30.ローザは万画を腐教したい(2)
「あのう、フェイ、本当によかったの……?」
ベルナルドが登城した同じころ、ローザはもう何度目かになる問いを、先行くフェイにぶつけていた。
教会へと続く小道でのことである。
ローザは魔力で再度髪の色を変え、さらにフードを目深にかぶり、足の長いフェイに置いていかれぬよう、小走りで後を追いかけていた。
「何度も聞くな。もう、決めたことだ」
質問に対するフェイの答えも、もう何度目かわからない。
ただ、そっけない口調とは裏腹に、離れすぎそうになると立ち止まってくれたり、ローザが抱きしめていたスケッチブックを「貸せ」と言って持ってくれたりする。
「不器用寡黙攻め」の真骨頂のような優しさに、ローザは胸をいっぱいにして、フェイを仰ぎ見た。
(まさかあの流れで、わたくしの教会行きに協力してくれるなんて……)
頭の中では、寝室に押し込まれた後のやり取りを思い出す。
しぶしぶ着替えを済ませたローザに、温かなミルクを持ってきてくれた時点では、たしかにフェイはベルナルド側――完全監視体制だったのだ。
ローザが毛布にくるまり、ちびちびとミルクをすする様を、扉の前で腕を組んで見守り、五秒ごとに「早く寝ろ」「無茶なことを考えるな」と繰り返していた。
「んもう、べつに、この破片であなたを脅してでも脱走しようだとか、そんなことは考えていないわよ。そんなに警戒しなくたっていいではないの」
ローザは肩を竦めてみせたが、内心では未練たらたらだった。
だって目の前に、神絵師が輝ける未来があるのだ。
BL万画という新表現が確立され、薔薇愛が爆発的に市民に浸透する、そんな可能性が見えてきたのだ。
いったいどんな貴腐人がそれを諦められるというのだろう。
少なくともローザには難しかった。
「ただね、これは脅しではなくて、純粋に一度考えてみてほしいのだけど、今のこの状況ってどうなのかしら。いえ、あくまで一般的にね? 少し池に足先を付けただけの人間を、こんなにも厳重に寝台に押し込む必要なんて――」
「あるように、見えるな。なにせ、まずいスープを飲んだだけで、気絶するような、お嬢様だ」
「うっ。それなら一万歩譲って、わたくしは寝台で大人しくしているので、フェイ、あなただけでもスケッチブックを持って、もう一度神父様にアタックしてみるというのはどうかしら。絶対にうまくいくと思うの。わたくしが神父様なら、あなたを写本職に抜擢するどころか、全国の修道院に協力を呼び掛けて、来週にはもう、聖職者総動員で写本、印刷を始めているわ」
「俺が出かけたら、あんたも、見守るとか言って、こっそり抜け出すかもしれないだろう」
最大の譲歩もあっさりと拒否されて、ローザはいよいよ感情を昂らせた。
んもう! と寝台脇の机にカップを置き、勢いよく立ち上がる。
泥棒猫か害虫ポジでしかない女相手に、異様な過保護さを見せるフェイが、理解できなかったのである。
「なぜ急にそんなに過保護になるの!? フェイ、あなた、そんな性格ではないはずでしょう! ねえ、よく考えて。わたくしの看病などというくだらない理由で、あなたが選び取れたはずの未来をフイにしてしまったら、どれだけ嘆かわしいことだと思う?」
上位神父、それも彼の一存で市民に仕事を手当てできるほどの職位にあり、しかも頻繁に下町を訪れるほどの庶民派に巡り合える機会など、いったいどれだけあると思っているのだ。
ビジネスにはタイミングがある。
ときめきには旬がある。
今このチャンスを逃してはならないと、貴腐人の全本能が叫んでいた。
「お願いよ、フェイ。どうか、この機会を逃さないで。今教会に行くことは、あなたが考えている以上に重要なことなの。多くの人々に関わることなのよ」
「今は、あんたの身を守るほうが、重要だ」
「なにを言うの!」
フェイのわからず屋め。
なぜ自ら、輝く機会を放棄するのだ。
だいたい、いくらベルナルドの命令だからといって、それを唯々諾々と守るような「攻め」は「攻め」と言えるのか。
「どうしても行かせてくれないというのなら、わたくし……っ」
あなたを筆頭旦那候補から外してしまうわよ。
そんな脅し文句が浮かびかけたが、なんとか飲み込んだ。
一度「推す」と決めた相手を見放すなんて、人道に悖る行為だ。
「わたくし……っ」
ローザは乱れた思いのまま、いよいよフェイの胸倉を掴んで――傍目には胸元に追いすがって――、涙目で相手を見上げる。
が、その瞬間、フェイが切なげに目を細め、こちらを見返してきたので、言葉を失った。
「俺に、守らせては、もらえないのか?」
その顔つきが、そして掠れたイケボが、うっかり昇天しそうになるほど、色っぽかったのだ。
これまでほぼ無表情だった彼が、突然見せた思いつめた表情、そして、懇願するような声音に、ローザはあっさりやられた。
(え、やだ死ぬ。死んでしまうわ。フェイ、あなた、そんな思いつめるほどに、ベルたんの命令を守りたかったの!?)
守りたい、の目的語を当然そう受け取ったローザは、フェイのあまりの健気さに胸を撃ち抜かれ、ぱたりと手を落とした。
「……死んでしまうわ」
震える声で呟いて、恐る恐る口元、というか鼻を両手で覆う。
よかった、垂れてない。
(わたくしが愚かだったわ……。「受け」の命令をひたすらに守る「攻め」は、ヘタレなんかではない。ただただ一途。純愛。そう、これぞ愛)
ああ、今までオラオラ系の「俺様攻め」ばかりを愛好してきたから、気付けなかった。
これこそ、「寡黙一途攻め」の真骨頂。
相手を想うからこそ、「攻め」があえて「受け」に従う、そんな愛の形もあったのだ。
ローザはふいに、教会行きに固執していた自分が恥ずかしくなった。
フェイはこんなにも一途にベルナルドの命令を守ろうとしているのに、自分ときたら、目先の布教欲に囚われて。
彼女は俯き、しょんぼりと肩を落としたが、そうした一連の態度は、フェイを大いに慌てさせた。
(「行かせてくれないなら、死んでしまう」だと?)
なぜなら、本当は脈絡のない二つのフレーズが繋がってしまった結果、フェイはローザの言葉をそのように受け止めてしまったのだから。
(今教会に行くのは、命を懸けたくなるほどに重要なことなのか?)
彼女は教会行きを、「あなたの考えている以上に重要なこと」だと言った。
「多くの人にかかわること」だとも。たかが下町の移民ひとりを就職させることに、そんなに重要な意味があるとも思えない。
となれば、彼女の真意は、本当はもっと深いところにあるのではないか。
(彼女の瞳は真実を見通し、予知もするのだと、あいつは言っていたな……)
半信半疑で聞き流してきたベルナルドの発言が、ふいに脳裏によみがえる。
自分には見えない真実が、この美しい紫の瞳には映っているのではないか。
ごく自然にそう思えて、その頃には、彼の意思は固まっていた。
「ごめんなさい。変なことを言ったわ。気にしないで。わたくし、大人しくしている――」
「わかった。行こう」
「え?」
自分の中で、写本職への憧れはすでにほとんどなくなっていたが、今教会に行かないことには、彼女の気が済まないのだろう。
従順なローザは脱走はしないかもしれないが、「死んでしまう」と呟かせるほどに傷付けるのは、フェイが嫌だった。
だいたい、半刻だけここを抜け出して、教会に行ってくるくらい、なんだというのだ。
教会なんて、悪党が一番寄り付きにくい場所だし、自分にも少女ひとりを守るくらいの腕はある。
「ただし、変装は、しっかりしてもらう。往復で三十分だけだ。神父が、すでにいなかったら、諦める。いいな?」
「え、でも、フェイ、あなた、ベルナルドに――」
「いい」
フェイはきっぱりと断じて、くるりと踵を返した。
「先に、扉の外のやつらと、話をつけとく。変装が、済んだら、出て来い」
この孤児院内で、フェイに武力で上回る人間などいやしない。
こうして、ベルナルドが配したはずの最強の監視役は、あっさりと最凶の共犯者に変貌し、ローザを孤児院から連れ出してしまったのである。
(急に意見が変わったようだけれど、本当によかったのかしら。わたくし、やっぱり「寡黙一途攻め」に対する知見が不十分ね。フェイの思考がさっぱり読み取れないわ……)
前を素早く歩いてゆくフェイを見つめながら、ローザは悶々と考え込んでいた。
一度は諦めた教会行きを、なぜか急に応援され、脊髄反射で乗っかってしまったが、こうしてフェイと連れ立って歩いていると、本当にこれでよかったのかと後悔がよぎる。
フェイのベルナルドの距離の取り方が、いまいちつかめないローザだった。
(こう、「俺様攻め」とは違って、単純に「攻め」が「受け」を従わせようという感じではないのよね。一途に約束を守りたがったり、かと思えば裏切ってみせたり、不思議な関係)
不思議なのはローザの解釈の方向性のほうだったが、それにはとんと気付かず、ローザはもう一度だけ、フェイに囁いた。
「あの、フェイ。ベルナルドとの約束を破ってまでこんなことをして、本当によかったの?」
「だから、何度も言わせるな」
だが、答えはやっぱり同じだった。
戸惑ったように眉を下げたローザを振り返り、相手の罪悪感を軽くしてやる必要を感じたフェイは、「だいたい」と笑みを刻んでみせた。
「俺が、大人しく従うと、思うほうが悪い。あいつには、半年前、ずいぶん心配させられた。たまには、俺があいつを、振り回してやらなくてはな」
「…………っ」
そのSっ気の滲む発言が大いに琴線に触れて、ローザは言葉を詰まらせた。
(そう……そういうことなのね)
つまりこれは、主導権の奪い合いなのだ。
幼馴染で、対等である彼らだからこそ、ときに相手に従い、ときに相手を翻弄し、攻受の境界線が危うくなるほどの駆け引きを繰り返す。
「俺様攻め」代表レオンとでは構築しえなかった、実に複雑で魅力的な関係性である。
「フェイ」
「なんだ」
「ありがとう」
ローザは顔を覆い、そっと目頭を押さえた。
(ありがとう。幼馴染沼は、今日も最高の湯加減です……)
腐りきった感謝の念のうち、上澄み部分だけがフェイに伝わり、彼は少しだけ顔を赤らめると「べつに」と視線を逸らした。
「慰めじゃない。本音だ」
(ですよね)
真顔で頷くローザの姿は、幸か不幸か、彼に見咎められることはなかった。
さて、以降は黙々と歩いたおかげで、教会には思った以上に早く到着した。
先ほどの門兵に話しかけても追い払われるだけ、と踏んだ二人は、壁に小石を投げつけて兵の注意を引き、その隙にするりと敷地内に忍び込む。
不法侵入にも手慣れた「悪い男」の一面を見せるフェイに、ローザの心臓は始終高鳴りっぱなしだった。
門さえ抜けてしまえば、建前上は誰の訪問でも受け入れる教会なのだから、あとの侵攻は容易である。
二人は堂内のあちこちを見て回ったが、いっこうに神父の姿が見えないので、眉を寄せた。
「もう、帰ってしまったんではないか」
「そんな現実、断固として認めないわ」
フェイが呟けば、ローザはきりりと言い返す。
彼女は宝石のような瞳の色を深めると、より熱心に敷地内の探索を始めた。
「見て。裏門のところに、随分と立派な馬が繋がれているわ。神父様の馬ではないかしら。まだこの敷地内にいるのよ。あら、あんなところに小さな扉があるわ。あそこは――」
「あそこは、やめておけ。あんたが行くような、場所ではない」
「まあ、なぜ?」
素直な表情を浮かべたローザに問われ、フェイはわずかに言葉を詰まらせた。
淡々と答えを寄越すには、いまだ少しばかり、気まずさが勝った。
「そこは……教会の、地下に繋がっている。俺たちの、仕事場だ」
「まあ、フェイの!? ならばますます見てみたい気もするような――」
「おや。では、ご案内いたしましょうか?」
とそのとき、背後から穏やかな声が掛かったので、二人はぱっと振り向いた。
声の持ち主を認め、ローザは大きく目を見開く。
「まあ……! マティアス神父様!」
笑みを刻んで立っていたのは、茶会で見掛けた柔和な面差しの老年神父、マティアスだったからだ。