22.ローザは腐力《フォース》を鍛えたい(2)
(ああああんもう! 最っ高ううううう!)
ローザはウハウハしていた。
子どもたちの優秀さに――いや、前途ある優秀な子どもたちを、着実に腐に導いているというその事実に、だ。
そう、もちろんローザは、この授業の時間を通して、全力で子どもたちの想像力と解釈力を磨き上げ、腐紳士へと進化させてゆくつもりだった。
彼女がラングハイムの孤児院でも手掛けてきたこの「授業」は、慈善事業でもなんでもない。
純然たる私欲の追求なのである。
昨日までは、王城が危機的空気にある中、しかも匿ってもらっている身分で、のうのうと薔薇普遍化計画など遂行していてよいのだろうか、といった躊躇いもあったが、アントンの諭しによってそれも消えた。
自分がはつらつと過ごすことが、最も周囲への貢献になるというのだ。
であれば、ローザとしては、元気の源・薔薇ラブを堪能し、その普及に努めるのみである。
(貴腐人の道は想像力増強から。皆さま、ビシバシ行くから、どうぞ付いてきてね!)
いきなりアルファベットや名前を教え込むなどという無粋なことはせず、絵や物語を使って子どもたちの想像力を引き出す、というのは、ローザが編み出した独自のセオリーだった。
知識の詰め込みなど、必要に迫られれば誰でもできるのだ。
特に、過去にベルナルドを教えた経験から、この下町の子どもたちであれば、初級レベルの書き取りなどすぐにできるか、なんなら既にできているということはわかっている。
であれば、ローザが集中すべきは、彼らの意欲を刺激し、想像や解釈の楽しさを教え込むことに尽きた。
こうやって、行間を読む癖、別の視点を持ち込む癖をつけることによって、最終的には、男性同士の他愛のない会話にさえ萌えられる、高度な脳内補完力が磨かれてゆくのである。
(ああ、ベルたんを教えたときにも思ったけれど、子どもたちというのはなんて大きな可能性を秘めているのかしら)
未分化の彼らは、今後「攻め」にもなれる。「受け」にもなれる。
もちろん傍観者、いや解釈者にもなれる。
まさに無限の可能性。
その真っ白なキャンバスを薔薇色に染め上げてゆく快感ときたらどうだ。
男子は「攻め」「受け」の当事者へと成長する楽しみがあるし、女子は優れた解釈力を発揮することが多くて頼もしい。
たとえば、かつて海賊から救った後ラングハイムに逗留させているマルタなどは、この前の添削課題でとうとう、ペンを主人公とする短編小説を寄越してきた。
無機物萌えへの偉大な一歩だ。
「ハサミと糊はライバル関係♡」などと言い出すまで、秒読み段階に入っていると言えるだろう。
優秀な教え子である。
(優秀と言えば、ここではフェイね。発想力が段違いだわ。間違いない、彼には素質がある。さすがはベルたんの旦那)
ローザはフェイをにっこり見つめ、内心でびしっとサムズアップを決めた。
欲を言えば、その美声をこの授業中にもっと聞かせてもらいたいところだ。
より議論が活発になりえる題材に切り替えるべし、と踏んだローザは、次の絵を取り出した。
「さあ、では、『想像』『解釈』ということを意識して、今度はこの絵を見てみましょう。皆さま、この絵はご存じね?」
掲げてみせたのは、聖書の一幕を表した宗教画だ。
主神ベルクが、聖戦に臨む勇者――のちのベルク国始祖――を神殿から送り出す場面で、ベルク中の至る教会に絵画やレリーフで飾られているため、認知度は高い。
神殿内には多くの蝋燭が飾られ、外には美しい湖が広がり、空には様々な花が舞い、と、色彩豊かで豪華な絵だ。
ローザが「ここには何人いるかしら?」と尋ねると、皆が一斉に「三人以上!」と答えて、くすくす笑った。
――こうして徐々に、画面内の男性比率が高められていることに、一体どれだけの子どもが気付いているだろうか。
「そうね、三人以上。画面右側に立ち、片手を伸ばして祝福を贈る主神ベルクと、彼に背を向けて、晴れやかな横顔で左側へと去ってゆく勇者。この絵はもちろん想像上のものだから、現場に立ち会った画家はいないのでしょうけれど、それでも、神殿には数多くの天使や、主神に仕える聖者がいたことでしょう」
ローザは、上空に舞う花の種類を子どもたちに当てさせ、それらが「薔薇の天使」や「百合の使徒」の比喩であることまでをも導くと、皆が感心したような顔つきになった。
「十二天使が、いつも傍にいるってことなんだね」
「でもそれって、監視されてるみたいだなぁ。俺なら勘弁」
「そう、そこよ!」
ひねくれ者のテオが、露悪的に舌を出したその時、ローザは意を迎えるように微笑んだ。
「ここで一度聖書の物語を確認しましょう。『主の見送り』のエピソードはご存じ、テオ?」
「え? ええと……」
今度はいきなり聖書の内容に触れられ、テオが目を白黒させる。
不信心で知られる自分たち相手に、聖書の内容を問うてくる人間がいるとは思っていなかったのだ。
だが、そこに「あなたなら知っているはず」というような強い期待と信頼を見て取った彼は、本気になって記憶を引っ張り出した。
「たしか……聖戦が始まったとき、ベルクは、脆い人の子である勇者を心配して、戦いを司る蘭の天使にだけ出征を命じたんだけど、それを勇者が不服に思って、神殿に乗り込んだんだ。それで、ベルクは祝福をかけてやって、見送った。おかげで勇者は、けがはしたけどなんとか勝って、戦いで得た土地に、ベルクっていう名前の国を作った」
「素晴らしい、完璧よ」
ローザは一つ頷き、ならば、と、そこで目を細めた。
「祝福を授けて勇者を見送ったとき、主神はどんな気持ちだったと思うかしら」
「気持ち? そりゃ、よーし行ってこいって……」
祝福、という言葉から連想したテオは答えかけ、口をつぐむ。
勇者の貢献を素直に喜んでいるというには、勇者が主神に背を向けた構図なのが引っ掛かったのだ。
二人が前向きに協力しあっているというなら、画家はきっと、二人を向き合わせるのではないかと思った。
主神は去ってゆく勇者に向かって、手を伸ばしている。
もう片方の手は、まるで感情を抑えるかのように拳を握って。
それだとまるで――
「行かないでくれ、と、思っている」
背後からぽつりと呟くのが聞こえ、テオは振り返った。
声の主は、頬杖をついたままのフェイだった。
「勇者は、聖戦で、大けがをする。主神は、それを知っている。だから、行くなと……本当は思っている」
「その通り!」
ローザは、またも興奮したのか目をきらめかせ、絵の一部分を指差した。
「勇者は、聖戦で体の半分が動かなくなるほどの深手を負う。だから見て、未来を映す神殿の湖は、すぐ近くを通る勇者の体を半分しか映さず、不穏に波立っているでしょう」
途中から薄雲で覆われてしまった湖面を見て、子どもたちは息を呑んだ。
「そして、主神の後ろに描かれた、これらの蝋燭は何本でしょう?」
「十二本……あっ」
「そう。十二天使の数ね。五本目の蝋燭だけが、今にも消えそうに炎をゆらめかせている。序列五番目の天使が誰だかわかる人は?」
「蘭……戦いの天使!」
符号の一致に、彼らはどんどん前のめりになっていった。
すべてに意味があるのだ。
ローザはゆっくりと口を開いた。
「そう。きっと、聖戦は、聖書に描かれた以上に厳しい戦いだったのでしょう。すべてを見通す主神は、もちろんそれをわかっていた。けれど、その不安を告げるわけにはいかない。だって、彼は絶対の善であり、勝利そのものなのだから。そして、唯一なる至高神の振る舞いを、いつだって十二の天使たちが、見つめているのだから」
子どもたちは、もはや熱に浮かされたような瞳でこちらを見ている。
ローザは深々と頷き、思った。
――萌えるよね、わかる。
自らも目を閉じ、改めて絵の光景に思いを馳せる。
(脆弱な体なのにすぐに無茶をする勇者たんと、万能な絶対神でありながら、その実相手を超心配しちゃう主神ベルクは、世界最古のすれ違いカップルよね。しかも、それを指摘したのがフェイだというこの事実にまた痺れが止まらない! 行かせてしまえば望まぬ姿に変わってしまう、そう知りながら相手を見送るその葛藤……ああっ、これは間違いなく、ベルたんを見送った自分を重ねての回答でもあると! そういうことね!?)
授業中だというのに、尊みが溢れすぎて鼻血が出そうだ。
ローザは咳ばらいをして意識を切り替えると、徐々にクロージングへと向かった。
そろそろ十時の鐘が近い。
授業終わりには、一人ひとりを褒めることに決めているのだ。
もちろん、「自分はこの手の才能がある」と刷り込んで、より迅速に腐の沼に引きずり込むためである。
「腐腐腐、皆さん、熱心に聞いてくださってありがとうございます。テオ、あなたはとても飲み込みが早いわね。相手の感情に自分を重ねることも得意。きっと、学べば学ぶほど伸びるわ」
テオはぱっと顔を上げ、頬を紅潮させた。
「ヨハン、あなたは、相手の要求を読み取るのがとても上手ね。おかげで授業がこんなに盛り上がったわ。あなたが奥ゆかしく隠している聡さを、もっと出してくれていいのよ」
ベルナルドの後輩という点も織り込み、ローザはヨハンのいい子ぶりっこも見通していた。
発言からそれを悟ったヨハンは、軽く目を見開いた後、ぺろりと舌を出す。
「ローラン、あなたは数への感覚が鋭いのね。一瞬で蝋燭の数を数えていたわ。明日は帳簿の解釈を教えるけれど、きっと夢中になると思う。スヴェン、あなたは色彩に敏感に反応していた。きっと、市場でおいしい果物を見極めるのが得意でしょう? カーラ、あなたは……」
わずかな時間の間に、子どもたちの名を覚え、しかも適性まで見抜いていくローザに、子どもたちは圧倒される。
いや、ごくりと喉を鳴らした後は、皆、奮い立った面持ちで彼女を見つめ返すのであった。
その瞳には今、強い学習意欲が、炎のように揺れていた。
「そして、フェイ。あなたのその、大胆に視点を飛躍させる想像力は、かけがえのない財産だわ。そういう人って、間違いなく芸術の分野でも――まあ!」
授業を通じて少し距離を縮められたと思ったローザは、勇気を出して、年上のフェイに対しても敬語を取ってみた。
そうして、ずっと離れた席にいた彼のもとに近付いてみて、あるものに気付き、小さく叫び声を上げた。
「なんということでしょう! この絵……!」
ノート代わりに配った用紙の一隅に、絵が描かれていたのである。
まるでペンの感触を試すように、流れるような線で描かれたそれは、人物画であった。
先ほどの肖像画にあった、国王夫妻だ。
「…………」
授業中、それも偉大なる国王夫妻を落書きしたとあっては、マナー違反どころか不敬に取られかねない。
フェイは言い訳の言葉を探すように身じろぎしたが、続くローザの言葉を聞き取って、目を見開いた。
「素晴らしいわ!」
それが、明らかに心の底からのものとわかる、絶賛だったからである。
(なんということ! 美術の旺盛なベルク史を見渡しても類を見ない、実に斬新な手法による絵画だわ!)
実際のところ、ローザは素直に感動していた。
硬直したフェイから紙を取り上げ、食い入るようにそれを見つめる。
「東洋画の流れを汲んでいるのかしら。ペンというより、筆で描いたほうがしっくりくるような筆致ね? こんなに線の数が少ないのに、余白の存在によって鑑賞者に想像をさせる……。風刺画のように悪意的な誇張ではなく、描き込みを絞ることによってかえって特徴を表現しているのだわ」
フェイが描いたその絵は、おそらくベルクの教養人であればあるほど、評価しにくい部類のものであろう。
なぜなら、彼らが好む、遠近法に忠実で緻密な線で描かれた絵画とは異なり、それはむしろ平坦で、簡素な線画であったから。
だが、貞操観念に厳しいベルク出版物では満足できず、古今東西の春画を紐解き、感性を鍛えてきたローザは、フェイのその絵の美術性の高さを即座に理解することができた。
「この絵には、魂があるわ。こちらの感情を強く揺さぶるなにかが。それでいて、控えめな存在感で、あくまでも主題の邪魔をしない……」
ローザはぶつぶつと呟いてから、ぱっとフェイを振り向いた。
「ねえ、フェイ。素晴らしいわ! 本当に素敵。わたくし、この絵が大好きだわ! あなたには恩寵ともいえる才能がある!」
そして、紫の瞳をきらきらさせながら、ぎゅっと相手の手を握りしめた。
「お願いよ、フェイ。この絵を、もっともっと描いてみせて。わたくし、あなたの描く絵を何枚でも、何十枚でも見たいわ。これをあなたの宿題にさせてちょうだい。そうね、できれば、対象はベルナルドなんてどうかしら。きっとテーマがあったほうが、描きやすいでしょう?」
いかにも親切ごかして提案したが、その内実は私欲まみれだ。
ローザはとにかく、この神絵師の手になるベルたんの絵が見てみたかったのである。
一方のフェイは、完全に絶句していた。
当然だ。
だって、貴族のお嬢様の「ありがたい授業」中に、恐れ多くも国王夫妻を、それもまったくベルク流ではない手法で、移民が落書きしてみせて、こんなに褒めちぎられるなど、思ってもみなかったのだから。
「ね、フェイ。お願いよ!」
だが――少女の表情はあまりに真剣で。
その宝石のような瞳に蔑みはなく、ただ純粋な敬意が宿っていて、そして、なんの躊躇いもなく触れられた白い手が、あまりに温かかったから。
フェイは、大嫌いなはずの貴族の女の腕を、即座に振り払うことができなかったのである。
「姉様。そんなに握りしめては、フェイも困ってしまいます」
見かねたベルナルドが、穏やかな口調で割って入る。
ただし、さりげなくフェイの手を外すその指先は、関節が白く浮き上がるほどの力が籠っていた。
「あっ、ご、ごめんなさい! わたくしったら、はしたない……!」
最愛の「推し」の声で、ローザははっと我に返る。
フェイはベルナルドの旦那だというのに、興奮のあまり、うっかり泥棒猫ムーブをしてしまっていた。
ついでに言えば、いよいよ十時の鐘が鳴りはじめ、終業時間である。
「ごめんなさい、二人とも。でも、本当なの。本当に素晴らしいと思ったの。どうかまた見せてね。お願いよ」
それでもあまりに未練の残った彼女は、ドアの隙間に爪先をねじ込むような強引さで念押しし、何度もフェイの席を振り返りながら、暖炉の前へと戻っていった。
(ベルたんの旦那は神絵師……。あの手法でベルたんの横顔なんて描かれたら、わたくし、いよいよ印刷所を乗っ取って、大陸中に絵を薔薇撒いてしまうかも。ああどうしよう、また一つ、生きる意味を見つけてしまったわ……)
ふつふつと興奮が湧きあがって、またもや動悸がしてくる。
(あ、いけない……卒倒、ダメ、絶対)
油断するとすぐ昏倒しそうになる自分に活を入れながら、ローザはなんとか終業支度を済ませた。
だから、ベルナルドがフェイに向かってくいと顎を上げ、
「フェイ。おまえ、この後裏庭に来いよ」
小声で呼び出すという、貴腐人的には実に芳しい展開が密かに進んでいたことについて、まったく気付けずにいたのである。