突き動かされる心
「おう、翠と愛穂さんじゃないか!」
橙の声で、空はハッとした。新たに現れたのは、紫の長兄の翠とその婚約者愛穂だった。空は思わず隣の紫を振り向くが、紫はとても落ち着いている様子だった。
「よく来た。2人もかけなさい」
「ただいま親父、お袋」
「お邪魔します」
2人が橙と朱里へ挨拶をし席に着こうとした時、紫と隣に居る空に気付く。
「紫、こないだはありがとうな」
「うん」
「あ、君も来ていたんだね。確か紫の友達だよね?」
「はい。お邪魔しています」
「また会えて嬉しいよ」
空が挨拶すると、翠は穏やかに微笑みながらそう言った。
その隣には、愛穂が少し落ち着かなさそうに伏し目がちで立っている。こないだの一件以来、2人は会うのは初めてだと聞いているし仕方がないだろう。
紫はどうするのだろうと少し心配しながら様子を見守っていると、側に置いてあったワインボトルとグラスを手に、彼自ら愛穂の方へ近づいて行った。
「愛穂さん、久しぶり」
「紫君……」
愛穂の表情を正面から受け止めた紫は、苦微笑混じりに眉を下げる。
「その表情の原因は俺だよね。本当にごめん。……正直、こないだの言葉は解かっていただろうけど、本心じゃなかった。まだ俺の中で心の整理がついていなくて、苛々していたんだ」
「……うん」
「でも、俺吹っ切ったからさ、もう気にしないでよ。自分のことだけ考えて、ただただ、兄貴と幸せになって愛穂さん」
「紫君……っ」
「その後に続く言葉は、もうごめんじゃないよ」
そう言うと、目を見開いた愛穂は、暫くして涙を目に浮かべながら頷いた。
「ありがとう……っ!」
漸く大切な女性を笑顔にすることが出来た紫も、こないだとは全然違う、心からの笑顔を彼女に見せた。
「あの時は言えなくてごめんね。結婚おめでとう。兄貴のことよろしくね」
空は穏やかな表情で笑い合う紫と愛穂の2人を見つめながら嬉しく思った。
本当に、良かった……っ!!
・・・・・・
温かく優しい時間が流れるなか、突然インターフォンが鳴った。
「ん……? 客か?」
「今日は家族以外は空さんしか呼んでいないがな?」
不思議そうに顔を見合わせる久遠家の人々。代表で朱里が席を立つと、モニターを見てあらと声を上げた。
「誰だ?」
「……それが、紫、あなたのお友達よ。望夢君」
橙から息子へ目線をスライドさせる朱里の言葉に、紫と空は顔を見合わせる。
「どうして望夢君が……?」
空が彼の顔を見るも、紫の表情はさほど驚いていなかった。
橙は身内しか呼んでいないと言っていたけれど、紫が呼んだのは誰が見ても明らかだった。
「母さん、望夢を中へ通して」
「紫、一体どういうことだ? お前が彼をここへ呼んだのか?」
怪訝そうな橙に振り返った紫は頷いた。
「ああ。俺が今日家でパーティーがあることを伝えた。でも、あいつがここへわざわざ来たのは、親父を祝うためじゃないから」
「何?」
「あいつがここまで来たのは、空ちゃんを連れて帰るためだよ」
「え……っ?」
空だって驚いているが、紫の言葉に、その場にいる全員が空に注目した。そんな異様な空気のなか、朱里の案内で望夢が中へ入ってきた。
「とても大事な日に、突然お邪魔して申し訳ありません。……失礼だと承知で、そこにいる空を迎えに伺いました」
望夢は、これまで見たこと無い程緊張した面持ちでそう口にした。すると、紫がゆっくり望夢に歩み寄って行き彼に微笑みかけた。
「良かった。望夢、俺はどんなに遅くなっても、お前は必ず来ると思ったよ」
「紫……、それじゃあ、やっぱお前わざと……っ? ——悪い。結局……こんな形になって」
「謝るな。俺が自分でしたことだ。お前にマジで来てほしくなかったら、そもそも今日の事を報せたりしないし、とっくに親父やみんなに、空ちゃんのことを将来的な意味も踏まえて紹介していたよ」
紫がそう言った瞬間、橙がガタッと椅子を倒しながら立ち上る。
「紫……っ、ちゃんと説明しなさい!! どういうことだ!?」
「親父、俺は空ちゃんのこと本当に大好きだよ。……でも、彼女と結ばれるべき相手は俺じゃない。それに、俺はどうしても親友を応援したいんだ。だから、親父の思惑は解かっていたけど、敢えて今日望夢を呼んだ」
「なっ……、それはつまり……」
「はい。……俺は、そこにいる小鳥遊空のことが好きなんです」
橙に返答したのは、紫ではなく望夢自身だった。
「……っ!?」
当然一番驚いたのは空だったが、あまりにも大きな衝撃で声にならなかった。
そんな空を横目に、暫く橙と紫、そして望夢の会話が続く。
「驚いた……。本当かい?」
「はい。すみません……っ」
望夢が表情を曇らせながら頭を下げると橙は大きく首を横へ振った。
「いや……謝ることはない。2人の会話の流れから薄々感じてはいたが……、ということは望夢君……あのことはもう吹っ切れたということなのか?」
「……それは、」
「親父……っ、今はその話はしなくていいだろう!!」
「だが、そこを置いては纏まる話も纏まらぬというやつだろう。——第一、何も知らせないで空さんに本当に想いが届くと思うのか?」
一体何の話なのかわからない空だったが、3人のやり取りに緊迫した空気は十分に感じていた。
望夢の声も震えている気がして、何だかとても胸が締め付けられた。しかし、次に望夢が言った言葉はその想いを一蹴させるものだった。
「仰る通りです。俺はずっと過去から逃げていました。最近まで、抱えるモノがあまりにも大きすぎて、向き合うくらいなら、今あるべきものを失くした方が楽だとさえ一度は考えました……。でも、彼女は……空は、悩んでも、立ち止まって見ても捨られないくらい、既に俺の中で大きな存在なんです。だから今日は、覚悟を決めて此処までやって来ました‥…っ! どうか、失礼を承知で、彼女を連れて帰らせて下さい! お願いします!!」
「……彼女に、ちゃんと、全てを話せるのかい?」
「話します。全て、必ず。伝わるか、応えてくれるかは置いておいても、もう逃げないと誓ったので」
橙の、最終確認と取れる問いかけに望夢が真っ直ぐに応じると、とうとう諦めた顔になった橙が紫に向き直った。
「やれやれ……とても残念で仕方がないが、お前の花嫁候補は一から探し直しだ。空さんにはお土産をたんまり渡して、今日の所は帰ってもらいなさい」
「親父……っ。ごめん、ありがとう」
橙に頷くと、紫は既に深く頭を下げている望夢の背に手を置きながら一緒に父親へ頭を下げた。
「空ちゃん、今日は振り回して本当にごめんね……。今度埋め合わせさせて」
紫がそう言うと、空は大きく首を横に振って全力で断った。
「全然……っ。とても素敵な時間を過ごさせてもらったから、埋め合わせなんてとんでもないよ! 紫君のご家族にも会えて嬉しかった!」
「ありがとう」
紫が嬉しそうに笑うと、空も笑顔になった。
「望夢、頑張れよ」
「紫……」
「ここまできて、もう逃げるのは絶対無しだからな」
「解かっているよ。紫、本当にありがとうな」
望夢はそう答えると、どこまでも出来た親友に見送られながら空と共に久遠家をあとにした。
暫く無言で歩き続けていた2人だったが、ふと公園を見付け、望夢が空を誘った。
「空、ちゃんとお前に話したいことがある。時間を俺にくれるか?」
紫の家を出てからずっと心臓はバクバクだし、手には汗を握っている。
彼女がどういう反応をするか恐かったが、言葉を待つこと数秒、空は頷いた。
「……空、さっきも言ったけど、俺はお前のことが好きだ」
「望夢君……っ、本当……?」
「ああ。本当だ。けど空……、俺が好きって言っている意味解かるか? 俺が言う好きは、紫がお前に言っていた友達としてのライクじゃない。恋愛対象の好きってことだぞ?」
望夢は空に対して、有馬の事があったにせよ、どこか恋愛に疎いというイメージを抱いていた。あんなに解りやすい誰かさんの想いにも気が付いていないほどだから、尚更。
しかし、空の反応は予想の斜め上だった。
「は、はい……っ!」
顔を真っ赤にしながら目を泳がせる空を前に望夢は目を丸くする。
「空……」
「信じられないけどっ、夢みたいだけど……っ、私も、望夢君のことが好きなんです……っ。その、恋として……っ」
過去にもしかしたらと思ったこともあったが、自分の想いを殺していたのと一緒に、僅かに抱いていた可能性まで打ち消していたせいか、空からの告白は衝撃が大きかった。
「空っ、マジで?」
「うん……っ。折角仲良くなれたのに、言ってしまったらすべてを失くしてしまいそうで。……ずっと隠し通す気でいたのに夢みたい……。望夢君、大好きです……っ!」
空が全てを言い終えないうちに望夢は動いていた。
全力で、でも傷めないよう、その腕に抱きしめる。
「俺も、大好きだ」
すると、空の顔はますます赤く染まっていく。見つめながら嬉しく、愛おしく思う反面、緊張が先ほどより更に大きく襲い掛かる。
「空……、あと一つ、どうしてもお前に話さないといけないことがあるんだ」
「それって、紫くんのお父さんや望夢君達がさっき話していた話ですか……?」
既に何かを察し、聞く態勢に入っている空の頭を撫でると、望夢は表情硬く頷いた。
「ああ。……俺の過去の罪についてだ」
どうしても、この話をすると声が震える。 目線を落とせば、手まで震えていたのに気が付き、咄嗟に背中に隠そうとすると空がその手を捕まえて阻止してきた。
「隠さなくていいです……。望夢くんの全てが知りたい。抱えているものを受け止めたい。私も、望夢君の表情や語っている時の様子を見て、自分なりに決めていたんです」
「空……っ。ありがとう」
望夢は空とベンチに座ると、今度こそ心を決め、静かに語り始めた。
「俺には、同い年の名取安梨沙っていう従兄妹がいるんだけど……、その安梨沙のことを小学生の頃、事故に追いやった」
「え……事故……?」
望夢がそんなことをするなんて信じられなかったが、だからこそ彼の話を確りと聞こうと思った空は、望夢が再び話し始めるのを待つことにした。
「安梨沙は俺のことが好きだった。それは自惚れとかじゃなくて、ハッキリ告白もされたし、側目から見てもそうだと誰もが解る態度だったんだ。だけど、タメってこともあって昔から仲は良くても、俺にとってのあいつは従兄妹でしかなかったから告白をされてもずっと断ってた。……それでも、タフな安梨沙は諦めてはくれなくて、ますます自分のことを受け入れて欲しいと躍起になりはじめた。それで……俺は、次第に安梨沙の想いが重たく、鬱陶しく感じる様になっていったんだ……」
あの日、望夢はもうかれこれ何十回目かわからない告白をするために自分の元へやってきた安梨沙を追い返そうとしていた。
『……安梨沙、悪いけど、何度言おうと俺の気持ちは変わらない。安梨沙のことは従兄妹以上に思えないし、これ以上告白されても困る。……正直、キツイんだ』
『望夢……っ、お願い、あたしを拒絶しないで!? 本当に、望夢が好きなの……っ!!』
『周りをよく見てみろ。俺なんかより、もっといい奴が、お前に合う奴が居る筈だ。……暗くなる前にもう帰れ。これ以上叔父さんたちにも心配かけるな』
『嫌よ……っ!!』
『いい加減にしろ!! 何で気付かない? お前は意地になっているだけだ。 これ以上しつこくするなら、お前とはもう会わねえからな!!』
『そんな……っ、なによ、望夢の馬鹿!!』
涙で顔を濡らながら怒って走り去って行く安梨沙を見ても、その時はこれで解放されるくらいにしか思えなかった。漸く手に入れた安息の時に意識を奪われていたんだと思う。
直ぐに後悔が襲うとも知らないで。ふと再び見た瞬間、凍り付いた。——彼女のすぐ近くまで車が迫っていた。
望夢は声にならない叫び声を上げた。
『安梨沙っ……!!』
キキィ―――ッ!!!ドォン!!!
今でも夢に見て魘されることがある。耳を劈くような、騒音と悲鳴。傷つき、道路に投げ出された少女の姿。横たえて動かない身体を運んでいく救急車のサイレン。
全てが、自分の意識をあの日に、何度でも連れ戻す。
「安梨沙は病院へ運ばれ、幸い命に別状はなかった。でも……俺は気持ちに応えられないくせに、安梨沙をちゃんと強く突き放すことが出来なかった。結局キャパ超えて、いっぱいいっぱいになってから無責任に安梨沙に怒鳴って……っ。その所為で気が動転していた安梨沙は、車が迫っていた道路へ飛び込んで行っちまったんだ。馬鹿だよな……。俺がもっとちゃんと考えてやっていれば……」
「でも……、それは望夢君なりに安梨沙さんを傷つけないようにと思ってしていたことでしょう……?そこは安梨沙さんにも伝わっているんじゃないかな……っ」
「……安梨沙は、事故のせいで足が不自由になって、今は車椅子生活を送っている。運動神経が良くて活発な奴だったのに、そんなあいつから俺は自由を奪った」
「望夢君……」
「安梨沙が運ばれた先さ、紫の家の病院なんだ。だから、紫を含め久遠の人達は俺と安梨沙の間に起きたことを知っているんだ。今もリハビリ治療で世話になってる」
「そうだったの……」
「最初に比べたら全然動けるようにはなったけど、完治は難しいだろうって。だから、あいつがリハビリに行く日はなるべく付き添って、少しでも手伝えることがあればやっているんだ。前に俺と紫が居なかった日あったろ? あの日もリハビリだったんだ。——俺が好きなのは空だけだけど、安梨沙のことを切り離すことはできない。何かあれば、俺は安梨沙を優先することもあるかもしれない。それで、気持ちを伝えるなら同時にこのことについても話さないといけないと思ってた。……聞いてくれてありがとうな」
「……そっか。望夢君、こちらこそ辛い話を聞かせてくれてありがとう」
語り終えた望夢は、心まで過去に戻ったかのように憔悴しているように見えた。
空は、そんな彼を見つめ、想像以上だった抱えるものの重さに望夢のそれまでの苦悩を考えると自然と涙が溢れた。でも、悲観ばかりしていられない。空は空で、覚悟を決めたのだ。
「私ね……、不謹慎かもしれないけど、そこまで悩み苦しんでいた望夢君が、それでも諦めないで私を迎えに来てくれたことが何より嬉しいです」
「空……」
望夢の手を取ると、彼はハッとした顔をこちらへ向けた。
「望夢君がもし好きだと言ってくれなかったら、私はこの想いを一生伝えることはなかったかもしれない……。やっぱり、どんな時も望夢君の言葉は、私に一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。だから、今度は私が望夢君に勇気を、踏み出す力を与えたいです!」
空の握る力が強まる。そして空は、少し間を置きすぅっと息を吐くと、そのまま言葉を重ねた。
「起きてしまったこと、過去は絶対に変えられないけれど……、今、私達の未来が思わぬ方へ変わった様に、【未来】は自分達の想いと行動一つで、どんな風にでも変えることが出来るよ。私は望夢君が好きって言ってくれた瞬間から、一緒に重たい荷物を背負う覚悟は出来ています。というより、気合全開です! ……だから、どうか私も一緒に、安梨沙さんに向き合わせてくれないかな?」
空は、今度は手の力を弱め、望夢のか細く震える手を包み込むように形を変えると、にこっと優しく微笑みかけた。
その顔を見た瞬間、望夢の目からはぽろっと涙が零れた。
「空……っ、俺……、本当に、お前に出逢えて良かった……っ」
望夢が初めて見せる涙に、空の胸も熱くなった。
そして、空はまだ見ぬ安梨沙へ想いを馳せた。
安梨沙さん、今行きます。どんな罵声を浴びても良い。どんな目に遭っても、私はあなたに伝えたい言葉があります。