自分の体臭に気付いた悪夢の日
前作に引き続き短編のつもりで書き始めたのに気が付けば長くなってしまいました…。
全5話で終わる予定です。タイトルは後に変わる可能性があります。
少しでも楽しんで読んでいただければ嬉しいです!^^
それはリリアナが9歳の頃。
「リリアナ……すごい匂いだ。これはやばい。すぐにお風呂に入った方がいい」
ハドリーは見たこともないような顔をして鼻を腕で覆いながら言い放った。
ものすごく顔をしかめている。ものすごく嫌そうだ。
それは、雷に打たれたような衝撃―――。
リリアナは号泣した。
「ごめんリリアナ!そんなつもりじゃなかったんだ!!」
ハドリーが扉の向こうで必死に叫ぶ。部屋からは一瞬で追い出された。
リリアナは枕に顔を埋めて泣きながらそれを聞いていた。
許すとか、許さないとか、そういう問題じゃないのだ。
ハドリーは狼の獣人で鼻がよく利く。だからきっとものすごく臭かったんだと思う。いつも絶対に嫌なことは言わない優しいハドリーが、言葉を選ぶのも忘れるくらいに。リリアナは別に怒っているわけではない。ただただショックで、ひたすら恥ずかしかったのだ。
リリアナは3日間お風呂に入っていなかった。
その3日の間、ずっと熱にうなされて寝込んでいたのだ。侍女のサーシャがときどき体を拭いてくれてはいたけど、それでは足りなかったのだろう。やっと元気になったからって、そんな状態でハドリーを迎えたのが失敗だった。
「リリアナお願い、話を聞いて!」
話を聞きたくないわけじゃない。悲痛な声に何か言わなくちゃと思うのに、どう返事をすれば良いのかが分からない。
「リリアナ!」
結局リリアナは何も言えなかった。
熱が下がったばかりで気持ちが弱っていたリリアナ。
大好きなハドリーが、リリアナが寝込んでいると聞きつけてわざわざお見舞いに来てくれたのが嬉しくて。ハドリーに会えるのが嬉しくて、他には何も考えていなかった。
サーシャが部屋にいなかったから、きっとハドリーに会う前にお風呂に入るように準備してくれていたのだと思う。でも戻ってくる前に屋敷に慣れているハドリーが扉の前まできてしまい、うかつなリリアナがすぐに部屋に入る許可を出してしまった。
誰かと話す声がかすかに聞こえて、ハドリーの声が聞こえなくなる。返事をしなかったのは自分なのに見放されたような気分になった。
泣きながら思い出す。そういえば一緒に野や山を駆け回って汗だくで遊んだ後に、ハドリーがときどき変な顔をしていたことがあった気がする。もしかしたら今までも臭い時があったのかもしれない。
気づいてしまったらダメだった。もうリリアナの涙は止まらなかった。
自分はそんなに臭いんだ……。
リリアナは人間で、ハドリーは獣人だ。リリアナの家のニーフル子爵領とハドリーの家のディゼスタンス子爵領は隣同士で、互いの家も馬車で行けばすぐだった。おまけに親同士も仲が良い。同い年の2人が出会ったのは3歳の頃。
「はじめまして、ハドリー・ディゼスタンスです」
獣人であるディゼスタンス子爵夫妻の陰からおずおずと出てきたハドリーに、リリアナの目は一瞬で奪われた。側に立つ父親と同じ黒い髪に同じ色の耳とふさふさの尻尾。緊張で潤んだ上目遣いの金色の瞳はリリアナの心を鷲掴みにした。
リリアナの一目惚れだった。
「はじめまして、リリアナ・ニーフルです。あなたの目ってとってもきれい!」
自分を見て満面の笑みで目を輝かせたリリアナに、ハドリーも嬉しそうに笑ってすぐに仲良しになった。2人はそれからいつも一緒にいることになる。最初はお互いの両親が会うときに一緒に連れて行ってもらっては遊んでいたけど、そのうちに護衛と侍女だけ連れてお互いに自分で会いに行くようになった。
「ハドリー!一緒に遊ぼう!」
時にはリリアナがハドリーを誘い。
「リリアナ、遊びに来たよ!」
時にはハドリーがリリアナのもとへ遊びに来て。
「今日は街に買い物に行くの!ハドリーも行かない?」
出かける時には一緒に行きたがり。
「いやだ、帰らない!今日はリリアナと一緒に寝る」
遊びに来ては帰りたがらなかった。
リリアナはハドリーが大好きで、きっといつかハドリーのお嫁さんになるのだと信じていた。ハドリーにも自分を好きになってほしくて、どうしたらいいだろう?と獣人について書いてある本を読んだりもした。
そのうちに、これだけ一緒にいるのだから、きっとハドリーも自分のことが好きなはずだと心のどこかで思うようになった。
「ハドリー、ずっと仲良しでいようね?」
「もちろん、大人になってもずっと一緒だよ!」
好きだというのは恥ずかしくて、でも絶対に離れたくなくてそんな約束をしたりした。ハドリーはいつだって嬉しそうに笑って隣にいてくれた。
5歳になった頃に弟のエリックが産まれた時は嬉しかった。
弟が可愛くてお姉さんになったことにももちろん喜びを感じたけれど、これでハドリーの所にお嫁に行けると思ったのだ。
弟ができてからも2人が仲良しなのは変わらない。小さなエリックにばかり構いがちになることを気にしていた両親は、ハドリーがリリアナと一緒にいてくれることに安心したし、もちろんハドリーもエリックを可愛がってくれた。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
ずっと一緒にいれると思っていた。
それなのに―――。
結局、リリアナとハドリーはすぐに仲直りした。
きっちりお風呂に入って、お母様とサーシャに匂いの確認をしてもらい。
不安でドキドキしながらハドリーを部屋に呼んだリリアナは驚いた。リリアナを泣かせてしまったショックでハドリーも泣いていたからだ。涙でぐちゃぐちゃの顔を見て考える。嫌われていて意地悪を言われたわけじゃないんだと安心するべきか、ということは優しいハドリーが思わずポロリと零すほど自分は臭いんだと悲しむべきか……。
とにかく、その後はすっかりいつもの2人に戻っていった。
だけどそれからリリアナは、今まで気にしたこともなかった自分の匂いが気になるようになった。
家族に臭いなんて言われたことはないし、もちろんそれ以外の人にも嫌な顔をされたことはない。でも人間には大丈夫でも獣人にはダメな匂いもあると聞く。そのうち無意識に獣人の側にはあまり近寄らないようになった。
他国では毎日お風呂に入るという習慣がない場所もあると聞く。この国のように広い浴槽のあるお風呂がなく、体をお湯で流すだけの国もあるのだとか。だけど国民の獣人の数が他国に比べてとても多いこの国は入浴文化の広まりが早く、元々綺麗好きが多いのだ。
リリアナも年々綺麗好き、お風呂好きが加速していき、比例するように外を駆け回って遊ぶのを控えるようになっていった。ハドリーがそれを寂しがっていたのも知っていたけど、そのハドリーに臭いと思われたくなかったのである。
汗をかかないように日陰を好むようになると、どんなに両親に注意するように言われたって日に焼けがちだった肌も、元の色白に戻っていった。成長とともに勉強にも精を出すようになり、どんどん淑女らしくなる。
それでもハドリーはリリアナと一緒にいた。
だけど、どれだけ隣で時間を過ごしても、リリアナは前のように根拠もなくハドリーと結婚できるのだと思うことはなくなった。いつでも心のどこかで不安なのだ。ふとハドリーの表情が曇ったように感じるだけで気になった。あの出来事の後、2度とハドリーがリリアナの匂いを指摘することはなかったけど、心の中までは分からない。そのうち昔のようにいつも素直なリリアナではいられなくなっていく。何があっても傷つかないように、まるで自分の心を守るように、少しだけハドリーに対して素っ気なくするようになった。
それでもやっぱりハドリーはリリアナと一緒にいた。
リリアナがそれを拒むことは一度だってなかった。
ハドリーのことが、ずっと変わらずに大好きだったから。
**********************
あれから随分時間が経って、子供だった2人も16歳になった。
今は15歳から18歳の4年間通う学園の2年生になったところだ。
リリアナはあの日のことを今でも度々思い出す。
汗をかいたとき、熱を出したとき、夜眠れないとき。あとは、ハドリーの顔を見ているときに唐突に思い出して羞恥に苦しむ瞬間もある。ああ、穴があったら入りたい。むしろもう一度生まれなおしたい。今度は爽やかな体臭でお願いしたい…。
「リリアナ、聞いてる?」
むっとした顔で覗き込んできたハドリーから、ふわりと彼の匂いがする。
ハドリーはずるい。いつだっていい匂いだ。
「聞いているわよ。新入生歓迎のパーティーでしょ?」
「じゃあ俺と一緒に行ってくれる?」
上着の裾から覗く黒いしっぽをブンブン振りながら首を傾げるハドリー。
「いやよ。絶対行かない。」
「どうして!」
「パーティーの同伴者は婚約者か恋人と相場は決まっているのよ」
「だから、俺は……」
その時、ハドリーの言葉を遮るように強い風が吹き抜けた。
暴れる髪を手で押さえながらリリアナははっとする。
「じゃあ私、そろそろ行くわね。ハドリーも早く戻らなきゃ授業に遅れるわよ」
素早く立ち上がり、二人で並んで座っていた裏庭のベンチを後にする。
別のことで頭がいっぱいになっているリリアナはハドリーの物言いたげな表情には気づかなかった。
……危ないところだった。今日はとても天気が良くて、ちょっと暑い。
少し汗ばんでいるような気がしないでもない。校舎の中に入り、誰にも見えない柱の陰に隠れると素早く自分の匂いを嗅いだ。うん、特に匂いナシ。
獣人と人間の嗅覚には大きな差があるから、自分では分からなくてもハドリーには匂ったかもしれない。その可能性には気づかないふりをして今度こそリリアナは教室へ向かった。
―――――
『かつて獣人には魂の伴侶、運命の相手と言われる存在がただ一人いると言われていた。
番である。
獣人は番だけを欲し番だけを愛した。それ以外を伴侶として受け入れることはしなかった。
それは性質等という生易しいものではなく、魂に刻まれた正しく強い本能だった。
しかし、その本能が揺らぎ始める。
長く戦争が続き、命を落とす者が増えたことで必然的に番を失う者が増えた。
自由に番を探すことが制限され始め、出会えない運命が続いた。
それは時代のせいだったかもしれない。悲しみを乗り越える為の生物としての知恵だったのかもしれない。番と結ばれなければ狂ってしまうと言われた本能の中で、まず、狂わない者が現れた。
次に、番を得られない者同士で結ばれるということが珍しくなくなっていった。
番は特有の匂いを発し、一度嗅げばそれを知らぬ頃には二度と戻れぬと言われていたが、そうではなくなった。そうして時代が変わるうちに気付けば番を求める本能は消えていた。
後には本能の名残として、匂いの優劣で好感や嫌悪を抱きやすいという特性だけが残った
。こうして獣人は進化した。個々人で伴侶を選ぶようになり、様々な背景から人間と共存するようになっていく。番は魂の伴侶ではなく、自ら選んだ唯一を指す言葉となったのだ。』
――――――「獣人の本能と進化 著:バスター・デイビス より」
学園の女子寮の自室で机に向かったリリアナは、何度も開いてくたびれた表紙を指で撫でる。初めてこの本を読んだ幼い頃、希望に満ち溢れていたことを思いながら。
今日はたくさん昔のことを思いだした。楽しかったことも辛かったことも頭を巡ったけど、思い出の中でもいつだって隣にはハドリーがいた。知らず口からため息が漏れ出る。
当時のリリアナはまだ小さくてこの本を全く読めなかった。ただそれが獣人のことを書いてある本だということは表紙の絵で分かる。大好きなハドリーのことが何か分かるかもと侍女のサーシャに読んでとねだると、リリアナにも分かるように簡単に内容を話してくれた。
「つまり、獣人さんはいい匂いの人を好きになるの?」
「そういうことが多いかもしれませんねえ」
さらにその後少し成長し、自分の体臭に絶望した後のリリアナは家庭教師に聞いてみた。
「獣人は自分にとって苦手な匂いのする相手に対してどのようになりますか?」
質問が抽象的過ぎてよく分からないと首を捻りながらも家庭教師は答えてくれた。
「友好を築くことはできます。嫌悪感を抱く匂いだからと攻撃したりなどはしません。ですが獣人にとって匂いの嫌悪は生理的嫌悪です。人としての付き合いはできても、例えば伴侶に迎えることは絶対にできません」
急に泣き出したリリアナに何かを察した家庭教師が大慌てで「絶対は言いすぎました。今は伴侶に迎えることもあるかも」とフォローしたが遅かった。だがそのとき家庭教師は新任で、ハドリーのことなんて知らなかったのだから責められまい。いい先生だった。
どんなに人として好意を持っていようと、獣人の匂いに対する嫌悪は絶対だ。
それが本能というものである。リリアナは悟ってしまった。
ハドリーはリリアナのことは好きだから、匂いを我慢してはくれるかもしれない。
でも、絶対に、この恋は叶わないのだ。
リリアナが、臭いから……
よりによって失恋の理由が酷い。
切なすぎる現実である。