18.ローザは愛を味わいたい(3)
(やっぱ姉様はすげぇな、一瞬でみんなを虜にしちまった……)
少し離れたテーブルで、孤児院の子どもたちと和やかに談笑するローザの姿を認め、ベルナルドは何度目になるかわからない溜息を漏らした。
夕食前のひとときである。
市民なら家族となにげない会話を楽しむのだろうこの時間、日々かつかつの生活を送っている東十五番孤児院の子どもたちは、内職に勤しむ。
多少学のある者なら代筆であったり、手先が器用な者なら造花づくりや刺繍だったりと、その内容は様々だ。
そして、普段であれば、ノルマに追われてぴりぴりとした雰囲気が漂うはずのこの場所に、今、珍しく、素直な感嘆の声や、笑い声が響いているのであった。
「ふふ、性格が一番出やすいのは『S』の文字ね。俺様キャ……はっきりした性格の人は、こうやって大胆に崩すことが多いの。ぷんデ……強気だけど根は素直、みたいな子は、こう。どんな細部であれ、性格の表現というのは、とても重要なことよ」
「すげえや、これなら代筆業で指名されるよ!」
「薔薇の花弁の形はね、大きく七種類に分かれるの。最も高貴な印象のティー系の薔薇は剣弁タイプ。花びらの左右がくるんと反った結果、中心がとがって見えるのよ。ほら、剣みたいに」
「うわ、造花が一気に本物っぽくなった! 薔薇の剣だなんて、格好いいなぁ」
「まあ。薔薇の剣に格好よさを感じられるあなたには、とても素質があるわ」
それというのも、ローザが大層親身に、子どもたちの内職に付き合っているからだ。
その指導内容は新鮮で、かつ実践的なものである。
しかも、心からのものとわかる言葉で頻繁に褒めてくれるので、子どもたちの心は弾まずにはいられないのであった。こんなに楽しい「ご慰問」は、誰にとっても初めてのことだった。
(それも、天使みたいにきれいな子に教えてもらえるとなればな)
ベルナルドは内心でそう付け加える。
まるで教会のステンドグラスを初めて見た人のように、眩しそうにローザを見つめる子どもたち。
ベルナルドがせっかく気を利かせて持ってきた土産の菓子には目もくれず、少年たちは一様に、ローザに見入っていた。
振り返ってみれば、ローザが優雅なお辞儀で挨拶を寄越したその瞬間すでに、彼らはみんな、彼女に骨抜きにされてしまったと言っていい。
普段は皆、それなりに強かで擦れた少年たちなのに、天使のような美しさに、ころりとやられてしまったのだ。
ひねくれ者のテオやヨハンのあたりは、まだ少し警戒を残しているようだが、それでも、下町にはいない美少女に、つい視線を向けずにはいられないようである。
ぎこちなく「ローザ様」などと呼びながら、熱心にローザの指導を受ける仲間たちを前に、ベルナルドは半年前の自分を思い出して、くすぐったいような気持ちになった。
(体調は心配だけど、人間関係のことは、姉様なら大丈夫そうだな。……いや、フェイ、あとはあいつだけ、ちゃんと歩み寄ってくれりゃいいんだけど)
だがそこで、ふと表情を翳らせる。
相棒と呼んでもいい彼の幼馴染、フェイは、親の代から移民として迫害を受けてきたことから、大の貴族嫌いで知られる人物だ。
聞けば、物売りをしていた彼の母親は、ある日突然窃盗の容疑で警邏隊の詰め所に連れていかれ、翌朝には死体となって帰って来たのだという。
実際には彼女は窃盗などする人物ではなかったから、美貌で知られた彼女に手を出そうとした貴族が、警邏隊に金を握らせて連行したのだろうと思われた。
残念ながら、当時の王都では、貴族による移民へのそのような暴挙が頻繁に起こっていたのである。
拒絶したら、腹いせに殺されてしまう――そんな事件すら、ありふれた悲劇の一つに過ぎなかった。
孤児となったフェイは、だからこそ貴族を憎んだし、出会ったばかりのころは、貴族的な容貌を持つベルナルドのことも嫌いだったようだ。
だが、ベルナルドの外見に似合わぬ苛烈な性格に触れ、不義の子としてむしろ貴族の父親を軽蔑していると知ったことで、少しずつ心を開いていった。
二人は、性質は違えど相性がよかった。
互いに欠けたものを補うようにしながら、タッグを組んで孤児院の仲間を導き、そうしているうちに、下町でそこそこの地位を持つ少年グループになっていたのだ。
(……ま、それも、俺が引き取られるまでのことだけど)
目先の金欲しさから、ラングハイム伯爵領へと乗り込むことにしたベルナルドに、フェイは難色を示した。
彼は、ベルナルドが「あちら側」の人間になることを嫌がったのだ。
だが、当時のベルナルドからすれば、伯爵領行きはあくまで、当面の金を得るためのこと。
どうせ下町育ちの自分に、貴族生活が務まるとは思わないし、興味だってない。
いつものように馬鹿な大人をだまくらかして、しばし贅沢な暮らしを堪能したら、あとは金をちょろまかして帰ってくるから――そう告げて、ベルナルドはあっさりと伯爵家の馬車に飛び乗ったのだ。
けれどそこで、ベルナルドはローザと出会ってしまった。
その美しさと慈愛深さ、そして繊細な心に触れるうちに、彼の中でいろいろなものの優先順位がすっかりと入れ替わってしまった。
ベルナルドは自身のことを冷淡な人間だと思っていたが、なるほど、男で身を滅ぼした花売りの息子だけあって、これと思い定めた相手には、随分と執着する性質だったのだ。
思わぬ騒動があって、騎士見習いとして王都に戻ってきたとき、フェイや下町の仲間たちのことを、一度も思い出さなかったかと言えば嘘になる。
だが、それらを差し置いても、ローザの傍にいつづけることを選択するくらいには、ベルナルドは彼女に入れあげていた。
だいたい、フェイと自分が交わしてきたのは、べたべたとした慣れ合いではなく、からりと乾いた友情だ。
「離れても想い合う」だなんてしない代わりに、再会したら、つい昨日の続きとでも言うように、これまでの関係が再開するのだろうと信じていた。
だから、歌劇場で思いがけずフェイの姿を見かけたとき、ベルナルドは少々の気まずさを覚えながらも、素直に、友情を再開するよい機会だとも思った。
それで、ローザの促すままフェイを追いかけたのだ。
出会い頭に、連絡もしなかった不義理を詫びると、フェイは存外あっさりそれを許してくれた。
彼としても、不義理を責めるというよりは、単純にベルナルドを見かけたために、声を掛けたらしいのだ。
聞けば、ちょうど割のいい仕事が見つかったらしく、気心の知れた相棒がいるとなにかと心強いので、ベルナルドのことを誘いたかったのだという。
「へえ、なんの仕事?」
「まあ……教会関係の仕事、だろうか」
「教会! おまえが!」
なんでも、聖水を作る過程の力仕事を担当しているとのことだったが、厭世的な雰囲気のフェイと教会というのがどうにも似合わず、ベルナルドは笑ってしまった。
だがそれで、不似合いにも貴族令嬢に懸想している自分もおあいこだと思えて、ベルナルドは、ふと肩の力を抜いたのだった。
「悪ぃけど、その仕事はできねえや。実は今、俺、王城で騎士の見習いしててさ。副業禁止なんだよな」
「……騎士? おまえが?」
「そ。なんかいろいろ、展望が狂っちまってさ」
伯爵領でローザという名の、素晴らしい少女に出会ったこと。
ローザを守るために、色狂いの父親を遠ざけたら、結果的に王都で騎士をやるはめになったこと。
しばらく、いや、できる限り、ローザの傍にいて彼女を支えたいこと。
フェイにならきっとわかってもらえる――そう思ったベルナルドは、これまでの経緯を洗いざらい告げた。
親友の顔が徐々に強張っていくのには、気付かなかった。
「おまえにもいつか紹介するよ。まじで、天使みたいにきれいだから。頭もよくて、しかも予知もできる、『真実の瞳』の持ち主なんだぜ。あ、手ぇ出すなよ? はは、でもおまえ、かなり奥手だし、そんな心配は無用か」
「…………」
「あとさ、成り行きでなったとはいえ、騎士ってのはなかなかいい身分だよ。魔力がないとなれないってのは厄介だけど、意外に風通しもいい組織だしな。フェイ、おまえ、めちゃくちゃ強いじゃん。少し時間をくれれば、俺が根回しして、いつかフェイのことも――」
「おまえは」
フェイは、唐突にベルナルドを遮った。
「そちらを、選んだんだな」
「え?」
「十年近くも、一緒にいた、俺たちではなく、半年ともに過ごしただけの、貴族の女に惚れこんで。おまえは、貴族になった」
声は低く、真っすぐにこちらを見据える瞳は、まるで夜のように冷ややかだった。
「なんだよそれ。俺が選んだのは貴族の身分じゃなくて、姉様……ローザだよ。おまえたちを捨てたわけでもないし、俺自身はなにも変わっちゃいないさ。花売りの息子で、下町出身のベルだ」
「いいや」
フェイは、ふいに飽きたかのように顔を背け、雑踏に向かって踵を返した。
おまえは変わった、と、そう言い残して。
(あいつとの喧嘩なんてしょっちゅうだけど……ああやって静かに怒るときは、たいてい長引くんだよな)
思い出しながら、ベルナルドは顔を顰めてしまう。
基本的に恬淡としているフェイだが、逆鱗はいくつかあるようで、それに触れるとやっかいだ。
喧嘩っ早いのはお互い様で、言い争いになるとすぐに拳が出ていたものだが、それは身内扱いだからで、「もういい」とばかりに冷ややかな態度を取り出したときこそが、本当の危機なのである。
「外」と区分した敵に対し、彼がどれだけ冷酷になれるかを、ベルナルドはよく知っているから。
(あいつももう十五歳……この年末には、院を出て行かなきゃいけない。焦りもあって、虫の居所が悪かったのかもな)
無意識に、つい親友をフォローしてしまう自分がいる。
腕っぷしの強いフェイには、ぜひ味方になってもらって、ともにローザを守ってもらいたかったのだ。
なにせ、権力闘争に没頭して毒を揮う人物だけでなく、隙あらばローザを娶ろうとする王族一味など、ベルナルドの敵は尽きない。
それに、あのときこちらを睨んだ瞳には、敵意だけでなく、羨望が浮かんでいたことに、ベルナルドは気付いていた。
武術に自信があり、誇り高いフェイが、本当は早く孤児院を出て身を立てたがっていることも知っている。
彼を引き抜くという発言は、あながち冗談でもなかったのに。
(あいつの貴族嫌いも困ったもんだよな……。まあ、実際に姉様と話しでもしたら、さすがに考えを変えるだろ。それか、腹いっぱい食えば、それだけで多少は機嫌も直るかも)
直前に見た仏頂面を思いつつも、自分にそう言い聞かせる。
もうすぐ夕食の時間だ。
ここでの生活を快適にすべく、昨日の時点で、薪や毛布とともに、クリスたちから強奪した金を院には届けてある。
税金対策でこの孤児院を運営している院長は、子どもたちの境遇に無関心だが、同時に、彼らから上前を跳ねることもしないので、金は間違いなく、出納係を務める年長の子ども――つまりはフェイの手に渡っているだろう。
一般市民なら、向こう一年は余裕で食卓を賄える額だ。
実際、台所からは、これまで院内で嗅いだことのないような、上質な肉が焼ける匂いや、贅沢に使われた香辛料の香りが漂ってきていた。
期待と、あとは、多少の誇らしさと。
そんなものを胸に夕食を待っていると、台所のほうから「おい」と声が掛かる。
声の主は、やはり無表情のフェイだった。
両手にそれぞれ、湯気を立てた木の椀をふたつ持ち、つかつかとローザのいるテーブルに向かってゆく。
「お貴族様には、先に食事を出すのが、礼儀なんだろう」
「なんだよ、嫌味なやつだな。べつに、そういう当てこすりみたいな気遣いは――」
ベルナルドは、怪訝に思いながらフェイを追いかけ、それから絶句した。
子どもたちもざわつき、着席したままのローザだけが、きょとんと眼を見開く。
なぜなら、
「挨拶がまだだったな。名前はフェイ。移民。ベルナルドの親友だった男だ」
子どもたちが広げていた造花や刺繍を払いのけ、投げ捨てるようにして置いたその椀の中身は――残飯が浮き、汚らしく濁ったスープだったのだから。
「そして、今日は飯当番でもある。貧民なりに、心を込めて、食事を整えた。さあ――お召し上がりを」
取って付けたような敬語には、まぎれもない侮蔑の色がにじむ。
息を呑むローザたちを、敵意に満ちた黒い瞳が、静かに見下ろしていた。
やはり勘違いものには残飯イベントがないと(使命感)