笑顔の奥
有馬が転校していき暫く経ったある日。授業の合間に、体育館で1年生の健康診断が実施された。
「出席番号順に並べ。勝手に動き回るなよ」
「「はーい」」
加瀬の指示に従い、1年2組の生徒達は順番を待つ。
「——では次、1年2組の生徒さんは4名ずつこちらへ」
看護師の呼び声に導かれ、生徒達は、器具がセットされた長机の前に居並ぶ医師たちが待つ場所へと、腕を捲りながら向かう。
「採血か……俺、血嫌いなんだよなー」
「加瀬先生ー! 佐竹がやる前から真っ青でーす」
「こいつは多少抜いたほうが授業中静かでいい」
「マジで……っ!? 先生ドライ!!」
「ですね」
「お前らまで!?」
「「「あははは」」」
1年2組の生徒達の笑い声が響く中、会話を聞いていた1人の男性医師が笑を浮かべる。
「このクラスは賑やかで良いな!」
「煩くて申し訳ありません」
加瀬が苦微笑交じりに頭を下げるも、男性医師は首を横へ振り笑を深めて言った。
「いえいえ、良いんですよ。若者はこうじゃないと。それに、うちの倅の先生とクラスの生徒さんたちを、一度この目で拝んでおきたかったのでね」
にこりと柔らかい笑みを浮かべる男性の視線の先には、珍しく笑顔以外の表情を見せる紫の姿があった。
「出たな。久遠家ビッグダディ」
「……最悪だよ」
望夢の声掛けに顔を片手で覆いながら、紫が心底嫌そうに項垂れる。
「もしかして、あの先生が……?」
「ああ。紫の親父さん」
「えっ! 病院の先生なんて凄いね!」
確かによく見れば、紫とどことなく似ている気もするし、男性医師の首にかかった入校証のところに【久遠 橙】と書いてあった。
初めて対面する友達の父親の姿に感激する空だったが、紫は複雑な笑みを浮かべる。
「そうでもないよ」
「紫の家は代々医者の家系で紫の兄貴や姉貴も医者なんだ」
紫と幼馴染の望夢の説明に驚く空だが、紫の優秀さを考えると合点がいった。
「すごい! っていうか、紫君、お兄さんとお姉さんがいたんだね!」
「正確には、兄が2人・姉1人、下にまだ妹が1人いるよ」
「わあー大家族だね」
「喧しいだけだよ」
日頃の様子を思い浮かべてか、そう言う口元には苦笑が零れる。こんなにあからさまな態度に出る紫は初めてかもしれないと空は思った。
「そっかーお医者さんか。……紫君は、将来何になりたいの?」
ふと思いそう訊ねると、紫が何故か目を見開いてこっちを見た。
「……どうしたの? あ、変な事聞いたかな……っ?」
「あ、そうじゃないんだ……っ。ごめん空ちゃん」
誤解した空に紫は慌てて首を横に振って否定するも、何かを思っている様子なのが気にかかった。
「本当?」
「うん。今のは、何て言うかビックリして……」
「え……?」
「そんな聞かれ方したのは久しぶりだったから……」
この時の紫は言葉通り、虚を突かれたのと、嬉しいという感情が入り混じったような表情だった。こういう表情を見るのは初めてだったが、それはこの人も同じだったらしく、紫の父親・橙がとても驚いていたなど、空達は知らなかった。
「よし、終わった奴から教室に戻って自習していろ」
「「「はーい」」」
どんどん待機する生徒が減ってくると加瀬は生徒達を徐々に教室へ帰し始めた。
その声を聞き、望夢が空達を振り返って体育館の出入り口を指しながら呼びかける。
「じゃあ俺らも行くか」
「おう」
「紫、お父さんと話して行かなくてもいいの?」
一応海が気にかけて声をかけると紫は首を振った。
「いいよ。今はあれでも仕事中だしね」
「そっか。じゃあ行こうか」
「うん」
今度こそ揃って教室へ戻ろうと歩き出した時、空だけが誰かに突然後ろから腕を取って引き止められた。
誰かと思って振り返った先に紫の父親の姿があり、空は思わず声を上げた。
「あ……っ、紫君の……!」
「君は、紫のオトモダチなのかな?」
「は、はい。小鳥遊空といいます。紫君とは同じクラスで、入学以来仲良くして貰っています……っ」
「そうなのかい。紫は普段から親に何も話したがらないんだ。望夢君達は中学からよく知っているけれど、お嬢さんは初めて見る顔だったから気になってしまってね。驚かせて申し訳なかった」
「いえ……っ。そうなんですね。紫君にはいつも、本当に親切にしてもらっていて、感謝しているんです……!」
「へえ……? 紫がねー。——それなら、これは紫の姉・紅の番号なんだが、紫の事でもし何かあったらコレにかけてくれると有り難い。ほら、わたしと君が個人的に連絡を取り合うのはよろしくないだろう?」
そう言って橙がメモを空に渡し、空がそれを受け取って制服のポケットに仕舞った時だった。
「親父、空ちゃんに何か変なこと言ってないよな?」
いつの間にかUターンしていた紫が空の背中越しに声を掛けた。
メモには気が付いていない様子だが、橙は少し動揺を感じさせながら言葉を返す。
「そんなことするほど暇じゃないからな、お前の父親は!」
「……どうだか? 空ちゃん、気が付くのが遅くなってごめんね」
「え、大丈夫だよ! みんなは?」
「先に戻って貰った。絶対親父が何かしてると思って。本当……油断も隙もないんだよな」
「そっか。嬉しい。迎えに来てくれてありがとう紫君」
空がそう言って笑うと、紫からも自然と笑みを零れる。
「空ちゃんには敵わないな」
「え?」
「……何でもないよ。早く行こう」
「うん」
橙のことは空気の様な扱いで足早に空を連れ去る紫の後ろ姿を、橙は先ほどと同じく目を見開きながら見送っていた。
・・・・・・
「空ちゃん、本当ごめんね」
「え? どうしてそんなに謝るの……? 何も、紫君だって悪くないでしょ?」
教室へ戻る途中で謝って来た紫にそう言えば、彼は確りと首を横に振ってみせた。
「俺のせいだよ。親父は昔から、子供に対して過干渉でさ。息子相手にも、周囲のことを何かと把握したがるんだ」
「そう……。言われれば確かに、紫君のお父さんは、紫君が大好きだと思う」
「う……っ。それ……けっこうクルね。精神的ダメージが……っ」
喰らった様子を身体を折りながら嫌そうに体現してみせる紫がまたも新鮮で可笑しかった。
「あはははっ」
「……空ちゃん、他人事だと思って楽しんでない?」
「紫君の反応が新鮮で、ちょっと面白くなっているかも」
剥れ面になる紫に言われ、空はクスリと肩を揺らし悪戯笑いを浮かべる。すると、今度は紫の方がが新鮮だという反応の顔になった。
「へえー。空ちゃんもそういうことするんだね」
「ふふ。でも、嬉しいのが一番かな」
「え? ……嬉しい?」
「やっぱり、自分にとって大切な人が愛されているのを見たり感じるのは、嬉しくなるよね」
予想もしない言葉だったのか、空の言った言葉に紫は驚いていた。
「空ちゃん……」
「それに、お父さんをちょっと思い出して、良いなって思ったよ」
「あ……ごめんっ。俺、無神経だった……っ」
「え……っ? あ、違うの! 悲観しているとかじゃなくて……っ。温かい気持になれたっていうことなの。大切な人に私も逢いたくなるような。——お父さん達はもう居ないけど……、私には暁君が居るし、苑ちゃんと、今はみんなが一緒に居てくれるもん。ちゃんと愛情を貰ってる実感あるから、羨ましいけど、決して寂しくないし、心細くはないからね! ってことで、紫君は悪くないの!」
だから、紫君は暗い顔じゃなく笑ってほしい。そういう空の言葉に押され、紫に笑みが戻っていく。
「空ちゃんは、本当にいい子だなぁ。俺らは、空ちゃんと会えてラッキーだった」
「え……?」
一瞬その言葉にキュンとして涙がでそうになるも、続けざまに言われた言葉で空の脳内は混乱に陥った。
「あーあ。空ちゃんがいっぱいいればいいのに。何で1人なのかなー……」
「うぇ……っ? 私がいっぱいいたら、世の中は混沌としちゃうよ……っ? 私も、ドッペルゲンガーどころの騒ぎじゃないし……っ。そうなったら、最終的に、紫君の家族総動員で助けて貰わなきゃ……っ!!」
「え? ……ぷっ。あはははっ!!」
「紫君……っ?」
突然声を上げて笑い出した紫に困惑する空を置いてきぼりに、紫は涙を薄らと目に浮かべながら肩を揺らす。
「ごめんっ……ちょっと、予想もしてなかった反応だったから……っ、ふふ……っ!!」
「どういうこと? 私、なんか間違ったのかな……っ!?」
「いや…。いいよ。それで。空ちゃんはそのままで居て」
動揺する空に、目に溜まった涙を拭いながら紫が言う。
でも空にはあの詞により、深い意味は解からずとも、一瞬紫の心の奥底が見えた気がした。
「……紫君」
「何?」
「もし……もし、話したいことがあったら、いつでも聞くからね」
「え……?」
僅かだが、空の言葉を聞いた瞬間、紫の表情に動揺の色が浮かんだように見えた。
「私は、望夢君達より付き合いが短いし、まだまだ紫君のこと知らない部分沢山あると思うけど、今まで助けて貰った分、私に出来ることで少しづつ返せていければなって……! きっと、確り者の紫君から見たら頼りなく見えるだろうけど……っ」
「空ちゃん……」
「紫君はいつもどんな時も、その優しい笑顔で励ましてくれたなって思って。紫君の笑顔を見ると安心するけど、……きっと、笑顔で居たくない日もあったんじゃないかなって。ーー優しくされたら嬉しいけど、だから好きってことじゃないから、時には優しくない紫君が居ても良いんだよ。私にだって、笑顔以外の表情見せてくれて全然良いからね!」
「……そんなこと、言って貰ったのは初めてだな」
「え……?」
紫の表情はやっぱり笑顔だったけれど、この時に見た笑顔は、これまでの大人びた綺麗なそれとは違って、年相応の、ちょっと照れくさ気な、柔らかな微笑みだった。
「……空ちゃん、ありがとう」
「えへへ。教室戻ろうか」
「うん」
この日は、紫の素顔がみられた気がして空の心は喜びで温かくなった。
・・・・・・
『紫君はいつもどんな時も、その優しい笑顔で励ましてくれたなって思って。紫君の笑顔を見ると安心するけど、……きっと、笑顔で居たくない日もあったんじゃないかなって。——優しくされたら嬉しいけど、だから好きってことじゃないから、時には優しくない紫君が居ても良いんだよ。私にだって、笑顔以外の表情見せてくれて全然良いからね!』
「紫、早いわね」
休日だけどいつもより早く目覚めた紫は、出勤前の姉・紅と出くわした。
紅は、背中までの黒髪にキリッとした目のアジアンビューティー(自分で言っていた)で、産婦人科医をしている。
「ああ、うん……。そっちは仕事?」
「ええ」
「お疲れ。……気を付けて」
「ありがとう。珍しいわね、優しいじゃないの」
ふふふと、ちょっと揶揄と受け取れる笑を浮かべる姉を見て、柄にもないことをするもんじゃなかったと思う。けれど今日は夢見が良くて、何だか人に優しくしたくなれたのだ。
「……いいから。遅刻しちゃうよ?」
「あら、本当。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
紫は、慌ただしく出て行った姉を見送った後、音が鳴ったのに気付きスマホを見た。
<紫、今日ヒマ? 翠>
既に久遠家を出て独り暮らしをしている一番上の兄・翠から送られたメッセージだった。
「……行きたくないな」
気が重い紫は溜息交じりに部屋へ戻り、クローゼットを開ける。
「きっと、あの話だよなー……」
着替えつつ、今度は溜息交じりにスマホを弄ると、LINEの画面を開き【望夢】を選んでメッセージを送信した。
<望夢、今日ヒマ?>
<悪い。晴輝と出掛ける>
<そっか、了解。ゴメン>
「……マジか」
メッセージを送った後、項垂れる。
しかし、直ぐ、追いかけ望夢から返信がきた。
<謝んな。どうかしたのか?>
少し、悩みはしたものの、紫は指を動かした。
<何でもない。晴輝によろしく>
「……はぁ。行くしかないか」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、財布と鍵を手に、足取り重く家を出た。
<どうやって来る? 迎えに行こうか?>
<いい。バスで行く>
返事をした後、紫は丁度やって来たバスに乗り込んだ。
バスの方が、帰りの時間もあるし、早く帰る理由づけになる。
「我ながら……」
後ろ暗い気持ちを抱え、また、ため息交じりに呟いた時だった。
「紫君?」
声を掛けられた方へ顔を動かすと、意外な人物と対面した。
「空ちゃん……」
黄色のブラウスにデニム姿で、白のショルダーを肩に掛けている空がいた。
「良かった、紫君だ。人違いしていたらどうしようかと緊張しちゃった……っ」
「……どうしたの? 1人?」
空は用があれば暁と苑が車を出すイメージだったため、バスで見かけることが驚きだった。
「うん、今日暁君はお店だし。苑ちゃんも小学校の行事を撮影する仕事が入っていて居ないの」
「そっか……。どこかへ用事?」
「ちょっと、会いたい子が居て」
「会いたい子……?」
「うん」
笑顔で頷く空はスマホの写真を紫に見せた。
「かわいいでしょう」
「……猫?」
そう、そこに映るのは、1匹の愛らしい子猫だった。でもどうして猫が関連しているのだろうと思っていると、紫の表情を読み取った空が聞くよりも前に教えてくれた。
「ちょっと前に暁くんと保護した猫なんだ。見つけたのが雨の日で大分弱っていたから心配して近くにあった動物病院に預けたの。今日は先生から連絡貰ったから様子を見に行こうと思って」
「動物病院……?」
「うん。この先の花野動物病院。先生がとても優しくて素敵なの」
そう笑う空を見つめながら、紫の心臓はドクドク音を立てていた。
バスが15分ほど走ると、車内アナウンスが鳴った。
<<○○町・花野動物病院前>>
「あ、私ここで降りるね」
「あ……っ、待って、空ちゃん!」
「……どうしたの?」
不思議そうにする空に、紫は言った。
「俺も実はそこに用事で……」
「え……っ! 本当!?」
嬉しそうに表情を輝かせる空を見て、紫も笑みを作って頷いた。
内心では、今すぐ回れ右をし、来た道を帰りたい衝動に駆られながら。
・・・・・・
バスを降りて紫は空と共に花野動物病院の前までやって来た。
「あら、空ちゃん! いらっしゃい!」
2人を出迎えてくれたのは、眼鏡をかけた40代くらいの優しそうな女性だった。親しそうに話す姿から、この人が空の言っていた猫を看てくれている女医だとわかった。
「美澄さん、あの子はどうですか? 回復しましたか?」
心底心配をしている空に、美澄は安心を誘う穏やかな表情で微笑みかける。
「大丈夫よ。空ちゃんの優しい祈りが届いたみたいね!」
「本当ですか? 良かったー……っ!」
ホッとして今にも涙しそうになっている空を見ると何だか胸が熱くなった。
そんな時、また1つ2つと、院内の奥から足音が聴こえ新たに男女が姿を現した。
「——紫? なんだ、着いていたなら声かけろよ」
「兄貴……っ」
そう、目の前に現れたのは紫の兄だった。その隣には、控えめに並び立つ、スラッとして茶色い巻き髪を胸元まで伸ばした綺麗な女性も一緒だった。
「……紫君、久しぶり」
「愛穂さん……」
今、自分の表情は大丈夫だろうか。ちゃんと、普通だろうか。
隣に居る、恐らく驚いているだろう少女の存在が、何故か余計に紫を落ち着かなくさせた。
「え? 兄貴……って、もしかして、翠君の弟さん?」
「はい。3番目の弟の紫です」
「へえー。やっぱりイケメンの弟はイケメンなのね。顔もそう言われれば似ているし」
「でしょう。俺の次に優秀で、自慢の弟なんです」
翠達が冗談を交えながら楽しそうに談笑しているのを前にしても、紫は一緒に笑う気分になれなかった。どんどん暗い闇に溶け込んでいきそうになる自身の心をどうにか誤魔化したくて、逃げたくて、そればかり考えていると、不意に誰かに腕を掴まれた感覚がした。
「紫君、紫君のお兄さんって……前に話していた?」
「……うん。俺の一番上の兄貴の翠だよ。——……で、隣の女性が、兄貴の恋人の愛穂さん」
触れた手が空だと頭で解かった瞬間、逃げの一択から意識が強制的に切り替わった。空に情けない心の内を晒すことだけはどうにか避けたいという思いが働いたのだ。
それでも、葛藤してほぼ勢いで紹介を済ませたところ、愛穂の驚く様子が目に入ったが知らぬふりをした。
その間に、翠の興味の目が空へ注がれていた。
「初めまして。紫の兄久遠翠です。君は……紫と同じ学校の子?」
「あ、はい。初めまして。小鳥遊空といいます」
「兄貴、空ちゃんは俺の大事な友達だよ。望夢達も一緒に、いつも5人で居るんだ」
紫が空の挨拶に続けて言った紫の言葉に翠の目が驚いたように見開かれる。
「へえ。……まさか、お前に女友達を紹介される日が来るなんてな。小鳥遊さん、紫のことこれからもよろしくね」
「こちらこそです……っ。紫君は、私にとっても凄く大切な友達ですから」
そう言って、緊張しているだろうに翠に笑顔を見せる空に、紫の心が少し軽くなる。
今なら、聞けそうかな。ふとそう思えた紫は、翠を真っ直ぐ見て切り出した。
「……で、話って? もしかして、結婚とかそういう話?」
「あ、バレバレか。あはは。そうだ。紫、俺達結婚する」
翠がそう言いながら愛穂の肩に置く手を、無意識に目で追いそうになるのを耐える。
「そう……やっぱりか。そうだと思ったし。兄貴は隠し事下手だからすぐわかる。おめでとう。親父が誰より喜ぶと思うよ」
「紫、ありがとう!」
喜びを噛みしめるような表情になった翠が、紫にガバッと男らしい抱擁をする。
「は……っ? ちょっと、止めろよ!」
「いいじゃないか! こんな日くらい!」
「嫌だよ……っ!! ホラ、早く……っ!!」
驚きと動揺と恥ずかしさで、紫は必死に翠を押しやる。
「しょうがないな……。 桃ならうわ~って喜ぶのに!」
「あのさ、馬鹿でしょ。小1の妹と一緒にしないでくれない? こっちは16の高校男子だっての」
「はいはい。相変らず塩な弟だよ。悲しいぜ」
「姉貴なら蹴りじゃ済まないと思うけど。……その過剰なスキンシップ、いい加減どうにかしなよね。年々親父に似てきている気がする」
ようやく解放されホッとしながら呆れ気味にそう言えば、翠は何故か嬉しそうに笑う。
「俺は親父みたいになりたいからいいんだよ」
「え……冗談でしょう。一家にむさくるしいのは一人でいいから。……じゃあ、話も終わったし俺もう帰るね」
「「「え?」」」
「……ん?」
翠と愛穂は兎も角、何故か隣から聞こえて来た声に驚く。
空と目が合い、彼女が来る前に言っていたことを思い出した。
「あ……猫見るんだっけ……?」
「うん。……良かったら、一緒に観て行かないかな?って」
「そうだね」
何か理由を付けて断ることも出来たかもしれないけど、彼女にだけはそんなことしたら駄目な気持ちになって、一緒に子猫を見て、結局最後まで居た。
空と医院を出ると、翠と愛穂が見送るつもりらしく後に続いて出て来た。
「紫、今日はわざわざ悪かったな」
「……別に。……またウチにも帰るんでしょ?」
「ああ。近いうち、2人で行く」
「……そう。じゃあね」
紫が歩き出すと、空も2人にお辞儀して後を追って来る。
「紫君……あの、」
「紫君……っ!!」
空の声と同時で、後ろから愛穂が紫を呼びながら駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
内心ドキッとしながら平静を装い訊ねると、不安そうな表情の愛穂が口を開く。
「紫君は本当にいいの……っ?」
「……それ、どういう意味で言っているの?」
「あのっ、……私が翠さんの結婚相手で、紫君は嫌じゃないかなって思って……っ」
一瞬余裕がなくなった。紫の空気が変わったのに気付いて、愛穂が瞳を揺らしたのが分かった。
どういう意味?そんなこと、聞かなくても、解かる。それなのに聞いたのは、悪足掻き以外のなんでもなかった。
「大丈夫だよ。だから、気にしないで」
「でも……っ」
「……愛穂さん、掘り下げてどうしたいの? もし、俺が駄目だって言ったら、困るのはそっちじゃないのかな? ……もう終わったことだから、早く忘れて。兄貴と幸せになって。俺は……、あんな兄貴でも、嫌いってわけじゃないから傷つけて欲しくない」
「紫君……っ。……ごめんなさい、私……っ」
「気にしないで。……ほら、兄貴が心配するから早く戻って」
そう言い残すと、紫は足早にその場を立ち去った―—