【企画閑話】ローザ残酷物語の怪(前)
2月に2巻の発売が決定いたしました!お礼の気持ちを込め、閑話を投稿させていただきます。
書籍表紙に掲載する皆さまの感想を募集しておりますので(12月17日~19日限定)、この書き込みを見た方は速やかに活動報告欄へお集まりくださいませ。
賑やかで腐った表紙にしたいんだ…!どうか力をお貸しくださいー!
ペトロネラは、その意地悪そうな顔を、久々に歓喜に赤らめた。
(計画通りだわ……!)
勇ましく回廊を引き返しながら、ちらりと離宮を振り返る。
かつてペトロネラが勤め、追い出された、クリスティーネ王女の離宮。
その、彼女に与えられた部屋があった場所には、今、ローザ・フォン・ラングハイムがいるはずだった。
(ふふ、馬鹿な女ね。今頃、古本を必死になって探しているのかしら。それが、わたくしの仕掛けた罠だとも知らずに)
これからあの女に降りかかるのだろう恥と悪意を思うと、にやにや笑いが止まらない。
ペトロネラは、これまで数日を掛けて巡らせた己の完璧な計画を、上機嫌で振り返った。
そもそもの事の起こりは二ヶ月ほど前の茶会。
いや、離宮を追い出されたことから起算すれば、もう三カ月前にはなるだろうか。
ペトロネラは、王女クリスティーネの友人として、貴族令嬢のヒエラルキーを上り詰めようとしていたその瞬間に、いきなり離宮から追い出されてからというもの、その元凶となったローザ・フォン・ラングハイムのことを強く憎んでいた。
従順だった子分のアリーナも奪われ、「殿下の相談役」という栄誉ある肩書からも遠ざかり、さらには、憧れのレオン王子との接触機会も激減したのだから、当然のことだ。
さらには、巻き返しを図った王妃の茶会では、徹底的に恥をかかされ、あれほど念入りに取り入った王妃まで、あっさりあの女に陥落してしまった。
それまでは頻繁に茶会にも呼ばれていたというのに、以降、お呼びはぱったりと掛からない。
ペトロネラは、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
まったく、ローザ・フォン・ラングハイムなどというのは、歩く災厄そのものだ。
(信じられないわ、どいつもこいつも、あのおきれいな顔に騙されて。王女殿下に気に入られて、王子殿下を誘惑し、さらには王妃陛下まで味方につけて。短期間に次々と権力者ばかりをオトす女が、清純なわけないじゃない。ばかばかしい)
ついでに言えば、色男の癒術師に可愛がられ、美少年の義弟を従え、さらには、どきりとするほど美麗な神父とも親交がある様子であるというのが、心底腹立たしい。
どう見ても男狂いにしか見えないのに、どうして周囲はそれに気付かないのか。
(まあたしかに、演技派ではあるのでしょうね。茶会で泥紅茶、というか毒を飲んでみせたときには、さすがにわたくしも驚いたもの)
ペトロネラは顔を顰め、思い返してみる。
たしかに、王妃の挑発を真正面から受け止めて、泥入りの紅茶を飲み干した少女の姿には、凛とした迫力があった。
それが毒入りと知っていたならなおさらのことだ。
だが、この世に清純なだけの女なんていないと知っているペトロネラは――自分も含めて――、そんなローザの姿を見ても、懐疑心を抱く。
さては、ああした大胆な行動すらも、周囲の関心を引くための演技なのではないかと。
(だって、そうでもなきゃ、毒紅茶を飲むなんてありえないもの。自らカップに泥を入れるなんて行為も、どうかしているわ。きっとあの女は、念入りに計算し、きっちり安全を確保したうえで、あの行動に出たのだわ)
そう思うと、ローザ・フォン・ラングハイムという少女が、まるで底知れぬ邪悪さを持つ魔女のように思えてくる。
ペトロネラは、ある種の正義感すら持って、そんな少女を罰することに決めた。
つまり、彼女の邪悪さを、広く周囲に知らしめてやるよう、一計を案じたのだ。
(思いのほかあっさりと引っ掛かったわね……少なくとも本好きというのは本当ということかしら。ふん)
彼女の計画はこうだ。
まず、図書室通いを続けるローザ・フォン・ラングハイムに、「茶会での姿に感動しましたの。本好きのあなたと友達になりたいわ」としおらしく接触する。
数日をかけて懐に入り込み、相手が気を許したところで、こう申し出るのだ。
「実はわたくし、殿下の離宮の一室に、お気に入りの本を置き忘れてしまいましたの。追い出された身の上で取りに行くのも気が引けるので、あなたが取ってきてくださらない?」
と。
実際のところ、追い出されたとはいえ、かつての自室に物を取りに行くこと自体は可能なので、ペトロネラは何食わぬ顔で、昨日の昼過ぎに部屋に忍び込んできた。
この時間、離宮の警備が手薄になることは、元住人として把握済みだ。
そうして、家に転がっていた適当な古本を紛れ込ませ、さらには、蓋を緩めた香水瓶を日当たりのいい窓に置いておいてきた。
かつて癒術師に処方してもらった、心を開放的にする薬を溶かした香水瓶を、である。
(ま、いわゆる媚薬、というものだけど)
悪びれもなく認め、ペトロネラはほくそ笑んだ。
もともとレオンに嗅がせるつもりで処方してもらったそれは、揮発性が高く、吸い込めばたちまち、攻撃性や欲望を高める。
性欲をそれなりに持ち合わせた人間なら発情するだろうし、あるいは攻撃性や邪悪さを持ち合わせた人間なら、その醜さを強く露呈するという、大変趣深い一品である。
残念ながらレオンには効かなかったが、線が細く感受性も鋭そうなローザ・フォン・ラングハイムならば、効果は覿面であろう。
そして、香りが充満しただろうところにローザをおびき出し、後からこっそりつけて行って、外から鍵をかけて閉じ込めたのが今だ。
あとは、「図書室で待ち合わせしていたのに一向に現れないのです」と困り顔をして、本宮で政務にあたっているクリスティーネとともに、離宮に向かえばよい。
うまくすれば、一緒にいるだろうレオン王子も釣れるかもしれない。
すっかり出来上がっているだろうローザ・フォン・ラングハイムは、はたして口汚く誰かを罵るか、はたまたみっともなく王子にしなだれかかるか。
いずれにせよ、押し隠している薄汚い本性を晒すことだろう。
そうすれば、あとはこちらのものである。
(あなたが悪いのよ、ローザ・フォン・ラングハイム。辺境の田舎娘のくせに、わたくしの座を奪おうなんてするから)
図書室で、屈託のない笑顔を向けてきた少女を思い、ペトロネラはふんと鼻を鳴らす。
あの女ときたら、最近はずっとクリスティーネたちに囲まれていて、本のことを語り合う友人がいないのが寂しいなどと抜かしていた。嫌味に違いない。
お愛想程度に、彼女の勧める本すべてに「素晴らしいですわ」と一本調子に返していたペトロネラに対してさえ、「まさかペトロネラ様にこれらの魅力をご理解いただけるなんて……! わたくし、嬉しいです!」と目を潤ませていたが、あれが皮肉でなかったらなんだと言うのだろう。
茶会ではこてんぱんにこちらを打ち負かしてきたというのに。
(本当に、嫌味な女)
あの、うっかり「これは本心なのかもしれない」とこちらに思わせるあざとさが、ペトロネラからすれば鼻につくのだ。
いっそ、もっと演技が下手ならば、こちらだってそわそわせず、軽くあしらえるのに。
あるいは、こちらを完全に騙しきって、本当に純真な娘と思わせてくれたなら、もしかしたら、本好き同士の友人に――。
(……今、一瞬頭が沸いたようですわ)
ペトロネラは鼻の頭に皺を寄せて、雑念を振り払った。
チェスをするように、着々と周囲の駒を落としていく少女が、純真だなんてありえない。
不幸な生まれだといった噂も聞いたが、そんなもの、同情を引くために彼女がこしらえた嘘だろう。
自分だってそうした情報操作はよくしてきたものだ。
現に彼女は、このたびの毒殺未遂事件の被害者となることで、レオンの婚約者レースで相当な有利を収めているのだ。
今、彼女の勢いをそいでおかないことには、取り返しのつかないことになってしまう。
いったいどれだけ、このショーの観衆を増やせるか。
ペトロネラは忙しく頭を巡らせながら、本宮が近付くにつれ、表情をしおらしいものに整えていった。
***
「あら?」
カチャン、と扉の錠が音を立てた気のしたローザは、目を瞬かせて背後を振り返った。
慌てて引き返し、扉を引いてみるが、開かない。
どうやら、外の錠が下りてしまったようである。
(いやだわ、錠が壊れていたのかしら。ペトロネラ様のご本を、早くお持ちしなくてはいけないのに……)
不慮の事態に、美しい形の眉が寄る。
彼女は、ペトロネラに頼まれて、彼女の自室であった場所に、忘れ物であるという本を取りに来ていたところであった。
(すごく周囲を気にしながらの頼み事だったもの。きっと、とても大切な本なのでしょうね。いえ、大切というか、その……)
ふと、頬がだらしなく緩んでしまう。
可憐に色づいた唇からは、ついつい、「ぐ腐腐」と笑いが漏れてしまった。
(春書かしら)
ふすん、と鼻息も荒く、ローザは両手で頬を抑えた。
(やだわやだわ、ペトロネラ様ったら! レオン殿下にしか興味はありません、なんていうお顔をしておきながら、実はその手の本にまで精通していたなんて!)
そう、ローザは、ペトロネラのことを、腐レンドとみなしていたのである。
だって彼女ときたら、図書室で声を掛けてきたときから様子がおかしかった。
やたらと周囲の目を気にしつつ、けれどものすごい気迫を漂わせて、こちらに接近してきたのだ。
茶会の場で、あれだけ盛大に貴腐人であることをカミングアウトした、この自分にである。
朗らかな笑みを浮かべながらも、彼女の顔には「なんとしてもこいつと友達になってやる」との文字が浮かんでいるかのようだったし、こちらが手に取る本はすべて「わたくしもその本が面白いと思いますの」と言ってくる。
もしやと思い、徐々に男性濃度の高い作品を勧めていっても、平然と「素晴らしいですわ」言ってのけるその姿を見て、ローザは確信したのだ。
彼女も、貴腐人であると。
(そうですよね? そういうことですよね、ペトロネラ様!? けれど、堂々と友誼を結ぶには、あまりに世間体が気になる……それゆえに、わたくしにこのミッションを与えたと、そういうことですよね!?)
本を取って来てほしいと告げた彼女の、あの挑むような瞳を思い出す。
おそらくだが、この部屋には、彼女が貴腐人であることを示すなにかが潜められているのだ。
ペトロネラが隠したそれを、ローザが見つけ、秘密を共有して初めて二人は真の腐レンドとなる。
ローザは、なんとしても、指定された本をこっそりと彼女の元に届けてやるつもりだった。
(ああ、この世に自分以外の貴腐人なんざいやしないと絶望してから、幾数年。ここにきて、王妃陛下、ペトロネラ様と、続けざまに腐レンド候補に恵まれるだなんて……! わたくし、絶対絶対、ペトロネラ様の友情を勝ち取ってみせる!)
うっかり部屋に閉じ込められてしまった現状も忘れ、ローザはうっとりと歓喜に身を浸す。
どうもこの部屋に足を踏み入れた瞬間から、妙に感情が高ぶるのだ。
それは窓際に配置された香水の影響だったが、そんなことを露とも知らぬローザは、ふわふわとした心地のまま、部屋を見渡した。
備品の多くは撤去されてしまっているが、ベッドや本棚といった大物家具はそのままに残っている。
そのがらんとした本棚と壁の隙間に、ぽつんと残された本を見つけたローザは、「あっ!」と声を上げて、いそいそと手に取った。
なんだろう、すごく気持ちがいい。
あれがしたい、これがしたい、という全身を突き上げるような意欲が湧いてきて、今ならなんでもできそうな気さえする。
(あああ! なんだか今、すごく大声で叫びたい感じ! 「推し」についてまくし立てたい感じ! ペトロネラ様とお友達になって、BLの展望を徹夜で語り合いたい感じいいいい!)
ローザは次第にふらふらとしてきた足取りで、わけもなくその場で一回転してみた。
そうだ、ペトロネラはレオン王子を熱心に観察していたようだから、さぞ有益な知見をくれるだろう。
最近の自分は、フェイの登場によってベルたんずハーレムの筆頭旦那を誰にすべきか迷走している感もあるから、ぜひともそこに、冷静かつ大胆なアドバイスがほしい。
(だいたい、殿下からベルたんへのアプローチが少なすぎるのもいけないのだわ。俺様王子らしく、殿下がびしっとベルたんを口説いてくれていたら、わたくしだってこんなにふらついたりはしないのに)
そしてなぜだろう。
この部屋に入ってから、普段は押し殺している些細な不満までもが、やけに生々しく胸に迫る。
にこにこしていたのが一転、急に据わった目つきになったローザは、ぷんすかとレオンに腹を立てはじめた。
完全な情緒不安定だ。
だがそこで、手に取った本の題名を視界にとらえた彼女は、はっと目を見開く。
「こっ、これは!」
古びた――ずいぶん昔に廃版になったはずの、マイナーな冒険物語「王子と小姓」の題名を理解するや、ローザは全身をがくがくと震わせはじめた。
(かつて幼いわたくしを、俺様王子キャラ贔屓に目覚めさせた、魔性の冒険譚……! 儚げ美少年ながらその実腹黒な小姓と、傲慢にして色男の王子がともにドラゴンを倒す、ベルク道中膝薔薇毛ではないの!)
そう、それは、一時期ローザがドはまりした、俺様王子と腹黒美少年のカプが織りなす物語だったのである。
ドラゴンの設定が荒すぎたり、王子たちの戦闘描写がてんで稚拙だったりと、冒険譚として肝心な要素はなにひとつ満たしておらず、あっさり廃刊となった本だったが、ちょっとした会話に織り込まれたウィット、なにより王子と小姓の距離感の描写が素晴らしく、ローザの俺様キャラ贔屓を決定づけた、運命の一冊であった。
「この本を手にするのは、何年ぶりかしら……」
小姓を女性キャラだと勘違いし、題名から奴隷系の春書と思い込んで買ったらしいラングハイム伯爵は、数ページを読むなり、すぐに他所へと売り払ってしまっていたため、残念ながら幼いローザは、最後の数ページを読み込めていなかった。
それがこうして、今手元にあるというのは、いったいなんという運命だろうか。
「これを……これを、読めということですね、ペトロネラ様?」
熱に浮かされたように、ローザはその場にしゃがみ込み、ふらふらと本のページをめくり出す。
扉の錠のことも、窓際で静かに佇む香水瓶の存在も、もちろん今の彼女の脳裏には、かすりもしなかった。
***
「はぁ……」
いよいよ冬の厳しさ押し迫るその日、暖炉で薪がはぜる音を聞きながら、アントンは物憂げな溜息を漏らした。
なぜならばそれは、
「兄上、やはりローザには、ドレスがいいのではないでしょうか。結局先日の茶会で送ったものは、彼女の手元には残っていないわけですし」
「いや、だが、着るものを二度贈ると言うのも押しつけがましいだろう」
「それでしたら殿下、甘い菓子などいかがです? 姉様でしたらきっと喜んで食べてくれると思うのですが」
「ねえ、君、さりげなく王子の贈り物を消え物に寄せようとしてるでしょ」
クリスと囲む図書室での憩いの時間を、ほか三人の男ども――レオン、ベルナルド、ラドゥに邪魔されているからである。
彼らは今、政務の隙間を縫って図書室で落ち合い、感謝祭にローザになにを贈るかを話し合っているところであった。
ベルクでは感謝祭のとき、男性から意中の女性に贈り物をする風習があり、彼らは互いの贈り物がかぶらないように、牽制をかねてこうして「相談」の時間を持っているというわけである。
ちなみにアントンは、アドバイザーとして招かれたクリスのお供で、半強制的にこの場に巻き込まれている。
野郎ども仕事しろよ、という批判は、彼らの場合しっかり政務を終えてしまっているため、さすがにアントンも抱けない。あえて不満を述べるならばそれは、
(空間内男比率が高すぎるよ……つらい)
これに尽きた。
だいたい、アントンはクリスとローザの絡みを見ることだけを希望に、この離宮に踏みとどまっているというのに、なにが悲しくて、男たちが暑苦しく恋愛相談する現場に居合わせなくてはならぬのか。
国内一の色男がなんだ、エキゾチックな魅力が光る異国の癒術師がなんだ、騎士団で頭角を現す美少年騎士がなんだ。
そんなのまとめて、ローザに振られてしまえばいい。
ローザといちゃいちゃして許されるのは、ぷんデレ僕っ子王女・クリスだけである。
もちろんこれは、百合の使徒としての発想であり、べつに、娘に悪い虫がつくのが不快な親心であるとか、そんなものではないのだが。
ないと言ったら、ないのだが。
(だいたいさ、このところますます、彼らのローザ愛が過熱しすぎのように思うのだよね)
わいわいと議論に夢中になる青年たちを眺めながら、アントンは冷めた目で思う。
感謝祭を控えた恋の季節、思春期の青年たちが浮き立つのはわからなくもないが、それにしても、相手の心をもっと注意深く観察しろよと思うのだ。
(あの子が、ちゃんと君たちを見ているとでも思っているのかい? 異性にときめき、過去に怯えながらもおずおずと恋に手を伸ばす、そんな繊細な乙女心が搭載されているとでも?)
まったくなにをどうしたら、ローザが「芯が強いながらも繊細無垢な、守ってあげたい健気な美少女」となるのかわからない。
……いや、あの「残酷物語」だ、百歩譲ってそれは理解するにしても、なぜローザが「自分に気があるかもしれない」などと信じられるのか。
(だってあの子はあくまで、腐妄想に目を潤ませたり、じっとり相手を観察したり、日々起こる事件の詳細を聞き出したいとねだっているだけで――)
だがそこで、大きな瞳を潤ませて相手を見上げたり、きゅっと握った手を胸に押し当てて控えめな視線を寄越したり、「もっとあなた様のお話が聞きたいのです」とおずおずお伺いを立てるローザの姿を思い出し、アントンは無言で眼鏡の下の目頭を押さえた。
(……うんごめん。そりゃ思うよね。思春期だもの。普通そう思うよね)
ちょっと一度、ローザのほうをしっかり叱ったほうがいいのかもしれない。
どうせ勘違いフィルターが強すぎるからと諦めてしまっていたが、ここで誤解を解かないことには、いよいよ取り返しのつかないことになってしまう気がする。
(とはいえ、私のやることって、なんだか裏目に出がちだからなぁ。なにか外部から、彼女の本性を周囲に突きつけるような、きっかけがないものか……)
議論をそっちのけで、アントンがうーんと図書室の天井を見上げたそのとき、それは起こった。
「あの、申し訳ございません、クリスティーネ殿下……」
躊躇いがちに、少女がクリスへ声を掛けてきたのだ。
見ればそれは、しおらしい表情を浮かべたペトロネラ・フォン・ヒューグラー伯爵令嬢である。
彼女はいかにも恐縮した素振りで、約束をしていたはずのローザが、どれだけ待ってもこの場に現れないのだと申し出た。
「ご歓談中に申し訳ございません。ですがわたくし、ローザ様の身になにかがあったらと、心配で……」
いかにも遠慮がちに告げる姿は、一見、ローザのことを心から心配しているようにも映る。
だが、神父として懺悔を聞きなれてきたアントンからすれば、どうにもその口調には、一抹の嘘臭さが滲むようだったし、だいたい、高慢な伯爵令嬢として鼻つまみ者であったらしい彼女が突然そのように振舞うなど、なんとも怪しかった。
見れば、レオンもクリスも、どこか警戒した面持ちだ。
「そうか。それは心配だ。では騎士団に告げて、王宮内を探索してもらうとするかな」
「え……っ。あ、ああ、そうですわね。ですが、わたくしが思うに、彼女の身になにかがあってはいけませんので、速やかに離宮に向かわれるのがよいのではないでしょうか」
「ほう、離宮に? 僕自らということか?」
どうやらペトロネラは、「ローザが来ない」とさえ告げれば、即座にクリスたちが離宮に向かうと思っていたらしい。
思いのほか冷静な態度が意外だとばかりに、目に見えて焦った表情を浮かべている。
一応クリスたちが冷静なのには事情があって、あまりにほいほい危機に吸い寄せられるローザのことを懸念して、彼女にはお守り代わりの呪具を持たせているのである。
ローザが危機感を抱いて一声上げれば、すぐにクリスの持つネックレスが光るという仕組みで、なにを隠そうそれは、「ペアのアクセサリーで繋がっているって萌えるよね」という下心のもと、アントンが二人にプレゼントしたものであった。
次は指輪に挑戦したい次第である。
「今すぐに、僕たちに離宮に向かってほしい用件があるとでも?」
「い、いえ、それは、その……」
そんなわけで、ペトロネラのことも「あー、なんか企んでるんだなぁ」と冷静に見学していたアントンだったが、彼女が身じろぎした瞬間、ふと鼻先を掠めた香りに、はっと目を見開いた。
(これは……もしや、媚香……?)
まるで果実のような、独特な甘さを含んだ香りだ。
高濃度のものを一度に吸い込めば、たちまち酩酊し、興奮状態を呈する。
残り香というほどの強さもない、ごくわずかな香りであったが、芳しさに敏感なアントンの鼻はごまかせない。
だいたい、「嗅いだだけで興奮してしまう甘い香り」だなんて、まるでオトナの世界のご都合アイテムのような存在を、彼が把握できないはずがないのだ。
(なぜ彼女からこんな香りが……ははぁ、さては、そういうことかい?)
クリスたちの離宮行きにこだわっている様子と、ローザの不在、なにより、ここ数日で彼女が急にローザに接近しているとの情報を突き合わせ、アントンは素早く仮説を構築した。
おそらくは、ローザを興奮させ、そのみっともない姿を見せて周囲を引かせるか、あるいは、下男でも呼びよせたところを目撃させ、彼女を「ふしだらな女」に仕立てようと言うのだろう。
(ずいぶん大胆な策を講じたものだねぇ)
たぶん一般の尺度に照らせばそれなりの危機なのだろうが、呪具もあるし、なにしろ相手は、バイコーンの攻撃も無自覚にスルーしていたローザなので、自分でも驚くほど焦らない。
むしろ、あまりにずさんな策を平然と実行ベースに移すペトロネラのほうが、「大丈夫かな、この子」と心配になるほどだった。
アントンからすれば、ただ女の子であるというだけで、女の子は皆尊い。
どうか自ら危険な沼に突っ込んでいくのではなく、己の個性を大事にして、百合の世界に足を踏み入れてくれればよいものを、と、心をそわつかせた。
(――ん? いや、待てよ)
が、そこでアントンはふと気付く。
やけに離宮行きにこだわっているペトロネラ。
ということは、離宮でローザに媚香を嗅がせること自体は、首尾よく行ったのだろう。
呪具が反応しないということは、ローザが危機感を覚えるまでもなく、滑らかに酩酊状態に移行したということだ。
(つまり……今、あの子は、なんの警戒心もなく、欲望を垂れ流しにしている状態ってことかい?)
ごくり、と喉が鳴る。
ひょっとしてこれは、ローザの本性を周囲に知らしめる、またとない機会なのではないだろうか。
ここはひとつ、ペトロネラの策にありがたく乗ってみるというのも、現状打破の一手なのではないだろうか。
(ナイスだ、ネラたん!)
アントンは勢いよく立ち上がると、ペトロネラのまとう香りを癒術師に勘付かれぬよう、さりげなく彼女をラドゥから引き離した。
「それはご報告をありがとうございます。クリス殿下、心配ですので、私が離宮に様子を見に行ってまいりますね」
念のため、まずは自分一人が様子を見に行くことを申し出る。
前回風紋の術を行使したときのように、空回ってしまっては、元も子もない。
ローザが醜態を晒せそうだと確信してから、王子たちを呼び寄せるのだ。
だが、アントンが立ち上がったことで、クリスは怪訝そうに眉を寄せた。
「しかし神父、ローザには呪具があるじゃないか」
「え? いえ、まあ、彼女の場合、危機に悲鳴を上げないこともありそうだなと思い至りまして」
アントンとしては、ローザのうっかり具合というか、危機感の絶望的な欠如を指摘したつもりだったのだが、それを聞いて、クリスはさっと顔色を変えた。
「そうか……ローザの場合、助けを求めることさえせずに、身を竦めてしまうこともありえるな。なぜ僕は気付かなかったんだ……」
(あっ、しまった!)
どうやら、ローザ残酷物語が発動してしまったらしい。
アントンは言葉選びの失敗を悟り、ほぞを噛んだ。
「ま、まあ、そうかもしれませんね。……いえ」
だが、ここで流されてはいけないと、踏みとどまる。
こうやってすぐに流され、逃げてしまうのはやめようと、自分に誓ったはずだった。
「あるいは、ローザは、殿下たちには助けを求めていないのかもしれません。彼女は、殿下たちが思っている以上に、強く、たくましい少女ですから」
「え……?」
慎重に告げれば、クリスだけでなく、背後のレオンやラドゥ、ベルナルドたちまでもが目を見開く。
「……それは、ローザが俺たちのことを、頼りにしていないということか?」
「ええ。もちろんそれは、殿下たちの力不足などではなく、彼女の性質ゆえというのが、私の見立てですが」
目を細めたレオンの問いにも、フォローは挟みつつ、きっちりと応じた。
「第三者として、不躾ながら申し上げるなら、彼女は、殿下たちの誰一人として、異性として見ていないと思います」
不敬覚悟できっぱりと言い放つと、レオンたちは虚を突かれたように黙り込む。
よし、と内心で勝利を噛み締めてから、アントンはそのまま踵を返した。
百合に挟まろうとする無粋な色男をこき下ろすと、心に清々しい風が吹き渡るものだ。
「さあ、行きましょう、ペトロネラ嬢」
「え? え、ええ……」
釣り針にかかった獲物が皇族兄妹でないことが不満なのだろう、ペトロネラが反応に悩むように言いよどむ。
「ですが、離宮のことですので、クリスティーネ殿下たちに……」
「お忙しい殿下たちの手を煩わせる案件でもありません。ここは私が」
顔を寄せてにっこり微笑むと、ペトロネラはぼうっとした顔つきになって、従順に「はい……」と頷く。
アントンが痩せたことによって体得した技だ。
(そういうデレは、「お姉様」相手に見せてほしいのだけどな)
ペトロネラはいろいろとアレだが、ぷんデレの素養はあるように思う。
すべての少女たちの個性を伸ばしてやれないものか、と、アントンは一見神父らしい物思いに沈みつつ、足取りだけは速く、離宮へと向かった。
――だから、気付かなかったのだ。
「兄上、どちらへ?」
「むろん、離宮にだ」
立ち去るアントンの背中に向かって、レオンが好戦的に目を細めたことを。
「あれは、ローザの叔父である彼なりの牽制ということだろう。それにおめおめと従うようでは、その発言を認めたことになる。ローザが危機にあるとは思わないが、少なくとも、神父に後れを取るのはごめんだ」
彼は軽く肩を竦めると、窓の向こうを見つめた。
庭を抜けた先にある、クリスの離宮。
そこには、彼が初めて焦がれるようになった少女がいる。
待ち合わせ場所に来ない、などというのも、ペトロネラの狂言かなにかだろうとは思うものの、実際、気になってしまうのも確かではあった。
「異性として見ていない? ……ふん、だから、焦っているんだろうが」
これまで視線を向ければ、たちまち女性がしなだれかかってくるのが常であったレオン。
彼はまるで拗ねたように呟くと、小さく溜息を落とし、図書室を出たのであった。
長くなってしまったので、後編に続きます。続きはお昼に。