16.ローザは愛を味わいたい(1)
「姉様、寒くありませんか? もう少し薪を足しましょうか」
「大丈夫よ、ベルナルド」
この日だけで、もう何度目になるかわからないやりとりが、部屋に響いた。
古びた石造りの壁に、擦り切れた絨毯、粗末なテーブル。
窓ガラスの代わりに、寒さよけの布が据えられた窓、そして薄汚れた暖炉。
いかにも貧相なこの場所は、名を東十五番孤児院と言った。
王都の下町に位置し、色街とも隣り合う、貧しくみすぼらしい場所である。
ただし、孤児たち皆が働きに出かけ、がらんとしたその空間に、今、二つの異変が見られた。
ひとつは、かなり寒さが厳しくならないと焚かれない暖炉に、初冬の今、赤々と火が入れられていること。
そしてもうひとつは、その暖炉の前の丸椅子に、下町には似つかわしくない美貌を持つ、幼い男女が座していることだった。
特に少女のほうは、村娘のような麻のシャツに粗末なスカートをまとってなお、抜けるような肌の白さと、完璧に整った顔から、えもいわれぬ品のよさを漂わせている。
髪は平凡な栗色だったが、瞳は淡い紫色をしていて、その神秘的な色合いが、彼女を天使のように見せていた。
「まったく、手土産まで持って事前に連絡しておいたのに、子どもたちはおろか、院長まで外出中だなんて。姉様を寒い部屋で待たせようなんて、あの院長は本当にク……曲者ですね」
「そんなに怒らないで、ベルナルド。無理を言ってかくまってもらう立場なのだから、彼らのスケジュールを乱すわけにはいかないわ。そもそも、貴族を受け入れてなお『普通』を保てる人だからと、あなたが推薦してくれたのでしょう? ほら、薪を足すのはもうやめて」
ぷりぷりと怒る相手を、少女が困ったように窘める。
そう、この二人とはもちろんベルナルドとローザで、彼らは茶会事件のほとぼりが冷めるまで、この孤児院に身を寄せようとしていたのであった。
一昨日、勢いよく泥紅茶――というか毒紅茶を飲んで倒れたローザが目を覚ましたのは、その日の夕方のことだ。
寝ぼけた状態で身を起こしたら、寝台を取り囲むようにして、王族三人とラドゥ、アントン、そして、なぜか息を乱したベルナルドから見つめられていたので、大層驚いたものである。
「ああ、ローザ! 目が覚めたのね! よかった……本当によかったわ!」
皆口々に回復を喜んでくれたが、中でも一番リアクションが大きかったのは、王妃ドロテアであった。
彼女はそれまでのツンツンぶりが嘘だったように、瞳に涙を浮かべ、ひしとこちらを抱きしめてきた。
そして、事態が掴めずに硬直しているローザに、ラドゥが手際よく経緯を説明してくれた。
王妃のカップには、小姓によって毒が仕込まれていた。
下手人の小姓たちはすでに捕まっている。
ローザは毒を含んだものの、体質と、一緒に飲み込んだ土のおかげで重症には至らなかった。
王妃はその献身に、大層感謝している――。
(ええっと……。ちょっと激しく想定外が過ぎるけれど、いろいろな不幸と幸運が重なった結果、わたくし、見事王妃陛下の腐レンドに認定された、ということでオーケー……?)
カジュアルに毒殺に巻き込まれた衝撃と、自分の異様な幸運ぶりへの驚きがぶつかりあった結果、一周回ってどんな感情を浮かべればいいのかわからなくなってしまったため、ひとまず、目的が叶ったことを喜ぶことにする。
今、クリスたちに「母上、病人相手に重いです」と剥がされたドロテアの視線はどこまでも友好的で、ローザは嬉しくなった。
「ええと、あの……いろいろ衝撃の展開ではございましたが、わたくしは無事ですし、王妃陛下に覚悟を示すことができたのなら、とても喜ばしいことです」
「まあ、ローザ……!」
「冗談ではありません」
だが、そこに硬い声が降ってくる。
声の主は、険しい表情を隠しもしない、ベルナルドであった。
「茶会に参加できないまま、突然、姉様が毒に倒れたと聞いた僕の気持ちが、わかりますか? 衛兵と戦ってまで離宮に押し入り、そこで真っ青な顔で眠る姉様を見つけたときの、僕の気持ちが」
なんでも、心配性のベルナルドは、非番であるのに、自主稽古を口実に庭園近くの訓練場に待機していたようで、騒ぎを聞くなり駆けつけたらしい。
ところが、庭園内は急遽厳戒態勢が引かれ、搬送された離宮でも、クリスたちがてんやわんやしていたため入場許可が出せず、ようやくつい先ほど、ローザが目覚める直前に、悪鬼のごとき形相で殴り込んできたのだという。
「この数時間、僕がどれだけ気を揉んだか。聞けば、フォローは任せろと言ったアント……ニー神父は、特になんの役に立つわけでなく」
ベルナルドはぎろり、と、恐れ多くも上級神父を睨み付け、
「姉様は茶会でさんざんな目に遭った挙げ句、身代わりで毒に倒れる羽目になり」
ついで、不遜にも王妃に険しい視線を向け、
「だというのに、殿下たちはのうのうと、倒れた詫びに、姉様にクイーンズカップを渡しなおすなどと仰っていたとか」
「えっ」
最終的には、驚くローザをよそに、レオンとクリスを正面から見据え、吐き捨てるように告げた。
「やってられません。姉は僕がラングハイムに連れて帰ります。罰はご随意に」
氷のように冷えた声に、不敬を働かれたはずの王族すらも息を呑む。
(まずいまずいまずいまずい! ベルたん、めっちゃ怒ってるわ……!)
もちろんローザも、ちびりそうになるほどビビった。
それはそうだ、婚約フラグを叩き潰すためにローザを茶会に送り出したというのに、なんやかんやあった末、叩き潰すどころか、むしろフラグに添え木を当ててきてしまったのだから。
もちろん、ベルナルドはあくまで、ローザを危機に晒した挙げ句、身勝手にも婚約話を進めようとしている王族一味に怒りを燃やしているわけなのだが、思考回路のすべてを腐らせたローザに、そのあたりの機微を理解できるはずもなかった。
ローザは、冷や汗をだらだらたらしながら、「ご、ごめんなさ……」と謝りかけたが、ベルナルドは遮るように首を振る。
さらには、「姉様は悪くありません。ある意味、予想すべきことでした」と、再度レオンたちを睨み付けた。
怒っているのは、彼に対してですと言わんばかりに。
(さてはベルたん、旦那が浮気したら相手の女性ではなく旦那当人を責めるタイプ……! なんという懐の深さ! さすがは史上最強の「受け」! ああでも、そんなことを考えている場合ではない!)
動揺のあまり、思考が斜めにずれていく。
「っていうか、さっきすでに、ローザを王城から離そうという話にはなっていたんだよね」
と、冷静な声が掛かったのは、その時だった。
声の主は、唯一ベルナルドの殺人眼光から免れていた、ラドゥである。
彼は、怒り狂うベルナルドに向かって、落ち着いた素振りで肩を竦めた。
「怒りのあまりローザを連れ去りたくなる気持ちは、わかるよ。俺だって君の立場ならそうする。この事態を許した面々は、たとえ王族であろうと反論の資格はないとも思うよ。たださ、行先はラングハイムじゃないほうがいいと思う。一癒術師としては、ね」
思わぬ角度からの指摘に、ベルナルドは目を瞬かせた。
「癒術師として……?」
「そ。今回ローザが飲んだのは腐毒という、魔力的な要素を持つものだ。一般的な治療は施したし、今は快癒しているように見えるけど、後から影響がないとも限らない。主治医としては、辺鄙な片田舎よりは、設備も魔力者も潤沢な王都内にいてほしいところだね」
「それは……」
そう言われてしまうと、感情が前面に出ていたベルナルドも黙らざるをえない。
「ならば、修道院はいかがでしょう。ユリア教とはなりますが、王都から近く、女子専用で、口が堅いと評判のところに、私も心当たりが――」
「では、下町の孤児院に連れて行きます」
ようやく話が戻ったと言わんばかりに、ほっとアントンが名乗り出たところを、しかしベルナルドは低い声で遮った。
「下町の一角に、僕が世話になってきた孤児院があります。あそこなら口だけは堅いし、なにせ王都内だ。それなら、問題ないでしょう?」
「い、いや、警備とか……。年頃の令嬢を少年たちの多い場所に連れてゆくというのも……」
「僕が姉様を警護します。もともと女性だって受け入れている場所なので、風紀はお気になさらず」
アントンがまごまごと反論するが、ベルナルドは譲らない。
一度は信頼して任せたのに、おめおめとローザの婚約危機を強めてしまったアントンに、彼は深く怒っているわけであった。
「いや、ベルナルド。おまえの怒りもわかるが、でもな、これからどんどん寒くなるというのに、ローザを粗末な建物に住まわせるなんて――」
「薪と布団くらいは、そちらの予算で手配してくださいますでしょう、クリス殿下?」
「なあ、落ち着いてくれ。静養の行先として、修道院ではなく下町を選ぶというのは、かえって耳目を集めてしまう恐れもある。おまえはほとぼりが冷めるのを期待しているのだろうが、これでは逆効果――」
「ご安心を、レオン殿下。修道院に行くことにしておけばよいのです。殿下がうっかり口を滑らせぬよう、孤児院の名前は皆さまにもお伝えしませんので。そうだ、早々に黒幕を突き止めれば、耳目は自然とそちらに集まるのではないですか?」
「ええと……ならば私が、神父の修練の一環として、ともに孤児院に――」
「今回、毒の正体を見抜いたのは神父様とか。ならば王城に留まり、腐毒という未知の毒に対する知識を提供して、この事件の解明に手を貸すというのが、よほど実のある修練になるのではないでしょうか」
三者はそれぞれ言い募ったが、最後まで言葉を紡がせてすらもらえない。
権力にものを言わせてベルナルドを黙らせることはできただろうが、それをするには、ローザに対する負い目が大きすぎた。
「事態が悪化するのを、指を食わえて見ているなんて、もうごめんだ。事件が落ち着くまで、姉は僕が下町で匿います」
結局、心配を燃料に、怒りを激しく燃やしたベルナルドは一歩も譲らず、たった一日で、ローザの下町行きのすべての段取りを整えてしまったのである――。