【御礼閑話】沼よ、沼よ
3月5日のローザ2巻発売の御礼に閑話を投稿させていただきました。
最後、謎に沼視点なのですが(笑)、楽しんでいただけますと幸いです。
その日、クリスは飽きもせずローザを呼び出して、優雅なティータイムを過ごしていた。
厳しい冬も徐々に雪解けを迎え、最近ではときおり温かな風が吹く。
離宮の庭ではあちこちで薔薇の蕾が綻びはじめ、その光景に、美貌の友人――ローザは、宝石のような瞳をそっと細めているのが常だった。
そしてクリスは、そんな彼女を見るのが好きだったのだ。
「それで、氷が解けて、沼に行きやすくなったのはいいんだが、この冬の間にすっかり水が濁って、近くには魔獣まで出始めたと噂でな――」
ローザは普段、クリスが話すことならなんでも目を輝かせて頷いてくれる。
それで、この日もまた、ティータイムにはあまりふさわしくない、王城の外れにある沼の汚染問題などを、クリスも思うままに話していたのだったが、この日に限って、まるで相槌が返ってこないのに気付き、首を傾げた。
「ローザ? どうした?」
「え?」
顔を覗き込むと、ローザはようやく我に返ったように、はっと目を見開く。
「さっきから、心ここにあらずだな。具合でも悪いのか?」
「い……いえ。その……昨夜はあまり、眠れなくて……」
そっと視線を落とすと、滑らかな頬に睫毛の影が落ちる。
儚げな美貌がいよいよ際立ち、クリスは心配になった。
「どうした? 悩み事でも? もし僕で力になれることがあるなら、何でも言ってほしい」
「ありがとうございます、殿下。ですが……」
そこでふと、ローザは顔を上げる。
クリスの中性的な顔をじっと見つめると、彼女はわずかに目を潤ませた。
「いいえ、殿下に解決していただくべき問題ではないのです。わたくしが、自分自身で解決せねば……」
「ローザ自身で、解決……?」
思いつめた声に、クリスは怪訝さを覚える。
だが、この友人が可憐な外見に反し、意外なほどの頑固さを持っていることを、これまでの付き合いで把握していた。
現にローザの菫色の瞳は、もう覚悟を決めてしまったかのように、強い光を浮かべている。
クリスは、力になれない自分をもどかしく思いながらも、ローザの性質に配慮し、こう助言するに留めた。
「ローザがそう言うなら、深くは聞かないけれど。せめて、アントン神父には悩みを告げてみたらどうだ? 彼は大人だ。僕たちでは思い至らない妙案や、心解れる言葉を聞けるかもしれない」
本当なら、いつも自分を助けてくれるローザのことを、クリスだって救いたい。
けれどきっと、ローザの悩みを解決するには、今の自分はまだ力不足なのだ。
そして、そんな自分の代わりに指名するほどには、クリスはアントンのことを信頼していた。
「アントン叔父様に……」
ローザも、意外そうに反芻したものの、反論はしてこない。
「そう……そうですわね。叔父様の性質を考えるに、相談するには向かないかとも思いましたが、一周回って適任ということも、ありえるかもしれません……」
小さく呟き、やがて頷く。
そうしてローザは、その日のうちにアントンを捕まえ、「相談」を持ちかけることを決めたのであった。
***
「はあ? 体格差カップルに萌えなくなった、だって?」
深刻な顔をして自室を訪れた姪――実際には娘だが――に、アントンは素っ頓狂な声を上げた。
夜更けも夜更け、空にはとうに満月が昇って久しい時分である。
そんな時間に、先触れもなく、青褪めた顔でやってきたローザのことを、アントンはもちろん心配し、丁重に部屋に招き入れたものだったが、深刻な声で告げられた内容を聞き、深々と溜息を漏らした。
「なんだ、まったく。そんな青白い顔をして、いったいどんなひどい目に遭ったのかと思えば……」
「なんだ、ではありませんわ! 重大事です! わたくしの人生を左右する悩みですのよ!」
アントンがどさりとソファに背を預ければ、そのぶんローザはきっ!と涙目になって身を乗り出す。
テーブルセットには、彼女が持ち込んだ薔薇本がずらりと山になっていた。
「たとえばご覧ください、この『筋肉王子とコマドリ勇者』。擦り切れていますでしょう? これはまさにわたくしのバイブル。読めばたちまちのうちに全身が興奮状態を呈し、血行促進、頭脳は冴え渡り、金運は上昇して友人も増える、本当に素晴らしい本でしたのよ。なのに、……なのに! ここ最近、何度この本を読み返しても、わたくしの心の腐薔薇が咲かないのです!」
「なんだい腐薔薇って」
「こちらは『剛腕奴隷は、笑わない』。寡黙でクールな大男の奴隷と、線の細い主人が織りなす冒険譚は、常にわたくしの秘孔を突き続けてきたものですわ。なのに! 誰もが声に出して読みたい第5章をどれだけ読んでも、わたくしの心が腐るえない……!」
ぼそっと呟くアントンをよそに、ローザは次々と「これも! これも! これも!」と愛読書を突き出し、最後には両手で顔を覆った。
「かつては、身長差が拳一つぶんもあれば、自動的に妄想が始まる体質だったのに……。もはや、小柄なクリス殿下を見ても、そこに体格差萌えの片鱗は感じられない。あるのはただただ、リバ萌えの輝きだけ……」
「まだ輝いてんじゃん」
「だってクリス殿下は薔薇界の宝玉……」
「わかるよ、百合界の至宝だよね……」
アントンもアントンで、ぼそっと突っ込んだり、深々頷いたりと忙しい。
ローザはその間ずっと顔を覆ったまま俯き、やがて震える声で漏らした。
「わたくし、いつまでもこの沼に嵌まり続けている自信があったのに……それは、傲慢だったのでしょうか。わたくしの感受性は、死んでしまったのでしょうか」
が、ローザがいつまでたっても顔を上げないのを見ると、やれやれと苦笑して、声音を改めた。
「萌えられない自分が、怖い?」
こく、と頷く。
「これを皮切りに、次々と萌えられなくなってしまって……やがて、薔薇愛の世界に飽きてしまうのではないかと、恐れている?」
「…………」
次の頷きまでには、躊躇うような、あるいは怯えるような間があった。
「……そんなの、薔薇愛に対する、裏切りですわ」
つまりローザは、それを恐れているわけだ。
アントンは肩を竦め、冷めてしまった紅茶を淹れなおした。
温かな湯気を立てたカップを、ローザの前に置いてやる。
そうして、静かな声で話しはじめた。
「少し、昔の話をしよう。私がまだ、妹と言えば健気キャラ、と頑なに思い込んでいたときのことだ」
「いえ待ってくださいなぜ今その流れ」
「君は関係性に萌えるようだけど、私はキャラそれ自体に萌える性質だからね。特に、妹のキャラというのはなにより重要で、私を萌え上がらせるのは、いつだって健気でちょっとドジで、善良なタイプだと信じて疑わなかった」
「ねえお待ちになって?」
ローザは半眼になって顔を上げたが、アントンはどこ吹く風だ。
カップから立ち上る淡い湯気、その向こうに、かつて愛おしんだ健気キャラを見るかのように、眼鏡の奥の瞳をそっと細めた。
「私はありとあらゆる健気系の書物を集めた。二次元だけではない。三次元でもだ。西にドジっ子がいると聞けば即ち馬を三日走らせてでも駆けつけ、東に善良美少女がいると聞けば、全財産を擲ってでも、その都度彼女たちを助けた。私は常に幸せだった……」
噛み締めるような話し方に、ローザは徐々に引き込まれていった。
百合と薔薇で方向性は違えど、その行動原理はよく理解できる。
いや、していることが同じすぎて驚くほどだった。
「ところがある日。本当に、ある日突然……私の心の百合は、健気系の妹になんら花開かなくなってしまった。不憫さに対する哀れみや義憤は湧くのだが、突き上げるような衝動が湧き起こらない。私は焦った。永遠に咲き誇るはずの心の白百合が、まさか枯れてしまったのかと」
切実な告白に、思わずごくりと喉を鳴らす。
まさに今の自分の姿を、ローザはそこに幻視した。
「そ、それで……? それで、どうなさったのです?」
「私は悩んだ。陰鬱な心持ちになり、吐き、泣き叫び、答えを求めて秘境をさまよった……。精神的にも物理的にも、あの懐かしき健気キャラ沼に沈もうとして、そのたびに失敗し、そんな自分を罵り、ある日とうとう、これまでに集めてきた百合本をすべて、床にぶちまけた。すると」
そこで、アントンは切なげに目を細めた。
「今度はぷんデレ沼に嵌まっていた」
「おん?」
いきなり話の飛躍した気がしたローザは、美しく整った眉を寄せた。
「ど、どういうことです……?」
「床にぶちまけたときにねえ、それまであまり興味のなかったはずの、強気系妹の物語がふと目に飛び込んできたのだよ。なんとなく手に取って、自分を罰するつもりで読みはじめて……気付けば深夜になるまで熟読していた。安易に沼った」
「安易に沼った」
思わず反芻するローザの前で、アントンはふいに立ち上がり、熱く拳を握りしめた。
「思えば、それまでの私は、健気系の成分ばかりを摂取しすぎていたのだよ。いかなる美酒でも、過剰に取り続ければやがては体が受け付けなくなる。それで私の体は、魂は、力強い妹を求め始めていたというわけだ。つり上がった瞳、素直でない言動、ときおり見せる甘え。常に善良ではないし、不憫でもない。だがいい。そこがイイ……!」
ぎらりと萌えの炎を上げ、朗々と叫びきってから、アントンは気を落ち着けるように眼鏡のブリッジを直した。
「つまり、だ」
そうして、ローザのことを見つめる。
「一つの沼を抜け出してしまっても、それは飽きたということではない。単に、次の沼に嵌まる準備が整ったというだけのことさ。沼は無数にある。そして、我々のような性分の者は、けっしてすべての沼から逃げおおせることなどできない」
眼鏡の奥の灰色の瞳は、とても優しかった。
「沼は、無数にある……」
ローザは胸に手を当て、繰り返してみる。
その言葉は不思議なほどすんなりと心になじみ、魂の奥深くまで染み込んでいった。
「そう……そうですわね。そういうことなのかもしれません」
「ああ。気に病む必要はない。君の魂は、すでに次の沼に向かって飛び立ちはじめているんだ。遠慮なく羽ばたき、新たなる沼を見つけ、そして墜落するがいい」
「叔父様……!」
菫色の大きな瞳が、感動で潤んだ。
ああ。
本当に、彼はいったいなんて頼りになる大人なのだろう。
感極まって何度も頷くローザの肩に、アントンは優しく手を置いた。
「でも同時に、それまで嵌まっていた沼への感謝を忘れないようにね。きちんと礼儀を尽くして去るべきだ。それは、今日までの君を育ててきた沼なのだから」
アントンはクローゼットから外套を二枚取り出し、一枚をローザに手渡すと、「おいで」と外へと顎をしゃくった。
「叔父様?」
「沼に別れを告げるとき、私が決まって行っている儀式がある。今日は特別に、君にもそれを教えてあげよう」
そうして彼は、棚の上に飾ってあった小ぶりの竪琴を掴むと、ローザにぱちんとウインクをしてみせた。
「ローザ。君、歌は得意かい?」
***
王城の外れ、鬱蒼とした森の奥に、その沼はあった。
元は透き通っていた沼だ。
人々が足しげく通い、その美しさに目を細めた。
だが、時を経るうちに、あまりに多い来訪は沼を汚すようになっていった。
人々は好き勝手に水を汲み、沼が十分な深さを誇ると見るや、汚水を流し、ごみを捨てる。
いつしか沼は澱み、腐臭を放つようになり、そうすると人々は、掌を返すようにぱたりと訪問をやめた。
残された沼は、もはや誰からも顧みられることもない。
ときおり腐臭に惹かれた獣がやってきては命を落とし、沼の傍らには、ただ穢れだけが積み上がっていった。
冷えた、穢れた、深い沼。
やがて沼の底が凝りはじめ、そこに、うっすらと意識のようなものが芽生えはじめた。
――憎い。
漫然とあるのは、どろりと濁った思い。
――憎い。憎い。
凝りはじめた負の意識は、徐々に負の魔力を帯びるようになる。
弱った獣がそこで闇に落ち、沼のそばには魔獣が生まれはじめた。
――憎い。憎い。
さく、さく、と、草を掻き分ける足音が響いたのは、そんな時だった。
「ここが、叔父様おすすめの、沼ですの?」
「ああ。この王城を散策したときから、これぞ、と見込んでいたのだよ」
やってきたのは二人連れだ。
眼鏡をかけた清廉な男性と、大きな外套に身をくるんだ可憐な少女で、二人とも、まるでそこにいるだけで世界が浄化されそうなほどの美しさに満ちている。
男性のほうは、沼から漂う腐臭をものともせずに、傍らに腰を下ろすと、持ち込んだ竪琴をぽろん……と掻き鳴らした。
「ご覧。深くて、肥沃で……まさに、私たちの沼といった感じだろう?」
「ええ。本当に。……本当に、そうですわ」
少女のほうも、魅入られたように沼に近付き、岸に腰を下ろす。
白い指先を躊躇いもなく沼に浸すと、しみじみと呟いた。
「なんて深い沼。触れればうっすらと温かく……なんででしょう、叔父様。涙が出そうです」
「そうだろう。だってこの沼は、私たちを育んできてくれた、いわば母なる沼なのだから」
もし沼に、はっきりと人格のようなものがあったなら、きっと困惑して目を瞬かせていただろう。
すっかり穢れたこの沼に、そんな描写をする人間など、これまでいなかったのだから。
男性は今一度竪琴を掻き鳴らすと、少女に優しく誘いかけた。
「さあ、ローザ。惜別の儀式を始めよう。深く豊かで生温かい、私たちの沼に、感謝と別れを捧げるんだ」
「はい」
ローザと呼ばれた少女は、感極まったようにひとつ頷くと、その場にすっと立ち上がった。
そうして、聞く者すべての心を震わせるような、繊細な歌声を紡ぎはじめた。
――沼よ 沼よ
歌い出しは、どこまでも柔らかに。
――その温もり 肥沃の潤い
育んだものは 数知らず
だが、ぐっと眉を寄せ、涙を堪えるような仕草に、少女の万感の思いが籠もるかのようだった。
少女は歌った。
沼で過ごしたかけがえのない日々を。輝かしい時間を。
だが、月が沈んでまた新しい太陽がやって来るように、蜜月の季節は残酷に移ろってゆく。
まるで、羽化を前に震える蝶のような心細さ。
しかし少女は、そこで羽を広げることの尊さを歌った。
自分はこの沼を飛び立ってゆく。次の天地を目指して。
けれど、いつかこの場にまた帰ってくるのかもしれない。
あるいはそうでないのかもしれない。
ただ一つ確実なのは、この沼で過ごした時間は、いつまでもかけがえのない、輝かしい宝物であるということ――!
「沼よ 沼よ
ああ 惜しみない感謝を」
旋律は次第に高まり、最後には朗々たる歌声となった。
少女も、その細い両手を大きく広げ、まるで空に飛び立つ鳥のようである。
両の掌からは、抑えきれぬというように紫色の光が放たれ、ひどく神秘的な光景であった。
「ありがとう……あなたを、忘れないわ」
歌の最後の一音が夜空に溶けていったあと、少女がぽつりと呟く。
それを聞き取った瞬間、沼の意識が、まるで急激な雪解けを迎えたように、するりと緩みはじめた。
――初めて、労われた
おそらく沼は、寂しかったのだ。
凝っていたのは、憎しみというよりも、恨みだった。
すっかり穢れ、冷え切って、誰も見向きもしなくなった沼。
けれど少女が、この麗しく清らかな少女が、やってきてくれた。
歌声を紡ぎ、感謝を捧げ、そして誓ってくれた。忘れないと。
――パアアアアア……ッ
沼が、突如として光りはじめる。
「ありがとうございます、叔父様。なんだかとても、心がすっきり――」
――ドオオオ……ン!
笑みを浮かべてアントンを振り返ろうとしていたローザは、背後の沼が、突然光の柱を立てはじめたのを見て、怪訝な顔つきになった。
「……えっ?」
「……うん?」
光に照らされたアントンもまた、虚無の顔つきで沼を振り返る。
どろりと澱んで生温かく、いい感じに業の深そうだった沼が、――なんだかすごく、浄化されていた。
***
魂の底からの感謝を込めたローザの腐力が、沼底で澱んでいた諸々の腐敗と分解を恐るべき速さで促進し、沼を浄化してしまったこと。
光の柱などという、目立つことこの上ない現象があったせいで、その奇跡はたちまちに噂になってしまうこと。
それを聞きつけたクリスはローザの正義感と慈愛深さに心打たれ、レオンや王妃は一層ローザ確保の念を強くし、ベルナルドが顔を引き攣らせること。
そんな諸々のことを、このときの二人はまだ知らない。
「あー……っと、叔父様。今、草むらに魔獣が見えたのですが、考えてみれば、人外ってすごくイイですわよね。人間同士の体格差程度では今や萌えないわたくしですが、獣×ヒトほどとなればかなり興奮する、という天啓をふと得ましたわ」
「とりあえず、現実見よっか……?」
わかることがあるとすればそれは、ローザが次に嵌まるのは人外沼であるということと、そんな沼など目ではないドツボに、着実に彼女が嵌まりつつあることだけだった。
予約も開始しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします!