっとりしていた。

京子も、いつしか、春彦に見惚れていた。

そして、組手が始まり、二人の真剣に戦っている姿を、佳奈はぎゅっと拳を握って見つめていた。

佳奈は、俊介のパンチやキックが春彦に当たるたびに、目をそむけたが、春彦が何ともないように続けているのを見て、ほっとしていた。

組手も終盤に差し掛かっていった。

「なんか、今日は、いつもより力が入っていないか?」

俊介の投げで倒された春彦が起き上がり、身支度を整えながら俊介に問いかけた。

「え?

 いや、そんなことはない。」

息を整えながら俊介は答えたが、いつもより張り切っているのは春彦に見え見えだった。

(まったく…)

心の中で呟いた時、ピシッと何かが頭で弾け、痛みが春彦を襲った。

そして聞きなれない低い声で「ダ……、コ……シタ…」と何かが確かに聞こえた気がした。

「痛っ」

「ん?

 立花、どうした。」

眉を寄せている春彦を見て、俊介は気になり声を掛けた。

「いや、なんでもない。」

「じゃあ、ラスト1本にするか。」

「……」

俊介の言葉に、春彦はいつしか無言になっていた。

いつもの俊介であれば、春彦の様子に小さな変化が起きているのを気が付いたはずだが、京子の前でいいところを見せようと気持ちが高ぶっていたので、それに気が付いていなかった。

だが、組手を再開し、急にいつもの春彦と違っているのを感じていた。

(なんだ、いつもの春彦じゃない。

 俺はいったい誰を相手にしてるんだ)

俊介は、春彦から異様な雰囲気を感じ取り、思わず恐怖を覚えた。

繰りだされる技はいつもの通りなのだが、大きく違うのは、その技の後に何かが隠れていて油断すると大怪我、大げさに言えば、殺されるのではないかという恐怖感に囚われていた。

「え?」

佳奈も、春彦から、いつか感じた、あの嫌な感じを感じ取っていた。

「春…。」

佳奈は、思わず身を乗り出して春彦を驚愕の眼差しで見つめていた。

京子は、今まで春彦のことをうっとり見つめていた佳奈が、恐怖の顔つきに変わったのに何が起こったのかわからず、組み合っている二人と佳奈の顔を何度も見比べていた。

そして、春彦が動き、俊介を捕まえ、まさに投げ技を出そうとした瞬間、俊介は逃げきれないことを悟った。

「ちぃ」

俊介は、舌打ちのような声を出した。

(まずい、やられる!)

俊介はそう思い、覚悟を決めた。

(イケナイ。

 カナ、トメテ)

佳奈は頭の中で声が聞こえると同時に春彦に向かって大声を出した。

「だめ!

 春、やめてー。」

その声が聞こえるか聞こえないかのタイミングで俊介と投げを打った春彦も俊介と絡み合うように倒れた。

しばらく、二人はその場で動けなくなっていた。

「春…。」

佳奈は、倒れている二人に近寄ろうと一歩踏み出した時、二人が起き上がった。

春彦からは、嫌な感じがなくなって、どこも悪くなさそうだったが、俊介は右腕を押さえていた。

「俊介、大丈夫か?」

春彦がすまなそうに俊介に声を掛けた。

「ああ、なんとか、腕一本持ってかれそうだったが、大丈夫だ。

 ただ、しばらくは使えないかな。」

俊介は、痛みで脂汗をたらしながら、それでも、作り笑いでいった。

「すまん。

 何があった?」

「え?

 お前、何も覚えていないのか?」

俊介は、腕の痛みから、薄ら額に汗をにじませていたが、呆気に取られて、まじまじと春彦の顔を見た。

「ああ、ラス1の組手の初めてから、記憶が……。」

「お前、大丈夫か?」

俊介は怪訝な顔をして春彦に尋ねた。

「きっと、その前に俊介に投げられた時に頭を打ったのかな。

 でも、すまん。

 腕、怪我したか?」

「ああ、気にするなって。

 俺も、今日はちょっと張り切りすぎたのがいけないんだから。

 お前は悪くないよ。」

俊介は、済まながっている春彦を逆になだめていた。

「二人とも大丈夫なの?」

佳奈と京子が二人のところに駆け寄ってきていた。

「ああ、大丈夫。

 ちょっと、腕をねじっただけだから。」

俊介は佳奈と京子を安心させるように答えた。

「春は?」

佳奈は恐る恐る春彦を見つめて尋ねた。

そこには、すまなそうに俊介の痛めた腕を見ているいつもの春彦がいた。

「ああ、俺は大丈夫。」

「そう、よかった。」

佳奈は、思わず口走った。

その「よかった」には、いつもの春彦に戻っているという意味だったことを俊介や京子は気づいていなかった。

「今日は、俺が悪い。

 ちょっと力がはいって、バランスを崩しただけだから、立花のせいじゃないよ。」

俊介は、佳奈に説明した。

「まったく、二人とも無茶しちゃダメじゃない。

 本当に、大怪我するわよ。

 福山君、その腕、結構重傷じゃない?

 ちゃんと、病院で診てもらわないと。」

京子が二人を諭すように言った。

「ああ、そうするわ。

 春彦、今日はここまで。」

「ああ、わかった。

 病院について行こうか?」

「いや、大丈夫だよ。

 行きつけの病院があるし、大したことないさ。」

そうして、春彦はすまなそうな顔をしながら、佳奈と京子を連れて、道場をあとにした。

三人を見送り、俊介は、痛めた腕をかばいながら、着替えをしていた。

その時、胸に痛みを感じた。

「防具がなければ、あばら骨も何本か持ってかれていたな。

 腕を持っていくだけではなく、完全に息の根を止められるところだった。

 あいつは、一体何者だ?」

俊介は、春彦の別の一面を見た気がして、思わず身震いをした。


京子と途中で別れ、春彦と佳奈は、二人になっていた。

組手の時、何があったのか、どうかしたのかと佳奈が尋ねようと迷っていた時、いきなり春彦が佳奈に向かっていきなり切り出した。

「佳奈、悪い。

 今日は寄るところがあるから、ここでな。」

「えっ?

 これから?」

佳奈は時計を見ると、夕方の5時を回っていた。

「こんな遅くに、どこに行くの?」

「うん、ちょっとな。

 わるい、じゃあな。」

春彦は佳奈を振り切る様に、駅の方に速足で向かって行った。

「ちょっと、春。」

佳奈は、急いで春彦に追い付こうとしたが、夕方の人込みで春彦に追い付けず、見失ってしまった。

「まったく、もう!」

(でも、一体どうしちゃったんだろう。

 春…。)

佳奈は、最初は置いて行かれて腹を立てたが、すぐに、春彦の様子がおかしいことを気にかけていた。

(後で、電話してみよう)

そう自分に言い聞かせ、佳奈は家路に着いた。


その夜、9時ごろ佳奈は、春彦の家に電話を掛けると、電話口には、舞が出た。

「もしもし…。」

「あっ、佳奈ちゃん?」

佳奈が、一言口を開いただけで、舞は佳奈を言い当てた。

「あっ、舞さん。

 佳奈です。

 夜分遅くにすみません。」

「なに畏まってるのよー。

 かしこまりーって。」

舞の笑い飛ばすような声に佳奈は思わず、クスっと笑った。

(舞さんと話すと、こっちが元気になるわ。)

「あ、春彦ね。」

「えっ、ええ。

 春に代わってもらえますか。」

いきなり舞の方から、春彦の名前が出たので、佳奈は一瞬焦っていた。

「ごめんね、折角、佳奈ちゃんが電話くれたのにね。

 春彦、まだ帰っていないのよ。」

「え?

 もう9時じゃ…。」

佳奈は、いや予感に襲われていた。

「うん、なんか今日は用事があるんだって。

 さっきね、帰るって電話があったから、もうすぐ帰って来ると思うの。

 何か、大事な用件なの?

帰ってきたら、電話させようか?」

舞が、申し訳なさそうな声で言った。

「いえ、大した用件じゃないので。

 あっ、でも、春に、明日、朝一緒に学校に行こうって言っておいてもらえますか?」

佳奈は、そう言ってから、何か大胆なことを言ってしまったと、顔が熱くなるほど恥ずかしくなった。

「まあ、わかったわ。

 春彦に、佳奈ちゃんが、朝、いつものところで待っているって伝えておくね。」

それを知ってか、舞は笑いながら答えた。

「すっ、すみません。

 よろしくお願いします。

 失礼します。」

舞は、恥ずかしさで矢継ぎ早に早口で話し、電話を切った。

(私ったら、なんで舞さんにあんなことを。

 いやだわ、ああ、恥かしい)

佳奈は、恥ずかしさに体が熱くなるのを感じながら、部屋に戻っていった。


そのころ、電話を切った、舞はニヤニヤと笑いがこみ上げていた。

「もう、佳奈ちゃんって、かわいいわ。

 それにしても、我家のぼうずは、何をしてんだか。」

佳奈から電話があってから、しばらくして春彦が疲れ切った様子で帰ってきた。

「お帰り。

 遅かったね。

 何してたの。」

舞は、内心気になったが、それをおくびにも出さず、いつもの口調でたずねた。

「うん、ちょっとね。

 なんか疲れたから、風呂入って寝るわ。」

「夕飯は?」

「ごめん、今日はいらない。」

「そう…」

舞は、春彦の様子が気になったが、なんとなく、それ以上、追及する気が起きなかった。

そして、不意に、佳奈から電話があったことを思い出した。

「あっ、そうそう、佳奈ちゃんから、さっき、電話があったわよ。」

舞の声に春彦は振り向いた。

舞は、春彦がなにか言う前に話し始めた。

「明日、一緒に学校行こうって。

 私に、そう伝えてほしいって言ったら、急に恥ずかしがっちゃって、可愛いったらありゃしないわ。」

そう言って喜んでいる舞に、春彦は小さく笑顔を見せ、部屋に戻っていった。

春彦は部屋に戻り、ベッドに横たわり、今日の俊介との乱取り稽古の時のことを思いだしていた。

「佳奈、びっくりしただろうな。

 いやなとこ、見せちゃったな。

 明日、根掘り葉掘り聞いてくるだろうな。」

春彦は、佳奈が心配顔していろいろと聞いてくるのが目に浮かび、ため息をついた。

その時、トントンと部屋のドアをノックする音が聞えた。

「?」

「春彦、入るよ。」

「ああ」

春彦が返事をすると、部屋のドアを開け、舞が入ってきた。

舞は、部屋に入ると春彦が寝ころんでいるベットの横に椅子を置き、腰かけた。

「なに?」

春彦は、改めて聞いた。

舞は、いつもと違い、真剣な顔になっていた。

「春彦、まさかとは思うけど、昔、通っていた道場というか、あの師範に会ったりしていないよね。」

「え?」

「どうなの?

 それとも、まさか、まだ、関係しているとかないでしょうね。」

少し間を置き、春彦は口を開いた。

「そのまさかだったら?」

「あんた、あの気ちがいに何されていたか、何を叩き込まれていたか覚えているでしょ。」

舞はいつの間にかきつい口調になっていた。

「今の日本は堕落している。

 我々が維新の民となって、安穏としている政治家、それに尻尾を振っている公安を叩き潰し、最終的には、日本を根底から変えよう。

そのために、人を壊す武術を身につける、かな。」

「そうよ。

 最初は、普通でやさしそうな先生で、身体や姿勢を良くし、健全な心を育てるというスローガンだったのに。

 まさか、180度変わるとは思わなかったわ。

 あんたも、痛い目にあったり、気が付いたら体中痣だらけだったじゃないの。

 父兄の間で、問題になって、また、警察のリストに乗り、結局、あの気ちがいは警察につかまり、道場は閉鎖となったじゃない。」

「……」

舞は、春彦がなにも言わないので、話しを続けた。

「あんたと同じくらいの年の子が、師範に気に入られ、洗脳じゃないけど、いろいろ教え込まれ、それで、小学校で喧嘩に使って大騒ぎになったじゃない。

 憶えている?

 相手の子、腕や肋骨が折れて、一歩間違えると、命にもかかわったって。

 あんたも、その子と同じように師範に気に入られていたから心配してたのよ。

 で、まさかと思うけど、今も通ったり、稽古したりしてるんじゃないでしょうね。」

「いや、それはない。

 それに、どうして、そんな昔のことを思い出したの?」

舞は、春彦にはっきりと否定したので、少し、ほっとしたのか、柔らかな口調になって尋ねた。

「じゃあさ、最近、どこかの道場に通っていない?

 むかしの様に、汗と埃臭い中に、道場の独特の畳み臭いが、あんたから臭うことがたまにあるから。」

「汗と埃臭い中に…って。

 ひどいな。」

春彦は、舞から臭いと言われ、苦笑いした。

「今日も、いえ、今日は特に臭うわよ。」

舞は、まだ、疑っていた。

「いやだな、この前、母さんに話したじゃないか。

 ほら、福山、知ってるでしょ。」

「ああ、あんたの友達の福山君でしょ。」

「福山の家は、警備関係の会社をやっていて、その会社に社員の鍛錬用の道場があるんだ。

 で、最近、福山に稽古を付き合ってくれと言われ、週2回ほど、稽古に付き合ってるんだよって。」

「えっ、

ああ、そうだったわ。

やだ、忘れていた」

舞は、確かに春彦から話を聞いていたのを思い出し、ばつの悪そうな声を出した。

ちゃんとした所に行っていると聞いたが、念を押すように確認した。

「じゃあ、ほんじゃま拳とかへんな格闘技とかじゃないのね。」

「ああ、警備会社だから護身術と捕縛術を中心に稽古してるんだよ。

 今日は、佳奈とその友達も見学に一緒に来たんだよ。」

舞は、佳奈の名前が出たので、だいぶ安心したかのように表情をくずした。

「そうなの、ならばいいけど。

 また、昔の様に、へんなこと吹き込まれて、変な道に誘われているのかと心配したわ。

 結局、あの後地下に潜って、まだ、隠れ道場を続けているって噂よ。

 それも、だんだん大人や大学生を巻き込んで、まるで、宗教みたいなことしてるって。

 公安も躍起になってるって。」

「そうだね、そのまま通ってたら、ゆくゆくは、どっかの兵隊か、殺し屋にでもされていたよね。」

春彦は、小さく笑いながら言った。

「笑い事じゃないわよ。

 あの時、最期、たいへんだったんだからね。

 あの師範、あんたたちを道場に住み込めせるって言い始めて、まるで出家させるみたいなこと言ったのよ。

 あんたたち、洗脳されたみたいに、みんな、道場に住むって言って。

 最後は、警察が入って、拉致何とかで師範を逮捕して、何とか決着がついたのよ。」

「そうだったね。

 少し覚えているよ。

 やってきたお巡りさんに、師範から『やっつけろ!』って言われて、みんなで襲って怪我させたっけ。

 お巡りさん、小学生相手に本気になれないのをいいことに、こっちは武道で立ち向かい大変だったよね。」

「そうよ。

 子供だったし、強制されたということで、お咎めなしだったけど、新聞沙汰にもなったし。

 幸い、あんたは表に出なかったからいいけど。」

「まあ、まあ。

 そういうことで、大丈夫だから、安心して。

 しかし、さっきの話、今も隠れて活動しているって、どこから聞いたの?」

「あれで、被害者の会が出来てね。

 また、大事な子どもたちが引き込まれないように、その時の親同士と、警察が情報交換してるのよ。

 我家も被害者の一人だから、情報が入ってくるの。」

「ふーん、そうなんだ。

 でも、そろそろ疲れたから、風呂に入るよ。」

春彦はこれ以上舞と話をするとボロが出そうになるのを心配して、話を無理やり切った。

「そうね。

 まあ、あれは春彦のせいじゃないし。

 じゃあ、大丈夫なのね。

 もう、止める人間がいなくなっちゃったから、心配になのよ。」

舞は、寂しげな顔をして部屋から出て行こうとして立ち止まって、再び、春彦の方を向いた。「福山君の道場で、昔のような、変なことしないのよ。

 もう覚えていないと思うけど、無意識に出るってことあるんだからね。」

「はいはい、もう、覚えていないよ。」

(無意識で出たけど……)

春彦は、舞に聞こえないくらいの小さな声で付け加えた。

「なら、いいけど。」

舞はそう言いながら、今度は、本当に部屋を出ていった。

「かあさん、ごめん。」

春彦は、舞の後姿を見送りながら、聞こえないような小声で言った。

春彦は、風呂場でシャワーを浴びながら、身体にできた痣を見ていた。

舞が問題視していた道場は、一度、館長兼師範代が逮捕されたことで表向きは閉鎖されていた。

しかし、洗脳が溶けていないのか、熱狂的な弟子が集まって、人目を避けるようにこっそりと続いていた。

そして、年齢層も高くなり、いろいろと賢い人間が周りに集まり、秘かに言葉巧みに宣伝や勧誘(布教活動と内部では言っていた)を行い、武術以外にも、人の心の弱みに付け込んで教えの伝授など、似非宗教団体まがいの活動を行い、多くの会員とお金を稼ぎだしていた。

春彦は、師範代から気に入られた一人で、稽古代免除でいいから道場に顔を出すように言われていたのと、春繁がいなくなった寂しさを紛らわせたいと願っていた春彦の願望がマッチし、舞には内緒で、たまに道場に通っていた。

道場では、ありとあらゆる武術をつめこんだ格闘術を学んでいた。

また、その格闘術、相手をどうしたら壊せるかを徹底的に研究されたものだった。

「こんなの覚えても、何の得があるのか…。」

春彦は、漫然と考えていた。

「今日は、俊介との稽古でおかしくなったから、道場に顔を出したけど、母さんが心配するから、もう、行かないようにしようかな。」

春彦は、最近、頭痛とともに湧き出てくる暴力的な欲求を抑ええられなくなっていた。

そして、今日の俊介との稽古でまた、火が付き、抑えきれず、その道場に顔を出し、兄弟子と一線交えてきたのだった。

兄弟子は、年が上で、結構タフネスだったので、春彦のストレス発散にはちょうどいい相手だったが、春彦が遠慮し、手を抜いているのを兄弟子も、師範代も知らなかった。

「なんだ、立花。

 まだまだだな。」

息を切らせながらその兄弟子は乱取りの間に声をかけた。

「立花、田中を超えないと、強い革命家にはなれないぞ。」

師範も、二人の稽古を見ながら声をかけた。

「はい。」

(強い革命家ってなんだよ。

 こいつ、その内、本気で日本をこの手に、なんて言い始めるんじゃないかな…。)

春彦は心の中で思っていた。


翌朝、佳奈は根掘り葉掘り、春彦に昨晩どこに行ったのか尋ねまくっていた。

「ねえ、昨晩、遅くまでどこで、何していたの?」

「え?

 ああ、ちょっと用事があってさ。」

「うそ。」

「嘘じゃないよ」

「じゃあ、どんな用事だったの?」

「うーん。」

「ねえ、教えて。

 まさか、何か悪いことでもしていたわけじゃないでしょうね?」

春彦は、昨夜の舞との会話を思い出し、一瞬、どきっとした。

「そんなあ。

悪いことをしていたら、すぐに佳奈にばれるだろ?

それに、そうなら、佳奈の顔、まともに見れないし、こんなに普通に会えないだろ。

佳奈には、嘘つけないから。」

佳奈は、「佳奈には、嘘をつけないから」という春彦の言葉を聞いて、少し、機嫌がよくなった。

「そうよ。

 春のこと、よくわかっているんだからね。

 確かに、悪いことはしていなそう。

 じゃあ、用事って何?」

「それは…。」

「それは?

 ねえ、何?

 何していたの?

 教えなさい。」

佳奈は、そう言いながら、春彦の腕に自分の腕を胸の辺りに抱え込む。

春彦は、腕に佳奈の柔らかな感触と、ふわっと、佳奈の良い匂いが鼻腔をくすぐり、何となく楽しくなった。

「秘密だよ~。」

春彦は笑いながら、速足で歩きだした。

「ちょっと、なにそれ。

 ねえ、待ってよー」

佳奈は必死になって春彦にしがみついていた。

(でも、今日は以前の春にもどったみたい。

 最近、何か無口で無表情なことが多かったから)

佳奈も、そんなことを考えながら、楽しくなっていた。

結局、佳奈は昨夜のことを春彦から聞き出せずに学校に着いたが、春彦の様子を見て心配することはないと感じ安心していた。

「じゃあ、また後でね」

佳奈は、にこやかに言って、教室に向かおうとした。

「え?

 今日は、社会部も休みって言ってたよ。」

春彦は気になって佳奈に声を掛けた。

手芸部も社会部も、その週は部長が用事だとか何かで休みだった。

春彦は、佳奈が、社会部の部室でといったのかと思い、心配になって聞き直した。

佳奈は、後ろ手で振り返り、楽しそうに言った。

「うん、だから、一緒に帰ろ、ね。」

社会部は、3年生が受験でほとんど姿を見せずに、また、2年生の部員がいないので、実質、慶子が、部を仕切っていた。

また、今日はその慶子が用事があるということで部活は中止になっていたが、普段、部活があるときは、部員の皆、佳奈と友達だったため、佳奈が手芸部のメンバーを連れて部室に遊びにきて、合同で、活動することが多々あった。

(そのうち、編み物でもやらされるかな)

なんて考えながら、春彦は教室に入っていった。

2時間目が終わった後の休憩の時間に春彦は俊介のことが気になり、俊介の教室を尋ねてみた。

俊介は、腕に包帯を巻いて肩から吊っていた。

「俊介、大丈夫か?」

済まなげに春彦は俊介に声を掛けた。

「ああ、大丈夫だよ。

 少し、腕の筋が伸びたから、しばらく、この状態だと医者が言っていた。」

「すまない。」

「いいって、気にするなよ。

 だから、しばらく、稽古は見送りな。」

「ああ、わかった。」

「じゃあ。」

「ああ…。」

春彦は、俊介の態度が妙によそよそしく感じた。

春彦が危惧していたように、その日を境に、俊介は春彦を避けるようになっていった。

最初は、声をかけると返事をしていたが、俊介の包帯が取れたころには、春彦のことを完全に無視する様になっていた。

「まあ、仕方ないか。」

春彦は、原因が自分にあるとわかっていたので、無視されても仕方ないと受け入れてはいたが、やはり、中学からの友人の俊介に無視されるのは寂しかった。

(好きな女の子が初めて見学に着たのに、俺に怪我させられたんだもんな)

確かに、そのことは俊介の頭に少しはあった。

だが、一番の原因は、春彦に恐怖を覚えたことだった。

その圧倒的な恐怖は、いくら拭い去ろうとしても、拭い去ることが出来ず、自然と春彦を避けるようになっていたのだった。


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