26.ローザは絵師を育てたい(2)
ここ一週間の自分は浮かれていたのだと、今のフェイならばわかる。
ローザが「課題」と称して大量のスケッチを描かせるようになってから、たしかに彼の生活は充実していた。
もともと、絵は好きだったのだ。
紙もなく、ペンも満足に買えなかった頃から、土に、窓の埃跡に、ときには指に付いた魔獣の血ですら絵を描いた。
戦うことが彼の心を高揚させるなら、絵を描くことは彼の心を慰めた。
ただそれは、あくまで手慰みだと思った。
これは暇つぶしだと言い聞かせた。
だって、人の数倍働かなくてはならない自分が、多少絵を上手く描けたところでなんになるというのか。
だが、ローザに写本職の道を示されてから、その考えは急速に変わりはじめた。
自分には、才能がある。
誰かの心を動かす、まるでひとかどの人間であるような、才能が。
授業を通じてローザが紹介してくれる美術品は、どれも見事だった。
解釈の仕方は斬新で、想像力は底知れず、彼女が語れば、歴史も算術も刺激に満ち溢れるようだ。
もっと知りたい。
もっと学びたい。
好きなことを、好きなように表現して――認められたい。
そう思いはじめるのに、時間はあまりかからなかった。
気付けば、隙間時間に、いや、寝る間すら惜しんで絵を描くのが習慣になりはじめていた。
好んで描くのは人物、特に青年や少年だ。
すぐ身近に、一幅の絵画のような美少年がいたし、写本職が最も描くのは、主神ベルクや英雄などの男性だったから。
いや、それは建前で、本当は、美しい女性を描こうとすると、すべてがローザの面影を宿してしまうと気付き、それが恥ずかしかったからだ。
まっすぐにこちらを見つめる宝石のような瞳。
悪意を知らない柔らかな頬。花のような微笑みを湛えた唇。
フェイの知る女性美のすべては、彼女で構成されている。
ベルナルドには「ほだされない」などと言ったくせに、認めよう、フェイはすでに、ローザに心を許しかけていた。
どれだけ冷たくあしらっても穏やかに頷かれ、本人も気付かぬような些細な点を丁寧に褒められ、生きる希望まで与えられて、どうして心を開かずにいられようか。
だから、そう、調子に乗っていたのだ。
大量に描き溜めたスケッチを手に、船の帆のように胸を期待に膨らませ、教会の門を叩いてしまったのは、浮かれていたからに他ならなかった。
面会を予約していた上級神父は、すぐに出てきてくれた。
常時は王城に勤めるという、神父の中でもかなり上位の、物腰穏やかな老年の男性だ。
フェイが職に困っていたとき、教会での仕事を手当てしてくれたのも彼だった。
噂では、自身も爵位を持つ貴族だというのに、魔力が足りずに聖職者の道を選んだのだと言う。
きっと貴族社会では落ちこぼれだったのだろうが、逆にそのことが、フェイを安心させた。
欠点を埋めるように、積極的に下町の教会に足を運び、身分の貴賤に関わらず市民に声を掛けている神父は、唯一信頼に値すると思える貴族だった。
移民のフェイにさえ「君にしかできない仕事があるのですよ」と手を差し伸べてくれた彼なら、きっと今回も、協力してくれる。
ぎこちない話し方をするフェイにも、優しく微笑んで耳を傾けてくれた彼ならば、きっと目を細め、絵を褒めてくれる。
そう、ローザのように。
しかし、ほかの子どもたちがするように、神父とともに懺悔室に向かおうとしたそのとき、彼は戸惑ったように制止してきた。
「待ちなさい、フェイくん。そこは、市民が懺悔を捧げる場所ですよ」
意味がすぐには飲み込めず、怪訝な顔で振り返ったフェイに、老年の神父は、皺の多い穏やかな顔に苦笑を滲ませ、こう告げたのだ。
「話なら、教会の外で聞きましょう」
まるで、道理を弁えぬ子どもを諭すような。
呆れと苛立ちを、柔らかさで包んだ、声。
それを聞いた瞬間、フェイは悟ったのだ。
自分は彼の中で――慈しむべき「市民」ではないのだと。
実際、フェイが写本職への受験を挑戦したい旨を伝えても、彼は柔和な表情を崩さぬまま、しかし即座に否定した。
「神へ近付こうとする意欲は素晴らしいですが、今の仕事で、十分君は君の果たすべき務めをこなしていると思いますよ」
今の仕事。
腐臭を放つ魔獣の皮をはぎ、負の魔力を帯びた血が散逸せぬよう、集める仕事だ。
黒い馬のような形をした二つ角の魔獣、バイコーンは、遺骸を放置しておくと病の源となるから、その血を集め、教会で浄化することは大切なのだという。
腐血処理は民を救う行為であり、誰にでもできるわけではないからこそ、少人数にひっそりと伝えられてきたのだと、かつて彼は語った。
適性を持たぬ者が腐血に触れると、死んでしまうのだそうだ。
君の年でこの仕事をこなせる者は多くない。おめでとう、君は選ばれたのです――そう告げられたとき、フェイはたしかに歓喜した。
初めて認められたと思った。
だが実際には、教会の地下に集められた男たちは、フェイの知る限り、自分よりさらに幼い子どもたちか、そうでなければ社会からあぶれた者たちばかりだ。
やましさと警戒を抱え、不機嫌な顔のまま、無言で魔獣の血を浴びていると、ときどき気がおかしくなってくる。
だというのに、彼は、これこそがフェイに「ふさわしい仕事」と言うのか。
フェイはぐっと奥歯に力を込めると、身を乗り出して、神父にスケッチブックを差し出した。
「いいえ。俺は、ほかの方法で、身を立てたいのです。どうか一度、見てください。『主の見送り』を、描きました」
こちらが身を乗り出した分、彼は半歩身を引いている。
さりげない拒絶にめげず、フェイは彼の目の前でページを繰ってみせた。
「これが、主神ベルクです。これは、英雄。十二使徒を表す花、燭台、波打つ湖。手だけ描いてあるのは――」
「あのねえ、フェイくん」
だが、重い溜息を聞き取って、とうとう紙をめくる手が止まった。
「こういうことは言いたくないのだけど、君に、ベルクの宗教画を解するのは、難しいのではないかな」
今回、柔らかな声音に包まれていたのは、侮蔑だった。
「聖画というのはね、描きたい部分をだけを取り出して描くようなものではないのですよ。人物の位置にも、視線の向きにも、すべて意味がある。いわば、極めて高度な学問の上に成り立った表現なわけです」
「描きたい部分だけを、描いたわけでは――」
「聖画は、考え抜かれた構図で、磨き抜かれた技術と暗喩を用い、一幅の絵に収めてみせてこそ意味がある。子どもが好きに描き散らす落書きではなく、教養ある大人が協議し、協働して作り上げてゆく一枚の絵なのですよ。私には、君が教養高い議論ができるとも、市民と協働できるとも思えません」
優しい声で、しかしきっぱりと断じられ、フェイは言葉を失った。
硬直する少年に対し、神父はまるで自身が悪役となることを恐れるかのように、眉を寄せた。
「どうか私に、これ以上言わせないでください。君は聡い少年だ。君の置かれた境遇や、なすべき仕事がどんなものか、残酷な言葉を用いずとも、理解できますね?」
つまり、フェイには、魔獣の腐った血を集める仕事が似合いと言いたいのだ。
呆然と立ち尽くすフェイを残し、神父は「主の恵みがありますように。それでは」と、言葉だけは優しく告げると、さっさと教会へと引き返してしまった。
扉の向こうに去ってゆく背中をぼんやり眺めていると、教会兵がやってきて、早く門外に出るようにと促される。
それでも動けずに、フェイはじっと、閉ざされてゆく扉を見つめた。
隙間から覗く、大理石をふんだんに使った壮麗な空間。
大量の燭台と、絵画と、贅を凝らした彫刻に溢れた、ベルク市民の拠り所。
かつてまだ母が生きていたころ、フェイはフードを深々とかぶって、ミサに訪れていた。
神父の説く聖書の内容も、必死で頭に叩き込んだ。
ベルク人と異なる容貌を持つ彼らは、だからこそ、信仰を寄り添わせることで、異端性を削ぐ必要があったのだ。
彼らにはかつて国があった。
独自の言語が、独自の信仰が、そして文化があったはずだ。
けれど、それらをかなぐり捨てて、頭を伏せて、この国に擦り寄って来たのだ。
彼らの故郷が滅んだのは、強欲なベルクが好き勝手に他国を荒らし、諍いを撒き散らしたからだと、知っていながら。
――その結果が、これ。
フェイは無言で、スケッチブックを鞄に突っ込んだ。
くるりと踵を返し、門を出る。
(無駄だ、なにもかも)
そう、今回のことで、よくわかった。
しょせん自分は、この町の厄介者で。
努力を重ねようと、絵が上手かろうと、そんなものは、栄えあるベルクの人間から見れば、薄汚れた猿が披露する芸となんら変わらない。
(……浮かれていた)
ぐ、と、体の奥から込み上げる感情があった。
彼はそれを、怒りだと思うことにした。
それ以外の名を付けたくなかった。
自分は、怒っている。憤っている。憎んでいる。
微笑みを浮かべ、気まぐれに褒めては、結局虫けらのように踏み潰してくる彼らのことを。
(どうして、忘れていたのか)
彼らは自分の善行に酔うために手を差し伸べるのであって、けっして虫けらを受け入れはしないし、身を削ることもしないのだという事実を。
歯を食いしばって歩けば、やがて古びた孤児院が見えてくる。
崩れかけた門をくぐったその瞬間、「フェイ!」と軽やかな声が響き、彼は拳に力を入れた。
今、一番、彼女の顔を見たくなかった。
「神父様には無事に会えた? 署名はもらえたわよね? 課題の宗教画はお見せした? どんなふうに褒めていただけたかしら」
だが、ローザはその美しい顔を紅潮させて、いそいそと尋ねてくる。
推薦をもらえて当然、という態度が、彼女と自分の立場の違いを突きつけてくるようだった。
堪らず腕を振り払えば、今度は体調を気遣ってくる。
その、おろおろとした表情に一層苛立ちが募り、気付けばフェイは叫んでいた。
「触るな!」
びっくりと見開かれた紫色の瞳に、なぜだか彼は、相手をめちゃくちゃにしてやりたいような衝動を掻き立てられた。
「どうせ、薄汚れた、学も能力もない、下賤の民だ」
どうせこの少女も、気まぐれに弱者を喜ばせ、飽きたらぽいと捨ててゆくくせに。
「おまえの言葉に、うかうかと乗せられた俺が、馬鹿だった」
気分ひとつで相手を絶望の底に叩き落とす、その権力と傲慢さの、なんと厭わしいことか。
フェイは、なんとしてもこの少女に、一矢報いてやりたくて仕方がなかった。
青褪めたローザの前で、乱暴に布鞄を漁る。
「しょせん、移民の俺は、魔獣の腐った血を集める仕事が、似合いだそうだ。これは、好きなものだけを集めた、教養のない、子どもの落書きだと言われた」
「そんな……!」
『ふざけるな!』
とうとう、ずっと使っていなかった故郷の言葉が飛び出した。
『ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! 人の夢を弄んで、そんなに楽しい、か!』
そして気付いた、母語もすっかりベルク語に染まって、十分に操れなくなってきているということに。
荒ぶる感情の捌け口を失い、とうとうフェイはくしゃりと顔を歪める。
そして、激情のまま、紙の束を池に向かって放り投げた。
「な……っ!」
「おい、フェイ!」
どぼん、と濁った音を立てて、スケッチブックが沈んでゆく。
見かねたベルナルドが声を上げたが、もう、止まらなかった。
『もう、たくさんだ! どうせ俺は、このまま、魔獣の血にまみれて、過ごすん、だ。俺の絵だって、池の泥に、まみれるのが似合いだろう。なにが才能だ、なにが――』
『この、おばか!』
ぱちん!
だがそのとき、彼しか知らないはずの言葉で罵られ、しかも鋭い打擲音が響いたので、思わずフェイは口を閉じた。
叫んだのはローザで、――しかもなぜか、彼女が殴ったのも、彼女自身の頬だった。
『え……っ?』
「ね、姉様!? なぜそこで自分を殴るんです!?」
『どれだけ心を鬼にしたところで、「推し」を殴れるはずもないでしょう!? ベルたん、あなた、太陽を殴れるとでも言うの!?』
驚愕する一同の前で、ローザは流暢な異国語で返す。
いや、流暢に聞こえるが、フェイにもわからない単語も混ざっているから、やはり、堪能というわけでもないのかもしれない。
ローザは涙で潤んだ紫色の瞳でぎっとフェイを睨み付けると、叫んだ。
『なんてことをしたの、フェイ! この、おばか! 嘘! 神絵師は神ゆえにばかではない! よってわたくしのばか! 責任を取らせていただきます!』
彼女の言っていることがさっぱり理解できない。
恐らく、言葉の使い方を間違って覚えているのだろう。
すっかり気勢をそがれたフェイが、返答に悩んでいる間に、ローザは驚くべき行動に出た。
つかつかと肩を怒らせて冬の池へと近付き、
――ざぶん!
なんと、躊躇いなく飛び込んだのである。