13.ローザはフラグを回避したい(7)
「本当に、なんという無茶をする娘なの……」
夕刻の迫った、クリスの離宮の一隅――ローザの居室。
なにかと倒れることの多いローザの寝室には、半ば主治医と化したラドゥのほか、クリスたち見舞客が訪れることも多かったが、今日その顔触れに、新たな一員が加わることとなった。
「毒が入っていると知りながら、自ら紅茶を飲むだなんて……」
かすれた声で呟くのは、ベルク王国で最も尊い女性。
チューベローズに例えられる妖艶な王妃、ドロテアである。
クリスやレオン、ラドゥ、そしてアントンと並んで、寝台脇の丸椅子に腰かけると、ドロテアは思いつめたようにローザの寝顔を見つめた。
日頃派手に装うことの多い彼女だが、今や化粧も落ち、美しくまとめていたはずの髪も、奔走した疲れを滲ませてほつれている。
ローザが紅茶を飲んで昏倒してから、数刻。
穏やかだったはずの庭園は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
癒術師のラドゥと神父のアントンが素早く介抱に当たる傍らで、ローザの発言から小姓に疑いを抱いたドロテアが、彼らの捕縛を命令。
レオン自らが即座に魔力で捕獲し、クリスの能力によって速やかに彼らが犯人であるとの確証を得た。
小姓二人は、反目しあっているように見せながら連携し、王妃のカップに毒を仕込んでいたのである。
ローザが飲むこととなったその毒は、解呪の類に詳しいアントンによれば、ヒ素などの一般的な毒物ではなく、呪いの魔力を伴う「腐毒」であるという。
魔獣の体内に巣くうと言う、内臓を弱らせる菌を負の魔力で劇的に強化したもので、ひとたび飲めば恐るべき速さで内臓が腐敗し、苦悶のうちに死に至るという、圧倒的な威力を誇る。
規格外の魔力で蹴散らせば、呪術的な作用は軽減できるが、それでも核となる菌の影響は免れない。
つまり、どんな高魔力の持ち主でも殺しうる、恐ろしい毒ということだ。
ただしローザは一度吐血こそしたものの、それ以上のダメージは負わずに済んだ。
ラドゥの見立てでは、今彼女は疲労で眠っているだけとのことだが、それはひとえに、奇跡じみた幸運が重なったおかげであった。
まず、癒力者には癒しの魔力が干渉しにくい。
菌の働きを強める魔力は、言い換えれば菌という生命体を育み活性化する力ではあったので、ローザの体内では威力をほとんど発揮することができなかったのだ。
もちろん菌それ自体の脅威はあったのだが、なんとそれは、偶然にもローザが同時に土を飲んでいたことによって、かなり作用が弱まっていた。
ラドゥによれば、一部の菌は炭や土に好んで吸着する性質があり、解毒にもそれらを使うことがあるそうで、魔獣の体内に巣くうものであっても、それは同様なのだろうと言う。
実に、奇跡のような偶然。
いや――少女の性質を考えれば、きっとそこまでを見通したうえで、行動に出たのか。
「ローザの紫の瞳は、いつだって真実を見抜く。そして……それがどんなに危険なことであっても、誰かを救うためなら、向こう見ずにも飛び込んでいく子だから」
一通りの診察を終え、眠るローザを寝台に横たえたラドゥは、固唾を飲んで見守る一同の前でそう告げた。
「自ら毒を飲んででも、王妃陛下の信頼を勝ち取って……そして、寄り添いたいと考えたんだろうね」
と。
そう。
ラドゥは、というよりあの場にいたほぼ全員は、ローザの一連の行動を、「王妃の信頼を得るために、またはかばうために、自ら毒が盛られた紅茶を飲んだ」と受け止めていたのだ。
アントンだけはもの言いたげに身を乗り出したが、少し考えた後で椅子に座り直した。
彼だけは、ローザの行動がくだらない理由によるものなのでは、という予感があったのだが、それをこの場でわざわざ告げるのも躊躇われたためだ。
「そんなことをしなくても、言葉で十分誠意は通じたろうに……」
「いや、でも、もしあのまま王妃陛下が毒を含んで倒れたなら、紅茶を持ち込んだローザが真っ先に疑われたでしょ。自身への疑惑を徹底的に潰すためには、あそこまでする必要があると考えたのかもしれないよね。俺もまあ、考えるくらいならするかな」
「それでも普通は、まず言葉で説明しようとするだろう。ローザが時々見せる奇妙な大胆さには、こちらの肝が冷える」
クリス、ラドゥ、レオンは、口々に意見を述べては顔を顰める。
「そのとおりです、兄上。こんなの、心臓がいくつあっても足りない。僕はいい加減、ローザを本気で離宮に軟禁したくなってきましたよ」
「それについては俺も同意。ただ、本宮の癒術室にっていう選択肢もあるよ」
「奥宮には、歴代王妃が軟禁されてきた部屋というのもあってだな」
「皆さま、落ち着かれてください。非人道的な方法に走るのはよしましょう、ええ」
心配の反動で、クリスたちが据わった目で軟禁を呟けば、青褪めたアントンが震え声で宥めにかかる。
そこにぽつりと、王妃が口を開いた。
「こんな子が、……いるのね」
虚勢もなにも剥げ落ちた、静かな声だった。
「高潔で慈愛深き、薔薇の天使。……その通りだわ。嫌がらせを仕掛ける女なんて、見殺しにしたっていいのに、自らの命さえ投げ出して守り、信頼を得ようとするなんて」
細い指に顔を埋め、くぐもった声で語る。
いつもの堂々と胸を張った姿からかけ離れた、弱々しい様子に、レオンたちは視線を交わし、やがてクリスが切り出した。
「王妃陛下。いえ、……母上。その、ローザが言っていたことは、本当なのですか?」
慎重な声だった。
「母上は、本当は男好きなんかではなく――チューベローズなどではなく、薔薇を愛していて、本当は、友を求めていたというのは」
「…………」
ドロテアはしばし押し黙る。
猫なで声での反駁なら滑らかに紡げる彼女なのに、いや、だからこそ、心からの声の出し方を忘れてしまったようだった。
「……わたくし、昔は乗馬と剣が好きだったわ」
やがて、ドロテアは言葉を掻き集めるようにして、ぽつぽつと語り出した。
「学ぶのが好きだった。魔力も豊富だったから、誰からも一目置かれて。姫君というより、王子のような心持ちでいたわ。いつか母国を、わたくしが統治して導くのだと。誰よりも聡く、心清らかにあって、薔薇に例えられるような高潔な王になるのだと」
思いもかけぬ母親の過去に、レオンとクリスは目を見開く。
だが不思議なことに、抑揚をそぎ落とした声で聞くその告白は、しっくり受け入れられる気がした。
輝く金の髪に、意志の強そうな大きな瞳。
まぎれもなく彼女は、威風堂々たるレオンと、勝ち気なクリスの母なのだから。
でも、と、ドロテアは目を伏せた。
「でも、王陛下に見初められ、この国にやってきた私が最初にされたのは、裸に剥かれることだった。何人もの女官と医師に囲まれて、女としての適性を試されて。奥宮の一室に閉じ込められて、ひたすら王陛下に抱かれるのを……王家の血を継ぐ子どもを宿すのを、待つ」
それこそが先程レオンが言った、「王妃の部屋」だ。
王家の血統にこだわった歴代王は、王妃が孕み、無事に子を産むまで、保護という名の軟禁を強いてきたのだ。
贅沢な家具と豪奢な宝飾品に溢れたその部屋には、しかし知性や人間性を支えてくれるものはなにひとつなかった。
女を飼うための、優雅な檻。
「美しくあれば喜ばれた。ただし、強く、聡くあろうとすれば、途端にいやな顔をされた。そのくせ、王陛下が寵愛を示せば、周囲は嫉妬するのよ。わたくしは常に嘲笑にさらされ、紅茶に泥を混ぜられ、毒を盛られた。侍女を引き離され、あるいは裏切られた。生きるには……わたくしが自分を保つには、心を殺すしかなかった」
清く豊かだったはずの心は、信頼していた侍女が去っていくたびに、薄皮が剥がれるようにして擦り切れてゆく。
今にも折れそうなそれを、ドロテアは泥をなすりつけることによって支えた。
華やかで、傲慢。
色と贅沢に溺れた、苛烈な女。
ああそうとも、自分にはチューベローズで結構だ。
罵られようが、怯えられようが、さも満足げに、鮮やかに咲きほこってみせる――。
「意地になっていたのよ。そうしていないと、自分が惨めで仕方なかった。それに、美しく愚かな女でいれば、周囲は安心したし、毒殺の危険も減った。満足していたわ。でも」
そこで再び「でも」と呟き、ドロテアは眠るローザを見下ろした。
「彼女の噂を聞いたとき、奥底に押し込んでいた怒りが、にわかに蘇ったの」
高潔で慈愛深き薔薇の天使。
誰からも愛される少女と、自分の違いはなんだというのか。
すべての美徳を手放してしまった自分とは裏腹に、なぜこの少女は、手厚く庇護され、穏やかに笑んでいる――。
「この子を、引きずり落としてしまいたくて。だから、茶会であれこれ仕掛けたのだわ。それでも彼女は、けっして折れなかった。……負けたわ。手厚く守られ、太く育った善意の幹には、わたくしの棘など刺さらないのね」
ドロテアはしみじみと、そう呟く。
クリスは黙ってそれを聞いていたが、やがて意を決したように顔を上げ、呼び掛けた。
「いいえ、母上。それは違います」
「え?」
「ローザが高潔で慈愛深いことは間違いない。ですが……それは、彼女が大事に守られてきたからではありません」
それどころか、と告げるクリスは、無意識に拳を震わせていた。
「彼女は……ローザは、ラングハイム伯から虐待を受けて育っていたのです」
「なんですって……?」
「な、なんだって?」
不穏な発言に、ドロテアがぎょっと目を見開く。
アントンもまた、椅子から転げ落ちんばかりに動揺していたが、クリスはそれを、聖職者ゆえの驚きと取り、ごく自然に受け流した。
「今ここでは詳しい経緯は省きますが、ラングハイム伯はローザを疎んじ、食事も十分に与えず、ときに折檻を加えてきたようです。だからこそ、ローザはあんなにも慈愛深い一方で、周囲の男に対して怯える素振りを見せるのです」
――息を潜めて殿方たちを窺っては、身を震わせている。
ローザの発言を思い出したドロテアは、はっとして息を呑んだ。
「わたくしはそんな女」と言い捨てた自嘲的な表情。
あんなにも聡明で美しいのに、始終控えめだった振舞い。
簡単に命を投げ出す向こう見ずさ。
それらがすべて一本の線に繋がった気がした王妃は、クリスの言葉を素直に受け入れてしまったのだ。
「そんな……それでは」
驚異の勢いで広がる「ローザ残酷物語」。
その一端に触れたドロテアが、感染した瞬間だった。
「この子は……そんな状況下にあっても、その高潔さを維持してきたというの……?」
ローザを見下ろす翡翠色の瞳、とうとうそれが、潤んだ。