8.ローザは「推し」を育てたい(5)
荷造りをしていたベルナルドは、ふと自分の指が視界に入ったことで、動きを止めた。
心の整理の付かないまま、じっとそれを見下ろす。
数か月前まではひび割れていた、けれど最近では爪まで整った指。
今ではそこに、ローザの体温までが乗っているかのようだ。
(なぜ……)
ベルナルドのあどけない美貌が歪む。
なぜ、ローザは自分を拒絶しないのか。
ベルナルドの盗難を咎めないばかりか、さらに高級品を押し付けてきた彼女。
さらにはそれを壊され、怒り狂うならともかく、あそこで自分の指を心配されるとは思わなかった。
(あの人は、どこまで……)
その後に浮かんだ形容詞が気に食わなくて、ベルナルドはしかめっつらで首を振る。
しばし、親の仇のように指を睨み付けたあと、結局彼は、物を鞄に詰め込む作業を再開した。
鞄にはほかに、馬蹄や金の耳飾り、レース飾りなどが入っている。
そう、ベルナルドは、「港の荒くれ者に売り払った」などと言っておきながら、その実それらを手元に取っておいたのだ。
もっともそれは、良心が咎めたからではなく、売買を持ちかけようと港を視察した際に、あまりにその男たちが荒んでいたからだったが。
地域どころか国を股にかけ、あちこちの海をさすらっている彼らは、なかなか後ろ暗い稼業にも手を出しているようだ。
密売、禁輸、人さらいに奴隷売買というのがそれだ。
下町で育ったベルナルドは、そうした稼業に手を出す男たち特有の、危険な雰囲気を察知できる。
下手に商売を持ちかけたところで、かえって目を付けられて厄介なことになると踏んで、早々に撤退を決め込んでいたのであった。
さて、この鞄の中身をどうするか。
黄昏に沈む部屋でベルナルドは考えていたが、しかしその思考は、荒々しいノックで中断された。
いや、ノックどころか、答えも待たず扉が蹴り開かれる。
「おい! いるか!」
部屋に踏み入ってきたのは、険しい顔つきのルッツだった。
「……急かされなくても、すぐに出て行きますが」
「今はそれどころじゃねえ!」
すっかり敬語の取れたルッツは、遮るようにして叫ぶ。
ベルナルドよりほんの少しだけ大人びたその顔は、今、焦りと恐怖で引き攣っていた。
「ローザ様がいないんだ! 屋敷のどこにも!」
「……は?」
予想外の言葉に、眉を寄せる。
だがルッツは、取り乱したその勢いのまま、がっとベルナルドの胸倉を掴んだ。
「ローザ様は、倒れたばかりだって言うのに、どこかに出て行かれたんだよ! おまえ、なにか知らないか!?」
「どうして僕が知るんですか」
ベルナルドは呆れて、鼻を鳴らした。
「知るわけないでしょう。おおかた、寝すぎたので散歩にでも行かれたんじゃないですか。それか、夜遊びか、男漁りか。ふらっと出かけたくなることくらい、あるでしょう」
「ローザ様が、そんな、おまえみたいな素行の悪いことをするわけがないだろ!?」
「さあ。人間なんて、一皮むけばどれも一緒ですから。だいたい、この屋敷の人たちって、彼女を神聖視しすぎじゃないですか? 彼女だって、人に言えない本性の一つや二つ――」
本人の思っている以上に正しい指摘をしたベルナルドだったが、しかしその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
――ガッ……!
ルッツが、至近距離から思いきり頬を殴り飛ばしたからである。
「ふざけるな! おまえ、あれだけローザ様によくされておいて、まだそんなことが言えるのか!」
怒りで真っ赤になったルッツが叫ぶ。
「い……っ、てえなぁ……」
咄嗟に受け身を取ったベルナルドは、床に片膝を突きながら、ぷっと血を吐き出した。
「年下相手に、本気で殴りつけてんじゃねえよ、この糞野郎」
「おまえ、それが素かよ!」
「ああ、悪いかよ。下町育ちなもんでなぁ」
もはや口調すら偽らなくなったベルナルドは、熱を持った頬を押さえながら相手を睨み付けた。
「そうとも、俺は育ちが悪いんだよ、ローザ様と違ってな。ここに来るまで、三食まともに食えた日なんてなかったし、数年前までは殴られない日だってなかった。ネズミと一緒になってどぶ攫いをして、周りを蹴散らして古パンにありつく。そうやって暮らしてきたんだよ、わかるか!?」
あどけなく、華奢な美貌には、今や苛烈なまでの迫力が滲む。
小柄ながら、それはまるで、手負いの獣のような獰猛さだった。
「あんたらのローザ様がぬくぬくと布団にくるまれているとき、俺は貧しいガキ同士で、藁を巻き付けて雪を凌いだ。彼女が善良な領民に囲まれているとき、俺はごろつきどもに囲まれて殴られた。その惨めさがわかるか!?」
ルッツが息を呑む。
ベルナルドは、怒りのままに叫びつづけた。
これはすべて事実だ。
自分はこの惨めさに憤っている。ローザを嫌っている。
だが同時に、必死にそう言い聞かせている自分に――そうしないとローザへの距離を維持できない自分に、今一番苛立っていた。
「余裕のある人間から、ちょっとばかり、しかも俺が受け取るべきだった分を取り返して、なにが悪い! あの女だって、少しくらい不幸を――」
「甘ったれんな!」
しかし、感情任せの主張は、拳を握ったルッツによって遮られた。
彼はぶるぶると震え、その目には、涙すら滲ませていた。
「おまえに……そんな、自分の悲劇に酔ったおまえに、ローザ様のなにがわかる!?」
「なんだと?」
思わぬ反撃にベルナルドは眉を寄せる。
ルッツはかすれ声で告げた。
「ローザ様はな……俺たちが雇われる頃まで、ずっと虐待に遭っていたんだぞ!」
「え……?」
おそらくローザが聞いていたら、彼女も「えっ?」と聞き返していたことだろう。
だが、そんなことを知る由もないルッツは、驚くベルナルドに向かって、絞り出すようにして語り続けた。
「ほかの貴族を知らないおまえにはわからないだろうが……ふんぞり返って暮らしている地方の貴族なんていうのは、大抵旦那様みたいにぶくぶく太っているものだ。それがなぜ、ローザ様はあんなに細くていらっしゃるか、わかるか!?」
「それは……」
「それはな……真実を見通す瞳を持つローザ様のことを、旦那様が疎んじたからだ。奥様が亡くなってから、ローザ様は一番暗い部屋に移され、一日のほとんどをそこに押し込められて過ごし……、食事も満足に与えられなかったんだぞ!」
ベルナルドが息を呑む。
もしこの場にいたならば、きっとローザも絶句していたことだろう。
どうやらラングハイムの屋敷では、ローザが幼少時から引き籠り、食事も放棄して薄暗い部屋でニマニマしていたことは、虐待を受けたと解釈されているようだ。
途中で伯爵が使用人を一新してしまい、中途半端に情報が引き継がれてしまったことも原因だろう。
「さらにローザ様は……どうも、男を怖がっている節がある」
「なんだって……?」
「どんな人間にもお優しい方だが、一定以上の体格を持っていたり、男らしい風貌や性格の持ち主は、それとなく遠ざけてしまうんだ」
しかも、ローザには男性恐怖症設定までもが付け加えられていた。
ルッツは拳の力を緩めると、悲しげに床に視線を落とした。
「現に俺だって、昔はあんなに可愛がっていただいたのに、背が伸び始めた頃から、会話もぐっと減った。たまに話すときには、不安そうに顔色を窺われる始末だ」
それは単に、「この子もだんだん『攻め』っぽくなってしまって……」と悲しまれているだけである。
だが、男性的な振る舞いを見せた途端に距離を取られた男たちは、「ローザ様は男が怖いに違いない」とすっかり思い込んでいた。
しかも恐ろしいことに、それを裏付けるような事件が、過去にあったのである。
ルッツは声を潜め、憎悪を滲ませるような口調で囁いた。
「これは、屋敷の中でもわずかな人間しか知らないことだが……数年前、ローザ様は夜遅くに旦那様の書斎に出入りする姿を、何度か見られている。それも、決まって旦那様がひどく酔っていらっしゃる日にだ。そうして、その翌日、いや、ひどいときにはその数時間後に、決まって倒れて熱を出すんだ。その後数日は、どうもご様子がおかしい。……これがどういうことだか、わかるか?」
もちろん、伯爵が泥酔している隙に春書を盗み読み、興奮のあまりぶっ倒れているということである。
だが、ベルナルドの解釈は、もちろん違った。
「まさか……伯爵が、実の娘に……?」
「しっ。ローザ様は政略結婚を求められる貴族令嬢だ。あの豚野郎だって、さすがに、滅多なことまではしねえとは、俺たちも思ってるよ。だが……それ以外なら、仕掛けている可能性はある」
ベルナルドは青褪めた。
性的な嫌がらせでなかったとしても、たとえば酒を浴びせたり、暴言をぶつけたり。
貴族の屋敷という密室で、おぞましい折檻が行われている可能性があるということだ。
なまじ下町で苛烈な暴力を目の当たりにしてきたぶん、彼のその手の想像力は、同年代の少年と比べても群を抜いていた。
(まさか……彼女が……? ああ、でも、たしかに俺にも、男らしさより「かわいいところがいい」と言ってたし……そう言えば、ひどい食事にも慣れているって言ってたっけ)
ベルナルドはふと、以前彼が昼食を食べたりなかったときに、ローザが自分の食事を丸ごと寄越してきたときのことを思い出した。
――よければあなたが食べて。
――そんな、いいですよ! 姉様のぶんがなくなってしまいます。
――ふふ、いいのよ。わたくしの食事なんて、腐った芋で十分。
彼女にしては珍しい、どぎつい冗談だなと受け止めていた発言。
しかしもしかしたらそれは、彼女の幼少時の実態を滲ませた、悲哀の発言だったのかもしれない。
でなければ、貴族の娘が、わざわざ狩りや調理の腕を磨こうなどとは思わないだろう。
きっと彼女は、そうせざるを得ないほどに、飢えさせられたのだ。
一度そう思うと、すべての言動がルッツの主張に符合しはじめてしまう。
気付けばすっかり、ベルナルドの中で、ローザは悲劇の少女へと変貌してしまった。
(だとしたら、彼女は……男に怯え、腐った芋を食わされるような生活を送ってたっていうのに、……あの優しさを維持してたのか……!?)
ベルナルドは頬を張られたような衝撃を受けた。
自分はたしかに母親に放置されていたが、彼女から攻撃を受けたことはなかった。
ごろつきどもに殴られることはしょっちゅうだったが、それでも共にやり返してくれる仲間はいた。
引き換え彼女は、この広い屋敷でたった一人――母親を失い、父親からはおぞましい仕打ちを受け、体格のいい男たちにばかり囲まれて、怯えながら暮らしていたというのか。
薄暗い部屋で、幼い体を守るように、両腕を抱きしめながら座り込んでいるローザの姿を思い浮かべ、ベルナルドは自分を殴ってやりたいような罪悪感に駆られた。
(そんな人に、俺はなんてことを……!)
彼女はそれでも人を信じたのだろう。
弱者を慈しみ、守りたいと考えたのだろう。
もしかしたら、あどけないベルナルドの姿に、過去の自分を重ねたのかもしれない。
だというのに、ベルナルドは彼女を裏切り、傷付けた。
「…………っ」
ぐっと、血が滲みそうなほどに拳を握りしめる。
先ほど抱きしめられたときに感じた、胸が引き攣れるような想い。
今やそこに罪悪感が加わり、何倍にも膨れ上がって彼を苛んだ。
今すぐに彼女に謝らなくては。
掠め取った品々を返し、正直な想いを告げるのだ。
本当は、あなたを慈愛深い、真の貴婦人だと認めていたと。
大切にされているのが伝わるたびに、本当は叫び出しそうなほど嬉しかった――ただ、甘ったれていただけなのだと。
「おい、どうした……?」
こちらが突然黙り込んだことで、ルッツが眉を寄せて声を掛けてくる。
だが、それも無視して、ベルナルドは考え続けた。
タイミングからして、彼女が屋敷を離れたのは、ベルナルドの裏切りに傷付いたからに違いない。
傷心のローザは、どこへ向かったのだろう。
(お気に入りの場所……いや、あの人は「ベルナルドの隣が、どこにいるより一番楽しいわ」と言ってた。そうだ……自分のことより、俺のことばかり気に掛ける、そういう人なんだ)
だとしたらこの場合も、彼女は自分の心を慰めにいくより、ベルナルドのために何らかの行動を起こそうとするのではないだろうか。
例えば、家を出て行くというベルナルドが快適な旅を送れるよう、身支度を整えたり、路銀を用意したり。
(路銀……そうだ、港――!)
先ほど、自分がローザに、「現金が一番」だとか、「二束三文で売り払った」だとか言い放ったことを思い出した。
彼女の性格からしたら、金品を現金に換え、ベルナルドに与えようとするのではないか。
あるいは、二束三文で買い叩いたという荒くれ者のところに乗り込んでいき、弟の分を取り返そうとする姿すら考えられる。
「くそ……っ」
「あ、おい――! どこ行くんだよ!」
背後でルッツが叫ぶのを聞き流し、ベルナルドは、すっかり日が暮れ始めた屋敷の外へと飛び出した。