23.ローザは腐力《フォース》を鍛えたい(3)
孤児院の裏庭とは、「庭」という名前のわりには花壇もなく、単に建物と建物の隙間としか言いようのない、薄暗く湿った場所である。
ただ、ちょうど院長室から死角にあたるその場所は、暴力的な「話し合い」や不穏な「打ち合わせ」にうってつけではあり、一部の子どもたちにとっては大変なじみのある場所であった。
ベルナルドは、仲間たちとしょっちゅう溜まり場にしていたその場所にやってくると、「さて」と背後を振り返った。
「ちったぁ頭が冷えたかよ、くそ野郎」
可憐な声に似つかわしくない、荒々しい口調である。
ただ、それを向けられる人物――フェイにとっては、懐かしい口調であるとも言えた。
彼が無言で目を細めると、ベルナルドはがりがりと頭を掻き、短く息を吐き出した。
ローザにはけっして見せない、粗野で短気な、彼本来の姿だ。
「まだ怒ってんの? おまえ、顔はさっぱりしてるくせに性格はねちっこいよな。勝手に騎士なんかになったのは謝るよ。でも、何度も言うけど、俺は貴族に染まったわけじゃない。姉様……ローザのそばにいたいだけなんだ。おまえも、彼女がどんな人か、もうわかったろ?」
そう問うのは、先ほどの「授業」でフェイもローザの魅力に気付いたに違いないと踏んだからだ。
ベルナルド自身、ローザに手取り足取り面倒を見てもらった数カ月で、ささくれていた心を癒された。
蔑みも媚びもなく見つめられ、真正面から受け止められ、認められ。
温かな信頼と、きらめく期待、柔らかな笑みを差し出される。
ひとつひとつは些細だし、言葉にすれば陳腐でもあったが、それがどれほど、ベルナルドたちのような少年の心に影響を与えるものか。
「制止も聞かずに飛び出して、騎士なんかになったのは、悪かったよ。でも、あの人を貶めることと、傷付けることは絶対許さない。この後ちゃんと、昨日のことを彼女に謝ってくれ」
ベルナルドは親友を見据えたが、しかしフェイは、ふいと顔を逸らした。
「……俺は」
声は、硬かった。
「甘っちょろいおまえと違って、そんなことでは、ほだされない。落書きを褒められたくらいで、どうして簡単に、心を許せる」
「はあ!?」
頑なな返答に、ベルナルドはかっとなる。
フェイは視線を合わせぬまま、淡々と告げた。
「褒め言葉は、本心だろう。だが、それがなんだ。余裕のある大人が、ガキの描いた落書きを、持て囃すようなものだ。恵まれているから、そして、こちらを見下しているから、する行為だ。……反吐が出る」
感情を窺わせない黒い瞳は、冷ややかな軽蔑を滲ませているようにも見える。
一方で、わずかにぎこちないベルク語は、まるで本心を押し殺しているようにも聞こえる。
長年の付き合いから、親友が自分自身でも感情を掴めない葛藤の中にいるのだと悟り、ベルナルドは苛立ちながらも、怒りをぐっと飲み込んだ。
「想像力? 絵が上手い? それがなんだ。……そんなものが、なんになる。くその役にも立たないものを褒められて、相手に惚れこむほど、おめでたくはない」
「……おまえ」
そして、飲み込んだ怒りの代わりに、心配の念を乗せて、ベルナルドは問うた。
「なんか、焦ってねえ?」
「…………」
親友の黒い瞳が、わずかに見開かれる。
やはり、とベルナルドは眉を寄せた。
「歌劇場の前で会ったときから、気になってたんだ。おまえ、ちょっと顔色悪ぃよ。性格だって、そりゃあもともと穏やかなほうじゃなかったけど、半年前は、少なくとも俺よりは大人だったじゃん。でも、今はなんか、カリカリしてる」
「…………」
「しれっとした顔しながら、冗談言うようなやつだったろ。最初気に食わないと思った相手でも、その後見直したら、あっさり握手できるやつだったじゃねえか。今回はなんでそう、頑ななんだよ」
ベルナルドは一歩距離を詰めて、相手の顔へと腕を伸ばした。
「うまく言えないけど、おまえ、なんかおかしい――」
「うるさい」
だが、その腕は乱暴に振り払われた。
「焦っている? そうだとも。どうして焦らないでいられる?」
「フェイ――」
「俺はもう十五だ。それも、移民だ!」
吐き捨てるようにして告げられた言葉に、ベルナルドは顔を強張らせた。
東洋的な親友の顔立ちは、容易に感情を読み取らせない。
けれど今、その黒い瞳の中には怒りの炎が渦巻いているのだと、はっきりわかった。
「年末には、院を出て行かねばならない。仕事はろくにありつけない。おまえら、ベルク人と違ってな。かろうじて、教会の仕事をもらったが、……内容は、討伐した魔獣の、遺骸の処理だ。来る日も来る日も、魔獣の血を浴びていると、無性に、叫びたくなってくる。俺は、ずっとこのままかと」
「そんな――」
「親はいない。言葉も、完全ではない。故郷は、すでにない。戸籍がないから、この町からも出て行けない。努力しても、俺の手に残るものは、なにひとつない。そんな中で、どうしたら、焦らずにいられる? 想像力がある。絵が上手い。それがなんだ! 誰も、俺を救うことなど、できない!」
血を吐くような叫びに、ベルナルドは唇を噛み締めた。
この孤児院に身を寄せる子どもたちは、皆それぞれに事情を持っている。
普段彼らはそれを取り立てて語ろうとはしないし、不幸を競い合ったりもしない。
世の中一般から見れば、彼らは総じて、「恵まれない子どもたち」とひとくくりにされる存在だからだ。
だが、やはり実情として、彼らの中にも生きづらさの濃淡はあるのだ。
たとえば、貴族の血を引き、容姿に恵まれたベルナルドは、就職先にはまず困らないと言われていたが、一方で、罪人や奴隷の子、異教を感じさせる移民の子は、教会のパンの配給にありつくのも苦労する。
フェイの実力なら、王城付きの騎士にだってなれたかもしれないのに、実際のところ、それはまずありえないのだ。
彼が、移民であるというだけで。
フェイの苦悩を、ベルナルドがやすやすと「わかるよ」と請け合うことは、できなかった。
それでも。
「……姉様はべつに、恵まれた、余裕のある人なんかじゃねえよ。それどころか――」
ベルナルドは小さく呟き、だが、途中で言葉を切った。
軽々しく触れてまわる内容ではない。
過去を語る代わりに、彼はじっと幼馴染を見据えた。
「おまえの苦労は、他人にはわからないって言われりゃそれまでだけど、逆だってそうだ。それに、どっちが不幸か競争するよりも、どっちが先に幸せになれるかを競争するほうが、よっぽど、元の俺たちらしいんじゃねえの」
脳裏には、繊細な美貌で微笑むローザの姿があった。
病弱で、ひどい仕打ちを受けてきたというのに、どんな相手にもその細い腕を優しく差し伸べてきた彼女。
その清らかな微笑みに照らされた途端、目の前の道が、明るく照らされたような心地を覚える。
ベルナルドだけでなく、王子も、王女も、異国の癒術師も。海賊から救われた少女たちや、いじめから抜け出した貴族の娘だってそうだったろう。
ローザは、周囲に凛とした幸福をもたらす、まさに高潔と慈愛を司る薔薇の天使なのだ。
ベルナルドはフェイを見つめた。
彼に、ローザの過去や、その奇跡のような人となりを語って聞かせ、改悛を促すことはできる。
けれど、フェイもすぐに――そう、近い将来、自らそれを悟るのではないかという、確信があった。
だって彼は、ベルナルドの相棒なのだから。
近くの地面に投げ出していた布鞄を引き寄せると、ベルナルドはそこからあるものを取り出した。
真っ白な、紙の束だ。
「貴族の屋敷ってさ、呆れるくらいきれいな紙がいっぱいあんだぜ。おまえ、こういうの好きなんじゃないかと思って、取っといた。……姉様がああ言ってるんだ、描けよ」
「…………」
フェイは、なにも言わない。
ただし、押し付けられた紙の束を突き返すことはせず、受け取った。
「それでもってさ」
ベルナルドは、照れたようににこりと笑う。
下町の天使とあだ名されたはにかみだ。
――シュッ……!
だが次の瞬間、その天使は、目にも止まらぬ速さで拳を繰り出した。
「一発殴らせろよこのくそ野郎!」
咄嗟にフェイが避けると、素早く蹴りに転じる。
それも躱すと、天使は凄みのある舌打ちを漏らした。
「ちっ、なんか持たせときゃ動きも鈍ると思ったのに」
「おまえ、相変わらずだな……」
可憐で純真な外見に似合わず、あざといタイミングで攻撃を仕掛けてくる幼馴染に、フェイが呆れの声を漏らす。
いかにも清廉に「互いに高みを目指そう」などと言っておきながら、もちろんベルナルドは、ローザへの侮辱を許したわけではなかったのだ。
が、ベルナルドは、いけしゃあしゃあとした様子で「だろ?」と片眉を持ち上げた。
「俺はなんも変わっちゃねえよ。でも、おまえから見りゃ、多少変わったところはあるんだろうな。ってことは、おまえもその分くらいは、変われるってことだ」
そうして、日の高くなってきた空を見上げると、肩を竦めて踵を返した。
「仕事の時間だな、わり。……殴り掛かられても手放さなかった紙だ。大事に使えよ」
そう言い残して。