32.ローザは危機を抜け出したい(1)
「それなら、ローザは今まさに、マティアス神父に会いに行っているかもしれないということかい?」
アントンの呟きを聞いた一同は、次々と恐慌状態に陥っていった。
「狼煙が上がったということは、少なくとも、教会に出向いていったことは間違いないと思います」
青褪めた顔で頷いたのは、ベルナルド。
「くそっ、なんだってあの子は、いつもほいほいと危機に吸い寄せられていくんだ。真実を見通す瞳とやらがあるんなら、自分の危機くらい予知できてもよさそうなものなのに」
ラドゥが焦りのままに髪をかきむしれば、ローザを過大評価してやまないクリスが、はっと閃いたように顔を上げた。
「もしかしたら、真実を見通したからこそ、教会に行こうとしたのかもしれない」
ローザと兄王子が恋仲になってほしいという願望は、彼女の思考に大いなるフィルターをかけていた。
「彼女のことだ。マティアスが怪しいことは、とうに気付いていたのかも。そうとも、この事件の犯人を突き止めた人間こそが、兄上の婚約者にふさわしいという話になったじゃないか。だからローザは、婚約者候補となるため、健気にも……!」
「ローザ、なんて無茶をする……!」
息を呑みながらも、つい仮説を前向きに検討してしまったのが、十代最後で恋を知りつつあるレオンである。
彼は片手で口元を覆いながら、衝撃に視線をさまよわせた。
「くそ、どうしたらいい?」
実在しない健気さが、レオンの胸を強く引き絞り、冷静な思考力を奪った。
「どうもこうも、すぐに姉様を助けに行くしかないでしょう」
そこにベルナルドが感情的に告げる。クリスの仮説が正しいとは思っていなかったが、ローザがレオンを想っているという発想を聞くこと自体が苛立たしかったのだ。
「向かっているのは、孤児院に最も近い、東二十一番教会のはずです。馬を飛ばせば、小一時間で着く。僕は失礼しますよ」
「一時間もかけていては、手遅れかもしれないだろう! だいたい、一人で行ってどうするつもりだ!?」
踵を返しかけたベルナルドを、クリスが鋭く引き留めた。
「おまえ、さっき、自分の声だけでは届かないと言ったばかりじゃないか。もっと僕たちのことも頼れ。だいたい、僕たちだって、ローザが心配でたまらないのは一緒なんだぞ!」
クリスの言葉は、性格を反映してかまっすぐで、ベルナルドは珍しく言葉に詰まった。
「ねえ王子。カミルの時みたいに、移転陣を使うことはできないの?」
「移転陣は、着地点にあらかじめ同じ陣を描いておくか、魔力でマーキングをしておく必要があるんだ。市街地、それも下町には、陣も、魔力の使用履歴もない」
ラドゥは陣の使用を提案したが、レオンがすぐに却下する。
だが、彼は額に当てていた手を外し、はっとしたように呟いた。
「そうだ、国宝の転移鏡を持ち出せば……!」
さらっと飛び出た「国宝」の単語に、アントンはぎょっと肩を揺らした。
「こ、国宝!?」
「そう。厳重に封じられ、王とその家族しか用いることのできないものだが、それであれば、一瞬で目的の場所に移動することができる」
「それです、兄上! 母上ならきっと、国宝解放の誓約書にサインしてくれると思うし、事後にローザを婚約者にしてしまえば、まぎれもなく彼女も『王の家族』だ。なんら問題ない!」
「いやいやいやいや!」
まさかの角度から、ローザと王子の婚約が促進されようとしている現状に、アントンは焦った。
だいたい、誰もかれも平静を失いすぎである。
酔っぱらいは、自分以上の酔っぱらいを見ると酔いを醒ますという。
真っ先に不安を覚えたのはアントン自身であったが、それ以上にパニックになっている四人を見て、彼は俄かに冷静さを取り戻した。
「落ち着いてください、皆さん。自説を取り下げるわけではないですが、マティアス神父が黒幕だというのは、あくまで仮説です。今下町の教会に来ているという神父は、彼ではないかもしれないし、仮にローザがマティアス神父に遭遇したとしても、危機に晒されてはいないかもしれない。そこを確認することもなしに、国宝を持ち出すのはいかがなものでしょう」
落ち着いた声で諭せば、レオンたちはわずかに勢いをそぐ。
だが、すぐにクリスが「しかし」と顎を上げた。
「同時に、万が一のことも考えるべきだ。マティアス神父が黒幕なら、きっと教会の地下にはバイコーンがいる。無垢な少年以外には猛毒だというバイコーンに触れさせて、ローザの口封じをしようとしていたらどうする」
「それ以前に、彼女の体格では、手下の男にでも襲われたらひとたまりもないぞ」
「そうだよ、ただでさえトラウマ持ちなのに」
「恐ろしげな男たちに威圧されただけで、姉様は気絶してしまうかもしれない!」
レオン、ラドゥ、ベルナルドも、次々に言い募る。
彼らの描くローザが儚げ美少女すぎて、アントンは呆気にとられた。
猛毒にはさすがに敵わないだろうが――男たちに威圧されるだけで気絶?
(いやいやいやいや! 彼女ならそこはガン見するところだろう!)
やはりすべての原因は、彼らのこの分厚すぎるローザフィルターのような気がする。
「姉様は、今も泣いて震えているのかもしれない」
「美貌に目を付けられて、手を出されようとしているかもしれないぞ」
どんどん悪い想像を膨らませて青褪めている男たちを見て、アントンは深い溜息をついた。
(うん、間違いない)
この、ありもしない男性恐怖症設定こそが、彼らの言動を過保護かつ過激なものにしている。
もちろん、ローザが複雑な過去の持ち主なのは事実だろうが、トラウマ云々についてはきっちり否定して、冷静さを取り戻させるべきだろう。
(と言っても、私がいくら説明しても信じないだろうから、本人の腐発言を聞かせるみたいな、動かぬ証拠を突きつけるしかないな)
アントンは「よろしいですか、皆さん」と切り出して、一同をぐるりと見回した。
「ひとつひとつ確認していきましょう。まず、下町の教会に赴いた神父とは、本当にマティアス神父なのか? これは、城内の者に問い合わせればすぐに確認できますね。どなたかお願いします。そして」
一度深呼吸すると、覚悟を決めて口を開く。
ちょうど、ローザの安否を確認し、しかも彼女の本性を知らしめることのできる手段が、自分にはあるのだ。
「ローザが危機に晒されているかどうかは、『風紋の術』を用いて、今この場で確認しましょう。国宝など持ち出すのは、その後です」
「風紋の術?」
耳慣れぬ言葉に、ラドゥやベルナルドはもちろん、クリスも首を傾げる。
だが、魔力に造詣の深いレオンだけは、怪訝そうに顔を上げた。
「それはもしや、風の魔力を使って、目標人物周辺の音声を再現させる術のことか?」
「ええ」
「だが……それは禁忌の術のはずだ」
レオンは鋭く告げ、それからアントンのことを注意深く眺めた。
「なぜなら、それは一方的に人の秘密を暴く、犯罪だから。実際、五年ほど前だったか、その術を使って得た情報を小説にしたためて暴露し、社交界を追放された貴族がいたはずだ」
それはまだ、レオンがベルクにいないときの出来事。
だが、優れた記憶力を用いて、レオンは事件の概要を脳の棚から引っ張り出した。
「その貴族の目的は、政治の混乱などではなく、単なる趣味。彼は、美しい女同士が愛し合う様を妄想するのが趣味だったんだ。所かまわず妄想を叫ぶ彼を、社交界はもともと疎んじていた。たしか、名前は」
――アントン。
それが、目の前の神父と実に似た響きであることに、彼らは今更気付いた。
「そう。私こそ、かつて欲望のままに魔力を用い、社交界から追放された男。人は私を、こう呼びました」
アントンは静かに告げながら、指先で風の魔法を紡ぎはじめる。
今や、銀色の月を思わせる美貌を得た彼は、口の端を持ち上げ、薄い唇で笑みを刻んだ。
「百合豚アントン、と」
「……………」
すごくシリアスに向かない二つ名だな、と一同は思った。