38.貴腐人ローザはけっして萌えを諦めない(1)
久々に戻った離宮の窓からは、冬特有のあえかな夕陽が差し込んでいた。
「やれやれ、ベルナルドくん。そんなに四六時中見つめていなくても」
水と果物を持って、ローザの眠る部屋へとやって来たアントンは、寝台脇の椅子から少女をじっと見つめるベルナルドに、つい嘆息を漏らした。
「いえ。彼女は、少し目を離すとすぐどこかに行ってしまう、危なっかしい人なので」
「うん、まあ、危なっかしいというか、危ない子なのは、否定しないけれども」
硬い声で応じたベルナルドに、アントンは諦めの色を浮かべながら頷く。
なんと言っても、「こんなわたくしの姿を見ないで」発言の直後だ。
どれだけローザの本性を語って聞かせたところで、誰も「ローザ残酷物語」を疑いはしないのだろうということは、わかりきっていた。
アントンは疲れを覚えながら棚に盆を置き、もう一脚の椅子に腰を下ろす。
マティアスが捕縛されてからまだ数刻だが、ずいぶんと長い時間が経ったような気がした。
それもそのはず、今こうしてローザの見舞いに来ている二人以外は、事件の事後処理に、現在進行形で大わらわだ。
レオンはマティアスを王城へ連れ帰って取り調べを行い、クリスは半壊した教会の修繕指揮を、ラドゥは回収した小瓶から腐毒の解析を行っている。
さらにはフェイも、証人として王城に連れて来られており、ベルナルドやアントンは、そうした業務の隙を縫って、ようやくこの離宮の一室にたどり着いたのであった。
「マティアス神父、ねえ。以前から、女性の貞淑さに厳格で、男尊女卑の傾向もある御仁だとは思っていたけれど、まさか、少年たちを集めて腐毒を精製するほどとは思わなかったよ」
「そうですね」
「茶会で毒を盛って、その後失踪していた小姓たちがいたじゃない? 彼らも、あの地下室から見つかったそうだよ。どうやら、『無垢なる少年』を毒の精製や混入に使って、彼らが廃人になったり、都合が悪くなったりしたら、バイコーンと一緒に閉じ込めて餓死させる、っていうのが、彼のやり口だったようだ。直接手を下してはいない、というのが、彼なりの線引きだったようだね」
「そうですか」
現場を押さえられ、有罪確定となったマティアスには、レオンも容赦なく魔眼を使うことができる。
マティアスの動機や、事件の経緯、手法もすべて、強制的な自白によって迅速に明らかにされており、アントンは耳に挟んだ一部を披露してみせたわけだったが、ベルナルドの反応は淡々としていた。
彼には、選民思想に凝り固まって自滅した神父のことよりも、よほど気にかかることがあったからだ。
ひとつはもちろん、ローザの安全。
ただし、現在彼女は、何重にも警備されて脱出も困難な王城の最奥におり、ラドゥの見立てでは、精神的な過労で眠っているだけとのことなので、ひとまずは安心のように思える。
だとすれば、今、ベルナルドが最も気にすべきことというのは――。
「いやはや、それにしても、今回のことでますますローザの株が上がってしまったよ。いったいこれから、どうしたら彼女の評判を落とせる――」
「アントン叔父上」
肩を竦めてぼやくアントンを、ベルナルドは静かな声で遮った。
「叔父上はなぜ、そこまで、姉様と王子殿下の婚約に反対しようとするんです?」
「はい?」
きょとんとした相手の瞳を、真っすぐに見つめる。
線の細い、貴族的な容貌――ローザとよく似た顔をした彼のことを。
「なにを今さら。言ったじゃないか、ローザが王族なんかになったら、私は修道院に戻されて、息苦しい思いをすることになるからだよ。あとは」
アントンはそこで、いかにも重大な秘密を打ち明けるように、重々しく付け足してみせた。
「君にはもう私の趣味までばれてしまっているから言うけれど。正直、美少女のローザには、王子殿下よりも王女殿下と仲良くしていてほしいんだ」
二段構えでの告白は、実に説得力を帯びて響く。
だが、ベルナルドはきっぱりと「それは違う」と言い放った。
「本当に動向を監視したい人間のことを、王国は修道院になんか入れないはずです。きっと適当な役職に就けて、手元に置きたがる――フェイのように。それに、もし姉様とクリス殿下を接近させたいなら、二人を義理の姉妹にしてしまったほうが手っ取り早いはず」
ベルナルドは椅子から立ち上がり、沈黙を守るアントンに一歩近づいた。
「風紋の術を使ったときから、おかしいと思っていたんだ。あの術は『親和性の高い』者にのみ映像を見ることができる。でも、それが『魔術に親和性が高い』という意味なら、あの場で誰より魔力適性の高い王子殿下が、映像が見られなかったのはおかしい。つまりあれは、『対象の姉様と親和性が高い』、言い換えれば、血が近い、という意味だったんだ。例えば」
そこで彼は素早く腕を伸ばし、アントンの聖衣の袖をめくり上げた。
「親と子、ほどに」
ローザの代わりに、小瓶の液体――腐毒を受け止めた場所。
おおよそは布に吸収され、肌にはわずか一滴が染みただけであろうに、そこにはおぞましい色の痣が広がっていた。
「おかしいですね? 腐毒は『無垢な』男には無害のはずなのに、どうして女性と交わりなど無かったはずの神父の叔父上は、毒を受けているんだろう」
「少年ではないからかなあ?」
「老齢のマティアス神父にも、毒は効いていなかったと思いますけどね。彼は躊躇いなく瓶を扱っていた」
とぼけたアントンを一刀両断すると、ベルナルドは、腕を握る手に力を込めた。
「僕から言ったほうがいいですか。叔父上、あなたは無垢ではない。子すら生したことがあるんだ。ずっと身を潜めていたのに、このタイミングでベルクにやって来たのは、姉様が王子殿下との仲を噂されはじめたから。あなたは、彼らの婚約を阻止するつもりでやってきた」
そうとも、アントンは初めから答えを言っていたではないか。
ローザが王太子妃になどなったら、彼女自身の出自が、徹底的に調べられてしまうからと。
アントンが避けたかったのは、自身が王国の監視下に置かれることではない。
ローザの出自が、世間に露見してしまうことだ。彼女が、不貞、それも姉弟の間に生まれた子であると、周囲に知られてしまうこと。
「逃げるのはやめる、という発言は、そういうことではないですか。罪の露見を恐れてずっと放置してきた姉様を、今さら目にして、自分がどれだけ彼女の人生を歪めたのかを悟った。だからこそ、あなたは諸々のリスクを背負って、ベルクに留まり事件の解決に協力することを決めたんだ。……そうだろ?」
最後、とうとう口調を素のものに戻し、鋭く問う。
アントンはしばらく、答えなかった。
「……手を、離してくれないかなぁ」
だが、やがて緩く首を振り、苦笑を浮かべた。
「男に触れられるのは、本当にごめんなんだ。やっぱり、いちゃつくのは女性同士が最善だと思うのだよね」
「ごまかそうとしても、そうは――」
「本心だよ。女性同士というのは最高さ。清らかだし、美しいし、……誰も傷つけない」
最後に加えられた呟きは、低く、哀しげだった。
気圧されるものを感じて、指を離したベルナルドを、アントンは静かに見上げた。
「私と姉上が男女の仲だったということを知ればね、深く傷つく人がいるんだ。ラングハイム伯爵もそう。そして……私の父だってそう。親友の子をわざわざ引き取ってくれた父上をね、私はできれば裏切りたくない」
「親友の子?」
とてつもなく重大な情報が寄越された気がして、ベルナルドは目を見開いた。
「待てよ。それはあんたのこと? じゃあ、あんたは、姉様の母親とは血縁関係には――」
「いいや、姉弟だよ」
身を乗り出したベルナルドを、アントンは揺るぎない言葉で封じた。
「私たちは、どうあがいても姉弟なんだ。君も覚えておいたほうがいい。いくらそこに愛があっても、合理的で重大な理由があっても、生物学的には許される関係であったとしても。社会上、ローザと君は姉弟なんだ。私と姉上がそうであったようにね」
まるで、何度も自分に言い聞かせてきたかのような、滑らかさだった。
ベルナルドは眉を寄せた。
聞き出したいことは多々ある。
だが、目の前の優しげな男は、きっとそれ以上口を割らないだろうということは、肌でわかった。
「……『傷つけたくない』だとか、そんなきれいごとを言っても、やることはやったくせに」
「言うねえ。まあ、いいよ。罪はすべて私が負うと決めたのだから」
ほら、こんな風に。
アントンは開き直ってしまったのか、ベルナルドに向かってにこりと笑みを浮かべてみせた。
「だからね、悪いけど、私としては、君とローザの仲を応援するわけにはいかないのだよね。なにせ過ちを繰り返すようで心が痛むのさ。かといって、王子殿下と結ばれるのもまずい。こちらは事情的な問題でね。やはり、ローザはクリス殿下と結ばれるっていうのが、一番なのではないかなぁ」
「女同士でどう結ばれるってんだ……」
「えっ、詳しく聞きたい? やだ、ドキドキしちゃうな。三時間くらい語っていい?」
前のめりになったアントンを、ベルナルドは仏頂面で押し退けた。
「やだね。それくらいなら、思わせぶりな過去をさっさと吐けっての。それができないなら、やばい勢いで外堀を埋めてくる王子を阻止するために、なんか知恵を出せよ」
物言いはずけずけとしているが、結局は、過去には今は触れないでおいてやるということだ。
それを理解したアントンは、驚いたように目を瞬かせた。
「……聞き出さないのかい?」
「殴っても語らないタイプだろ、あんた。そういうタイプ、下町にもいる。顔見りゃわかる」
ベルナルドはぶっきらぼうな口調で、肩を竦める。
「あんたが姉様の父親なら、味方に付けるか、脅すかしといたほうがいいのかなって思ったんだけど、あんた、役に立ちそうにないもん。それに、姉様の父親が誰かまでは気になるけど、その父親の惚れた腫れただとかは、クソほども興味ねえし」
「君、言うねぇ」
アントンは、ベルナルドの口の悪さと、想像以上に割り切った性格に驚いたようだ。
だが、ややあってから、ふっと口元を綻ばせた。
「頼もしいことだ」
血気盛んなベルナルドの態度に、不快さよりも、清々しさを感じたようである。
彼は「さて」と裾を払って立ち上がった。
そうすると、身長はまだ、ベルナルドよりも彼の方が高い。
「たしかに君の言う通り、今は、ローザの婚約の妨害のことだ。君と私が、唯一手を取り合える話だね」
アントンはベルナルドに微笑みかけると、次に、眠るローザを見下ろした。
「私の自由を引き換えにすれば、やりようがないことはないんだ」