15.幕間
深夜の孤児院に戻ってきたとき、凍えるような隙間風が吹き込んでいるはずのそこが、いつになく暖かいのに気付いて、少年はふと眉を寄せた。
少年――いや、青年と呼ぶべきだろうか。
体はしなやかさと精悍さを兼ね備え、黒曜石のような瞳には、すでに大人びた色が浮かんでいた。
肩でひとくくりにした長い黒髪、わずかに黄味がかった肌、なにより切れ長の一重の目は、ベルクではあまり見かけない、東洋的な美しさを感じさせる。
それもそのはず、独特な静けさをまとった彼は、東方の地からこの下町に流れ着いた移民の子で、仲間からはフェイと呼ばれていた。
彼は黒ずくめの長躯をするりと動かして、警戒心の強い獣のように静かに屋根裏への階段を上っていく。
粗末なドアを開けると、床ではすでに多くの孤児たちが寝息を立てていた。
そんな中で、まだ起きていたらしい仲間が、上機嫌で声を掛けてくる。
「おぅ、おかえり、フェイ兄」
にしし、とはしっこく笑って片手を挙げるのは、赤毛とそばかすが印象的な小柄な少年だ。
名をテオという。
彼を含めた孤児仲間たちが、ぬくぬくと布団にくるまっているのを見て、フェイは怪訝な顔つきになった。
羽毛をたっぷり仕込んだ布団。
そんなもの、この孤児院にあったためしがない。
それはなんだ、というフェイの視線を見て取り、テオは誇らしげに布団を指差した。
「これが気になる? おこぼれだよ」
説明は端的だが、意図が汲めない。
無言を保つフェイのために、今度は、テオよりさらに五つほど幼い、栗色の髪の少年が、おっとりとした声で説明した。
「あのね、明日から、貴族のえらい女の人が、ここに寝泊まりするんだって。それで、その人に不自由がないようにって、寄付金と、薪と炭と、羽毛の布団をたくさんもらえたんだ。まだ冬の初めなのに、今日は遠慮なく暖炉を焚いたんだよ。あ、フェイ兄の布団は、今僕があっためてあげてるからね」
幼い少年は名をヨハンと言って、この孤児院でも弟的な存在であったが、なかなか肝の据わった人物であるらしい。
寡黙でこわもての兄貴分相手に、ぬけぬけと「朝まで僕が二枚使っていい?」と首を傾げたが、フェイに無言のまま一枚を剥がれ、「ちぇっ」と口を尖らせた。
フェイは黙々と寝支度を整えたが、肌に触れる柔らかな綿の感触に、思わずまじまじと布団を見つめてしまう。
最高級の手触り。
道理で、日頃はこそこそ身を丸めるようにして寝る孤児たちが、うっとりと寝息を立てているわけだ。
そこに、布団にくるまったままのテオが、悪戯っぽく話しかけてきた。
「聞いて驚けよ、フェイ兄。明日うちに来るその女の人、誰だと思う? なんと、今、この下町にさえ名声が届く噂の美人令嬢、『薔薇の天使』だ!」
「…………」
「なんでも命を狙われてるらしくって、ほとぼりが冷めるまでここで身を隠すことにしたんだってよ。ほら、うち、ぼろいけど、王城からはいい感じの距離だし、なにしろ院長、口だけは堅いじゃん? それで選ばれたのもあるみたい」
情報収集が趣味のテオは、噂の種が向こうからやって来たことが、嬉しくてたまらないようだ。
にやけ顔で語ると、それからさらに笑みを深め、フェイに顔を寄せた。
「でもさ、一番の理由はそれじゃない。なんで天使様がここに来るかって、それは、彼女の異母弟っていうのがベル兄だからだ」
「……なんだと?」
それまで沈黙を保っていたフェイが、とうとう声を出す。
期待通りのリアクションを引き出したテオは、満足そうに頷いた。
「噂に疎いフェイ兄は知らないだろ。今巷で話題の『薔薇の天使』っていうのは、ベル兄が引き取られた家の娘のことなんだぜ。そう、ベル兄――俺たちの凶悪天使は、今や『薔薇の天使』の弟ってわけ。今日、『姉様を頼む』って布団を持ってきたのは、誰あろうベル兄だよ」
花売りの息子にしては貴族的な風貌をしていたベルナルドは、そのあどけない美貌を称えられ、仲間内から「下町の天使」とあだ名されていた。
とはいえ、きれいな顔とは裏腹に、苛烈で腹黒い性格とえげつない攻撃で知られる人物だったため、使用時には必ず「最恐の」だとか、「凶悪な」といった枕詞がつく。
母親のいる娼館で暮らしていたが、近所である孤児院の子どもたちと仲が良く、テオやヨハンも彼を「ベル兄」と呼んで慕っていたのだった。
ただし、ベルナルドと一番仲が良かったのは、フェイだ。
ベルナルドより二つ年上の彼は、寡黙で表情も乏しいが、身体操作に優れ、とにかくめっぽう強かった。
無言で敵を叩き潰すスタイルの彼と、にこやかに相手を背後から突き飛ばすタイプのベルナルドは、なぜだか気が合ったらしく、二人は「相棒」と見なされるほど頻繁に行動を共にしては、この下町の勢力図を塗り替えてきたのである。
フェイ自身はとっつきにくい人物だが、ベルナルドとタッグを組んで、いけすかない大人を蹴散らす姿は、この孤児院の少年たちの憧れであった。
それだけに、ベルナルドが下町を去った途端、彼のことをすっぱり忘れてしまったとでも言うように、足跡を辿ろうともしないフェイのことを、テオは内心非難がましく思っていたのである。
「まーったく、そのくらい、フェイ兄も知っとこうよ。久々に見たベル兄、めちゃイケメンだったぜ。すっかり貴族ぶりが板に付いちゃってさ」
軽くフェイを揶揄しながら、昼にやって来たベルナルドのことを思い出す。
半年前だってきれいな少年だったが、その美しさに磨きがかかっていて、テオは大いに興奮したものだった。
「薔薇の天使――ローザ様っていうんだけど、その人に付き添って、ベル兄もしばらくここで泊まるんだって。楽しみだよな。っていうか、実家でもない孤児院に、ぽんっと大量の金と布団を寄越しちゃうベル兄、かっこよすぎじゃない? きっと、俺たちのためにさ、高慢な貴族どもからがっぽり絞ってきたんだよ」
「ベル兄、そういうのが上手な人だものね」
ヨハンも穏やかに同意する。
脳裏によみがえるのは、「天使スマイル」と命名されたあこぎな笑みで、容赦なく大人や商売女から金をむしり取っていくベルナルドの姿だ。
彼は体格こそ小柄で、戦闘力はフェイに敵うべくもなかったが、弱々しく振舞って、同情や金品を引き出すのが大層うまかった。
だから、貴族の女より下町のヒーローを応援したいテオたちは、こんなことを思う。
「たぶんさ、ローザ様のために尽くす、みたいな行動も、実はベル兄の作戦なんじゃねえかな。だって、ベル兄って基本女嫌いじゃん。俺としては、噂のローザ様なんてのも、実はたいしたことなくて、評判だけいい傲慢なおじょーさまを、ベル兄が掌でころころして、金を引き出してんじゃないかなって思うんだけど」
「どんな人だろうねぇ、ローザ様って。寝泊りのお礼に、僕たちに勉強を教えてくれることになってるらしいけど……自己満足系の勘違い女だったら、僕、疲れちゃう」
「いるよな、『孤児に字を教えてやってます』って満足しちゃう人。腐っても王都育ちなんだし、読み書きくらいならできるっての。あーでも、ばかみたいに真面目な、行き遅れの修道女みたいなタイプでも面倒だよなぁ。大人しく引き籠もって、金だけ出してくれたらいいんだけど」
口調は軽いが、内容はなかなかに辛辣だ。
下町とはいえ、王都内に居を構えるこの孤児院は、貴族からの「慈愛深きお恵み」や、「恐れ多きご慰問」を受けることも時折あった。
それはつまり、気まぐれに投げてよこされる中古品や独善的な笑みを、這いつくばって喜んでみせねばならないという意味である。
物心ついたときから孤児であったこの三人は、その手のことに慣れてもいたが、人一倍それを嫌悪しているのでもあった。
善意を装った蔑みほど、彼らを苛立たせるものはなかったから。
「ま、でも、ヨハン。おまえもベル兄と同じで、あざとく甘えるのは得意なほうじゃん。授業とやらは適当に聞き流してさ、ちびっこらしくローザ様にがっつり甘えれば、小遣いくらいもらえんじゃね?」
貴族令嬢なんて、一皮むけばどれも同じと割り切っているテオは、意地悪く笑う。
「フェイ兄もさ、ベル兄みたいな正統派じゃないけど、結構いい男じゃん。愛想笑いのひとつでも浮かべて甘ぁく囁けば、側仕えに引き立ててもらえるかもよ? あっ、それいい! そしたら、ベル兄ともまた一緒に――」
「くだらない」
だが、フェイはばっさりと遮る。
彼は、毛布をかぶって横になると、淡々と告げた。
「貴族と慣れ合うなんて、ごめんだ。ローザとやらも、ベルも」
どこかぎこちない発音には、かすかに異国の言葉のニュアンスが混ざる。
それでも、そこにひんやりと横たわる冷たさは、聞き間違えようがなかった。
「え? ベル兄も? そんな、フェイ兄、あんなに仲良しだったのに――」
「あいつは、変わった」
まるで最近のベルナルドを知っているような口ぶりに、テオたちは顔を見合わせる。
こちらに背を向けたフェイの表情は、彼らからはうかがい知ることができなかった。
「あいつは、もう、『あちら側』だ。俺たちを蔑み、搾取し、受け入れない。……あの女が、変えた」
だが――フェイの呟く「あの女」の単語に、温かな布団でさえ防げない、ぞくりと身を凍らせるような冷たさが籠っているのだけは、感じ取れた。