36.ローザは危機を抜け出したい(5)
マティアス神父は、半壊した地下室と、累々と横たわる魔獣と少年たちを見て取り、狼狽を露わにした。
「なんということだ。まさか、小娘の魔力がこれほどだったとは!」
「あ、いえ、この魔力を発揮したのは、わたくしではなく、フェイのようなのですが……」
状況を誤解しているようなので、小声で訂正を試みる。
いや、地下室半壊の責任を問われるということならローザが進んで負うべきだろうが、一般にこれだけ強大な癒力の発露というのは相当貴重なことなので、もし就職の一助になるのなら、と、咄嗟の計算が働いたのである。
が、マティアスはローザの主張を聞き取ると、くわっと歯を剥いた。
「痴れごとを! 下賤の民に魔力など持ちえるわけがなかろう! 特に癒力は、神の恩寵。人一倍の魔力素養と想像力を持つ、選ばれた者にのみ与えられる奇跡の力なのだぞ!?」
どこかで聞いた言い回しに、ふと、引っ掛かるものを抱く。
が、その正体を追究するよりも早く、マティアスが吼えるようにして叫び出してしまった。
「くそ、めちゃくちゃだ、地下室も、教会も! 私が腐毒を秘密裏に精製するために、どれだけ慎重に事を進めてきたと思っている!?」
突然飛び出してきた「腐毒」の単語に、ローザは目を瞬かせた。
「え?」
「バイコーンの性質を調べ、薄汚い貧民どもに慰問を繰り返して職に就け、地下室に手を入れ、必要な物資を運び込み。それがどうだ、一人女を放り込んだら、なにもかもが台無しだ!」
「え? え?」
情報に頭が追い付かない。
マティアスは心優しい同好の志、しかも上級者だと信じて疑わなかったのに、その言い方だとまるで――
(腐毒混入事件の、主犯のような)
たらりと、冷や汗が頬を伝うのを感じた。
待ってほしい。
正直、これ以上彼の自白を聞きたくない。
今度こそ下町で大人しくしているはずだったのに、これではまるで、自分が腐毒事件の黒幕を突き止めてしまったようではないか。
今更ながら、諸々の情報が線で繋がってしまい、ローザはぱくぱくと口を動かした。
「女はいつもそうだ。余計なことばかりする。大人しく男に支配されているのが仕事だというのに、小賢しく、いっぱしの人間の面をして。かといって愚かにさせれば、周囲を誘惑し、堕落させる。ああ、あの忌々しいチューベローズ。神聖なるベルクを汚す女狐め!」
「あ、あのっ。マティアス神父様、どうぞ落ち着かれて……っ」
もしかしてそれは、ドロテアのことを言っているのだろうか。
独白っぽく事件の動機に触れるのはやめてほしい。
「私が丁寧に洗脳し、育てたカミルのことも、あの女狐はさんざん弄んだ上に、あっさりと放逐しおった。身の程も弁えぬ愚か者が! そなたもだ、ローザ・フォン・ラングハイム。くだらぬ女の分際で、私の得られなかった膨大な魔力と、真実を見通す瞳まで所持するなど、分不相応にもほどがある。罰されよ!」
「あっ、あっ」
弁舌爽やかな動機の告白に、ローザは為す術もなかった。
(なるほど、マティアス神父様はカミル様の師匠的存在だったのね。……って、問わず語り芸が継承されるにもほどがある!)
誰も問うてはいないのに。
なぜ黒幕にかぎって、ぐいぐい語ってくるのか。
実はずっと誰かに聞いてほしかったのではないか。
いつの間にか、マティアスの目は血走り、丁寧に撫でつけてあった髪も乱れている。
それはどこか、魔獣の血に狂った少年たちを思わせた。
もしかしたら彼も、腐毒に関わったせいで正気を失っているのかもしれない。
「粛清だ! 罰してやる! 殺してやる!」
いまだぺらぺらと語っているマティアスをよそに、ローザはめまぐるしく思考を働かせた。
(お、落ち着くのよ、ローザ。わたくしが腐毒事件の黒幕に行きついてしまったことは、まだ誰にも知られてはいない。そうだわ! ならば、真相を突き止めたのはベルたんだということにしてしまえばいいのでは!?)
ローザは天啓のような閃きに身を震わせた。
そうとも、腐毒事件を解明した人物が婚約者レースを制するというなら、いっそベルナルドをその座に据えてしまえばいいのだ。
なに、相手は錯乱している。
ちょこっと腐力を使って気絶させ、その間に状況証拠を捏造することなど造作もない。
唯一、筆頭旦那を差し置いて、ベルナルドとレオンを接近させていいのかという点が悩ましかったが、いやいや、フェイは後に大陸中に名を轟かすことになる神絵師。
このくらいのハンデはあってしかるべきだろう。スパイスの範疇だ。
身勝手極まりない思考で、ローザはそう決めつけた。
白状しよう。
一途な幼馴染ラブも大好物だが、やっぱり、総受けBLハーレムも捨てがたかったのだ。
(ごめんね、フェイ。いったんあなたを差し置いて、殿下を応援するわたくしを、許してね!)
おお、BLの神よ、お叱りは後で。
ベルナルドを輝かせるためなら、裏切り者にも悪にもなれるのが、この貴腐人という生き物なのだ。
ローザは密かに掌に魔力を練りはじめたが――
「そこまでだ!」
途端に、朗々とした声が響いたので、現場を押さえられた犯人よろしく、びくっと肩を震わせた。
いったい誰かと振り向いてみれば、そこにいたのは、なんと麗しのベルナルドのほか、王城メンバー三名とアントンである。
(嘘でしょ!?)
まだなにも工作できていないのに。
ローザは五臓六腑がはみ出そうになるほど驚いた。
「あっ、あのっ、皆さま、いったいどうしてここに――」
「話はすべて聞かせてもらった。マティアス神父、おまえが腐毒事件の黒幕だな」
「姉様に真実を見抜かれて逆上するなんて!」
「ええっ!?」
この、なにもかも手遅れな感じときたらどうだ。
というか、ベルナルドはなぜ泥棒猫に手柄を寄越すような真似をするのだ。
奥ゆかしいにも程があるだろう。
「あ、あの、わたくしは全然マティアス神父様の罪を見抜いたとかではなくてですね、ただ、巡り合わせの妙でこの場に居合わせただけで――」
「大地よ、マティアス神父を捕らえよ!」
ローザは必死に弁明したが、残念なことにその声は、クリスが発動した大地魔術の轟音に掻き消されてしまった。たちまち、瓦礫混じりの土が波打つように隆起し、足元からマティアスを捕獲する。拘束のされ方まで弟子と一緒というあたりに、言いようのない因果を感じた。
「さて、姉様」
と、唐突にこちらに向き直ったベルナルドが、にこりと笑みを浮かべる。
きゅるん、と効果音を書き込みたくなる愛らしさなのに、なぜか背筋が粟立つ感覚を抱き、ローザは本能的に、一歩後ろへと下がった。
「僕、言いましたよね。いい子で待っていてくださいって。孤児院の皆まで巻き込んで、姉様は悪い女ですね?」
「あ、あの、一応、言いつけを破らせてはいないのよ。だって、あなたは子どもたちに『部屋の前から動くな』と言ったし、フェイには『目を離すな』と言ったでしょう? 子どもたちは、実際部屋の前で微動だにしていないわけだし、フェイもずっとわたくしから目を」
「姉様」
「申し訳ございませんでした!」
反論も試みたが、結局、秒で白旗を掲げる。最初から「推し」に敵うはずがないのだ。
こつ、と靴音を鳴らして近付いてくるベルナルドが、なんだかいつもより大きく見える。
おかしい。
彼は「受け」の中の「受け」、世界で一番愛くるしい存在のはずなのに、なぜ今、こうも威圧感があるのだろう。
堪えきれず視線を逸らしたローザは、そこで、はっと息を呑んだ。
下半身を拘束されたマティアスが、腕で懐をまさぐり、なにかを取り出していたのだ。
「この虫けらどもがぁああああ!」
迷いなくこちらに向かって振りかぶったそれは、小ぶりな瓶のように見えた。
「危ない!」
恐らく投擲に、明確な標的などなかったのだろうが、瓶はベルナルドのいる方向へと飛んでくる。
中身について考えるよりも早く体が動き、ローザは、ベルナルドに覆いかぶさっていた。
――コッ!
瓶が、柔らかななにかにぶつかって立てる、くぐもった音。
一瞬遅れて、じゅっという不穏な音が響いた。
「え……?」
衝撃に備えて目を瞑っていたローザは、いっこうに痛みが襲ってこないことに気付き、瞼を持ち上げる。
そして、状況を理解して、瞳をさらに見開いた。
「叔父様!?」
ローザはベルナルドに覆いかぶさった――つもりが、なぜかベルナルドに腕を回されており、さらに、その上からアントンにしかと抱きしめられていたのだ。