35.ローザは危機を抜け出したい(4)
(くそっ、俺は、なにもできないのか……!)
時を遡ること数分。
フェイは、細い肩を震わせ、きつく己の腕を抱いて蹲るローザを前に、かつてない無力感を味わっていた。
バイコーンが襲ってきたら庇えると思うし、ふらふらとした足取りで近付いてくる少年たちなど、一撃で蹴散らしてやれるが、こんなにも怯えている少女を前に、どうしていいかわからない。
一時的な恐怖であれば、この場を脱出さえすればよいのだろうが、少女の狼狽ぶりはあまりに激しく、もしや魔獣の毒が彼女の精神を壊しているのではないかと、そんなおぞましい可能性をフェイに思わせた。
ローザは、フェイが初めて心を開いた少女だ。
いつも日差しのように温かな笑みをたたえ、小鳥のように可憐な声で話す。
そんな彼女が蹲って震えている、その姿を見るだけで、フェイは胸を掻き毟りたくなるほどの焦燥に駆られた。
「なあ、大丈夫だから――」
と、ローザへの声掛けを遮るように、少年の一人がこちらに向かって突進してくるのを視界の端で捉える。
フェイは素早く少年に拳を入れて無力化したが、それを皮切りに、少年たちが次々と咆哮を上げ、躍りかかってきたので、鋭く舌打ちを漏らした。
(凶暴化している)
少年たちの現状を推測する。
少年たちは、このバイコーンの血に当てられ、攻撃本能を抑えられずにいるのだ。
理屈ではなく、肌でわかった。
フェイ自身、魔獣の処理で血を浴びるたびに、精神が荒ぶり、なにかに苛立ちをぶつけずにはいられなかった。
恐らく彼らは、理性で抑制できる限界を超え、廃人と化してしまったのだ。
この部屋で生きた魔獣と接していたからなのか、それとも、先に精神を壊されてしまったから、マティアスにこの部屋に入れられたのか。
「ぐぅるぁああああ!」
獣のような声を上げてぶつかってくる少年たちを、フェイは踊るような動きで躱し、衝突させる。
最小限の動きで最大の効果を得る戦い方は、彼の十八番だった。
相手は、体力も落ちた同年代の少年と、鎖で繋がれ弱った魔獣。
この程度なら、難なく倒せる。
だが、フェイはそれよりも、震える少女のことが心配で仕方なかった。
この怯えようは尋常でないし、どんな幻覚を見せられているのか気になる。
――姉様はべつに、恵まれた、余裕のある人なんかじゃねえよ。それどころか――
ふと脳裏に、ベルナルドの言葉が蘇った。
あのとき彼はなんと続けようとしたのだろう。
いや、内心ではうすうす、察しているのだ。
自分自身を卑下するような言葉。
過ちを犯した生徒の代わりに、己の頬を叩いてみせるほど、自罰的な態度。
迫ってくる男に対して見せる、強い恐怖。
孤児院に保護される子どもの中には、時折、同様の傾向を見せる者がいる。
彼らは皆、手ひどい折檻や、虐待を受けてきた子どもたちだ。
(くそっ)
激しく胸に押し寄せる焦燥感、そして罪悪感に、フェイは、拳を必要以上に強く打ち付けてしまった。
なぜ気付かなかった。
どうして穏やかに接してやれなかった。
呆れるほど過保護だったベルナルドの気持ちが、今ようやく、身に染みてわかる。
彼女こそ、柔らかな羽毛に包むように、優しく、大事に扱わねばならない存在だったのに。
「気絶しては、いけない……っ。もうこれ以上、心配を、かけては」
きつく己の身を抱きしめ、汗を浮かべながら、必死に言い聞かせているローザに、胸が痛む。
おそらく、彼女のあの穏やかな態度は、すべてが偽りではないにせよ、相当な努力の末に成り立っていたものだったのだ。
本当は、恐ろしい過去、つらい思いを抱えていたのに、それを押し隠し、彼女はたおやかに微笑んでみせていたのだ――!
(守りたい)
体の奥から突き上げるような衝動が、フェイを襲う。
これほどまでに、強くなにかを願ったのは、初めてだった。
(守りたい、彼女を)
襲い来る敵を蹴散らし、指一本触れさせたくない。
いや、それでも足りない。
おぞましいもの、醜いものを、なにひとつ彼女に見せたくない。
美しい宝石のような瞳に映るのは、それにふさわしい、浄化された世界だけであってほしい。
もう二度と、彼女を怯えさせたくない。
「大丈夫……っ。わたくしは、大丈夫。大丈夫……っ」
ぎゅっと目を瞑って呟くローザを庇うように、フェイは立ちはだかった。
「どけ」
ぼたぼたと忌まわしい血を流す魔獣、正気を失って攻撃を繰り返す少年たちを、ぎろりと睨み付ける。
血が燃えるように沸き立つ一方、心は奇妙に冷静で、強い意志を紡ごうとしていた。
醜いもの。恐ろしいもの。大切な少女を怯えさせる、そんなものは、皆――
『消えろ!』
忘れかけていた母国語で、吼えるように叫んだ、その瞬間。
――ゴォオオオ……ッ!
「きゃ……っ!?」
「ぐぅるぁああああ!」
室内に凄まじい風が吹き渡った。
細々と燃えていた炎が燭台ごと吹き飛び、少年たちが、魔獣が、次々となぎ倒される。
どんっと、いう轟音とともに、天井が割れ、瓦礫が液体のように宙に吹き上がっていった。
「ローザ!」
フェイは咄嗟に、ローザに覆いかぶさって崩落からかばう。
が、しばらく待ってみても、周囲はしんと静まり返るばかりで、一向に瓦礫が降ってくる気配はなかった。
代わりに、矢のように降り注いできた陽光に目を細め、慎重に周囲を窺う。
目の前の光景を理解して、フェイは――そして、彼に庇われていたローザは、驚きに目を見開いた。
「この、光は……?」
「なにもかもが浄化されている……。これは、癒力……?」
フェイたちの前でぐったりと横たわる魔獣、そして少年たちは皆、陽光とも異なる、薄青い燐光に包まれていた。
きらきらとした光の粒が優しく彼らの表面を撫でるや、たちまち、傷が塞がり、血や泥といった汚れさえも落ちてゆく。
奇跡と呼んで差し支えない情景に、フェイはぽかんとし、ローザもまた、目を見開いた。
(こ、これは、傷を癒している以上、癒力よね……っ? え、わたくし? わたくしの仕業? でも、わたくしは気絶回避に躍起になっていただけだし、だいたい、こんな高度な「浄化」の力は、腐力の範疇ではないというか)
となれば。
この癒しと浄化の魔力を放った人物というのは――。
ローザがぎぎ、とぎこちない動きで首をめぐらせ、座り込んだままフェイを見上げると、彼もまた、衝撃の冷めやらぬ表情でこちらを見返してきた。
「ローザ。これは、なんだ。心臓が、熱くて、血が燃えるようで。思いきり叫んだら、……こうなった」
「ええと……」
動揺のあまり、ローザが言いよどんでいると、そこに、転がるような足音と、声が響いた。
「なにごとだ!」
すっかり口調を乱した、マティアス神父である。