27.ローザは絵師を育てたい(3)
(信じられない! 信じられない! フェイの、いえ違う、わたくしの、ばかばかばか!)
ローザは混乱していた。
それはそうだろう、目の前で聖遺物が池に投げ込まれたようなものだ。
信者はもれなく絶望の叫びを上げ、目を血走らせて入水するしかあるまい。
初冬の池の水は刺すように冷たいが、極度の興奮状態にある彼女からすれば、気にするほどのことでもなかった。
そんなことより、今人類が気にすべきは、池に沈んだ秘宝の行方だ。
ローザは身をかがめ、ざぶんと頭まで池の水をかぶって、濁った水底を見回した。
(絶対に探し出すわ……!)
珠玉の作品を水に沈めるなんて、先ほどのフェイはきっと、乱心状態にあったのだ。
受け入れがたい愚行と言えたが、いやいや、神絵師のすることを凡人が否定などしてはならない。
だいたいローザは、フェイをベルナルドの筆頭旦那と見込み、応援することに決めたのだ。
とすれば、彼女がすべきは、彼を批判することではなく、万全のフォローとサポートを捧げることである。
(一言くらいは物言わせてもらいたいけれど……。あっ、あった!)
淀んだ水底に、泥に埋もれるようにしてたゆたう紙の束を見つけ、急いで胸に抱え込む。
「風よ! 球を成して姉様の顔を覆え!」
突然顔の周りを空気の膜で覆われたのと、ぐいと腕を引かれたのは、同時だった。
『この、馬鹿!』
荒々しい怒声に、ぱちんと空気の球が弾ける。
そのままローザの体を抱き上げたのは、自身も腰まで池に浸かったフェイだった。
『いったい、なにを考えているんだ!?』
薔薇のことである。
フェイのあまりの剣幕に、さすがのローザも一瞬圧されそうになったが、きっと瞳に力を込めると、彼の腕を飛び降りた。
「なにを考えているか? それはこちらの台詞です!」
同時に、言語もベルク語に切り替える。
先ほどは、激した彼にベルク語では届かないと思って、彼の出身と思しき地方の言語で話してみたのだが、やはり妻を差し置いて自分とフェイだけがわかり合う状況もどうかと思われたからである。
ちなみに、ローザがその地域の言語を操れるのは、一時期オリエンタル春画に可能性を感じて勉強していたのと、フェイとの出会いを経て東洋熱が再開し、暇をいいことにここ数日で相当やり込んだからだった。
ローザは、ぽたぽたと雫を落とす髪を乱雑に掻き上げる。
ベルナルドの魔力を浴びたことで、変装の魔術が破られ、髪が毛先からみるみる金色に戻ってしまっていたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
彼女は、胸に抱えていたスケッチブックから丁寧に水気を払い、静かな声で問うた。
「なぜこんなに大切なものを、捨ててしまうのですか?」
「……ふん。言ったろう、落書きだからだ。いいや、今では、泥水に滲んで、落書きですらなくなっているだろうが、な」
そんなものを拾うために、池に飛び込むなど、と再び唸るフェイの前で、ローザは不意に唇の端を持ち上げてみせた。
「それはどうでしょう」
そうして、ゆっくりとページを開く。紙はすっかり濡れそぼってへたれていたが、――線は、滲みもせずに、くっきりと残っていた。
「え……?」
「フェイに差し上げたペンはすべて、耐水性ですの」
そう、ローザの過剰スキルは、語学だけに発揮されるものではない。
孤児院生活で有り余る時間を有効活用し、すでに耐水インクを開発していたのだ。
(なにせ、薔薇本を執筆するときには、興奮のあまり手汗や鼻血がにじみがちですからね!)
貴腐人の必需品である。
「姉様、そんなことより、早く体を拭かなくては!」
「いいえ、ベルナルド。わたくし、フェイに今、伝えなくては」
慌てた表情で上着を差し出すベルナルドを制止し、ローザは再びフェイを見据えた。
逃がさない、とでも言うように視線を合わせたまま、一方ではスケッチブックを、白い指先でそっとめくる。
「これは、主神ね。堂々たる筋肉の描写が見事だわ。こちらは英雄ね。光彩がくっきりとして、瞳が生き生きと輝くよう。花が……十二種類。色も付けていないのに、花弁の形だけで素晴らしく描き分けているわ。ああ、そう、これは『主の見送り』の抜粋なのね」
水で濡れた紙が破れぬよう、丁寧にページを繰っては、丁寧に褒め上げてゆく。
まるで、蝋燭に一つ一つ、そうっと火を灯すような言葉に、フェイの瞳が揺れた。
やがてローザの視線が、何度目かに現れた主神の横顔に落ちる。
切なげに寄せられた主神の眉をなぞり、彼女はふいに、目を潤ませた。
「……なんて美しいの」
清らかで、純粋な。
凍った心さえ溶かすような声だと、フェイには思えた。
いや。
(たまらん)
実際には、彼女の想いは、もう少しばかり下劣な色を伴っていた。
(なんて麗しく、芳しく、妄想を掻き立てる絵画群なの……っ)
そう、彼女はもちろん、これらの絵を萌え画として鑑賞していたのである。
主神のいかにも攻め攻めしい筋肉に胸が高鳴る。
受け受けしく描かれた英雄の大きな瞳に心震える。
背後に散る花がいい。原画とは異なり見つめ合う構図がいい。
写実性という点ではベルク絵画に一段劣るが、だからこそここには、現実を越えた耽美がある。
ふつふつと興奮を滾らせた彼女は、瞳の色を深めて、じっとフェイを見つめた。
「ねえ、本当に素晴らしいと思うわ。わたくし、この絵が捨てられたら、何度でも池に潜る。この絵が燃やされたなら、何度でも炎に飛び込むわ。そのくらい、好きなの。わからずやの神父様になにか言われたのだとしても、ここに熱烈なあなたのファンがいることを、どうか忘れないで」
「…………っ」
陽光のような金色の髪。
それを濡れた首筋に張り付け、紫の瞳を潤ませ、両手で作品を描き抱いて言い募る姿というのが、どれだけ神々しく映るかということについては、特に意識していなかった。
ローザは今一度、フェイに向かって身を乗り出し、濡れた片手をそっと伸ばす。
相手が息を詰めて硬直しているのを見て取り、さては溢れ出る腐ォースに圧されたなと、内心で勝利の拳を握った。
神絵師が自信回復するまであとわずかだ。
「なぜ、心無い評価のほうを信じてしまうの。ひとかけらでいい、わたくしの好意も、どうか受け入れて」
掠れた声で、ローザは囁いた。
フェイの瞳が再び揺れる。
ローザは相手の腕に手を重ね、きゅっと力を込めた。
「これのどこが、教養のない落書きだというの。すべて、聖書に沿って描かれているではないの。きっと順番にページをめくれば、まるで物語を読んでいるかのように、ありありと――」
瞳を見つめる。顔を寄せる。
まるで胸元に飛び込んでくるような姿勢に、フェイの腕が知らず、ローザの細い背中へと伸ばされてゆく。
「そう、物語のように、ありありと、…………」
だが、吸い寄せられるように持ち上がった手が背中に触れる直前、ローザはばっと顔を上げ、両手でスケッチブックを持ち直した。
「そうよ!」
まるで雷に打たれた人のように、大きく目を見開き、紙の束を見つめる。
「並べればいいのだわ!」
彼女は小さく叫ぶと、その場に素早く屈みこんだ。
冷え強張った細い指で、もどかしげに綴じ紐をほどいてゆく。
ばらばらの紙となったそれらを、彼女はドレスが土まみれになるのも構わず這いつくばり、一枚一枚地面に並べていった。
「主神が……勇者と会話をするでしょう……そのとき、手が……蝋燭の炎が揺れて……」
ときに別のページに描かれた主神と勇者を向き合わせ、ときにページを破いて大きさを調整する。
最終的に、すべての紙片が巨大な長方形の中に収まった。
いや、地面という巨大な長方形のページを、紙片というコマで分割しているようにも見えるだろうか。
ローザは、転がっていたフェイの布鞄から耐水性ペンを取り出すと、紙片の余白に文字を書き込んでいった。
セリフだ。
誰が発言したものなのかがわかりやすいように、文字は丸で囲み、口の近くに矢印で結ぶ。
「見て」
最後のコマにまでセリフを書き入れると、ローザはゆっくりと立ち上がった。
「こうしたら、まるで歌劇を本に落とし込んだようではない?」
そこには、これまで誰も見たことのない、画期的な表現物があった。
紙片の一枚目――いや、一コマ目で、主神は勇者に向かって祝福をかける。
二コマ目、勇者は主神を見つめ返し、笑顔で礼を述べてから、三コマ目ではすでに反対を向いている。
つまり、踵を返したように見える。
勇者に向かって伸ばされる、主神の手だけのアップ。
監視するかのような使徒の花のコマには、「主神よ、お留まりください」の台詞を添えた。
やがて躊躇いがちに握られる主神の拳。
次のコマでは、切なげに寄せられた彼の目元だけが描かれ、その傍には「本当は……」の文字。
不穏に波打つ湖だけのコマ。
ずらりと並んだ蝋燭だけのコマ。
そして最後に、大きく描かれた五本目の蝋燭の炎が掻き消える。
添えられた文字は、「おまえだけは、危険にさらしたくなどなかったのに――」。
見守っていた子どもたちは、息を呑んだ。
「すごい……」
「まるで、歌劇を見ているみたいだ!」
「教会の一枚絵より、全然伝わる!」
皆、大興奮だ。
敷居の高い歌劇場には、下町の彼らは踏み入ることなどできなかったが、これを読めば、まるで歌劇を鑑賞しているかのような心地を味わえる。
ローザは目をきらきらと輝かせ、フェイを振り仰いだ。
「フェイ! すごい、素晴らしいわ! あなたの中には、こんな世界が広がっていたのね!」




