31.ローザは万画を腐教したい(3)
「神父様! 探して、いました」
「ええ。君たちの姿が見えたので、来たのですよ。こんにちは、ローザ嬢。髪の色が違ったので、一瞬誰かと思いました」
二人のやり取りから、フェイの言っていた神父とはマティアスだったのだと今さら理解する。
これはなんと予想外、とびっくりしたローザだったが、いやいや、ここは全力で相手に擦り寄るべきだと思い直し、驚きを隠して、にこやかな笑みを浮かべてみせた。
「ごきげんよう、マティアス神父様。お会いしとうございましたわ」
実際には、年齢的にカップリングが難しいマティアスに対しては、茶会から今に至るまで一ミクロンも思考リソースを割いたことなどなかったが、そんなことはおくびにも出さない。
「おや、それは光栄ですね。茶会時に軽く挨拶を交わしただけの私のことなど、とうに忘れられてしまったかと思いましたのに」
「とんでもないことですわ。茶会のあの日から今日まで、神父様のことを考えない日など、一日たりともございませんでした」
謙遜されたようなので、全力で擦り寄る。
「ほう……? ずっと私のことを、ですか」
「ええ。今日も、ここに来たら、きっと神父様に会えるという予感に導かれて、こうして参りましたのよ」
全力で擦り寄りまくる。
マティアスはなぜだか喜色を浮かべる代わりに、「さては予知、ですか……」と瞳を剣呑に光らせたが、ここで退いてはならぬと、ローザはぐいと身を乗り出した。
「神父様、大切なお話がございます。あなた様に、どうか、考えを改めていただきたいのです」
「考えを改めろ? ふ……勇ましいことだ」
マティアスが不快げに口元を歪めたので、ローザははっとした。
つい気が急いて、「フェイへの評価を改めてほしい」と迫ってしまったが、冷静に考えれば、小娘が神父の審美眼をいきなり否定し、評価の訂正を求めるというのは相当に失礼だ。
もっと慎重かつ丁寧なウォームアップ、たとえば、なぜフェイの絵をこき下ろしたかについて、彼自身の口から説明させ、それを一つ一つ転換していく、といった過程が必要だったのだろう。
「いえあの、わたくし……その、まずは、神父様ご自身のお考えをよく聞かせていただきたいといいますか――」
「よろしい」
だが、マティアスは予想外に話を打ち切ると、射抜くようにしてこちらを見つめてきた。
「さすがは真実を見通す瞳、というところですか。これまで半信半疑でしたが、認めましょう。あなたの眼は本物のようだ」
「え?」
今度は唐突にこちらの審美眼を認められた格好となり、困惑する。
だが、その真意を問うよりも早く、マティアスはぱっと踵を返してしまった。
「あなたがすでに私の本性を見抜いているというなら、それを確認するやり取りは無駄でしょう。ただ、あなたが私の真意を知りたいというのなら、よろしい、秘密の場所へご案内いたしますよ。あなたのその、愚かともいえる大胆さを買ってね」
そうして、いったいなぜなのだか、フェイが「行かないほうがいい」と言っていた小さな扉を指し示す。
「この中に、きっとあなたが求めている答えがあると思いますので」
「わたくしが、求めている答え……?」
「ええ」
言うが早いか、彼はさっさと扉を開けて、その先にあった階段を下りてゆくではないか。
よくわからないが、ここで商機を逃してはならないと思ったローザは、咄嗟にその後を追いかけていった。
フェイもまたマティアスの意図を掴みかねたが、扉の先にある光景はわかっている。
さては「こんな血生臭い生業をしている青年に写本職は任せられない」とでも言うつもりかとあたりを付け、眉を寄せながら二人に続いた。
だが、薄暗い階段を降りるマティアスが、やけに嫌味な口調で、
「ここは、本来なら、選ばれた少年たちにしか出入りさせない、神聖な場所なのですがねぇ」
などと嘯くのを聞き、どうもそれとも違うらしいと思いはじめた。
扉の付近に備え付けてあった燭台を持ち、ゆっくりと階段を下る彼の背中には、濃い色の影が揺れ、不気味である。
「女性とは、結局のところ穢れですからね。いわば、魔獣と一緒で、排除しなくてはならないのですよ。世の中には、無垢なる少年と、高潔な男さえいればいい。それが、神の本来定められた、最も美しい世界だ。そうは思いませんか?」
まるで聖書を朗読するような優しい声なのに、内容はひどく傲慢で、攻撃的だ。
フェイは、この神父が穏やかな口調で、ばっさりと弱者を切り捨てた人物であることを改めて思い、不快さに拳を握った。
彼の侮蔑の対象には、女性も含まれるというわけだ。
(それに、さっきの会話はなんだ?)
ローザは、マティアスに面識があるようだった。
それにどうも、彼とこの場で出会うことも予期していたようだ。
前後の会話から察するに、もしや彼女が教会行きにこだわったのは、フェイの絵について掛け合うことではなく、神父に会うことそのもののほうだったのだろうか。
だがそれ以上に気になるのは、マティアスの態度だ。
なぜかローザを警戒しているように見える。
柔和な口調でも隠しきれない敵意は、ぴりぴりと肌を刺すほどだった。
そう、まるで、彼女のことを、絵の真価を見抜いた少女というよりも、己の罪を見破ってきた敵とでも思っているような――。
(もしや……)
階段を下り、影の色が濃くなるごとに、不吉な予感が増してゆく。
先ほどマティアスが言っていた、「本性」という言葉が、やけに頭に引っ掛かった。
本当は貧者を蔑んでいたマティアス。
魔獣の血を集めさせていた彼。
血を無毒化するためといって、いくつかの草と一緒に血を煮詰めさせていたが、あれは本当に、血の毒を消すための行為だったのか。
(もしや彼は、慈愛深い聖職者どころか、腐敗しきった悪党なのでは……?)
ひやりと喉元からせり上がる予感に、体が強張る。
「ローザ。神父は、もしかしたら……」
ごく小さな声で、隣を歩く少女に囁くと、彼女はぱっと振り返り、それから顔を青褪めさせながら、こくりと頷いた。
――わたくしも、そう思うわ。
可憐な唇は、そう動いたように見えた。
(ええ、フェイ、間違いない。わたくしもそう思うわ)
そう、ローザは確信していた。
この世には男しかいらないと言い放ったマティアス。
女はお呼びでないと言う彼。無垢な少年しか出入りさせないという秘密の花園まで保持した彼の本性は、ずばり――
(腐りきっているのではないかしら!)
つい、目が爛々と輝いた。
高鳴る心臓に血が流れ込み、その分顔色が引くのが自分でわかる。
考えてみれば、マティアスはドロテアのお抱え神父。
彼女に様々なアドバイスを施している人物なのだ。
もしかしたら王妃の薔薇趣味も、彼によって開眼されたものなのかもしれない。
(ということは、ということは、きゃー! この先になにが待っているのかしら!?)
交わした会話の意味を、先ほどはよくわかっていなかったが、今思えば、「本物の眼力を持ち」「大胆な」ローザを評価してわざわざ女人禁制の場所を見せてくれるというのだから、それはつまり、ローザを同好の志と認めて、秘密の花園を見せてくれるということなのだろう。
フェイの絵の話から、なぜ薔薇趣味が伝わってしまったのかは謎だが、きっと神父を務めるほどの人物ともなれば、ささいな手掛かりから腐レンドを探知することも可能なのだ。
ローザは胸を弾ませながら、とうとう階段を降りきる。
マティアスに続いて、その先を右に折れようとすると、すぐ隣のフェイが、困惑したような呟きを漏らした。
「『職場』は、左の部屋では……」
「君も、こちらに入ってください。今日からはね」
マティアスはにこりと微笑んで、錠を回し、重厚な鉄の扉をぎぃと押し開ける。
ゆっくりと動く扉に視線を奪われていると、だが彼は突然、持っていた燭台の燃える切っ先を、素早くローザの目に向かって突き出した。
「きゃ……っ」
「ローザ!」
咄嗟にローザを後ろから引き寄せた結果、わずかにバランスを崩したフェイに、今度は足払いをかけ、二人まとめて突き飛ばす。
一人ならすぐに応戦できただろうフェイも、ローザを腕に庇っていたために、受け身を取るのが精いっぱいだった。
「なにをする!」
「ご招待ですよ」
答えは、短い。
マティアスは一歩下がり、開いたばかりの扉をさっさと閉めてしまった。
「ごゆっくり」
愉快そうな声のすぐ後に、がちゃりと錠の回る音が響く。
閉じ込められたのだ。
「おい! なにをする! 出せ!」
フェイは反射的に扉を叩き、体当たりまでしたが、すぐ傍らの少女が、
「――……ひっ」
腰を抜かしたまま、喉奥から小さな悲鳴を上げるのを聞き取り、ぱっと振り向いた。
そうして、息を呑む。
――ぐるぅ……ぅうう
闇の中でも容易に光を捉えられる黒い瞳は、燭台のわずかな光に照らされた、黒い獣の姿をすぐに見て取った。
「おぉ……お」
それから――完全に理性を失った瞳で、部屋のあちこちにふらりと立ち尽くす、少年たちの姿も。
「おい……嘘だろう。あんたら……」
その中の数人は見知った顔であることに、フェイは気付いた。
同時期に魔獣の血の採集をしていた、下町の少年たちだ。
もともと彼らの間に連帯感はなく、後半は仕事の負荷からか、荒々しい言動ばかり取っていたので、ほとんど会話すらしなかった。
ある日を境にぱたりと来なくなったので、てっきり辞めたのだとばかり思っていたのに。
「おぁ……あ」
彼らは、獣のように唸り、目を血走らせている。
髪は乱れ、手足は痩せほそり、元よりぼろぼろだった衣服は、辛うじて体に引っ掛かる程度で、ほとんど裸に近かった。
侵入者の登場に気付いたのか、少年たちが緩慢な動きで振り返る。
ゆっくりと、こちらに近付いてくる彼らと魔獣に、フェイは思わず悲鳴を呑み込んだ。
(ひゃああああああ! 半裸の殿方がいっぱぁあああああい!?)
ローザも、脳内で絶叫した。