19.ローザは愛を味わいたい(4)
(ええ、と……)
乱暴に椀を置かれて、ローザはぱちくりと目を瞬かせた。
冷ややかにこちらを見下ろすフェイと、並べられた二つの椀――どうも、ローザとベルナルドのものらしい――を、順繰りに見る。
葉の黒ずんだキャベツのかけらや、身のこびりついた魚の骨、よくわからないがふやけたなにかが浮いているあたり、というかフェイの表情からも、あまり歓迎されているわけではなさそうだ。
(これは嫌がらせ、ということで、いいのよ、ね……?)
下町の文化に精通しているわけではないし、食事にはかなり大らかな自覚があるので――なにせ、読書に没頭しすぎたときなど、放置しすぎてカビの生えたサンドイッチを平気で食べていた――、少々自信がない。
もしやこれが彼ら流の仲間入りの儀式だという可能性は、と一瞬検討しかけたが、ベルナルドが血相を変えて、
「フェイ、おまえ……!」
と声を荒げているので、ひとまずこれは異常事態なのだろう。
なぜ自分はこのオリエンタルイケメンに嫌がらせをされているのだろうと不思議に思ったが、その疑問は、フェイが忌々しげに放った次の言葉で氷解した。
「なにを、慌てることがある? 俺たちが、しょっちゅう、飲んでいたスープだ。それとも、貴族になった途端、見るのも汚らわしいと? なら、結構。今すぐここを、出て行け」
(こ、これは……!)
ローザの脳内に素早く理解が広がる。
フェイの心情をトレースしてみて、真っ先に思い付いたのは、下町をひとり去ってゆくベルナルドの後ろ姿、そしてそれを、拳を握りしめて見送る彼の横顔だった。
貴族の色には染まらないで帰ってくると笑った、最愛の恋人ベルナルド。
信じてそれを見送ったフェイ。
だが、二人を隔てた距離はあまりに大きく、壁はあまりに高かった。
(貴族の水に磨かれて、日に日に輝きを増してゆくベルたん。彼は手紙を送るのよ、「離れてもあなたを忘れない、好きなものを贈るから、僕を信じて」と。けれどフェイは頑なに断り続ける。「いいや、いらない。宝石も、お金だって、おまえの笑顔には敵いやしないから」)
やがて時間は過ぎ、豪奢な衣装に身を包んだベルナルドと、下町の民フェイは再会を果たす。
磨き抜かれた美貌は、好ましさよりも、二人の間に横たわる溝の深さをフェイに思わせた。
そうして、遠くなってしまった恋人に、フェイは初めてねだるのだ。
ようやくほしいものができた。
この涙を拭くための、何色にも染まらない、ハンカチーフをくれないか――。
(はい現状理解! わたくし、ここでも泥棒女ポジだったのね!?)
つまりあれだ、フェイは下町仲間だったはずのベルナルドがすっかり貴族らしくなってしまったことに反発し、その原因となったローザを憎んでいるのだ。
なにせ、ベルナルドの美貌を磨き上げたのも、貴族らしい姿勢や立ち振る舞いを叩き込んだのも自分である。
せめて悪意はなかったと訴えるべく、ローザは身を乗り出した。
「あ、あの……っ、わたくし、あなた方の関係を変えるつもりなど、毛頭なくて――」
「ふざけるな。当分の食費には困らない額を、院に渡したつもりだぞ」
「はっ。口調も、行動も、随分貴族らしくなった。施しのつもりか?」
「あのう――」
「違う。そっちが勝手にそう解釈しているだけだろ。僕はなにも変わっちゃいない!」
「笑わせる」
「あの――」
だが、二人が完璧な間合いでやり取りをするものだから、ローザが口をはさむ余地がない。
(く……っ! 二人のこの、息もつかせぬ滑らかなやり取りはなんなの!?)
はくっと口を開いては閉じ、を繰り返すローザは、さながら長縄に入れない子のようだ。
すっかり取り残されてしまった彼女は、所在なくスープの椀に視線を落とした。
ほかほかと湯気を立てている、スープ椀。
中身はともかくとして、たなびく湯気は、まるで温かな家庭の象徴のようである。
(――ん? 温かな家庭?)
とそのとき、単語の一部がぴんと琴線に触れて、ローザはふと顔を上げた。
つい中身の斬新さに関心を奪われてしまったが、これはなんといっても、フェイが自ら作ってくれた料理――手料理だ。
しかも、彼の発言を信じるならば、幼少期から二人が日常的に口にしてきたスープなのだという。
つまり、家庭の味。
愛の巣を支えてきた、味。
「ごまかすな! 人がせっかく食材を買えるようにって渡した金は、どうなったんだ」
「ありがたく、使わせてもらったさ。俺たちのスープにな。ああ、骨だけなら、おまえたちのスープにも入れてある。お望み通り、これは、おまえの金で作ったスープだ」
「おまえ……っ!」
激昂するベルナルドをよそに、ローザはほほう、と思った。
(つまりこれは……妻が稼ぎ、それで得た食料で夫が作った、二人の愛の結晶でもある、と)
夫が稼ぎ、妻が食卓を整えるというのがベルク市民の一般的な夫婦設計かと思っていたが、いやいや、愛し合う二人の前に、既存概念に凝り固まったジェンダーロールなど無意味である。
二人の手を経て作られた、ただその一点に、価値は籠もっているのだとローザは思った。
「ああ。それとも、魚の骨だけでは、足りないか」
絶句するベルナルドを置いて、フェイはテーブルに腕を伸ばす。
そうして、そこに広げてあった焼き菓子を、ぽいとスープに放り込んだ。
「おまえがわざわざ買ってきた、高級な菓子も、加えてやった。これで満足か?」
「な……っ」
こんがりと焼き目のついていたスポンジは見る間にふやけ、上に乗っていたバタークリームは、どろりと溶けてスープを濁らせる。
いよいよ醜悪な様相を呈する椀に、さすがの子どもたちもざわついた。
「フェイ兄……」
「いくらなんでも、そこまで……」
だが、ローザだけは、冷静な表情でそれを見つめていた。
(今、付加価値が上がった気がする)
いや、彼女は冷静にとち狂っていた。
それはもちろん、ローザとて、一般的な味覚に照らしたとき、このスープがさぞまずかろうというのは、わかるのだけれども。
(けれど、現実の味覚がなんだというの? アプトの聖典によれば、五感から得られる情報は、脳で処理されて初めて認識されるもの。その脳を腐的支配下に置いているわたくしからすれば、味覚など陽炎のように曖昧な存在でしかないわ。つまり)
つまり、腐的文脈に照らせば、このスープは実に、オイシイと言えるのではないか。
だって、
「おまえが、変わっていないと言うのなら、さあ、飲め。さぞ、懐かしい味がするだろう」
「…………っ」
これは、二人の思い出の味であり、
「どうした? わざわざ、おまえが、奮発してくれた材料で、俺も、心を込めて、作ったのに」
これは、二人の協力の末に生まれた、いわば二人の子どものような存在であるわけだ。
(そんなの……)
「ふざけんな――」
「いただきます」
ローザは両手で椀を高々と掲げると、厳粛な面持ちで口を付けた。
(ありがたく頂戴するの一択でしょおおおお!?)
そして、ごくっと喉を鳴らしてスープを飲んだ――!
「姉様!?」
「…………!」
周囲がざわつく。
ベルナルドは青褪めてローザの腕を掴み、フェイ当人ですら驚いた様子でこちらを見つめてきたが、ローザは構わずに中身を咀嚼し、飲み下しつづけた。
椀を抱えたまま天を仰ぐローザ。
やがてふらりと椀を置いた彼女の全身を貫く、一つの言葉があった。
(――愛)
それはまるで、雷に打たれたかのような衝撃だった。
(もはや、これは、愛。味の美醜、いいえ、真善美といった価値観すら超越した、最先端にして最古の感覚。ときに甘く、ときに塩辛く、あるいは生臭い……この複雑味こそ、愛……!)
つまり、スープは甘ったるくて塩辛くて生臭かったのだが、腐脳にかかればそれは「愛味」という美味なのであった。
現実の味覚が訴える惨状の一切を無視して、ローザはただ、フェイとベルナルドが織りなす、新婚の食卓という幻想に酔いしれた。
二人の手から成るスープ、ただその情報だけが重要だった。
「姉様! なにしてるんですか! 吐いて!」
「ロ、ローザ様! 水!」
ベルナルドはもちろん、それまで遠巻きにしていたヨハンたちまでもが、慌てて水を持って寄越す。
だが、それを退けて、ローザは立ち上がり、フェイを見つめた。
「フェイ、と仰いましたね」
「…………」
「ごちそうさまでした」
深々と頭を下げると、相手はその黒曜石のような目を見開く。
ああ、血が繋がっているわけでもないのに、そうした表情がベルナルドとよく似ている。
「夫婦は似る」という通説の証明を見た思いで、ローザは胸を熱くした。
「こうやって、あなた方は食事をしてきたのですね。協力をして、分け合って……湯気の立った温かな料理を、ともに囲んで。わたくし、それが知れて、本当に嬉しいのです」
「……なにを……」
寄せられた眉の形が美しい。
鋭い眼光も、やきもちゆえと思えばなんら気にならない。
むしろ、ベルナルドから奪いかけていた「かつての日常」を垣間見られて、ローザは天にも昇る心地だった。
(きっとこうやって、フェイとベルたんは同じテーブルについて、同じスープを飲んで、つまり同じ体を作って来たのだわ。それをわずかなり追体験させてもらえるなんて)
湧き上がる感情を言葉にするなら、「ありがとう」が近いだろうか。
ローザはフェイの両手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
「わたくし、あなた方がどうやって暮らしてきたかを、もっと知りたい。邪魔はしませんので、どうか少しだけ、この場に留まることを許してくださいませ」
「…………」
至近距離から見つめた結果、腐力を浴びせてしまったのか、フェイが怯んだように息を呑む。
翳りのある美貌だからか、そうした表情も実によい――きゅん! と痛むほどに胸を高鳴らせたローザは、そこで、胸ではなく胃のあたりが痛むことに気付いた。
(ん?)
そうして思い出す。
(……わたくし、ラドゥ様に、しばらく刺激物を摂るなと言われていたのだったわ)
なにしろ、これでも二日前に吐血したばかりである。
スープだから大丈夫となんとなく思っていたが、こんな高ぶる愛の具現物を収めて、胃が荒ぶらないはずがなかった。
「…………ぅ」
「姉様! 顔色が!」
痛みを自覚した途端、冷や汗がにじむ。胃がぎゅうっと締め付けられる。
急速に体の力が抜けてゆくのを感じ、ローザは大いに焦った。
(ま、まずい! なにかを飲んで倒れるパターン、さすがに最近続きすぎなのでは!?)
しかも気絶するたびに、ベルナルドの過保護ぶりは指数関数的に増してゆくのだ。
ここで倒れては、孤児院での生活も無理と見なされ、またどこかに移されてしまうかもしれない。
ローザは両手で口を覆い、踏ん張った。
(う゛っ! 口から薔薇水出ちゃいそう……っ)
「姉様!」
「だ、い丈夫……」
涙目になりながら、彼女は必死にベルナルドに弁明し、ついでフェイに取り縋った。
「あ、あの、大丈夫なので、気にしないで、くださいね……っ。少し休めば、それはもう、元気満々になりますから」
彼は運命の「攻め」だ。ベルナルドの番だ。
このオリエンタルイケメンの一挙手一投足を、けっして見逃しやしない。
絶対に今、この孤児院から出て行く気はなかった。
「だから、どうか、ここに……っ。あと……あと、明日からの、わたくしの授業にも、どうか、出てくださいね」
さらに言えば、すぐに働きに出かけてしまうフェイたちとの、ほぼ唯一の接点である授業に、なんとしても彼を出席させたかった。
この「攻め」の人となりを徹底解析したかった。
「姉様! そんなことを言ってる場合じゃないでしょ! 早く横になって! おい! 水と盥、それから毛布!」
「それと、申し遅れましたが、わたくし……ローザと、申します」
息も絶え絶えに、伝えたいことだけを伝える。
(せめて、ベルたんを末永くよろしく、とだけは言っておきたい……っ)
挨拶の言葉をひねり出していたローザだったが、目の前のフェイが、戸惑ったように、
「ローザ……」
と呟くのを聞いて、意識のすべてがそちらに持っていかれた。
(あ、まず……)
胸がときめく。
心臓に押し寄せるために、血がさあっと頭から引いてゆく。
おなじみの感覚とともに、ローザはとうとうぐらりとその場にくずおれた。
「姉様!」
咄嗟に、誰かに支えられる感触だけを理解する。
朦朧とした意識の中で、ローザは思った。
――この御仁……めっちゃ美声ですやん。
今回彼女にとどめを刺したのは、至近距離で聞いたフェイの声であった。