6.ローザは「推し」を育てたい(3)
ベルナルドは、与えられた部屋に戻ると、ちらりと窓の外を見やり、眉を寄せた。
二階のこの部屋からは、ローザが好む薔薇園がよく見える。
今、その茂みの一か所では、膝から崩れるようにして座り込んだ彼女が、両手で顔を覆って俯いていた。
恐らく、泣いているのだろう。
ベルナルドは、無言で溜息をつく。
性格の悪さは、とうの昔から自覚していた。
――見事に騙されてくれたもので。
隠れて泣くローザを見て浮かぶ感想は、それだけだ。
彼の歩んできた人生は、おそらくローザが想像するよりもずっと煤けていた。
女手一つで育てられたのは事実だが、母は酒浸りで、食事を用意せずに姿を消すことなどざらだった。
物売りをしても、油断すれば儲けをすり取られ、殴られる。
弱者は息を殺して、ひたすら強者の横暴に耐える日々。
暴力や騙し合いを経て認められないと、仲間すらできない。
下町育ちでありながら、いきなり暮らすことになった貴族の屋敷で平然とし、腹違いの姉に「はい、姉様」などと心からはにかめるなら、それは聖者か狂人だ。
従順に見せて可愛がられたほうが有利だとわかっていたから、そう装っただけ。
幼く体格の小さい彼にとって、あどけなさとは、過酷な環境を生き抜くための知恵だった。
そんな殺伐とした価値観の彼だから、ラングハイム伯爵にも、当然父性など期待していなかった。
ただ、うまいこと当面の金を工面できればよいな、くらいのことを思っただけだ。
この貴族的な色彩のせいで、下町では随分苦労したのだから、このくらいは許されるだろう。
当初は、屋敷に着いていって、慰謝料か金品のいくつかを掠め取るだけのつもりだったのだが、そんな彼の計画は初日で崩れた。
ローザ・フォン・ラングハイムが、慈愛の笑みを浮かべてベルナルドを引き取ると宣言したためだ。
薔薇の天使と呼ばれる、ローザ。
見る者が思わず呼吸を止めてしまうほどに、奇跡のような美貌を持った彼女。
薄汚い自分を見て、彼女が両手で口元を覆ったとき、ベルナルドはきっと扇か何かを投げつけられるのだろうと考えた。
しかし予想に反して、彼女はその細い腕を伸ばし、酒を代わりに浴びてまで、自分を抱きしめてきたのだ。
声は透き通るようだった。
肌からは、嗅いだこともない芳しい香りがした。
ここで暮らせと言われ、素直に従ってしまったのは、だからきっと、その美しさに少しばかり動揺してしまったせいだった。
共に過ごすようになってからも、ローザの純真さは変わりなかった。
彼女はベルナルドを見るといつだって花が綻ぶように笑い、歌うように話しかけた。
繊細で美しい、花のような姉。
しかし彼女がそうあれるのは、悪意の雨に触れず、ぬくぬくと温室で育ってきたからだ。
守られ、大量の栄養を与えられてきたから。
(いや……、狩りができたり縫合ができたりするのは、多少アレだけど)
ベルナルドは一瞬微妙な顔つきになったが、すぐに首を振った。
それでも、彼女が多くの領民から慕われ、厳重に保護されているのは事実だ。
手ひどい暴力にさらされたことがないのも。
(人に優しくできるのは、それだけ余裕があるからだ)
だからベルナルドは、ローザを前にするたびにいつも思うのだ。
もし彼女から、その余裕を奪ってやったらどうなるのだろう。
彼女はそれでも美しく微笑んでいられるのだろうか。
それとも青褪めてこちらを罵るだろうか。
きっと後者だろう。
人は容易に人を傷付ける。だから信じてはいけない。
殴られる前に殴れ。
騙される前に騙せ。
そうでなくては、自分は生きてこられなかったのだから。
「…………」
窓の外で今、ローザは手で顔を覆ったまま、ふらりと上体を起こし天を仰いだ。
神に祈っているのかもしれない。
ベルナルドは、そんな彼女をじっと見下ろしていた。
勝手に信じ、裏切られた、馬鹿な女。
やがて、ローザはぱたりと手を下ろす。
ぼんやりとした様子で薔薇を眺め――
「…………!」
そして、倒れた。
馬鹿な女。
感想はそれだけ。
それだけのはずなのに、――気付けばベルナルドは、せっかく戻った自室を飛び出し、庭へと駆け下りていた。
***
朝一番にぶっ倒れ、流れでばっちりと昼寝を決めたローザは、夕暮れ時、かなりすっきりした状態で目を覚ました。
(ああ……やってしまったわ。でも、よく寝た)
よっこらせと身を起こし、なんとなく寝台の周りを見つめる。
そして、ぎょっと目を見開く羽目になった。
「ローザ様、お目覚めになりましたか!」
なぜなら、寝台のすぐわきの小椅子には、気絶直前の目撃者ということでこの場にいるのだろうルッツとともに、
「…………」
仏頂面で押し黙った、ベルナルドまでもがいたのだから。
「え……っ!? あ、え…………っ!?」
寝起き一発目から、神々しすぎるベルたんを見るのはつらい。いい意味でつらい。
いや、涎まみれかもしれない自分の姿を思うと泣けてくるので、やっぱり悪い意味でもつらい。
動揺のあまり思いきり挙動不審になり、ずりっと寝台の上で後退すると、それをどう取ったのか、ベルナルドがふいと顔をそらして、立ち上がってしまった。
「……僕はこれで」
(やっぱり、涎ついてましたあああ!?)
もしかしたら、白目を剥いて鼾をかいて、ついでに鼻もぴくつかせていたかもしれない。
ローザが涙目になると、見かねたルッツが「おい!」とベルナルドに向けて声を荒げた。
「これで、じゃない。それよりも先に言うべき言葉があるだろう!? ローザ様を見つけて運んだだけで、おまえの罪が帳消しになるわけじゃないんだからな!」
その発言のおかげで、そういえば「馬蹄のことはあとで話しましょう」と言い放っていたのだっけと思い出す。
しかし、それよりなにより、
「わたくし……ベルた、ベルナルドに、運んでもらったの……?」
その事実が衝撃的で、ローザはさあっと青褪めてしまった。
なんてことだ。
本来、気を失って運ばれるのは「受け」の仕事だというのに、自分がその領分を冒してどうするのだ。
(興奮しすぎてくたばった女なんて、その辺の土の養分にしてくれればよかったのに……! きっといい腐葉土ができたのに……!)
ばつの悪さに震え声で「ごめんなさい……」と謝ると、ベルナルドはそっけなく、
「いえ、べつに」
と答え、そのまま扉に向かった。もう本性を隠すことはやめたらしい。
「べつに、ってなんだよ! 元はと言えば、おまえが――」
「待って!」
掴みかかろうとしたルッツを押さえ、ローザは声を張る。
素早く寝台を飛び降り、ベルナルドの腕を掴むと、細い体がほんのわずかに震えた気がした。滾る。
「お願い、待って。わたくし、先ほどのことについての考えを、あなたに伝えられていないわ」
「ここを出て行く準備なら、すでに――」
「ベルナルド、あなた、宝石の類はお好き?」
振り払おうとした腕をしっかりと右手で掴み直しながら、ローザは素早く左手で自分のネックレスをむしり取り、弟に押し付けた。
「…………は?」
「換金性が高いし、小さくて持ち運びやすいから、すごくいいと思うの。特に、瞳と同色のペンダントだったりしたら、ストーリー性もぐんと膨らんでますます素敵……あいえ、それはこの際おくとしても、やはり宝石。いいわよね。あとは、磁器とか?」
怪訝な顔で立ち止まったベルナルドに、今度は飾ってあった磁器製の小箱を差し出す。
「これ、わたくしが生まれた日に開いた窯で焼いたオルゴールなの。当代一の絵付師に仕上げてもらったから、実はかなりの高級品よ。ああ、この花瓶も」
ついで花瓶を押し付け、さらに部屋中から高価なものを引っ張り集めてきた。
「絵画でしょう、タペストリーでしょう、指輪に腕輪に絹……、ああ、宝剣のコレクションを以前の不作の際に売り払ったのが悔やまれるわね……」
ベルナルドはぽかん、としている。
年相応のあどけない表情になった彼が微笑ましくて、ローザはくすりと笑った。
「すべてあげるわ。……いいえ、これらはすべて、元からあなたのものよ」