25.ローザは絵師を育てたい(1)
生きることとは、萌えること。
「推し」さえいれば、オールオーケー。
そんな強い指針を抱いて生きるローザは、その日も、孤児院の擁する小さな池のそばに子どもたちと書物を広げ、幸福を噛み締める思いで初冬の朝陽を浴びていた。
「ローザ様! 商会帳簿のここの部分、支出額が不自然に五の倍数ばっかなんだけど、これって不正だよな?」
「そうよ、テオ。この商会は、支出の過剰計上によって一度捕まっているの。数字から筆記者の癖を読み取る思考は、とても重要ね」
「ローザ様! 古代ガルツ帝国の賢帝レオポルト二世って、実はすごく馬鹿だったんでしょ?」
「読み書きができない人ではあったようね。けれど彼は、周囲の能力を見極め、引き出し、なにより諸侯の皆から愛されるという才能があったの。人物の性格に注目すると、世界史と言うのはとても滾……楽しいものね、ヨハン」
だって、素直な子どもたちは着々と、深読み思考を身に付けはじめ。
「わぁ、すごい! この薔薇、もう芽が出始めてる」
池のそばに植えさせてもらった薔薇の株は、早速芽吹きはじめ。
「あっ、ベル兄、おはよー! 俺たち、もう授業も済ませて、水やりまで始めちゃったぜ」
「まあ、ベルナルド。前髪が跳ねているわ」
「えっ」
寝ぼけ眼で外に出てきた「推し」は、今日も麗しさを爆発させて、寝癖など付けているのだから。
きらきらしい光景に眩暈を覚えながらも、土を払って立ち上がり、甲斐甲斐しく前髪を治してやると、
「ありがとうございます」
ベルナルドが照れたような上目遣いを寄越してきたので、ローザは真顔のまま精神を爆散させ、数秒その破片を宇宙にさまよわせた。
(……娶るぞ?)
人生って素晴らしい、そう確認させられる瞬間だ。
ローザは、「いえいえ、ベルたんを娶るのはフェイの仕事だわ」と自分を落ち着かせ、薔薇のそばに座り直すと、温かな木漏れ日を見上げて軽く感謝の祈りを唱えた。
孤児院生活もそろそろ一週間。
子どもたちはすっかりローザに懐き、全員毎日「授業」に参加してくれている。
ベルナルドもずっとそばにいてくれて、しかも、かっちりとした貴族の屋敷では見られなかった、ぶっきらぼうな言葉遣いや、寝癖などの貴重なオフショットを惜しげもなく披露してくれる。
毎日が新鮮で、充実していて、こんなに幸せでいいのかと首を傾げてしまうほどだ。
あえて言うなら、先日不思議なやり取りをした後、本当に孤児院を去ってしまったアントンの行方が気になるが、まあ、慇懃眼鏡イケオジ枠の彼が去ってしまったとしても、すでにベルナルド第一旦那の座はフェイががっちり埋めてくれているので、影響は軽微と言えた。
(フェイ……彼は本当に、素晴らしいわ)
ローザは、横座りした自分の膝に視線を落とし、うっとりと目を細める。
そこには、フェイにこれまで課題として描かせてきたスケッチが広がっていた。
彼は未だによそよそしいが、それでも課題は律儀に提出してくれるのだ。
相変わらず仏頂面だし、話しかけても返事をくれるのは三回に一回くらいだが、ローザとしてはまったく問題なかった。
むしろそれでこそ、妻に対してのみ優しいという硬派な印象が強まり、好ましいほどである。
なにより、ローザは彼の描く絵が本当に好きで、何度となく輪郭をなぞっては、ほうと溜息を漏らすのだった。
(何度見ても、フェイの描く男性キャラは、いい……。現実をも超えて美麗だわ)
フェイの絵は、写実的かと言えばそうではないが、ベルク的な緻密なスケッチとは違って簡素な線で構成されている分、見る者の想像を掻き立てるなにかがあった。
だからこそ、彼の描く少年たちは、想像による補完を経て、現実の彼らよりも数段輝いて見えるのだ。
(あー、好き。本当に好き。神絵師。彼の生み出す絵を日がな一日眺めていたい。いえ、できれば対価をお支払いしたい。彼を支えたい。フェイの養分になりたい)
ローザはそんなことを思った。
食欲、睡眠欲、「推し」への貢ぎ欲というのが人間の三大欲求である以上、至極当然の帰結である。
同時に、そんな才能の塊である彼が、下町でくすぶっている現状を心底もどかしく思った。
(なぜ、ごく一部の限られた人間しか、画家として身を立てられない世の中なのかしら)
ローザは頬に手を当てて、ほうと嘆きの溜息を落とした。
無口だが、頭の回転が速く、感受性の豊かなフェイ。
絵を描かせれば天下一品だし、優れた武術の持ち主だとも聞く。
きっと環境さえ許せば、彼はすぐに、歴史に名を残す画家にも騎士にもなれただろうに。
(もちろん、わたくしとしては全面的に、画家方向へと応援していきたいけれど)
ベルナルドのお相手として、貴族や騎士というのはお腹いっぱいだ。レオンたち「王子系攻め」と異なるキャラを立てるためにも、フェイにはぜひ、庶民出身のアーティストとして大成してほしい。
そのためには、彼にとにかく絵を描かせまくることだ。
上質な紙とペンを無尽蔵に貢ぎまくったのが奏功してか、はたまたローザの執念に圧されてか、フェイは日に何十枚もスケッチを描き、この短期間で確実に技術を向上させている。
そこでローザは彼に、教会の写本職に挑戦することを強く勧めてみた。
写本職とは、文字通り聖書の写本から聖画の模写、果ては教会の設計まで手掛ける、教会お抱えの美術職である。
(もしフェイが写本職にありつければ、経験を重ね、人脈を広げ、ゆくゆくは大陸全土を股にかける大画家になれるはず……!)
そしてその暁には、ぜひローザの小説に挿絵を描いてもらって、薔薇愛ジャンルを一気に普及させるのだ。
やはり、識字率の問題もあり、文章だけよりも絵が付いているほうが、庶民も興味を引かれやすいと思うので。
写本職を受験するためには、教会関係者の推薦と、上級市民からの推薦、そして課題宗教画の提出が必要だ。
建前上は「あらゆる市民が応募できる」とはなっているものの、前者ふたつを確保するのが難題で、結局上級市民にしか門戸が開かれていないというのが実情である。
幸い、ローザとベルナルドは一応貴族であるため、二人からの署名を以って「上級市民からの推薦」部分の要件を満たすことができた。
しかもフェイは、最近教会関係の仕事に携わっており、その教会には月に一回、上位神父が視察に訪れるとのことだったので、「この機を逃してはなりません! その神父様から署名をもらってくるのです!」と力強く焚きつけ、早朝に彼を送り出したばかりである。
本当は、上位神父に面会するためには煩雑な手続きが必要なのだが、それについては、ベルナルドが教会の人間に数日前に「お願い」をしたことで解決していた。
「フェイは今頃、神父様に会っているかしら。それにしてもベルナルド、多忙に違いない神父様の面会時間を、よく確保できたわね。さすがだわ」
隣に腰を下ろしたベルナルドに感嘆の視線を送ると、彼は照れたようにはにかんだ。
「そんな。ちょっとした学びを活かしただけですよ」
「学び?」
「はい。気に食わない相手は拳で腹を殴れ、取り入りたい相手は金で頬を叩け、って。前者は下町で学びましたが、後者はここ半年で学びました。人生って、学びの連続ですね」
「まあ、ベルナルドったら……あなた、勤勉すぎるわ……!」
「ローザ様の感想って、それでいいのかなぁ」
感動に目を潤ませるローザに、子どもたちがぼそっと突っ込みを入れる。
彼らもこの一週間で、ローザはベルナルドを溺愛しすぎているということは理解していた。
だが、彼女の場合、ベルナルドだけ贔屓するというよりは、彼に連なるすべての人間、つまり子どもたちのことまで肩入れしてやまないのだ。
高価な本や文房具も惜しげなく与えてしまうし、どんな些細なことでも必ず拾い上げて、熱心に褒めてくれる。
なにより、ふとした時に感じる温かな眼差しや、ふふっと軽やかな微笑が心地よくて、子どもたちは、溺れるように注がれる愛情とはこんなものだろうかと、結局のところ、すっかりローザの虜になっていた。
「ああ、噂をすれば、フェイが帰って来た」
と、門の向こうに目を留めたベルナルドが顔を上げる。
ローザも一拍遅れてフェイの姿を認め、ぱっと顔を輝かせた。
「フェイ! お帰りなさい!」
呼びかけても返事がないのは、いつものことだ。
ローザはさして気にせず、門のそばまで駆け寄っていった。
とはいっても、狭い庭なので、数歩の距離なのだが。
「早かったのね。ちょうどベルナルドと、あなたのことを話していたのよ。神父様には無事に会えた? 署名はもらえたわよね? 課題の宗教画はお見せした? どんなふうに褒めていただけたかしら」
フェイはなにも答えず、そのまま院の中へ入っていこうとする。
だがローザは、首尾が気になるあまり、彼の腕に触れてまで引き留めてしまった。
多くの宗教美術に触れ、審美眼を鍛えてきている聖職者が、この才能の塊を見逃すはずがない。
当然推薦は確保できただろうと信じて疑わなかったが、はたしてどんな言葉で評価されたのかはぜひ知りたい。
「斬新? 東洋的? 画期的? もしかして、従来の写本職の領域を超える才能だ、なんて驚かれてしまったのではない?」
「…………」
「ねえ、あなたが聖書のどのシーンを絵画に起こしたのか、わたくし、まだ見せてもらっていないわ。一番は神父様に譲ったけれど、二番目……もベルナルドでよいけれど、三番目くらいに、わたくしにも見せてはもらえないかしら。きっと、とっても素敵――」
「離せ」
だが、低い声と同時に、腕を振り払われてしまった。
「フェイ?」
「……話したくない。放っておいてくれ」
「どうしたの? あっ、もしや体調でも……? 気付かなくてごめんなさい、今、お水を……いえ、白湯? 毛布がいいかしら。すぐに暖炉に火を入れるわ」
いつも素っ気ない対応とはまた異なる、ひどく硬い声に、ローザはおろおろとフェイを見上げる。
「そうだわ、大量のスケッチは重いでしょう。よければ部屋まで、わたくしが荷物を――」
慌てて肩掛けの布鞄に向かって手を伸ばしたそのとき、フェイは熱いものに触れたときのように素早く身を引き、吐き捨てた。
「触るな!」
「え?」
「どうせ、薄汚れた、学も能力もない、下賤の民だ。俺に触るな!」
激しい拒絶に、ローザははっと息を呑む。
硬直してしまった彼女の前で、フェイは布鞄を荒々しく地面に叩きつけた。
「きゃ……っ」
「神父に会えたか? 会えたとも。絵は見せたか? 見せたとも。だが、推薦はもらえなかった。評価の言葉もだ」
ローザの紫色の瞳が、ショックに見開かれる。
「なんですって……?」
「おまえの言葉に、うかうかと乗せられた俺が、馬鹿だった」
フェイは低く呟くと、強い視線でこちらを睨み付けた。
「甘い夢を……一瞬でも、信じた俺が、愚かだった」
黒曜石のような瞳には、苛烈な怒りと――傷心の色が浮かんでいた。