21.ローザは腐力《フォース》を鍛えたい(1)
「おはよ、ヨハン。珍しいじゃん、おまえがこの時間にちゃんと起きてるなんて」
「まあね。やっぱり、眠りが深いと寝起きもいいみたいなんだ。テオ兄こそ、てっきり授業なんてサボっちゃうと思ってたんだけど、出ることにしたんだね」
「まあな」
翌朝である。
東十五番孤児院の子どもたちは、黒パンに果物という簡単な朝食を各自で済ませ、院内で一番大きな暖炉が据え置かれたホールに、続々と集まりはじめていた。
もっとも、ホールとはいっても、作業場であり、一同が夕食を取る場所でもあるのだが。
十の鐘が鳴る頃には、孤児の多くは働きに外に出てしまう。
朝食後のひとときは、彼らに許された数少ない自由時間で、その時間内に設定された「ご慰問のお嬢様による授業」は、無視されてしまうのが常だったが、今日に限っては、ほぼ全員の子どもたちがホールに詰め掛けていた。
テオは肩を竦めると、ヨハンの隣の椅子に腰を下ろした。
「おじょー様の授業なんてどうせくだらないけど、あれだけ美人なら話は別だもん。初日くらいは出ようかなって。それに、さすがに昨日の今日だし、心配じゃん? ……ベル兄ほどではないけど」
彼の発言は、おそらくこの場にいるほとんどの子どもたちの総意だろう。
あんなにも美しい少女というのを彼らは初めて見たし、だからこそ、そんな彼女が真っ青な顔で倒れてしまったときには、その脆さに驚くとともに、大いに焦りを掻き立てられたのだ。
ベルナルドなどはそれに輪をかけた様子で、いつになく取り乱していた。
せっかくよそ行きにしていた口調も忘れ、その場でフェイのことを激しく罵ったほどだ。
ただ、ローザの体調のほうが重要と考えたのだろう。フェイを突き飛ばすようにしてローザを主賓室の寝台に運び込むと、子分の子どもたちに見張りを命じ、数時間後には、なんと神父を連れてきた。
看病のできる人間をということらしいが、ベルナルドが見せたすさまじい過保護ぶりに、子どもたちは呆気にとられたものである。
テオはしみじみと溜息をついた。
「ベル兄って、たしかに感情的な人ではあったけどさ。もうちょい腹黒キャラっていうか……あんなに甲斐甲斐しく誰かを世話する人だったっけ?」
「うーん。お腹の白い部分を掻き集めて、一人に向けて発揮したらああなった、ってことじゃないかなぁ」
ヨハンも、幼い顔と口調に似合わず、なかなかに辛辣な相槌を打つ。
ゆっくりと周囲を見渡し、出席者を確認すると、彼はあれっという顔になった。
「フェイ兄も来てる」
ホールの一番端、暖炉からは最も遠い椅子に、フェイが座っていたのである。
無表情のことが多く、しかも東洋的な顔立ちをしている彼の感情を、ベルク人のヨハンたちはあまりうまく読み取ることができないのだが、今日は眉間にくっきり皺が刻まれ、不機嫌だということがよくわかった。
「そんなに嫌なら、出なければいいのにね」
「いやいや、フェイ兄、あれで義理堅いもん。ちょっとした嫌がらせのつもりが、女の子を気絶させちゃったんだ。その相手が授業に出ろって言うなら、一週間でも一カ月でも出るだろ。仏頂面で」
二人はこそこそと囁き合い、肩を竦める。
と、視線を感じたらしいフェイが、ちらりと睨むような一瞥を向けてきたので、彼らは慌てて居住まいを正した。
(――……ふん)
実際のところ、フェイの機嫌は最低と言ってよかった。
それはそうだ、ひとくくりに「孤児」とされる中でも、移民の子としてベルク市民権を持たない彼の扱いは、ほかの子どもたちより一段低く、彼らの倍働いてようやく並みの給金を得られるという状態である。
必然、労働時間は長くなりがちで、朝の自由時間は、ほかの誰と比べても一際、彼にとって貴重なものだったのだから。
それでも、この時間を割いてみせたのは、ひとつには、加減を誤り昏倒させてしまった少女がそれを望んだから。
母の件があり、彼は貴族という生き物を嫌い抜いているが、それ以上に、女性に手を掛ける人間というものを憎んでいるのだ。
自分がその枠に収まったままでいるわけにはいかなかった。
そしてもうひとつは、ローザが倒れた直後、ベルナルドが激しく自分を罵り、「おまえに授業に出る資格なんてねえからな!」と吐き捨てたからだ。
今のフェイは、彼に出ろと言われたら出なかったろうし、逆に出るなと言われたら、なにを措いてでも授業に出たかった。
とにかく、ベルナルドの望みと反対のことをしてやりたかったのだ。
もとより昨日の一件は、フェイからすれば挑発でしかなかった。
これまでのベルナルドであれば、ああすれば確実に怒り狂って――彼は外見と裏腹に喧嘩っ早い少年だ――、即座にフェイに殴り掛かっていただろう。
そうすればフェイも応戦し、互いの気が済むまで殴り合って、それで、勝手に騎士――よりにもよって母を殺した騎士なんかになったことは、水に流してやろうと、そう思っていたのだ。
いわば、下町流の解決法である。
ところがベルナルドときたら、ローザの手前、かしこまった口調を崩しもしない。
下町の仲間たちのことなど忘れてしまったかのように、「姉様」、「姉様」、「姉様」!
(ふん。苦労知らずの箱入り娘に、どうしてそうもほだされたものか)
ときどき歌劇場の近くで物売りをしているフェイは、貴族令嬢と呼ばれる人種に遭遇することがある。
非ベルク人的な容貌の彼に向かって、嘲笑を向け、ときには食べ残しの菓子を投げつけ、かと思えば、意中の男性の前では淑やかに、偽善めいた笑みを向けてくる彼女たち。
そんな連中ばかり目にするものだから、フェイの思い描く貴族令嬢像というのは、ヨハンたちのそれよりもさらにひどかった。
薄汚い本性を持ち、傲慢で、独善的な連中。
そんな彼女たちに、いったいなにが教えられるというものか。
フェイは皮肉な思いを持て余し、ちらりとホールを見渡した。
恐らく、いや、確実に、この孤児院の誰一人として、今日の「授業」とやらに期待をする人間はいない。
ただ、ローザがあまりに美しいのと、昨日の一件があったために、様子見がてらちょっと顔を出してみるかなと思い立った面子がほとんどだろう。
果たして明日には何人残っているものか、などと物見高く考えていると、前方の扉が開いた。
ローザだ。
「おはようございます」
どうやら直前までベルナルドと、あとは明け方にやって来たという神父に付き添われていたらしい。
扉の前で「もう大丈夫ですから」みたいな小声の応酬を済ませると、やがて心配顔のベルナルドと神父が入室してきて、まるでこの場を監督するように、ホールの後ろに回った。
ローザはそれを、ばつの悪そうな顔で見守っていたが、首を振り、笑みを浮かべた。
「昨夜は、お騒がせしてしまい申し訳ございませんでした。もうすっかりよくなりましたので、授業をさせていただきますね」
昨日の騒動を深々と詫びると――令嬢が下町の子どもたちに頭を下げたことに、彼らは一様にびっくりした――、頬を紅潮させながら暖炉の前に立ち、授業道具を取り出す。
一生懸命な様子がひしひしと伝わってきて、それだけで、さすがのフェイも毒気が抜かれるほどである。
ただ、少女が取り出したあるものを見て、彼はつい、眉間の皺を深めてしまった。
「では、早速始めます。今日のテーマは、こちら」
そう言ってローザが広げたのは、ベルクの民ならほとんどが見たことのある、現在の国王夫妻の肖像画だったのである。
まるで肉眼で見た光景をそのまま映し込んだような筆致は、当代一の画家の手によるもので、この絵ばかりは民に広く知られるべしと、国の許可のもと、模写が励行されているのだ。
よって、経済的に恵まれない下町でも、この絵だけは目にする機会が多く、親たちはそこに描かれているものを指差して、小さな子どもに、物の名前や色、アルファベットを教えることが多かった。
さては彼女は、物の名前を教えようとでも言うのか、それとも、王や画家の名前を尋ねることくらいはするのか。
(毎度思うが、貴族というのはあほなんだろうか)
フェイはうんざりと溜息をつく。
彼らは自分たちのことを舐めすぎているのだ。
この年で働きに出ているのだ、この場にいる子どもたちは、程度の濃淡はあれど、字も読めるし画家の名前も知っている。
フェイはとうとう前方を見る努力を放棄し、配られた紙とペン――上質なものだ――を弄びはじめた。
紙が滅多に手に入らないからあまり描かないが、戦うことの次に、絵は好きだ。
ペンの書き心地を確かめていると、絵を指差したローザが、
「さて、絵に描かれたこの場には、何人がいると思いますか? 数えてみましょう」
と幼稚な問いを向けてきたので、彼は口元を歪めてしまった。
数え方すらわからないと思っているのか。
「では、栗色の髪の……ええと、ヨハンくん、だったわね?」
「はい。いーち、にーい、ふたりです」
ヨハンは心得たもので、幼い口調でわざわざ数えてみせる。
ローザは喜んで手を叩く――かと思いきや、朗らかに首を振った。
「残念、違います」
えっ、と、ホールがわずかにざわつく。
きっとそのとき、フェイと同じ戸惑いを、皆が感じたはずだ。
他の意見の人は? と水を向けられ、子どもたちは慌てたように絵に目を凝らしはじめた。
どれだけ見ても、描かれているのは王と王妃の二人しかいない。
さては、神聖なる王を人として数えるなという引っかけかと、誰かが「一人」と答えたが、それも、意図を確認されたうえで丁寧に否定された。
困った子どもたちは、背景に描かれている天使像の数や、本の数を答えてみせたりしたが、それも違うという。
すっかり答えが出尽くした頃、ローザはふと、こちらを見た。
どこまでも澄んだ、紫色の瞳。
蔑みも媚びもない大きな瞳は、純粋な好意を乗せて、きらめいている。
「フェイ。あなたは、何人いると思いますか? あなたの声――もとい、意見を聞かせてほしいの」
最初フェイは、彼女は馬鹿なのか、それともこちらを馬鹿にしているのかと思った。
だがすぐに、その考えを改めた。
だって、彼女の瞳は、あまりに知的な光を宿している。
同時にその瞳は、あまりに真っすぐこちらを射抜いていた。
まるで、期待するかのように。
対等な相手から、高度な問いの高度な回答が、当然返ってくるものだとでもいうように。
フェイはもう一度だけ肖像画を見て、ローザの問いを反芻する。
――絵に描かれたこの場には、何人がいると思いますか。
そして答えた。
「……三人」
「まあ! なぜ?」
「王と、王妃と、……あとは、それを見て、この絵に残した、画家がいるから」
二人の絵があるということは、その二人を見つめたもう一人がいるということだ。
途端に、ホールの端々から子どもたちの息を呑む音が聞こえる。
ローザは「素晴らしいわ」と頬を紅潮させると、花が綻ぶように微笑んだ。
「その通りです。絵には常に、描かれている者たちのほかに、それを描いた者がいる。いいえ、もしかしたら、画家には助手がいたかもしれないし、王陛下や王妃陛下の側近たちも、この同じ部屋に控えていたかもしれません」
だから、厳密には三人というのも間違いかもしれませんが、と悪戯っぽく付け足し、彼女は子どもたちの目を一人ひとり覗き込んだ。
「絵画であれ、小説であれ、噂話であれ。わたくしたちが見聞きしているものは、すでに誰かの編集が加わったものであること。それを理解し、その意図を考えることを、『想像』、または『解釈』といいます。これができる人間は、ほかの人より数倍、豊かな人生を生きることができる」
声はどこまでも澄み渡り、大人が小さな子どもに話しかけるような、甘ったるさは一切ない。
孤児院の哀れなこどもたち、ではなく、一人の対等な人間として接せられているのが肌でわかり、その場にいる誰もが、無意識に、彼女を食い入るように見つめはじめた。
「目の前のあらゆる事象は、あなたたちの『解釈』を待ちわびる物語です。だから、わたくしたちは開かれたページを漫然と眺めるのではなく、じっくりとその行間に目を凝らしましょう」
ローザは眼差しに応えるように、ゆっくりと頷いてみせた。
「絵を見たなら、描かれているものの数を数えるのではなく、なぜその数なのかを考えましょう。なぜその色が使われていて、なぜその大きさで、なぜその位置なのか。そこには必ず、意味があるのだから」
いつもならざわついてばかりのホールに、まるでぴんと張り詰めた糸のような緊張感と、熱気が満ちてゆく。
フェイは、彼らは、気付いたのだ。
今、自分たちが初めて、「教養」というものの一端に触れようとしていることに。
空疎で古びていて役に立たない、そんなイメージとは異なり、彼女が授けようとしているそれは、なんと――興奮を誘うものなのか。
美しい紫色の瞳をした少女は、天使のような清らかな笑みを浮かべ、力強く告げた。
「わたくしの授業では、一貫して、想像力を鍛えます」