24.ローザは愛がわからない
さて。
同じころ、ローザはアントンとともに、主賓室として宛てがわれた一室に戻っていた。
「ああ、なんて楽しい授業だったのかしら。この孤児院から、優秀な腐紳士が続々と輩出される未来が目に見えるようだわ。『萌え』活動の捗る人生って、本当に素晴らしいわ」
ローザは見るからにうきうきとしている。
未来ある子どもたちに腐教育を施せるというだけでもありがたいのに、ベルナルドの「旦那」を間近で観察でき、しかも彼は優れた想像力を見せ、さらには神絵師の才能があるということまでわかったのだ。
まるで感謝祭と収穫祭が同時に来たような喜ばしさで、ローザは先ほどから笑みが抑えられない。
傍目には麗しく口元をほころばせ、いそいそと卓について翌日の準備に励むローザを、アントンは微妙な表情で見つめた。
彼には、どうしても尋ねたいことがあったのだ。
「……その。聞きたいことがあるのだけどね、ローザ」
アントンとしては、十中八九、「ローザの悲惨な過去」というのは周囲の勘違いだろうと思っている。
だって、こんなに人生を謳歌し、独特な価値観をマイペースに貫く彼女が、まさか心に傷を負うほどの目に遭っていただなんて、到底信じられないからだ。
だが、小麦一粒分でもその可能性があるならば、問いはなるべく、「虐待」などといった強い単語を避け、極力優しくなされなければならない。
アントンは慎重に切り出した。
「君、その……伯爵領での生活は、平和というか……満足のいくものだったかい?」
「はい?」
「つまり、なんだ、安全にというか、精神的に安定して過ごせていたかい?」
アントンはかなり言葉を選んだつもりだったが、結果的に、ローザは怪訝な表情になった。
彼女からすれば、「萌え」活動の話をしていたのが、急に生活水準の話になったからである。
(いえ、叔父様が叔父様である以上、これも『萌え』の話の延長ということかしら……?)
アントンがローザのことを薔薇の狂信者としか思っていないように、ローザもまたアントンのことを、百合の狂信者としか思っていない。
さては、ラングハイムでは「萌え」活動が捗っていましたか、という主旨かと理解した彼女は、しばしの間首を傾げた。
綺羅星のごとき「攻め」軍団に出会ったり、理想シチュをすべて蹂躙してしまったりと、感情の急上昇・急降下を繰り返す最近の環境に比べれば、「萌え」供給量の少ないラングハイムでの生活は穏やかだったとも思えるが。
「そうですわね。今思えば、精神は安定……していたのでしょうか」
「そ、そうか」
「あ、でも、そうとも言えませんわね。やはり当時は幼かったものですから、今ならなんとか堪えられるようなことでも、どうしても耐えられずに倒れてしまう、といったこともよくありました」
「えっ」
アントンがさっと青褪める。
ローザはそれに気付かず、頬に片手を当てた。
(今なら平然と『フェイ×ベルが!』などと騒げるけれど、当時は殿方の名前の間に『×』の記号を書き込むのすら手が震えていたものね。初心だったのだわ)
幼い子どもの感受性、ついでに言えば集中力というのはすさまじい。
四六時中屋敷内の男たちを観察したり、腐読みに没頭するあまり寝食を忘れた日々を思い出し、ローザはわけもない懐かしさに目頭を熱くした。
輝ける青春というやつだ。
「ひとときたりとも気が抜けなくて、食事も、睡眠すらなくずっと部屋に閉じこもる。そんなこともありましたっけ」
「そ、それは……!」
うっすらと潤んだ目を伏せるローザに、アントンはますます焦った。
そんな、まさか。
繊細に見えてその実能天気、というのがこの少女の本性だと思っていたのに、真相はさらに裏をかいて、悲惨な少女時代を過ごしてきたというのか。
「なんてことだ、君がそんなつらい日々を――」
「本当に、楽しいばかりの日々でしたわ」
「んっ?」
だが、最後に決定的に予想外の一言が加わって、アントンはかくんと前につんのめった。
「今、なんて……?」
「え? ですから、今に比べれば『萌え』供給量は少なかったものの、幼少時の感受性からすれば実に刺激的な、楽しい日々だったと」
「は? なんの話?」
「え? 萌え活動の話ですよね?」
両者はそっくり同じ戸惑いの表情を浮かべながら、見つめ合う。
やがて、先に己の勘違いを悟ったアントンは、ひくっと唇を引き攣らせた。
「……いや。私はね、君、ラングハイムで食事を抜かれたり、暗い部屋に閉じ込められたり、暴力を振るわれたりしたことはありませんか、って尋ねたつもりなのだけど」
「ええ!? なんです、急に? あるわけないではありませんか。あ、いえ、自主的に食事を忘れたり、数日引き籠ったり、といったことはありましたけど」
「……伯爵の部屋に夜こっそり向かったり、といったことは?」
「な、なぜ、わたくしが、父の泥酔時に春書を盗み読みしていたことをご存じですの!?」
はっと息を呑み、口元を両手で覆ったローザを見て、アントンは押し黙った。
今、なんだかいろいろと真相がわかった。
がくりと膝から力が抜けてゆくのを感じる。アントンは手近な卓に片手を突き、もう片方の手で額を覆った。
「勘弁しておくれよ……。ちょっと私、もう本当に伯爵に申し訳が立たないよ。ローザ、君ね。君ね……っ」
きょとんとした顔をしているこの少女の肩を掴み、今すぐ激しく揺さぶってやりたい。
だが、ローザがおずおずと、
「あの……まさかとは思いますが、わたくしの身上について、なにか奇妙な誤解でも?」
と尋ねてきたのを聞き取り、瞬間、彼の脳裏に素早く思考の渦が巻き起こった。
普通なら、ここで即座に「その通りだ」と頷き、周囲がローザに対し、どれだけ悲惨な過去を捏造しているかを語って聞かせるべきところだろう。
(だが……考えてもみるんだ、周囲のあの強烈な思い込みの強さと、この子自身の持つ、奇妙な巡り合わせの力を)
自分自身がつい先ほど、ローザ残酷物語を信じかけてしまったことまで含め、アントンは改めて自分に問うた。
ローザに現状を伝え、虐待の事実を否定させてみたところで、はたして周囲はそれを信じるだろうか、と。
「あの、もしや、父がわたくしの食事を抜いたとでも、思われているのですか? だとしたら誤解です。あれはあくまで、わたくしが自分で食事を忘れてしまっただけで……わたくしが悪くて……!」
(無理だな)
焦ったように言い募るローザを見て、アントンは死んだ魚のような目になって判じた。
あくまで外見上だが、こんなに可憐な少女が、あくまで外見上だが、こんな健気に、目を潤ませて主張したところで、犯人をかばっているようにしか見えない。
「それもこれも、わたくしの心が薄汚れているのが原因で――」
「やめなさい」
とりあえず、ローザ本人に否定させるのだけはやめよう、とアントンは思った。
彼女の腐った行動傾向を知っている自分が、話を最後まで聞いてようやく真相を理解できたのだ。
少女を神聖視し、しかも愛と正義感で沸き立っている十代の男たちならば、話の途中で剣を取って飛び出していってもおかしくない。
現に、昨夜のベルナルドなど、呑気に構えていたアントンの態度に立腹して部屋を出て行ってしまったのだから。
(ベルナルドくん、クリス殿下、レオン殿下、癒術師殿に、王妃陛下……うん、誰もかれも、せっかちで感情的な御仁ばかりだな)
ローザに執心する顔ぶれを思い浮かべ、アントンはげんなりした。
下手に事を運んでは、事態がこじれるばかりな気がする。
まずは、ローザの本性を周囲にしっかりと理解させて、しかる後に真相を第三者から明らかにする、というのが賢明だろう。
「ええとね、ローザ。一部でそういう噂があるにはあるのだが、君は気にしないでくれ。というか、なにもしないでくれ。頼むから自らその話題に触れにいかないでくれ」
「ええ? ですが、わたくし自身が否定すれば手っ取り早く――」
「うん、とにかくなにもしないでくれ。あえて言うなら、君のその突き抜けた趣味と行動傾向を周囲に積極的に披露してくれ。くれぐれもそのとき、『腐った』だとか『薄汚れた』と自虐するのではなく、ポジティブに表現するのだよ。いいかい、それが世界平和への第一歩だ」
アントンが真顔で諭すと、ローザは「まあ」と感極まったように胸を押さえた。
「薔薇愛をポジティブに広めることが、世界平和への第一歩……?」
「待って。その要約、なにかものすごく間違っている気がする」
本能で危機を察知したアントンは慌てて制止したが、それよりも早くローザはくるりと裾を翻し、窓に手を掛けた。
「よくわかりませんが、わかりましたわ。高らかに薔薇愛を語ることこそが、今わたくしにできる最良のことなのですね? ならば世間に向かって今こそ叫びましょう、わたくしの推しカプは、フェイ×ベルであると――ああっ!」
「今度はなんだい!?」
「物陰に、くだんの二人が!」
窓を開け放ち叫ぼうとしていたのから一転、ローザはぴたっと窓に頬を張り付かせ、声を潜めた。
「ベルたんが険しい表情で、フェイになにかを告げているわ……。これは、夫婦喧嘩……? 清らかなる愛に今試練が訪れようとしているの……?」
「君は馬鹿かい? 清らかな愛というのは女性間でしか成立しないのだよ」
「あっ、今フェイがベルたんの腕を乱暴に振り払った! ひどいわ……! いいえ、落ち着くのよローザ、ここから熱烈なハグとキスで仲直りという展開も十分に考えられる」
「落ち着けよ」
アントンがぼそっと突っ込むが、ローザはもはや聞いてなどいない。
さては浮気を疑ったすえの修羅場か、だとか、ということはやはり自分が泥棒猫ポジションか、などとぶつぶつ呟く少女に、アントンは遠い目になった。
男二人が言い争う場面で「痴話喧嘩」という言葉を当てはめるローザの感性が彼には理解できない。
だいたい、このタイミングで、あのベルナルドがフェイ相手に敵意を向けているというなら、それは間違いなくローザを思ってのことだろう。
ここから彼らの会話は聞き取れないが、言葉を拾うまでもなく、「どうせ、ローザに謝れだとか言っているのだろうな」と一瞬で想像できてしまったアントンは、だから、しみじみと呆れの溜息を漏らした。
「ローザ、君、本当に薔薇のことしか考えていないのだね。あの二人が、たとえば自分を巡って言い争っているだとか、君を奪い合っているだとか、そういう風には考えはしないのかい?」
アントンは百合信者だが、自身の恋愛観や人間関係までをそこに紐づけはしない。
仮に女性から好意を寄せられたとしたら、ちゃんと気付けるのだ。
引き換えローザは、あまりに鈍い。
自身がどれだけ周囲に影響を与え、好意や心配の念を引き寄せているかというころに、無頓着すぎると思うのだ。
この年頃の少女と言えば、自意識を肥大させて、ちょっと目が合っただけで、相手から好かれていると浮かれるくらいが普通だと思うのに。
「まあ」
だが、嘆きの声を聞き取ったローザが、さもおかしそうに笑って返した内容に、アントンは言葉を失ってしまった。
「叔父様ったら。薔薇愛どうこうという以前に、わたくしを好きになる人など、いるはずがないではありませんか」
「え……?」
さらりとした、なんでもない事実を告げるような口調。
その内容が、彼女にとってまるで重要でないことは、ローザがさっさと話題を転じてしまったことからも明らかだった。
「そんなことより、叔父様、ご覧になって! とうとうフェイがなにかを叫び出し……ああっ、見つめ合った! 絡まる視線の熱量ときたら――」
「ねえ、ローザ。なんでそんなことを言うのだい」
咄嗟に肩を掴み、話を戻してしまったのは、動揺のせいだ。
まるで空が暗雲で覆われるのを見たときのような、不吉な心地を覚えたから。
「君は、そんなに美しいじゃないか。とびきり聡明じゃないか。誰だって君のことを好きになる、素晴らしい女の子だ。なのに、なぜそんなことを言うのだい?」
女の子が大好きなアントンだが、この少女のことだけは、褒めるまいと思っていた。
それだというのに、押し殺していた賛辞をぽろりと口から零してしまうほどには、彼は焦っていた。
そう、この感覚は、焦りだ。
「んもう、どうなさったのです、急に。離してくださいませ、今ものすごくいいところで――」
「ローザ。重要なことだ」
腕を振り払って窓に向き直ろうとするのを、再度力を込めて振り向かせると、少女は困惑気味に眉を寄せた。
真意を窺うようにアントンを見つめ返し、相手の視線を辿って、自分の顔を撫でる。
それから、「ええと、わたくしが、素晴らしい女の子……?」と、己の金髪を摘まみ上げ、首を傾げた。
「それはまあ、わたくしなりに自分を磨いたつもりですが、磨いてなお、実の父親にさえ嫌われるほどですもの。きっと、人として大切ななにかが、決定的にだめなのだと思いますわ」
ばつが悪そうに、肩を竦めて告げる姿は、いっそ無邪気だ。
アントンは、頭が真っ白になるほどの焦りを覚えた。
そう――ひどい怪我を負っているのに、痛みに気付かずに微笑んでいる子どもを見るような、焦りだ。
(ああ、そうか)
そして同時に、理解した。
なぜ、彼女がこうも、好意や賛意に疎いのか。
それは、一番欲しかった相手から、それを得られなかったからだ。
(馬鹿なのは、私だ)
食事を抜いたのは彼女の意思だったから、部屋に籠もったのは趣味のためだったから、問題ない?
いいや、当時十かそこらの少女が、食事を抜いて数日部屋に籠もる、どうしてそんなことがまかり通ったのだ。
周囲は――親は、それをなぜ止めなかった。
事実、彼女は放置されていたのではないか。
男たちの美醜は判断できるのに、自身の美貌は理解できない彼女。
それはきっと、家庭教師や使用人といった「社交辞令を述べるはずの」人間ではなく、「最も自分を愛し、正直でいてくれるはずの」家族に、一度だって褒められたことがないからだ。
だから、信じられない。
これまでアントンは、ローザの鈍さは、男同士の恋愛にのめり込むゆえのものだと思っていたが、きっと違うのだ。
彼女は、自分を信じていないのだ。
自身になんの価値も見出していないから、好意も心配も、透明な体をするりと通り抜けて、身近な誰かに向けたものと思い込んでしまう。
アントンは、胸を掻きむしりたくなるほどのもどかしさに、ぐっと眉を寄せた。
――彼女をこうしたのは、自分だ。
「……本当に、馬鹿だ」
「えっ、そこ肯定する流れなんです!?」
ローザは、「決定的にだめなのだと思う」発言に頷かれたと取ったのか、ショックを受けたようにのけぞっている。
「いえまあ、それはそうなんですけども、……だったらなぜ先ほどわざわざ、持ち上げるような発言を寄越したのか……本当に嫌味な方……」
ぶつぶつと呟きつつも、やはり窓の外が気になって仕方ないのか、「もういいですか?」と断りを入れて、再び窓に張り付いた。
「って、ああっ、いつの間にかベルたんが去っているぅうううう!」
どうやら、一番肝心なところを見逃してしまったらしい。
彼女は紫色の瞳をぶわっと潤ませると、振り向いてこちらを睨み付けた。
「叔父様の馬鹿! なんだってわたくしから、一番大切な瞬間を奪ってしまったのです!? あんまりですわ!」
「すまない」
「言い訳など――え?」
「本当に、すまない」
素直な謝罪に、ローザは出鼻をくじかれたように目を見開いている。
そのあどけない顔を見ていられなくて、アントンはくるりと踵を返した。
「……私はやはり、ベルクの王城に戻るとするよ」
「え? ですが、王城はきな臭いから、逃げるが勝ちって……」
「うん」
扉をくぐる直前、彼は顔を俯け、自身の足を見つめて呟いた。
「そうなんだけど……逃げてばかりも、どうかなあと思って」
と。




