29.ローザは万画を腐教したい(1)
数日ぶりに王城へと戻ってきたベルナルドは、城内の雰囲気が険しく張り詰めていることに気付いた。
皆、なにかに怯えるように俯き、口数も少なく廊下を行き交う。
怪訝に思ったが、今はローザのことである。
今回はきちんと筋を通してアントンを連れ出すつもりだったので、騎士団経由で手続きを踏んで入城を済ませる――ローザの手前、城を出奔するかのような啖呵は切ったが、ちゃっかり者のベルナルドは、騎士団に休みを申請し、休養期間の手当てまで確保していたのである――。
すると、先輩の騎士から即座に「本宮の癒術室に向かうように」とお達しがあったため、彼は首を傾げながらも、急いで癒術室を目指した。
意図はわからないが、もしラドゥをローザの看病に連れ出せるのなら、実にありがたい。
果たして癒術室で彼を待っていたのは、部屋の主であるラドゥだけでなく、レオンにクリス、そしてアントンであった。
四人とも難しい顔で、なにかを打ち合わせている。
「お呼びと聞き、馳せ参じました」
彼らはベルナルドの登場に気付くと顔を上げ、少しだけ表情を緩めた。
「ああ、こちらまで来てもらってすまない。この数日、俺たちはここに籠っていることが多くてな。万が一おまえが登城したら、案内するように騎士団に伝えていたんだ。ローザはその後、元気にしているか?」
すぐに気さくに声を掛けてきたのは、レオンである。
疲れたように目頭をもみほぐしているが、ローザを攫うようにして去っていったベルナルドに対しても、特に怒りをぶつけてくるでもない。
かといって無関心というわけでもなく、目の届かぬ場所にいるローザのことは心配しているようである。
てっきり、彼らと顔を合わせたらさぞや険悪に、ローザを早く戻せと言われるのだろうと思っていたベルナルドは、拍子抜けしてしまった。
「……その、陰謀や権力闘争といった観点からすれば、無事なのですが。殿下たちにおかれてはなぜ、連日癒術室に籠もられているので?」
ついでに言えば、彼らのやけに疲れている様子や、城内の張り詰めた空気が気になる。
ローザの現状については曖昧に濁し、彼らの近況を問うと、四人はちらりと視線を交わし、やがてクリスが代表するように口を開いた。
「実は、先日の腐毒混入事件の黒幕探しが、難航していてな」
彼女の説明によれば、こうだった。
下手人はすでに割れている今回の事件、すぐにも経緯まで解明できると踏んでいたが、尋問に備えて小姓たちを牢に繋いでいる間に、なんと彼らが姿を消してしまった。
小姓たちは匿われたとも、口封じに殺されたともわからない。
牢内の人間を手引きできる、かなり身分の高い人物が関与しているものと思われたが、犯人は巧妙にも、手掛かりとなりそうな足跡や書類などをあえて残し、捜査を混乱させていた。
初期にそれが原因で捕縛された子爵が冤罪と判明し、事態は大いに混迷したのだ。
では、腐毒の入手経路をたどろうとしても、これがまたさっぱりわからない。
そもそも、腐毒というもの自体が、毒というよりは呪いに近い性質のもので、ラドゥをはじめとする医療関係者は存在すら把握していなかったのだ。
かろうじて、職業柄解呪に詳しいマティアス神父たちの力を借りて、教会伝承に「二つ角の魔獣の血から作られる」との記載があることまではわかったが、具体的な精製方法や流通経路もわからない。
バイコーンと言えば、その身体に触れただけで、大柄の騎士でも即死すると言われるほどの猛毒を帯びた魔獣で、それを討伐・解体するにはかなり大掛かりな施設や人員が動かされているはずだが、そうした形跡がベルク中のどこにも見つからず、捜査が行き詰まってしまったのである。
そうなると、城の中の誰もが疑心暗鬼になる。
利害の絡む貴族は当然怪しいし、魔獣を討伐する騎士団も怪しい。
直近で誤認逮捕があっただけに、容疑者を即座につるし上げてはならないという自制がまだ効いてはいるが、それでも城内の空気はピリピリしているというのだ。
「アントニー神父も、離宮での滞在を延ばして調査に協力してくれているんだが、腐毒の知識を持つ教会関係者も怪しいとして、先日絡まれてな。僕も、嘘を見抜く力を使って、怪しい人物を割り出そうとしたんだが、こんな時分だ、誰もかれもが保身で嘘をつくものだから、先にこちらが疲弊してしまって、犯人は見抜けずじまいだ」
精神を操り自白を促すレオンの魔眼もまた、力が強大すぎるゆえに、有罪を確信した相手にしか行使できないのだという。
結局、地道に容疑者の洗い出しをするということで、レオンは信頼のおける者だけを集めて、こうして日々調査を進めているとのことだった。
「アントニー神父にとっては、他国の関わりのない事件だというのに、巻き込んでしまってすまないな」
「いえいえ、クリス殿下。あなた様のお役に立てるのが私の喜びですから」
クリスが話の途中で視線を向けると、アントンは穏やかに微笑む。
「それに、……できることがあるのに逃げてしまうと、後から悔やむことになりますからね」
彼が小さく付け足した言葉に、ベルナルドはなにか引っかかるものを覚えたが、その理由を理解するよりも早く、クリスが話を進めてしまった。
「それで、今は利害関係のある人物の取り調べと並行して、バイコーンに関する文献を漁っているところだ」
溜息をつく彼女たちの前には、大量の本が広がっている。
教会の蔵書と思しきその本の一ページには、おどろおどろしい筆致で黒い馬のような魔獣が、人々を屠り、腐らせている様子が描かれていた。その隣にある純白の一つ角が、角で毒を解き、人々を癒しているのとは対照的である。
「だがまあ、文献を読めば読むほど、バイコーン、ひいては腐毒の恐ろしさが伝わるばかりで、気が滅入ってな。誤認逮捕を工作できたあたり、きっと犯人もまだ王城付近にいる。ローザに会えないのは寂しいが、下町で安全でいてくれるなら、正直、彼女をおまえに任せてよかったと、ちょうど兄上たちと話していたところなんだ」
クリスが小さく笑うと、レオンやラドゥが次々に頷く。
「下町での生活に不自由はないか? 必要なら、食材や日用品を手配させるが」
「孤児院初日にショックで気絶したんだよね。ものすごく心配したけど、でも、君に攫われていったアントニー神父曰く、その後は元気らしいし、少なくとも今の城内にいるよりはマシだと思うから、そこは安心かな」
「……それなのですが」
和やかに告げる彼らに、うしろめたさを覚えながら、ベルナルドは歯切れ悪く口を開いた。
「つい先ほど、姉様が、また自ら危険を冒しまして」
「は?」
「冬の池に飛び込んだんです」
「は!?」
ぎょっとする一同に、ベルナルドは、ローザが孤児院で授業を行っていたことや、そこでフェイという青年の画才を見出し、写本職を勧めたこと、しかし、フェイの才能は教会の神父から認められず、彼がすっかり傷付いて帰って来たことなどをかいつまんで説明した。
「孤児院に戻ってきたフェイは、描き溜めていた絵を院内の池に叩きこんでしまったんですが、それを姉様が、自ら池に入って、拾い上げて……。一枚一枚丁寧に褒めては並べて、文字を加えて、そうしたら、これまで見たこともないすごいものができあがったんです。フェイも、俺――僕たちもすっかり感動したんですが、そうしたら今度は姉様、ずぶ濡れのまま、自分が教会に掛け合いに行くと言って聞かなくて」
「ローザ……」
「そういうやつだとはわかっているが、あいつはまったく……」
「他人のために一生懸命になりすぎるんだよね。見てられない」
レオンやクリス、ラドゥは口々に相槌を打ったが、厳密に言えば、ローザが一生懸命になる対象とは、他人ではなく萌えである。
「それで僕、心配のあまりちょっと怒ってしまって。姉様を見張り付きで寝室に軟禁して、アントニー神父をもう一度攫ってくると言ってここに来たんですけど」
「え、君、さらっと恐ろしいこと言うね?」
「それでも、この胸のもやもやが、どうしても収まらなくて……」
ぎょっとしたアントンをよそに、ベルナルドは切なげに眉を寄せた。
「自己犠牲は美徳ですけど、姉様のそれは行き過ぎているように思うんです。まるで、自分には価値がないとでも、思い込んでいるようで」
それについては、アントンも思うところが大きい。
ツッコミを入れるのを差し控え、レオンやクリス、ラドゥとともに聞き役に回った。
「僕は何度も、姉様に自分を大切にしてほしいと伝えてきたつもりなんですよ。でも、全然伝わっていなくて。そう言われるのは、自分が本当に大切な存在だからじゃなくて、僕が優しいからだ、とでも思っているみたいなんです。実際、僕がなにをしたって、姉様は好意的にしか受け取らない……本当に優しいのは、姉様のほうなのに」
恐らくそれは、「『推し』がなにをしてもパンがうまい」という、限界貴腐人特有の症状を呈しているだけだろうなとは思ったが、アントンはそれについてもコメントを控えた。
ベルナルドはきゅっと拳を握ると、きまり悪そうに俯いた。
「僕だけで姉様の身も心も守ってみせると思っていたけれど、だめでした。僕だけの声じゃ、全然届かない。もっと大勢から、根気強く、これだけあなたは愛されているんだと伝えなくてはいけないと思うんです。だから……本当は、姉様を離宮に戻してもいいかと、許可を取るつもりで、ここに来ました」
「ベルナルド……」
「茶会のときは、一方的に皆さんを責めて申し訳ありませんでした。姉様を守ることのできなかった僕に、皆さんを糾弾する資格はありません」
深々と頭を下げるベルナルドに、レオンたちは言葉を失う。
謝罪を済ませてしまうと、ベルナルドは気持ちを切り替えたのか、現実的な提案に移った。
「もちろん、現状の王城に、今すぐ姉様を戻そうとは思いません。ただ、一緒に姉様を監視、もとい、見守るための人員をお借りしてもいいですか? でないと姉様、すぐにでも教会に殴り込みに行きそうで。ちょうど今、上位神父がその教会に慰問に来ているから、機を逃したくないのだそうです。そりゃ僕だって、幼馴染には魔獣の解体より、写本職に就いてほしいですけど、そこは姉様の体調を優先してほしいというか」
彼なりの葛藤も抱えているのか、ベルナルドは後半をもごもごと呟いたが、それを聞き取ったアントンは、はっと顔を上げた。
「魔獣の、解体……?」
急に張り詰めた空気に、ベルナルドは首を傾げかけ、それからすぐに言わんとするところを悟る。
嫌な予感を覚えながら、彼は、友人がなんと言っていたかを反芻した。
「はい。フェイ――幼馴染は最近、教会で仕事をしているのです。疫病が流行らないように、魔獣の遺骸から血を集める仕事だそうで……」
レオンやクリス、ラドゥも、無言で身を乗り出す。
ベルナルドは、喉元から、氷のような冷たい感触が込み上げるのを感じた。
「俺……僕たち、ほとんど礼拝にも行かないような不信心者の集まりだったから、教会がそういう仕事をすることもあるのかなって、疑いもせずに思っていたんですが……」
「魔獣の討伐は、騎士団か、冒険者から成る傭兵団の仕事だ。解呪はたしかに、騎士団に同行した神父が行うが、穢れである魔獣を、わざわざ教会に引き入れることはしない。遺骸からでさえ、残存した負の魔力を浴びて、精神がやられることもあるしな」
レオンがきっぱり告げると、ベルナルドは青褪めながら額に手を当てた。
この半年で、やけに性格がきつくなった幼馴染。
たしか、「魔獣の血で手を染めていると、気が狂いそうになる」とも言っていた。
もしあれが絶望の比喩なのではなく、実際に、負の魔力の影響を受けてのものだとしたら。
「彼にその教会の仕事を手当てしたのは誰だ?」
「教会付きの神父です。……いや違う。常駐していないけど、時々下町の教会に慰問にやって来る、それくらい上位の神父だ。王城にも出入りするほどだと聞いた気がします」
「名前は?」
「聞いていません。でも、穏やかな老人だと、フェイは言っていたと思います」
レオンたちの脳裏に、瞬時にある人物の名が浮かび上がる。
――ドロテアのお抱え神父、マティアス。
クリスは、うめき声を上げた。
「嘘だろう」
「でも……フェイは、生きています。バイコーンの血は、大人の男でさえ即死する猛毒なんでしょう? フェイが解体している魔獣は、バイコーンではないのかも――」
「未成年の少年だけに無害なのだとしたら?」
ベルナルドの言葉は、アントンの低い声によって遮られる。
振り返ってみれば、彼は、食い入るように文献を――ユニコーンと対照的に描写されたバイコーンの図を見つめていた。
「たとえばユニコーンは私とほぼ同る……いや、純潔の女性だけを愛し、けっして攻撃しない。バイコーンの場合は逆に、無垢なる少年には無害なのでは?」
「それは……」
全員が、なんとも言えない相槌の打ちにくさを感じ、黙り込んだ。
今、とても美しい言い回しで表現されたが、純潔の対となる無垢というと、それは――
「つまり、童――」
「レトリックの問題は今は措きましょう、殿下。それよりベルナルドくん、君、ローザを見張り付きで閉じ込めてきたと言ったけれど、それは確実かい?」
色男代表レオンが、割合抵抗なく例の単語を口にしようとしたが、それをも遮って、アントンはベルナルドに問うた。
「マティアス神父は、今、その教会に慰問に訪れているということなんだろう? もし彼が黒幕だったのだとして、真実を見通すという噂のあるローザがのこのこ教会を訪ねたりしたら、本当にまずい。いや、それどころか、このタイミングで彼がわざわざ下町に向かったというところを考えるに、もしや、彼のほうから、なにかを仕掛けようとしているのかもしれない」
「…………! ですが、見張りも付けてますし、姉様も、我が儘を押し通すような人では」
「自分のためならまだ自制するかもしれない。けれど、今回はフェイくんの未来がかかっているわけだろう? 彼女の性分をよく考えてみてくれたまえ」
「たしかに姉様の性分を考えれば、大人しくしているという保証はない……」
おそらく、アントンとベルナルドの思い描く「性分」は、天と地ほどにかけ離れていただろうが、二人は頷き合った。
ベルナルドはさっと窓辺に近付くと、東の空――孤児院のある方角を覗く。
そして、はっと息を呑んだ。
「…………! 狼煙が上がっている!」
「えっ?」
「念のため、見張りたちが全員陥落させられてしまった場合に備えて、ほかのチームに狼煙を渡しておいたんです。万が一姉様が出歩こうとしたらまず止めろ、止められなければ狼煙を上げろと。騎士団のを掠めといてよかった……!」
「束縛が戦略的すぎるよ! っていうかなに横領してるの!?」
アントンはつい突っ込んでしまったが、すぐにそれどころではないと思い直す。
「でも、それなら……ローザは今まさに、マティアス神父に会いに行っているかもしれないということかい……?」
引き攣った声を聞いて、一同は顔をこわばらせた。