久遠一家
「1人? 空ちゃんは?」
階段を上がり教室へ向かった望夢に、入り口の前に立っていた紫が声をかけてくる。見たところ、待っていた様子だった。
「……ちょっと遅れて来る」
さっき、去り際に見た空の表情を思い出して短く返答すると、何かしら思ったらしい紫の目の色が変わる。
「ふーん……そっか」
「お前さ、昨日俺が行く前、あいつと何かあった……?」
「何が?」
「明らかに……今までと違うし」
さっきの衝撃的な台詞は、それを一番に物語っている。
『大好きだよ』
少なくとも、望夢が知る中で紫は、あんなことを簡単に異性に対し口にすることは有り得なかった。飛鳥とはまた違った意味で、紫は本来深く異性とは繋がろうとしないのだ。そりゃ、空と他のクラスメートじゃ位置づけは変わっているだろうけれど、長年の付き合いからして、こんなことは初めてだと言える。
これではまるで……。
頭の中に1つの考えが過った時、意識を呼び戻す声が聴こえた。
「もしかして、望夢嫉妬してる?」
「は……っ?」
弾かれるように顔を上げれば、フッと意味深な笑みを浮かべる紫と視線が合った。
「空ちゃんと俺のことが気になるの? ……というよりも、俺の本心かな?」
「……違う。俺はただ、珍しいことを言ったから……っ、どうしたって思っただけだ」
「へぇー。じゃあ、俺が空ちゃんを好きになっても問題ないね」
「……は?」
望夢は、鈍器で強く頭を打たれたような強い衝撃を受けその場に固まった。
――何だって?
「でもお前……愛穂さんは!? もし、愛穂さんを忘れるためにあいつを好きになろうとしているなら……っ」
「望夢、愛穂さんのことはもう終わらせることにした。俺の中で、昨日でケリをつけたんだ。……簡単には信じて貰えないかもしれないけど、空ちゃんが支えてくれたおかげで、俺の中で大袈裟だけど一生抜け出せないんじゃと思っていた想いに、やっと終止符を打てたんだよ」
「紫……」
「本当はさ、望夢が空ちゃんのことをまだ諦めていないなら応援したい気持ちもあるけど……、空ちゃんみたいな子は滅多にいないから。望夢が本当にこのまま動かないつもりなら、俺が彼女の隣で、あの笑顔を見ていたいなって思うよ。……空ちゃんが笑うとさ、幸せな気持ちになれるんだよね」
「……っ」
望夢は、返す言葉が出てこなかった。
長年一緒に居たから嫌でも分かる。 紫は、本気だ。
・・・・・・
「ちょっと、煩いんだけど。早く止めてくれない?」
迷惑そうに抗議する弟晴輝の声で目覚めた望夢は、携帯が鳴り続けていることに漸く気が付いた。
「あ……悪い」
重い身体を引きずるようにしてどうにか携帯を手に取りメッセージを確認する。
「紫?」
相手は、紫だった。紫とは金曜日の【告白】以来、何となく気まずいままだったがメッセージを開いてみた。
<おはよ。起きた?>
「何だ……?」
<今、起きた。何か用か?>
指を動かし返事を送ると、直ぐ応答があった。
<今日家に空ちゃんが来るみたいなんだよね>
「……は?」
直ぐ理解が出来なかった。何故、空がいきなり紫の家へ行くことになるのか。
<何で?>
<親父のやつ、こないだの健康診断の時に姉貴の連絡先を空ちゃんに渡していたらしくて、勝手に自分の誕生パーティーに呼んだらしい>
「……マジかよ」
望夢は携帯を握る手に力を込め、空いた方の手で頭をガシガシと掻いた。
昔から紫の父親橙は、息子たちの結婚相手を探すのに並々ならぬ気合を注いでいるのを知っている。それは紫も例外ではない。
恐らくこの行動は、橙にとって空が紫の将来の嫁候補になったことを意味する。加えて、紫自身が好きな相手であれば、尚のこと現実味のある話になっていくに違いない。
「大丈夫……? さっきから何1人で喋ってんの?」
まだ居たらしい晴輝に望夢は慌てて何でもないと返す。
しかし、何故か晴輝は兄の部屋から去ろうとせず、望夢に探るような目を向けている。
「もしかしてさ……動揺しまくっているのって、こないだの女の人が関係してんの?」
「は?」
「こないだ、紫君を追いかけて行った時一緒にいた人だよ。空だっけ?」
「お前、見ていたのか? ……つーか、空さんだろう。お前より先輩なんだから、勝手に呼び捨てんな」
「否定しないんだ」
「……っ、お前には関係ない! 良いから、もう出て行けよ!」
これ以上詮索されるのは御免だと部屋から強制的に押し出すなか、チラッとこっちを振り返った晴輝の言葉に足が止まる。
「安梨沙さんはもういいんだ?」
「……何が」
「望夢兄……、あの人に遠慮してずっと恋人作らなかったじゃんか」
「あのな、空はそういうのじゃ……」
「でも好きなくせに。俺だってガキじゃないし、見ていたら分かるよ」
「な……っ」
まさかの弟からの爆弾発言に、望夢は開いた口が塞がらない。すると、その隙に晴輝は望夢の携帯を奪い取って勝手にメッセージを盗み見た。
「……ふーん。紫君がライバルなわけね。いいの? こんなのんびりしていて」
「晴輝……っ!? 返せ!!」
「紫君相手にチンタラしていたらあっという間に盗られちゃうんじゃない?」
「……うるせぇ! そんなの……っ、分ってんだよ!!」
つい声を上げてしまい、ハッとする。そんな兄に、晴輝はどちらが年上か分らない落ち着きようで言葉を返した。
「じゃあ、こんなところで油売っていないで、さっさと着替えて迎えに行きなよ」
「晴輝……」
「ほら、早く!!!」
さっきの自分よりも大きな弟の声に尻を叩かれ、望夢は勢いよく支度をすると、もう迷いは捨てて身一つで家を飛び出したのだった。
・・・・・・
「空ちゃん、いきなりで本当にごめんね。でも、来てくれて嬉しいよ」
いつも爽やかな紫だけれど、今日の紫はジャケット姿でいつもよりも大人びて見えた。
この姿をクラスの女子たちが見たらさぞ大騒ぎだろうと、空は自分だけが目にしているのを忍びなく思いながらそんなことを考えた。
「本当に、家族水入らずのところに私が伺っても良かったのかな……?」
苑の手を借りいつもより身綺麗にしてきた空だが、その顔には不安で仕方ないと書いてあった。
しかし、空の格好を上から下まで見つめた紫は笑顔で頷く。
「もちろん。それに、空ちゃん凄くかわいいよ」
「あ、ありがとう。苑ちゃんのおかげだけど」
「苑さんは本当にすごいね。でも、空ちゃんが元から可愛いんだよ。
「と、とんでもないよー……っ!」
「本当に可愛いわー!」
いきなり紫の背後から艶めかしい声が聴こえたかと思うと、黒髪の綺麗な女性が現れた。
「き、綺麗……っ、びび、美!」
あまりの衝撃でまともに声が出せなくなっている空に、黒髪の女性はにこやかに微笑む。
「初めまして、紫の姉の久遠紅です。あなたが空ちゃんね?」
「あ、お、お姉さまでしたか……っ。 初めまして、小鳥遊空です……っ!」
紫の姉と分り慌ててお辞儀をすると、紅はそっと空の頬辺りに手を添えながら笑みを深くした。
「ふふ、なんてかわいいのかしら。是非、久遠家に入って欲しいわ」
「え……?」
「姉さん、余計なことは言わなくていいから!」
紫が睨んで釘を刺そうとするも、紅はケロッとしながらまたも言葉を重ねた。
「私が言わなくても、父様が絶対に言うに決まっているわよ」
「……あの、何のことですか?」
「空ちゃん、気にしなくていいよ」
不思議がる空に、紫はにっこりと笑顔で言った。
そこへ、次は紫の2番目の兄が現れた。
「紫ー!! 元気だったか!?」
「紺……、相変わらず煩いな」
「呼び捨て。そして相変わらずの塩だな。詰まらねーよ」
紫の2番目の兄は紫とは真逆で快活タイプの人間だった。
「初めまして、紫君の友人で小鳥遊空です……!」
緊張しながら挨拶すると、紫の兄は目を輝かせて一歩距離を詰めてきた。
「空ちゃんかー可愛いね! 紫の2番目の兄貴で、久遠紺です。よろしく」
「よろしくお願いします!」
「女子高生かー! いいね! 紫なんて放っておいて、俺と仲良く」
「しないから!!」
空の手を掴み取って握る紺の手を思い切り引き離しながら、不機嫌に紫が言い放った。
「紫君……?」
「空ちゃん、この男にだけは宜しくしなくていいからね! 本当に!」
当惑する空に、紫は涼しい顔で当たりが強い理由を重ね付けた。
「こいつは根っからの女好きで、いつか刺されて地獄へ落ちる予定だから関わらなくていいよ」
「えぇっ!?」
「こら紫、お兄様に対してなんて言い草だよー!」
驚く空の横で口を尖らせた紺が抗議するも、その様子から特段傷ついた感じはない。
ばかりか、空と目が合うとすぐさま綺麗なウィンクを飛ばしてきて、油断も隙もねえな!と、今度こそ紫に踏みつけられていた。
「……はぁ。揃うと改めて、ウチの家族は酷い。……酷過ぎる」
「そ、そんなこと無いよ……っ! とても素敵なご家族だよ!」
まだ空が訪ねてから20分も経過していないというのに、既にげっそりしている紫の背中に手を添えながら力を込めて言うと、顔を上げた紫に少し笑顔が戻った。
「空ちゃん……」
そして、とうとうあの人物が再び空の前に現れた。
「紫! 空さんが来ているなら直ぐに報せないか!!」
「親父」
「紫君のお父さん、お久しぶりです。今日は、お招きいただきありがとうございます……っ。そして、お誕生日おめでとうございます……っ!」
空が慌てて挨拶すると、紫の父橙は目元を和ませた。
「こちらの方こそ、良い歳のおじさんのパーティーなんかに来てくれてありがとう。あなたとは一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていたから、また会えてとても嬉しいよ」
「わ、私なんかでお相手が務まるでしょうか?」
「十分だとも。あ、今日は家内、紫の母親も紹介させて頂きたい」
そう言うと、橙は奥から紫の母親を呼び寄せた。
現れた紫の母は、上質なつくりと思われる繊細かつ綺麗な花柄の着物を身に纏った上品な人だった。
「まぁ可愛い! あなたが小鳥遊空さんね? 息子がいつもお世話になっています。紫の母の朱里です」
「かわいいなんてとんでもないです……っ。あの、初めまして! 私の方こそ、紫君にはいつもお世話にないっています……っ!」
「ふふ、聞いた通りの素敵なお嬢さん。会えて心から嬉しいわ。今日はゆっくり楽しんでいって下さいね」
「あ、はい……っ!」
挨拶から暫くして、空は紫や久遠家の人間たちと食事の席に着き、テーブルに並べられた料理を食べ始めた。
しかし、その間にも久遠家の面々の視線が自分に集中しているのを感じずにはいられなかった。
「ほーんと、見れば見るほど素敵ね。お父さんの話の通り、紫のお嫁さんにピッタリ」
「え……?」
掛けられた言葉に驚いた空は、思わず笑顔のまま動きを止めた。
「母さん! その話は出さない約束だろう……っ!?」
紫が語気を強めて制止するも、時すでに遅し、母の言葉をスタートに橙が斬り込み始めた。
「いいじゃないか、紫。別に今すぐにどうこうって話じゃない」
「当たり前だろう。あのな、空ちゃんは」
「解かっている。素敵な子なのは十分伝わっている」
「解かってねえ!!」
珍しく声を荒げて突っ込む紫を見て、笑うような状況じゃないのかもしれないが、意外過ぎてつい笑ってしまった。
「あははは」
「空ちゃん?」
「あ、ごめんね……っ。紫君の新たな一面を垣間見れて、新鮮で、面白くてつい」
口元を隠しながらそう答えれば、賑やか筆頭らしい紺がトークをつなげていく。
「どうせ紫はカッコつけて、学校ではクールぶってんだろ」
「は? ぶってないし」
「はい、紫君はいつもクールで大人っぽくて、カッコいいです。でも最近、本当の紫君はちょっと子供っぽいとこがあって、実は可愛いということが解りました」
「空ちゃん……っ?」
まさか、空がそんなことを言ってノってくると思わなかった紫は動揺を隠せない。
それを見逃さない紅がすかさず肩ひじを立てながら不適な笑みを浮かべ畳みかける。
「ふーん。紫ってかわいかったの~。知らなかったわお姉ちゃん」
「姉さんは黙って!」
「可愛いと言えば、昔高い木に登って降りられなくなったことあったよな~。あの時の紫は可愛かったぞ!」
「親父も黙ってろ……っ!!」
「確かに! あの時俺に助けて~! って言って、抱いて降ろしてやったら安心したのか、わんわん声上げて泣いてたよな! こいつが面白かったのは後にも先にもあの時だけだぜ!!」
「紺、お前は二度と口を開くな!! ――そ、空ちゃん……っ、ガキの、幼稚園くらいの話だからね!?」
「ふふふ。紫君はやっぱりかわいいね」
「空ちゃん……っ!?」
「「「「あははははっ」」」」
久遠家に明るい笑い声が響きわたったときだった。
「——随分楽しそうな声がしているな」
そんな声と共に、部屋のドアが開けられ誰かが入ってくる気配がした。