28.ローザは絵師を育てたい(4)
「フェイ! すごい、素晴らしいわ! あなたの中には、こんな世界が広がっていたのね!」
「え……」
フェイは戸惑った。
たしかに、一枚絵で表される聖画の光景を、部分ごとに着目して描いたら、より理解が深まるのではと思い付いたのは事実だったのだが、こうして並べてみせたのはほかならぬローザだ。
「いや、俺は、そんな……ただ、細切れに、聖画を描き直しただけで」
「なにを言うの。細切れにする、その視点の一つ一つが素晴らしいのよ。あなたはあえて、伸ばした手と握る手を描いた。燃える蝋燭と消える蝋燭を描いた。時間の止まった一枚絵でしか物語を表現できなかったわたくしたちと異なり、あなたは、あなただけは、時が流れる空間で物語を捉えているのよ! これが才能でなくて、なんなの!?」
きっぱりと言われると、そういうものかという気がしてくる。
いや、燃える炎のような力強い言葉は、すっかり冷え、縮こまっていたフェイの心を、じわりと温めはじめた。
「これを読めば、聖画を見るより深く、聖書の光景を理解できる。あなたは無教養なんかではない。それどころか、あらゆる民に教養を授ける、素晴らしい才能を持った人間なのよ!」
眩しく、輝かしい。
色を深めた紫の瞳が、まるで夜空に瞬く星のように、いいや、夜明けを導く太陽のように光っている。
どうして、と、フェイは思った。
「……そう、だろうか」
なぜ、彼女は、こんなにもほしい言葉をくれるのだろう。
なぜ、彼女の眼差しは、こんなにも胸の奥深くまで突き刺さるのだろう。
「俺は、……そんな、大層な、人間だろうか」
「もちろんよ! んもう、何度も言わせないで!」
どうか、これ以上言わせないでください。
神父の心無い発言が、笑みを含んだローザの可憐な声に、あっさりと塗り替えられてゆく。
彼女から授けられた火が、体の隅々まで広がってゆくのをフェイは感じた。
心を温め、魂を燃やし、人を前へと歩かせる、希望の炎だ。
視界が滲む。
自分が涙ぐんでいるのだと気付くのに、数秒かかった。
目の前の少女が、清らかな天使に見えた。
(んはぁああああ! 素晴らしい! 素ぅ晴らしい! わたくしの前に今、BL布教の無限の可能性が広がっている!!)
が、その天使の背負うオーラは、残念ながらどどめ色をしていた。
ローザは、めくるめく薔薇普及計画の展望を思い、ただただ胸を高鳴らせていた。
(小説の挿入画に、などと考えていたわたくしが愚かだったわ。フェイの絵は、むしろ文字を添え物とし、絵を主体として広められるべきよ。これならば、読み書きが得意でない人々にも、一気に物語を広めることができる。即ち、薔薇愛の迅速なる普及が見込める!)
これまでローザは、識字率を向上させてから小説の普及を、と考えていた。
だが、こうして絵をメインにした物語に仕立ててしまえば、識字率向上を待つまでもなく、一足飛びに薔薇愛を広めることができる。
現に、子どもたちはこの表現物を先ほどから食い入るように見ているではないか。
主神と勇者の関係性の尊さも、聖画より数段強く伝わっているはずだ。
つまり、これを使えば、前途ある子どもたちだって、ごく自然に薔薇愛へと誘導できる。
(この絵をなんて名付けましょう。並び画? それとも、一幅の絵画を十にも百にも分割して表現する絵画だから、百画……千画……いっそ万画とか?)
舌の上で響きを転がし、ローザは頷いた。大きいことはいいことだ。「万画」にしよう。
やがてフェイには、ベルナルドを主役とした万画を描いてもらって、BL万画を大陸中に広めるのだ。
(大きさは、書籍サイズに合わせた方がいいわね。絵を相当縮めることになるけれど、線の少ないフェイの絵なら、印刷にも耐えるはず)
こうなると、緻密なスケッチとは異なるフェイの画風がますます素晴らしい。
写本技術を持つ教会とタッグを組めば、がんがん増版できるだろう。
そうだ、新たに腐レンドとなった王妃は本好きのようだから、この新規出版事業にも協力してもらえるかもしれない。
すべての歯車がきれいに合わさってゆく感覚に、ローザは眩暈を覚えた。
これはもはや天命だ。
「フェイ。神父様にこれを見てもらいましょう。必ずや、その素晴らしさを理解してもらえるはずよ」
フェイの腕をきゅっと掴む。
この腕は、BL万画を生み出す神の手。
けっして逃しやしない。
「さあ、今からでも一緒に教会に引き返しましょう。さっきはだめでも、二人がかりで話せば、きっとわかっていただけるわ」
「いや、待て! ずぶ濡れで、なにを言ってる。せめて、着替えてくれ。だいたい、あんた、身を隠してるんだろ?」
「なにを言っているの! 神父様は常駐の方ではないのでしょう、機を逃してはならないわ。小娘一人の安全と、人類に変革をもたらすあなたの絵、どちらが大事かなんて、考えるまでもないでしょう? さあ、走るわよ――」
「ああ?」
だが、ぐっと腕を引っ張ろうとしたとき、すぐ傍から、まるで獣の唸り声のような、大層柄の悪い声が聞こえたので、ローザはぱっと振り向いた。
「すみません、姉様。今、なんて?」
いやしかし、そこに立っているのは、にこっと愛らしい笑みを浮かべたベルナルドだ。
空耳か、と首を傾げるローザに、ベルナルドは微笑みをキープしたまま一歩近づいた。
「まさかその状態で、外出するなんて言いませんよね? というか、そもそも姉様、この院の外に出てはだめでしょう?」
「いえあのでも、ことは急を要する……」
「だめ、でしょう?」
なぜだろう。
ベルナルドはきらきらしく微笑んでいるというのに、えもいわれぬ圧を感じる。
美貌による霊圧だろうか。
「だ……、だめ、です……よね」
だいたい、「推し」にこんなに間近に接近されて、平静を保てるローザならそれはローザではない。
麗しすぎるスマイルにあっさりやられて、たじたじと頷くと、ベルナルドはゆっくりとローザの手を掴み、フェイの腕から引き離した。
氷のように冷たいローザの手首に指を回し、不機嫌そうに眉を寄せる。
「こんなに冷えて。震えてるじゃないですか。脈も、随分速い」
「え、あ、そ……」
それはむしろ、「推し」に濃厚接触していることのほうが原因ではないかと思われるのだが。
「いや、熱い……? 姉様、さては熱がありませんか!? やっぱり、今ので風邪を……」
水の冷たさすら押しやって、急上昇した体温に気付いたのだろう。
ベルナルドが焦ったよう呟いた。
だが、ローザに言わせてもらえれば、それはひとえにベルナルドのせい、というか、興奮のせいだ。
「あ、あのね、違うのよ、ベルナルド。少しばかり離れてもらって、十回くらい深呼吸すれば、こんなのすぐに落ち着いて――」
「ごまかされませんよ。さっきからふらついてたじゃないですか。すでに、相当つらかったんでしょう? 冬の池に浸かったんだから、姉様の心臓が耐えられるわけない!」
「い、いえ、だから……!」
ふらついて見えたのは、万画の可能性に立ち眩みがしたからだ。
自分の心臓がダメージを受けるとしたら、水の冷たさなどではなく、ベルナルドの愛らしさによるものに決まっているだろう。
ローザは叫びたかった。
(き、気付いていないの、ベルたん!? あなたがそうやって同身長のわたくしを睨むと、上目遣いになってしまうことに!)
無意識に魅力爆弾を放つベルナルド、彼のあまりの鈍感さに、ローザは成す術もない。
興奮を制御しきれず心臓をドコドコさせていると、ベルナルドはなにを思ったか、ローザを抱き上げた。
「きゃ……っ! ベルナルド! だから、あなたがこんなことをしてはいけないと……! 目の前にフェイもいるでしょう!?」
「へえ、姉様は、フェイに抱き上げてほしかったんですか?」
どうしてそうなるのだ。もちろんローザは、「ただでさえ『受け』のあなたが、それも旦那の目の前で、ほかの女を抱き上げてはならない」と伝えたつもりだったのに、斜め上の答えが返ってきて途方に暮れる。
なぜだかベルナルドはますます険しい顔になって、早い足取りで建物の中に向かった。
「僕は医者……だとまずいから、一度城に戻って、アントニー神父を呼んできます。姉様は、着替えて寝ていてください」
「ええっ、大げさよ! そんなことより、早く教会へ――」
「おまえら! 神父を連れて戻ってくるまで、姉様の部屋の前から一歩も動くなよ!」
「は、はいっ!」
ローザの反論を聞かぬどころか、子どもたちに声を掛け、人のバリケードまで用意する過保護ぶりだ。
荒々しい口調に下町オフショットみを感じてどきっとするが、いやいや、どきっとしている場合ではない。
やけに怯えている子どもたちの様子も気になる。
(ベルたんって、天使的な魅力で子どもたちを掌握しているのかと思ったのだけど、そういうわけでもないのかしら? ま、まあいいわ、相手が子どもたちだけならば、心苦しいけれど出し抜くことも可能のはず)
腐的着想を前に闘牛と化したローザは、もはやかわいい子どもたち相手にも挑戦を厭わない。
彼らには悪いが、今ローザの肩には、BL万画という人類の繁栄すら左右しうる文化が懸かっているのだ。
いざとなれば、頭突きをしてでも部屋を抜け出し、教会にいるという上位神父を捕まえよう。
「そうだ」
だが、そこでくるりと背後を振り向いたベルナルドは、「フェイ!」と親友を呼び寄せた。
「おまえも一緒に、見といて。姉様から絶対に目を離すなよ」
「もちろんだ」
「えっ」
神絵師張本人から、外出禁止に力強く頷かれてしまい、ローザはぎょっとする。
「そ、そんな、フェイ、なぜ!?」
「なぜもなにも、ない。……頼むから、早く、医者にかかっててくれ」
切なげに細められた目には、これまでにない心配の情がありありと浮かんでいる。
(い、いや、宛先違いですけど!?)
妻以外に対しては塩対応が基本の、硬派な男のはずなのに、ここにきて突然キャラがぶれすぎではあるまいか。
「姉様が意外に護身術を嗜んでいることは知ってますけど、こいつ、こう見えて下手な騎士より強いんで。頭突きして抜け出そうとか考えているなら、まず無駄ですよ」
「ええっ!?」
まるで心を読んだかのような発言に、思わず愕然とする。
部屋にたどり着いたベルナルドはふっと笑うと、扉を蹴り開け、寝台前に、ローザを優しく下ろした。
「さ、着替えてください。そしてすぐに、布団をかぶって。誰かに薪を持ってこさせます。いい子にして待っていてくださいね」
「な……っ」
言うが早いか、ベルナルドは踵を返して去ってしまう。
扉の向こうで、大量の子どもたちが整列する気配を聞き取り、ローザは伸ばしかけた腕をぱたりと落とした。
「なぜ突然、そんな『攻め』みたいなことをするのよぅ、ベルたん……っ」
これは、腐教育の才能があると思い上がっていた自分への罰だろうか。
いったいどこでベルナルドを育てる方向を違えてしまったのかと、ローザは涙ぐんだ。