20.ローザは愛を味わいたい(5)
緩やかに意識が浮上して、目を開いたとき、視界に広がるのが離宮の見慣れた天蓋ではなく、やけに低い天井だったものだったから、ローザは目を瞬かせた。
夜明けが近い頃だろうか。古ガラスの張られた窓から、青みを帯びた光が差し込んでいるのを見つめながら、ようやく現状を理解する。
そうだ、今自分は、ベルナルドの伝手で東十五番孤児院に来ていて、そこでまた倒れたのだ。
「やれやれ、まったく、人騒がせなお嬢さんだ」
とそのとき、窓とは反対のほう、それもすぐ近くから声が聞こえたので、彼女はびっくりして身を起こした。
「ほら。そんな急に起き上がるものではないよ」
「叔父様! なぜここに?」
寝台のすぐ傍の椅子には、聖衣をまとったアントンが、やけに疲れた表情で座っていたのだ。
彼は「どうもこうも」とぼやきながら、大きくあくびをした。
「君が倒れたと、ベルナルドくんが血相を変えて城に戻ってきたんだ。本当は癒術師殿を連れ出したかったのだろうけれど、あいにく彼は、腐毒の研究で取り込み中でね。それで代わりに、神父として治癒の心得のある私のことを、攫うようにして連れてきたのだよ。かわいい顔して、なんと強引な坊やだろうね」
「そうですわよね。本当にベルたんったら、どこまで魅力的なギャップを披露したら気が済むのか……」
「うん、今、私、そんな話したかなぁ」
寝不足からか、アントンのツッコミにも威力がない。
「聞けば、君、嫌がらせで出されたスープを飲み干して倒れたんだって? それはまあ、胃に負担はかかったろうけれど、話を聞く限り、失神にまで至る中身ではない。どうせ、よからぬことで興奮したのだろう」
「うっ」
この一週間近くの付き合いで、腐的興奮のあまりぶっ倒れるローザの体質は、アントンにはすっかりお見通しだ。
ローザは、面目なさに深々と頭を下げた。
「仰るとおりです。お騒がせして大変申し訳ございません。ベルたんにも、ほかの皆さまにも、わたくしが勝手に失神しただけなので、どうぞお気遣いなくと伝えていただければよいのですが……」
「伝えたよ。でもそうしたら、すっかり私が冷酷な人間扱いだ。弟くんは怒って部屋を出て行ってしまったよ。なんだろう、フィルターが分厚すぎて、本性を伝えようとすればするほど逆効果になっていく気がする……」
「フィルター?」
ローザが首を傾げると、アントンは微妙な表情になってこちらを向く。
「ローザ。つかぬことを聞くようだけれど、君は、その……伯爵家で、だね」
大層歯切れ悪く、なにかを問いかけたが、結局彼は首を振ると、質問を取り下げた。
「……いいや、今日のところはいい。仮にも病人だ。ひとまず君はよく寝て、明日にでも話させてくれ」
ぶつぶつと呟くアントンは、どうにも疲れきっている。
ローザはおずおずと、もう大丈夫だから、離宮に戻って休んではと提案したが、彼は「いいや」と首を振った。
「実際、君もいないのに私が離宮に留まるのは筋違いなんだ。王城はどうもきな臭い感じがするし、私としては、残る期間は君と一緒に、ここにお邪魔させてもらいたいな」
「きな臭い、ですか?」
「ああ。王妃に毒を盛った小姓二人がいただろう? 尋問のために牢に繋いでいたのだが、彼らが突然姿を消してしまったのだよ」
ローザは驚きに目を見開いた。
「まさか……口封じ、ということですか?」
「それしかないだろうね。少なくとも、王城の牢に侵入ないし手引きできる黒幕がいる、ということだ。美しい百合を愛でるための外遊中に、なにが悲しくて、そんな厄介な案件に巻き込まれなくてはならないのだろう。そんなときは、逃げるが勝ち、というやつさ」
「上級神父の外遊の定義について、胸に手を当てて考えてみましょうか」
思わずぼそりと突っ込んでしまったローザは、それから、不甲斐なさそうに眉を下げた。
「それにしても、王妃陛下がそのような危機のさなかにあるなんて。わたくし、僭越ながらも友人の一人として、なにかできることはないのでしょうか」
「君の場合、その気絶癖を改めることが、なによりの協力だよ」
アントンはきっぱりと言い渡す。
えっ、とでも言うように見つめ返すローザに、彼は呆れの溜息を漏らした。
「本人は昏倒慣れしているから気にならないだろうけれど、か弱い女の子が目の前で倒れたら、周囲はどれだけ心配するか、わかっているかい? 君が不用意に失神するたびに、ベルナルドくんや殿下たちはすさまじい心労に襲われるんだ。もとより事件の解明なんて、小さな女の子の出る幕ではない。君ができるのは、心身健やかに過ごして、周囲の戦力を削がないことだ」
「……わたくし、そんな、か弱く小さな女の子というわけでは」
「か弱いし、小さいよ。私からすればね」
そう言って、アントンは、まるで父親が小さな子どもにするように、ローザの頭をわしわしと撫でる。
その大人の掌は、たしかにローザのそれよりも、ずっと大きく、広かった。
「ローザ。返事は?」
「……はい」
そういうものだろうか、と、少し引っかかるものを抱きながらも、ローザは頷く。
だが、曲がりなりにも自分より人生経験の長いアントンが言うのだから、従ったほうがよいのだろう。
実際、こんな自分のことでも心配してくれる人間がいるというのなら、彼らに苦痛を強いるのは本意ではない。
「わたくし、もう倒れません。それと、心身健やかに過ごすよう、精いっぱい努力いたします」
「よろしい」
アントンは、これで少しは騒動のリスクも減ったかと、密かに胸を撫でおろした。
虐待であるとか、男性恐怖症といった噂の真相は気になるところだが、その追及は明日に回すとする。
過去の真偽はさておき、現在のローザが倒れるたびに周囲が心配し、囲い込もうとするのは間違いないのだから、昏倒を防ぐことで、少しは包囲網を緩和させたいところだ。
(茶会では、私の忠告が裏目に出てしまったからね。これで汚名返上だ)
これでも彼は、先の茶会で事態を随分悪化させてしまったことを、気にしていたのである。
だが――自分がまだまだ、裏目の星とも言える不幸な巡り合わせの渦中にあることを、このときのアントンは知らなかった。