(2)
春彦は、まっすぐ家に帰る気がしなくて、しばらく、あちらこちらと遠回りしながら道草をくっていた。
そして、夕方になり、日が傾き始めたころに自宅に戻る。
「ただいま。」
春彦は、玄関のドアを開け自宅に入った。
居間に行くと、舞がリビングでビールを飲んでいた。
「おかえり。
遅かったね。
でも、私もさっき悠美のところから帰ってきたのよ。」
舞は、病院から無言で自宅に戻った悠美の弔問に、また、葬儀に向けてのいろいろな段取りの手伝いに行っていた。
「そうなんだ。」
「だから、夕飯は、今市のお弁当。
名前の通り、いまいちなんだけど、まあ、勘弁してね。」
「ああ、おれ、今市の弁当、結構好きだよ。」
「そう、よかった。
じゃあ、着替えてきて、食べなさい。」
「ああ」
春彦は部屋に戻り着替えをして、洗面所で顔を洗いリビングに戻ってくると、舞は、ビールではなく、日本酒に切り替えていた。
「そんなに飲んで、大丈夫なの?」
「ん?
大丈夫よ。
春も、一緒に飲む?」
「まさか。」
春彦は、椅子に坐り、テーブルに置いてあるペットボトルのお茶を開けて、一口飲んだ。
「どっちの弁当食べていいの?」
テーブルには、形の異なるお弁当が二つおいてあった。
「どっちでも。
私は食欲ないから、両方食べていいよ。」
「そう。」
春彦は手前にある弁当を取ると、包みには「とんかつ弁当」と書いてあった。
「じゃあ、これ食べるね。」
「うん。」
春彦はもくもくと弁当を食べ始める。
舞は、コップのお酒をゆっくり一口ずつ、何か考えをまとめているように、時間を掛けて飲んでいた。
春彦の食事が一段落したところで、舞は、ゆっくりと悠美のことを話し始める。
「悠美ね、私達が帰った後、まるで風船の空気が抜けていくように、元気がなくなり、疲れたから休むと 光一に話してベッドに横たわったんだって。
それが最後の言葉になったらしいの。
その後、数日間、痛みにうなされながらも昏々と眠り続けてたんだって。
昨日ね、光ちゃんから悠美の容態が悪いから、今のうちに会いに来ないかって。
そして、私が見舞に行って、寝ている悠美の手を握ったら、その時だけ、目を開け、何言うわけでもなく、また、目を閉じたの。
少し、様態が安定したからって、家に帰ったのだけど、夜遅く急に容態が…。
そして、あれよ、あれよという間に息を引き取ったそうよ。
最後の時、苦しそうな悠美を見て両親、光一は居てもたってもいられず、何とかならないのかとお医者さんに聞いたんだって。
お医者さんは、もう意識もなく、本人は痛みも感じていないはずとだからといったそうよ。
今日、悠美の顔を見てきたけど、苦しい闘病だったけど、それを感じさせないほど穏やかな顔をしていたわ。
あんな…。」
舞は、言葉に詰まった。
春彦は何も口を挟まず、じっと舞の言葉を聞いていた。
舞は、自分の心を整理する様に少し間を置き、再び、話し始めた。
「明日が、お通夜で、明後日が告別式。
土日だから、学校は大丈夫よね。」
「うん。」
春彦は、静かに頷きながら返事をした。
「茂子には、さっき電話したから、佳奈ちゃん、今頃聞いているんじゃないかな。
木乃美ちゃんへの連絡も頼んじゃった」
「そっかぁ。」
(佳奈や木乃美のことだから、ひどく悲しむだろうな)
春彦はぼんやり考えていた。
「白のワイシャツ、アイロン掛けておくから。
あと、御数珠は、お父さんのを忘れずに持っていきなさい。」
「ああ。」
春彦は、返事して立ち上がった。
「どこ行くの?」
舞は思わず尋ねた。
「うん、今日は疲れたから、部屋でごろごろしている。」
「わかった。
でも、お風呂にちゃんと入って寝なさいよ。」
「うん」
舞は、春彦の背中を見送り、お酒を一口飲み込んだ。
そして、一つため息をついて、独り言を口走る。
「悠美。
昨日、あなたの手を握って、『悠美まで、私を置いて行かないで』って小さく言ったのを聞こえたのかしら。
だから、目を開けてくれたの?
何か言おうとしてくれたの?
でも、寂しいわ……。」
いつしか舞の頬に涙が流れていた。
春彦は自分の部屋に戻り、ベッドにうつ伏せで倒れこんだ。
(なんか、体が重いなぁ)
そんなことを考えながら、だんだん、眠りに落ちていった。
その頃、佳奈の家では、佳奈が茂子から悠美の訃報を聞かされていた。
「嘘!」
佳奈は、そう言うと絶句した。
驚きが先で、悠美の死という現実を徐々に認識し始めるとともに、深い悲しみが止めどもなく広がってきた。
「だって、2週間前に逢いに行ったとき、元気だったし、退院したら一緒に……。
なのに、何で?
何でなのよ?
お母さん。」
茂子も、涙を浮かべ、舞から聞いたことを話しはじめた。
「悠美さん、病気が予想以上に進行が早く、どうにもならなかったんだって。
なので、佳奈の顔が見たいって、最後に……。」
茂子は、言葉に詰まってしまった。
「悠美さん、本当の病気のことや長くないことは聞かされていなかったそうよ。
でも、薄々わかってたんじゃないかって。
じゃなければ、佳奈や春ちゃんに会いたいなんて言わなかったんじゃないかって。」
佳奈は止めどもなく流れる涙をハンカチで拭いながら茂子の話を聞いていた。
「二人に会ったら、満足して…。
それで、一気に……。」
茂子も話しながら、エプロンの端で涙を拭っていた。
「あんな、素敵な人だったのにね。
佳奈のこと、妹だって言って、すごく可愛がってくれたのよね。
本当に優しいお嬢さんだったのに。」
佳奈は、ハンカチで顔を覆い、泣きじゃくりながら何度も頷いていた。
佳奈は、声を絞り出すように話はじめた。
「初めて、悠美姉に逢った時、吸い込まれるような万遍の笑顔で…。
こんな、優しい笑顔をする人がいるのかって……思った……。
私のこと、妹みたいだって……、にこにこ笑いながら、妹にしてくれるって……。
わたし、私、すごく嬉しかったの。
あんなに綺麗な人、素敵な人が妹にしてくれるんだって……。
わたしの、憧れの…」
そこまで話、佳奈は抑えきれず、テーブルに突っ伏し、声を上げて泣きだした。
茂子は、そっと佳奈のそばに行き、佳奈の肩を抱き、頭を撫でた。
「この前、お見舞いに行った時、私の髪をとかしてくれたのよ。
私の髪、長くて綺麗だって。
私、悠美姉のようになりたくて……。
せめて、外見だけでもって、悠美姉と同じくらい肩の下まで伸ばしたの。
悠美姉と一緒に、ポニーテールやツインテや、いろいろな髪形してって……。」
「そうね、あなたも悠美さんも、きれいな真っ直ぐの髪だからね。
なんでも、似合うわね。」
「そうでしょ、そう思うよね。
なのに、なんで……。」
佳奈は、そう言うと、また、声を上げて泣き始めた。
しばらくして、佳奈は、少し、落ち着きを取り戻し、急に春彦のことが頭をよぎった。
「悠美姉、凄く元気だったって、春は言っていたのに……。」
そこまで言って、佳奈は今日の春彦の態度が普段と違っていたことの理由が分かった気がした。
「悠美姉、昨晩、亡くなったのよね。
春は、いつ聞いたのかしら。」
「きっと、朝じゃない。」
「お母さん、今日、春、変だったのよ。
じゃあ、きっと……。
なんで、会ったときに私に教えてくれなかったのだろう。」
茂子は、ちょっと考えてから言った。
「学校で悠美さんのことを聞いたら、きっと、佳奈が悲しみ、今みたいになるから言えなかったんじゃないの?」
「そうかぁ。」
(春も悲しかったんだ。
だから、あんな冷たい口調になったんだ。)
佳奈は、昼間の春彦の様子が普通じゃなかったことを納得した。
「でも、春彦君も、もっともっと悲しいはずなのに、強いね。」
「うん。」
佳奈は、頷くだけだった。
「少し、落ち着いた?」
茂子の問いかけに、思いっきり泣いた分、少し落ち着いて来た気がして、佳奈はうなずいた。
「明日、お通夜で、明後日、告別式だって。
私は、佳奈がお世話になったから、両方行ってくるけど、佳奈はどっちかでいいからね。
お通夜に行く?」
佳奈は、顔を横に振り言った。
「私も、両方行く。」
「わかったけど、参列する人はみんな悲しいんだからね。
特に悠美さんのご両親やご兄弟は特に悲しいんだから、今みたいに、取り乱したりしたらだめよ。」
佳奈は、小さくうなずいた。
翌日、悠美のお通夜は、しめやかに執り行われた。
佳奈と茂子は焼香の一般客として、列に並んでいた。
「結局、木乃美ちゃんはどうなったの?」
「うん。
昨日、朝から風邪気味だって言っていて。
電話を切った後にショックで倒れちゃったそうなの。
熱も40度近くまで上がり、昨晩は、近くの病院に入院したそうよ。
今は退院して家にいるんだけど、熱が引かないで朦朧としているんだって。
それでも、参列したいって言っているそうだけど…」
佳奈は首を横に振る。
「そう…」
二人は祭壇の方を見つめる。
昨日、茂子にしっかりするように言われていた佳奈は、それでも、目を赤くし、ハンカチで鼻を押さえながらも、泣くのを一生懸命こらえていた。
徐々に列が進み祭壇に近付いてきたころ、佳奈は、親族の席にいるだろう春彦の姿を探した。
春彦と舞は親族の席の後ろの方に並んで座っていた。
春彦は、無表情な顔でじっと前を向いていた。
舞も、同じだった。
佳奈たちの焼香の晩が来て、二人は並んで祭壇の前に立った。
正面には、にこやかにほほ笑む悠美の写真が飾られていた。
写真の悠美は、病気にかかる前で、まだ、ふくよかな顔をしていて、少しすましたような顔で笑っていた。
(悠美姉…)
佳奈は、とめどもなく流れてくる涙を止めることができず、ハンカチで涙を押さえていた。
茂子が、そんな佳奈の様子を察し、そっと佳奈の手を取り、お焼香をするように促した。
佳奈は、頷き、お焼香を済ませた。
それを見届け、茂子は佳奈の腰に手を回し、そっと出口の方に誘導していった。
「お母さん、ごめんなさい。
悠美姉の写真を見たら、涙が止まらなくなっちゃって。」
斎場を出て、佳奈は茂子に謝った。
「いいのよ、頑張ったもんね。
悠美さんの写真、きれいだったね。」
その茂子のセリフに、佳奈はハンカチで鼻を押さえながら頷いた。
(春は、大丈夫なのかしら)
佳奈は、青白い顔をして無表情で座っていた春彦の姿を思い出していた。
その夜、佳奈はなかなか寝付けなかった。
悠美との楽しかった思い出を思い出すたびに、涙がこぼれて仕方がなかった。
最期には、泣き疲れ、眠りに落ちていった。
翌日、悠美の告別式は午前中に営まれた。
その日は朝から天気は良かったが、風の強い日だった。
佳奈と茂子は、通夜の時と同様に、お焼香をすませ、出棺を見送るために待っていた。
告別式が終わり、親族による最後のお別れが行われていた時、待機していた二人のところに春彦が現れる。
「母さんが、お二人にもいらしてほしいと言ってますので、こちらに。」
佳奈と茂子は、お互いの顔を見合わせ、一瞬ためらったが、すぐに春彦に続いた。
その先に、親族が一人ずつ生花を持って、悠美が横たわっている棺を取り囲んで、一人ずつ棺の中の悠美にお別れをしているのが目に入った。
「こっちです。」
春彦は二人に生花を渡し、順番の列に手招きした。
悠美の棺の傍らで、寄り添うように、悠美の母親の敏子が座って、何やら悠美に話しかけていた。
父親の清志や光一もそのそばで、敏子を支えるようにそばにいた。
佳奈は、良く悠美の家に遊びに行っていたので、光一だけではなく、敏子や清志とも、親しかった。
「佳奈ちゃん、こっちに来て。」
敏子は、佳奈に気が付き、そばに来るように手招きしていた。
佳奈と茂子が呼ばれるままに近付いていくと、敏子が悠美に話しかけていた。
「悠美、佳奈ちゃんが来てくれたわよ。
あなたが、妹だって、可愛がっていた佳奈ちゃんが来てくれたわよ。」
ほとんどの親族は、悠美から春彦と佳奈のことを弟、妹みたいに可愛がっていることを聞かされていた。
なので、佳奈が戸惑っていると、道を開け、参列者の誰かがそっと佳奈の背中を押して悠美の横たわっている棺の方に導く。
そして、佳奈は棺の中の悠美に対面した。
「佳奈ちゃん、見て。
悠美、きれいでしょ。
佳奈ちゃんが来てくれたから、喜んでいるわ。」
敏子は、悠美の髪を撫でながら佳奈に話しかけていた。
佳奈は、悠美の顔を見つめた。
悠美は、薄化粧しており、そのためか頬に紅が差しているよう、まるで、寝ているかのような安らかな顔をしていた。
「悠美姉…。」
まるで今にも目を開けて「佳奈ちゃん」といつものように名前を呼んでくれるのではないかと思うほど穏やかな死顔を見て佳奈は絶句した。
あれは、初めて佳奈と悠美が出会った日。
佳奈が幼稚園に上がる前、その当時は、よく休日になると、茂子と舞が佳奈と春彦を連れて公園に遊びに行っていた。
その時、小学生だった悠美は休日を利用して春彦と遊ぶため、舞の家に来ていて、舞が春彦を連れて公園に行くということで悠美も一緒についてきた。
最初のうち、佳奈は悠美に人見知りしていたが、突然、悠美の方から佳奈ににっこり微笑みながら話しかけた。
「佳奈ちゃんて言うんだ。
私は、悠美っていうんだよ。
春ちゃんのお姉さんなの。
よろしくね。」
優しい人懐っこい悠美の笑顔を見て、佳奈はすぐに警戒を解いた。
「ゆ…み…ねえちゃん?」
佳奈は、悠美の名前と春彦のお姉ちゃんだといった悠美のセリフかが、ごっちゃになって、思わずそう切り出した。
「そうよ、悠美お姉ちゃんっていうんだよ。
よろしくね。」
悠美は、春彦と佳奈と一緒にブランコ遊びや、砂場遊びをして楽しんでいた。
「悠美さんて、すごく感じの良いお嬢さんね。
子供たちの面倒もよく見てくれるし、佳奈もすっかりなついているわ。」
茂子は、感心しながら言った。
「まあ、自慢の姪っこだから。」
舞も笑いながら砂場遊びをしている3人の方に顔を向けた。
「ん?」
舞の目に、悠美がニコニコしながら、宝物でも見つけたような目で、じっと佳奈を見つめている姿が映った。
「あちゃー、茂子、ごめん。」
「え?
何?」
「ううん、すぐわかる。
ほら。」
顔を向けた先に、佳奈を抱き上げ、こちらに向かってくる悠美が見えた。
悠美は、佳奈を抱き上げ、春彦を従えて、興奮と万編の笑顔で二人に近付き、茂子に向かって明るい声で言う。
「茂子さん、佳奈ちゃんを私の妹にしていい?」
「え?
佳奈を?」
横で舞がゲラゲラ笑いだした。
「この子はね、下の兄弟がいないから、気に入った子を見つけると、弟や妹にしたがるの。
だから、春もこの娘の弟にされちゃったんだ。」
舞の話を聞いて、茂子は納得し、そして、笑顔で悠美に話しかけた。
「いいわよ。
その代り、可愛がってね。」
「はいっ!」
悠美は、はじける笑顔で返事をして、抱き上げている佳奈にほおずりしながら言った。
「佳奈ちゃん、ゲッチュー!
今日から、私の妹だからね。
よろしくね。」
佳奈は、何の事だか理解できなかったが、ほおずりしている悠美の頬の柔らかさ、優しい香り、何よりも嬉しそうに自分に話しかけてくれることで、思わず嬉しくなり返事をした。
「うん、佳奈、悠美姉ちゃんの妹になる。」
それを聞いて舞は、さらに大笑いして茂子に言った。
「ほーら、佳奈ちゃん取られちゃったよ。」
「そうみたい。」
その場の全員が楽しそうに笑っていた。
「佳奈ちゃんは、私の妹だからね。」
佳奈は、悠美が目を開けて、また、いつもの優しい笑顔で、そう言ってくれるのではと思った。
そして、我慢していた涙が止めどもなく頬に流れ、体の力が抜けていく気がした。
その時、いつの間にか、そばにいた春彦が佳奈の肩を抱き支える。
「は…る…?!」
佳奈は、春彦の力強い腕に支えられ、少し、体に力が入る気がした。
「あら、春ちゃんも。
悠美、春ちゃんと佳奈ちゃんが揃ったわよ。
あなたの可愛がっていた弟と妹よ。
わかる?
そうよ、よかったわね。」
敏子は、春彦と佳奈を見て、また、悠美に話しかけた。
(あら、悠美が笑ってる。)
その光景を見ていた舞は、思わず心の中で呟いた。
「ほら、悠美ちゃん待っているから。
一緒に花で飾ってあげよう。」
春彦が佳奈に優しく言った。
「うん。」
佳奈は、春彦に促され、二人で持っていた生花を悠美の枕元にそっと置いた。
佳奈は、もう一度棺を見渡した。
そして悠美の傍らに佳奈が持って行ったパズルの本と春彦が持って行った漫画の本が一緒に置かれているのを目にした。
「それね、結局悠美は読めなかったから、持たせようと思って。」
光一が、佳奈の視線の先の本に気が付いて説明した。
「うん。」
佳奈は、小さく頷いた。
「さあ、佳奈。」
春彦は、次の人に場所を譲るよう、佳奈の名前を呼び、肩に回している腕に力を籠め、佳奈を立ち上がらせた。
佳奈は、春彦に言われるとおり立ち上がり、最後にもう一度、悠美の顔を見た。
悠美は、優しく佳奈に「バイバイ」しているようだった。
「悠美姉、またね。」
佳奈は小さな声でお別れを言って春彦と、その場を後にした。
「春…。
ありがとう。」
佳奈はささやくように言った。
春彦は無言のままだったが、小さく頷くのが感じられた。
二人は、舞と茂子が立っているところに戻った。
春彦は、佳奈を支えていた腕をほどき、佳奈をそっと茂子の方に押しやった。
佳奈は、さっき、悠美の棺の方に押しやってくれたのが、春彦だと思った。
「春ちゃん、ごめんね。
迷惑かけて。」
茂子は春彦にすまなそうに謝った。
春彦は、何も言わずに顔を横に振った。
「じゃあ、舞。
私達は、外でお見送りするから。」
「うん、今日は来てくれてありがとう。
佳奈ちゃんも、ありがとうね。」
「いいえ、とんでもない…。」
佳奈が丁重に答えた。
佳奈と茂子が部屋から出ていくのを見届けた後、突然、春彦が言った。
「母さん、火葬場に行きたくない。
俺も、ここで見送って、でいいかな…。」
「え?」
一瞬、舞は考えたが、納得したように言った。
「いいわよ。
一人で帰れるわね。
皆には、私の方で言っておくから。」
「うん、ごめんね。」
「ばか。」
春彦は、そこで舞と別れ、佳奈たちの出ていったほうに歩いて行った。
「皆様、そろそろ出棺の時間です。
まだ、ご挨拶がすんでいない方は、急いでください。」
葬儀の進行役が厳かにアナウンスした。
最後の対面が済んで、出棺の準備が始まった。
そして、棺に蓋がされたとき、敏子の絶叫が外の参列者まで聞こえた。
「いやー!
いやよ、悠美。
目を開けなさい。
うわー。」
棺の蓋を閉める時に、敏子の感情が爆発し、棺に抱きつき大声で叫んでいた。
参列者は、居てもたってもいられず、皆、下を向いていた。
力なく棺にしがみついている敏子を、清志と光一が両方から抱きかかえるように支え起こした。
コーン、コーンと棺にくぎを打つ音が妙に響いた。
棺が、大勢の大人に担がれ、霊柩車に入れられた。
親族の挨拶では、清志が言葉に詰まりながら、涙声で参列者にお礼の言葉を言っていた。
その傍らには、悠美の写真を胸に光一に抱えられるように立っている敏子が立っていた。
そして、清志、敏子は霊柩車に、光一と火葬場まで行く親族たちはマイクロバスに分乗した。
最後に、式の進行役が霊柩車の火葬場への出発を告げ、霊柩車は、クラクションを鳴らし徐々に動き始めた。
春彦は、じっと霊柩車の去っていく方向を見つめていた。
「そう言えば、お婆ちゃんも半年前に亡くなっていたわね」
「サキさんのこと?
そうそう、朝、いつもの時間に起きてこないからって、見に行ったら布団の中で亡くなっていたんでしょ」
「そうだったわね。
サキさんも悠美さんのこと、眼に入れても痛くないほど可愛がっていたから…。
あれかしら。
先に逝って、悠美さんを待っていたんじゃないかしら」
「そうかもね」
南雲家に近い女性の話し声が聞こえる。
「春君、途中まで一緒に帰らない?」
ふと声を掛けられ、振り向くと、そこには茂子と目を真っ赤にはらした佳奈が立っていた。
「はい。」
春彦は返事をして、三人は斎場を後にする。
「…」
その後ろ姿を参列者に紛れた二人の男が何も言わずに見つめていたことを、春彦はしるよしもなかった。
歩き始めてすぐに、茂子は、最後の対面の時、春彦と佳奈を待ちながら、舞と話をしていたことを思い出していた。
「春君、しっかりしてるね。」
「ううん、違うの。
もう限界なのよ。
早く一人にしてやらないと…。」
「え?」
どういう意味なのか聞き直す前に二人が戻ってきたので聞きそびれたが、茂子には、その意味が分からなかった。
「はい」
春彦のしっかりした返事を聞いて(やっぱり、しっかりしてるわよ)と思った。
「春、大丈夫?」
「え?」
佳奈が、春彦のことを気遣って声をかけたのに茂子ははっとした。
春彦は、佳奈の方を向いて頷くだけだった。
春彦と佳奈は並んで、しかし、無言で歩いていた。
茂子は、後ろから付き添って歩いていた。
(無理もないわよね、二人にとって悠美さんは特別だったからね)
ただ、佳奈がしきりに気にして春彦の方をちょくちょく見ているが気になった。
(佳奈も、悠美さんのことで悲しみいっぱいのはずなのに)と、訝しんだ。
佳奈は、やはり、口にハンカチを当て少し泣きじゃくりながら歩いていたが、それでも、たまに春彦の方を見ていた。
春彦は佳奈たちと佳奈の家の近くで別れた。
「じゃあ、春君、気を付けて帰ってね。」
「はい、どうもすみません。
じゃあ、失礼します。」
春彦は、丁寧に茂子に挨拶をして、自分の家の方角に向かって歩き始めた。
佳奈は、急に春彦の方に駆け寄り、春彦の手を握った。
「春、本当に大丈夫。」
佳奈は、春彦の顔を覗き込んで聞いた。
「大丈夫だよ。
じゃあね。」
春彦は、作り笑いをしながら、佳奈の握っている手をぽんと叩き言った。
そして、手をそっと振りほどき、手を振って、また歩き始めた。
その後ろ姿を見送りながら、茂子は心配になって佳奈に尋ねた。
「ねえ、春君、どうかしたの?」
「えっ?
ううん。
何か思いつめているような、いつもの春と違うからで気になって。」
「えっ?」
茂子は、佳奈の方が春彦のことを、よく、わかっていると思った。
「もし、春まで、何かあったらどうしよう。」
佳奈は不安気にいった。
茂子も舞の言った(「もう限界なのよ」)という言葉を思い出し、不安に駆られた。
そして、不安を払いのけるように言った。
「大丈夫よ。
春君は、大丈夫よ。」
春彦は、まっすぐ家に帰った。
ドアを開け、「ただいま」と誰もいない家の中に向かって言った。
そして、自分の部屋に行き、窓を開け、新鮮な空気を入れた。
午後の陽だまりの中、暖かい柔らかな風が部屋に入ってくるのを感じた。
(疲れたな。)
春彦は、ベッドに倒れこむように、うつ伏せで横になった。
しばらく身じろぎもせず、窓からカーテンを揺らし入ってくる風を感じていた。
少し、うとうとすると、悠美がベッドに腰掛け、春彦の髪を撫でていた。
正確にいうと、部屋に入ってくる優しい風が、春彦の髪を揺らしていたのだが、春彦には悠美にやさしく撫でられている気がして、身近に悠美の気配を感じていた。
そして、悠美のやさしい声が聞こえた気がした。
「春ちゃん、悲しいね。
私も悲しいわ。
悲しい時は、泣いちゃいましょう。
そうすれば、きっと明日は元気になるから。」
春彦は、嗚咽を漏らしながら、泣き出した。
「ただいま。」
夕方、舞が帰ってきた。
「おかえり。」
春彦が部屋から出てきて、舞に言った。
舞は、泣きはらした春彦の顔を見て、少し、ほっとした。
その夜、舞は一人でお酒を飲みながら、茂子にお礼の電話をかけていた。
茂子は、佳奈が落ち着いたことと、春彦のことを心配していた。
「春君、大丈夫?
佳奈もすごく心配していたわ。
私より、春君のことが、わかるみたい。」
「まあ、二人とも悠美の弟と妹だから、お互いが分かるんじゃない。」
「そんなものかしら。」
茂子は少し納得した。
「春君、限界って言ったけど、どういう意味?」
「うーん、何て言うのかな。
私もよくわからないけど、悠美に言われたの。
あれが死んだ時も、今回みたいに、春は泣かずに普通にしてたの。
その時は、私は、小さいながらにしっかりしているなと、思っていたわ。
それに、春だけ見ている余裕がなく、おとなしくしっかりしていたので助かってたのよ。
そうしたら、悠美が来て、春彦の顔を見た瞬間に、真っ青な顔で言ったの。
『舞ちゃん、春ちゃんがたいへん。
春ちゃん、壊れちゃう』って。
そして、春を借りるって言って、どこかに連れてったの。
しばらくして戻ってきたら、春の顔ったら、泣きはらした顔をして、口をぎゅってつむんで泣くのを我慢していたの。
どうやら、その時の春は、あまりの悲しさに精神的におかしくなっていたらしくって、悠美が、それに気づいて、魔法を掛けくれたのよ。
それから、告別式が終わるまで二人は手を離さなかったの。」
「そうなんだ、そんなことがあったんだ。
で、今日は?
春君大丈夫なの?」
「うん、人前では決して泣かない子だから、一人にしたら、目を腫らしていたわ。
だから、大丈夫だと思う。
帰って来た時、普通に戻っていたから。」
「そう。
ならばよかった。
舞、無理かもしれないけど、あまり気を落とさないでね。
いつでも、話し位なら聞けるからね。
それと、身体に悪いから、飲み過ぎちゃだめよ。」
「うん。
ありがとう、茂子。」
舞は、茂子との電話を切った後、立ち上がりキッチンに新しいお酒を取りに行った。
「今日くらい、潰れるほど飲んでもいいよね。
明日は、仕事、休んじゃおう。」
そう言うと、コップに日本酒を注ぎ、一気に飲み干した。
しばらくして、酔いがまわってきたのか、傍にまるで悠美がいるかのように独り言を言い始めた。
「悠美、あんたって、最期まで小さくて……。」
(何言ってるの、舞ちゃんとあんまり変わらなかったじゃない。)
「笑うと、目がなくなるみたいな、ちんちくりんな顔をして。」
(えー?!
悪かったわね。)
「でも、その笑顔が、とっても可愛かったわよ。」
(ありがと。)
「すました顔の時は、誰に似たんだろう。
知ってた?
ずいぶん美人さんだったのよ。」
(あら、舞ちゃんより?)
「なのに、何で先にいっちゃったの?
寂しいじゃない……。」
(……ごめん……。)
舞は、こらえきれず嗚咽を漏らして泣き始めた。
リビングのドアの外では、春彦が立って、様子を窺っていた。
春彦も、喉が渇いたのでキッチンに行こうとしたが、舞の声が聞え、遠慮していたのだった。
(母さん、あまり飲み過ぎないようにね。)
春彦はリビングを横切ってキッチンに行くことを諦め、部屋に戻っていった。
舞は、ひとしきりさめざめと泣いた後、宙を見上げて、ぼそっと独り言を言った。
「悠美、春彦のこと、ありがとうね。
でも、あの時と違うのは、あなたがいないということ。」
舞は何かが胸に引っかかっている気がした。
そう、春彦の心のピースが1つ欠落していたことを知る由もなかったが、漠然とした不安が心をよぎっていた。
悠美がいなくなった心の穴を、春彦と佳奈は、無意識に支え合い、埋めて行きます。
多感な学生生活が始まり、春彦に変化が現れてきます。