時がきた
上原家訪問当日がやってきた。
「お待たせ」
出発時刻があと数時間後に迫る頃店に現れたのは、ヘアメイクの道具を持った苑。事前に、苑に軽くメイクとヘアアレンジをしてほしいと空が頼んでいたのだ。
今回の上原清次郎の快気祝いは、清晴からの連絡だと厳選したごく少数人数での会だと言っていたそうだが、美羽の実家上原は、実はそこそこ有名な料亭だった。聞くところによれば、芸能人や企業の社長、財閥会長、層々たるメンバーが御用達だという。
このことを知った空は、最早、これはただの母の実家訪問ではない。軽い気持で向かってはきっと大恥をかくに違いないと確信した。
どうにかこうにか出来ることをやって、少しでも見栄えよくして臨まなければ……!
「——って、言っても……意気込みだけで、結果は苑ちゃん頼みなんだけど」
「何言ってんの。俺にできる事なら何でも協力するよ。まあでも、空ちゃんはそのままでも十分可愛い女の子なんだけど」
「俺もそうは言ったけど、納得しようとしなくてな」
髪を梳かす苑の側で様子を見守る暁が言うと、空は思わずぶんぶんと首を横に振ってしまい、苑に「あ、動かないでね」と言われてしまった。
「お父さんとお母さんの子供だけど、何より、暁君の娘として出席するんだから、ちょっとでも暁君が凄いと思われるような娘らしくして行きたいの!」
「……空、ありがとうな」
「うーうん。ありがとうは、私の台詞だよ。改めて、私は暁君に育てて貰えて良かった」
「お前は、俺には身に余るくらい自慢の娘だよ」
鏡越しに見つめ合う親子のそんな会話を聞きながら、苑も口元に笑みを浮かべる。
暫くして、ヘアメイクが終わりを迎えるころ、見送りをするため望夢と飛鳥と海の3人が現れた。
「よう」
「望夢君、飛鳥君、海君!」
「紫は親父さんと一緒に先に行ってるって」
「うん、分かった」
紫から言付かった望夢の言葉に空も笑顔で応じる。空は勿論、この場に居るみな、今日の会に紫が同席をすることで不安を打ち消すことが出来たのだ。
空の着替えを待っている間、時計を眺め立っていた望夢の姿が目に入った暁は、彼に歩み寄っていくと声を掛けた。
「お前も同乗しろよ。空もその方が落ち着くと思うから」
「ありがとうございます!」
無理だと分かっていても付いていきたいほど心配していたらしい望夢の表情が、暁の一言で一気に明るくなった。
「……こちらこそ、ありがとうな」
「え?」
「空と出逢ってくれて。空を好きになってくれて。あいつの男が望夢、お前で本当に良かったよ」
「暁さん……っ」
まったく予想だにしていなかった言葉に、望夢の瞳が揺らいだ。
嬉しそうに下げる頭にポンと、手を乗せる。ふと、思った。
大地が生きていたら、【彼氏】をどんなふうに扱っただろうと。
自分としては、望夢は若いのに気が遣いすぎるくらい遣えて、何より空を大事に想ってくれているから、文句なんてないし、心から、空と出逢ってくれたことに感謝している。
けど、苑が言うように、本当の父親だったら、こんな温かい気持なんかじゃなくて、身を斬られるような苦しみというモノを感じるのか?
あの人もそうなのだろうか……。―—いや、違う。一度だけ、聞いたことがあった。暁はまだ大地が生きていた頃にした会話を思い出した。
『もし空に彼氏が出来たら?』
『一度くらい考えた事あるでしょう? やっぱり怒るわけ? 反対?』
『そうだな……空が幸せそうに笑えているような奴だったら、俺は寧ろ賛成だな』
『ふーん。まあ、俺もだけど』
『は? 暁、お前、空の兄貴どころか、父親気取りか? あははは!』
そうだったな、大地さん。あんたは一緒だもんな。
きっと、笑顔で喜んでくれているよな。
・・・・・・
「「空、気を付けてな(ね)!」」
「うん。行ってきます!」
車に乗り込んだ空は後部座席の窓から飛鳥と海に手を振った。
そしてとうとう空を乗せた車は母親の実家へ向かった。
一時間程走って、車は目的地に到着した。
「暁君、望夢君、ありがとう」
「俺らのことは気にしないでいい。初めての場で緊張するだろうが、どうせなら楽しんで来い」
「紫に会ったらよろしく伝えておいてくれ」
「うん。行ってきます!」
車から降りて見送ってくれる暁と望夢の二人に小さく手をって空は笑顔で別れた。
「あの……上原家は、本当に空のことを歓迎しているんですか?」
空の姿が見えなくなったあと、望夢は車に乗り込みながら暁に訊ねた。暁は、少し間を置きながらそれに静に応える。
「……分らねえ。でも、空は多分、自分の目で母親の家族がどんな人間なのか、母親はどんな人物だったのかを知りたいと思って、出席を決めたんだろうからな。知るべきだと思うし。俺に出来ることは、空の背中を押してやる。それだけだった」
「暁さん……」
「それでも、空が行きとは違って辛そうな顔で戻って来た時には、黙っちゃ居ねえがな」
「はい」
暁の強い眼差しに、内に秘める空への想いを感じた望夢は、一緒にいられないことを歯痒く思いながらも、空が傷つくことがないよう祈った。
「空ちゃん!」
聴き慣れた優しい声が空の名を呼んだ。
建物は最初のは入り口から【上原】と書かれた暖簾のかかった奥の入り口まで石畳の道が続いている。そこを進んだ先に立っていたのは、グレーのジャケットに身を包んだ大人ぽい姿の紫だった。
「紫君! 待っていてくれたの? ありがとう」
外で空が到着するのを待ってくれていた様子の紫に駆け寄りお礼を口にすると、彼は優しく微笑みかけてくれる。
「うん。今日は暁さんや望夢に代わって空ちゃんをサポートする為だけに来ているからね。空ちゃん今日はすごいおめかししているね。髪もかわいい」
「ありがとう。暁君に恥をかかせるわけにはいかないから、ほぼ苑ちゃんの力だけど……! でも、既に緊張していて、紫君が一緒で本当に良かったと思うよ! 今日は宜しくお願いします!」
紫と空がそう言って笑い合っていると何だか隣に気配を感じた。
「——うん。実に、似合いの二人じゃないか。今からでも遅くはない。空さん、紫に乗り換えんかね?」
「わっ? あ、紫君のお父さん……!? ご無沙汰しています。あ……っ、その節は、途中で帰ってしまって、すみませんでした!」
相変らず紳士的でオーラたっぷりの紫の父・橙の存在に気が付き、空は大慌てで挨拶をした。一方橙はそれは優しい目をして空を見返す。
「あれは、この愚息が悪いので君が負い目を感じる必要は一切ないさ。むしろ、またいつでも遊びに来てほしいんだが、どうかな?」
「えっと……、紫君の親友としてでしたら、是非」
そう言うと、明らかに橙は肩を落とすが、その様子を横目に紫は笑った。
「だから言っただろう。空ちゃんは今までの子たちとは違うんだって」
「だから惜しいんじゃないか! 俺は……っ、空さんのような女性に是非久遠家に入ってもらいたいと!」
「はいはい。もう聞き飽きたから。それより、いいの? 上原清次郎さんに早く挨拶しないと失礼じゃない?」
「あ……っ、そうだった。紫お前もだぞ。あと、空さん、紫から聞いたが、上原さんのお孫さんだそうだね。一緒にご挨拶に行くかね?」
「あ、ありがとうございます。是非……!」
橙の厚意に甘えついていく空は、母の父である男性についに会う時を迎えた。