12.ローザはフラグを回避したい(6)
儚げに立ち尽くすローザ、そしてまるで姫君を守る騎士のように、剣呑な表情でこちらに対峙する我が子たちを見て、ドロテアは忌々しげな溜息を落とした。
いや、レオンやクリスだけでない。
ベルク嫌いと噂されている気まぐれな癒術師はこちらを睨み、人々を等しく愛するはずの神父たちまでもが、焦ったような表情を浮かべている。
実に、気に食わなかった。
(万人から慕われる、高潔で慈愛深き薔薇の天使、ね。……くだらない)
レオンたちが惚れ込むこの少女のことを、ドロテアとて一目見て美しいと思った。聡明だと思った。
弱者のためにドレスを手放し、敵意を隠さぬペトロネラにも嫌な顔ひとつせず、それでいて攻撃される友人を見かねて立ち上がる彼女は、たしかに慈愛深くも見える。
だが、大国の王妃としてそれなりの経験を積んできたドロテアには、そんな完璧な女がいるなど、到底信じられるものではなかった。
いるとしたらそれは、強かな計算のもと成り立った偽りの姿か、そうでなければ、よほど苦労や悪意を知らぬ箱入り娘である。
(さぞ大切に大切に、守られてきたのでしょうよ)
吐き捨てるように、ドロテアはそう思った。
彼女とてかつては、美貌と同時に、その清らかな心根を愛された姫君だったのだ。
善意を信じ、愛を信じ、ベルクの王に見初められたときには、貞淑な妻たることを誓って故郷を離れた。
だが、どうだ。
属国の女が妃となるのを嫌った先王妃から、事あるごとに攻撃され。
気心の知れたと思った侍女は、先王妃によってときに買収され、ときに苛烈ないじめを受け、あっという間にドロテアの元を離れていった。
王が自分に求めるのは金髪と輝く緑の瞳だけ――いや、ドロテア自身すら求められていないのであって、彼が真にほしかったのは、王家にふさわしい色合いをした子どもだけだった。
ドロテアは、美しく装って王を誘い、彼の血を繋ぐ、ただそれだけにしか価値を見出されなかった。
挙げ句、先王妃から授けられた庭は、「娼婦の花」――。
泥をなすりつけられ、それでも平然と笑ってみせるのは、彼女に残った最後の意地だった。
毒と誘惑から身を守るために、脆弱な侍女を遠ざけ、多少なり頑強な小姓を――それも攻撃されずに済むよう、なるべく容姿にも隙のない者を配置して。
有能な部下はえてして主人を裏切るから、敵対する家の者同士をペアにして互いを牽制させ、さらにそれを自分が監視することも忘れない。
息子が平凡な色で生まれれば、王によって切り捨てられる前に、先んじて母国へと逃がし。
娘が王太子競争に加われば、女と舐められぬよう盛り立てつつも、重責に押しつぶされぬよう逃げ道を確保し。
競争から降りた後には、妙な期待を持たせぬよう――女としての受難が始まるのだと理解させるべく、誰よりも先に女らしさを説く。
理解も称賛も、とうに諦めた。
彼女はただ、我が身と我が子を守るだけだ。
だが――そんな苦しみも知らずに、守られて微笑んでいるようであるこの少女が、気に食わない。
まるで、ドロテアが失ってしまったものすべてを、突きつけられるような気がするから。
「外野の御託は結構。あくまでローザ・フォン・ラングハイムに尋ねているのよ。わたくしの淹れた紅茶を、飲むのか、飲まぬのか」
挑発するように口の端を吊り上げてみせたが、ドロテアはふと、少女がまったく怯えていないことに気が付いた。
これだけの敵意にさらされていながら、彼女はじっと、小姓の待機場所あたりを凝視している。
しかもなぜだか突然息を呑み、その紫瞳の色合いをぐっと深めた。
「ラングハイム嬢、聞いていて? 紅茶を飲むの、飲まないの? 飲めないならそれでいい。ただし、今後わたくしの前に二度と顔を現わさないでもらうわ」
「――王妃陛下、それはあんまりです」
怪訝に思いながらドロテアが言い放つと、少女はようやく焦ったような顔をしてこちらに向き直る。
ただ、不思議なことに、こちらに縋るようなその表情は、王子との婚約を妨げられたことよりも、王妃への近接禁止に対して動揺しているかのように見えた。
少女は覚悟を決めるようにゆっくりと瞬きをする。
次に目を開けたとき、潤んだ紫の瞳は、まるで宝石ように澄んだ輝きを宿し、真っすぐにこちらを射抜いた。
「本性を見せよ、と仰いましたね。承知しました。わたくしが今考えていることや、わたくしの後ろ暗い性質、それらを、包み隠さずお話しいたします」
「……なんですって?」
思いがけぬ反応に、出鼻をくじかれる。
だが、少女はドロテアの戸惑いなど意に介せぬように、優雅に遠くを指差してみせた。
「たとえばわたくし、……あの栗色の髪をした小姓と、体格のいい小姓のことなど、非常にアヤシイと思ってしまいますの」
「怪しい……?」
すっと指差された先を辿って、ドロテアは眉を寄せる。
彼女に仕える小姓の中でも、最も有能な二人だ。
敵対する家の者同士で監視をさせ合っているため、小競り合いは絶えないが、だからこそ安心して傍に置けるドロテアの駒たち。
「一見、不仲なように見えるでしょう。友情すら存在しないように見えますでしょう。ですが、わたくしにはどうしても、こう思えてしまう。二人は本当は後ろ暗い思いを秘めており、それを気取られぬよう、あえて敵対的な態度を装っているのではないか、と」
重々しく告げる少女に、ドロテアは意表を突かれた。
つまりこの少女は、小姓たちが叛意を抱き、それを隠していると言っているのか。
「……そんなことを言う人間だとは、意外ね」
唐突な告白、なによりその内容に驚き、思わず呟けば、少女は自嘲するように首を振った。
「そのようなことを考えてばかりですわ。息を潜めて殿方たちを窺っては、彼らは道を踏み外しているのではないか、いや、踏み外しているに違いないと、そればかりを思って身を震わせる。わたくしは、そのような人間です」
「ローザ……」
クリスやレオンが、思わしげに少女の名を呼ぶ。
彼らは、ローザがその悲惨な過去ゆえに、男に怯えていると受け取ったのだ。
だがもちろんローザとしては、これらはすべて、腐のカミングアウトにすぎなかった。
(白状しますわ、王妃陛下。わたくし、あなた様の小姓にさえナマモノ妄想をしでかす不敵な貴腐人ですの。くだんの二人はけんかップル説を推しますの。意外どころか、四六時中そうしたことばかり考えておりますの)
相手の腐敗レベルを測りかねた手前、専門用語を極力省いて話したが、先の発言を翻訳するなら、そんなところである。
腐バレをきっちり済ませたうえで、ローザは一度、息を吐き出した。
ここからが正念場だ。
ローザは覚悟を決め、強く王妃を見据えた。
「そして……あなた様もそうなのではございませんか、王妃陛下」
ドロテアが驚いたように目を見開くのを見て、ますます確信を深める。
「派手好きで殿方がお好き――そんなものは、外面に囚われた浅はかな評価で、本当のあなた様は、色欲に溺れるどころか、少し離れた場所から、様々な想いを巡らせる男性たちを、じっと観察しているのではありませんか?」
「…………!」
王妃が息を呑んだ。
ローザは、やはり、と思った。
(そう……やはり、そうなのですね……!? 王妃陛下も、貴腐人なのですね……!?)
興奮に目が潤む。
心臓が高鳴り、そのぶん顔から血の気が引いていくのを感じたが、ローザはそれを押し殺し、今一歩王妃に向かって身を乗り出した。
「どれだけ隠したおつもりでも、わたくしにはわかります。小姓たちに向ける視線、読書への熱意、ディルタ工房の茶器、隠すように植えられた薔薇の花……手掛かりはそこかしこにあるのですから」
ローザはもちろん、ドロテアが貴腐人である証拠を提示したつもりだった。
なので、まさかそれが「王妃陛下は本当は男好きなどではなく、教養に溢れ、質の高い茶器を選び抜き、高潔の薔薇を好む女性ですよね」と真実を見抜いたような発言に聞こえるとは、想像もしなかった。
思いもかけぬ王妃像を聞いたレオンやクリスが、驚きも露わにドロテアを振り返る。
ローザはとうとう想いが溢れすぎて、興奮のままに髪に挿していた薔薇を引き抜き、ドロテアへと差し出した。
「わたくしは、あなた様を、誰より薔薇がふさわしい、真の貴腐人だと確信しております。そして、どうか……願わくは、陛下からわたくしにも、ほんのひとかけらなり、友情を賜れはしないかと、そう思うのです」
捧げた薔薇は、友愛の印にして、同志の証だ。
この花を契として、王妃と自分は、等しく薔薇神のもとに頭を垂れる、薔薇教の使徒となる――!
熱に浮かされたように、ローザは続けた。
「だって……あなた様は、本当は、友を……あなた様の真の性質を解する人間を、求めているように見えるから……!」
ドロテアが、心の一番柔らかなところを突かれでもしたように、はっと身を震わせる。
彼女は瞳を大きく見開き、ローザのことを見つめ返した。
「なぜ、そん、な……」
ぽつりと漏れる声に、もはや険はない。
代わりに、さまよっていたところにようやく親を見つけた子どものような、驚きと、弱々しさと、切実さがあった。
(手ごたえを感じる……!)
反論がないのを肯定と捉え、いよいよローザはごくりと喉を鳴らす。
ただし、ローザの言葉を信じていいのか、というように視線を揺らす王妃を見て、彼女の友情を獲得するには、今一歩の踏み込みが必要だというのを直感した。
「わたくしの言葉だけでは、信じられませんか? わたくしを友とするには、これでは信用に値しないと? ならば――」
無意識に拳を握る。
実際、王妃には「あたいに近付きたいなら泥紅茶を飲んでみな」と言われているわけで、現状ローザは、それもせず口先だけで語っている状態なのであった。
腐レンドの信頼を勝ち取るためなら、なんでもする。
少なくとも、紅茶を飲まないで王妃近接禁止となってしまうことは絶対避けたい。
(とはいえ、素直にわたくしに出されたカップを飲んで、レオン殿下の婚約者になってしまうのはごめんこうむるから――)
脳内では目まぐるしく思考が渦巻いていた。
行動で覚悟を示せと迫るドロテア。
泥紅茶を飲めば覚悟を示せる。
ただし王子との婚約を回避するには、クイーンズカップを飲んではいけない。
すべての与件をクリアしつつ、彼女の友情を獲得するには?
(ええい、ままよ……!)
ローザは覚悟を決めた。
硬直してこちらを窺う王妃の手に薔薇を押し付け、代わりにガッと勇ましくカップを取り上げたのだ――ローザに差し出されたものではなく、王妃が自身のために注ぎ分けたカップを。
(若干揚げ足取りだけれど、これなら「王妃陛下が淹れた紅茶」であっても、「令嬢に差し出された紅茶」ではないわ!)
泥を入れないと場の主旨に反する気がするので、素早くかがみ、ヒールの底についていた土をえいやと入れてみる。
「な……っ!」
「ローザ!?」
クリスがぎょっとして叫ぶが、なに、腐葉土を製造したときに、研究者気質の彼女は味見として何度か土を食べてみたことがあるので、実はこの程度、なんの問題もない。
ローザの内臓は、腐敗物をよく分解するのである。
(考えてみれば、冬枯れした庭園の土は腐葉土も同然。腐葉土を混ぜた薔薇茶を飲ませる……この行為すらも、腐レンドたりえるかを判定するための踏み絵というわけですね、王妃陛下!)
ローザは制止も聞かず、一気に紅茶を飲み干した。
「ローザ・フォン・ラングハイム……!」
ドロテアが悲鳴のような声を上げる。
ローザは最後の一滴までを飲みつくしてから、静かにカップをソーサーに戻した。
「ローザ!」
『ローザ、このばか……! 早く吐き出すんだ! ほら、口を開けて!』
慌てて肩を掴んでくるラドゥたちをよそに、目を閉じる。
自ら選んだお気に入りの薔薇茶は、砂糖も入っていないのにほんのり甘みを含んでいた。
口の中がじゃりじゃりとしたが、まあそれは個性的な風味だと脳内処理するとして、ローザは、己の唇付近で一つとなったディルタの男たちの想いに思考を馳せた。
(芳しい。実に芳しいわ。愛憎、未練、希望に後悔、あらゆる感情が複雑に絡み合って、甘くも苦く、じゃりりとして、どうしようもなく腐った――)
腐った?
「腐っ、て……?」
飲み下してから、ローザは喉元を押さえた。
なんだろう。
こう、物理的に、すごく腐敗臭というか、えもいわれぬ後味の悪さを感じる。
いや、後味の悪さというより、猛烈な、痛さ――。
「――……ぅ」
不意に胃の腑から熱いなにかがせり上がってきて、ローザは咄嗟に両手で口を覆った。
けぽ、と小さくえづく。
掌に散ったのは、吐瀉物ではなく、血だった。
「…………ぇ」
「ローザ!?」
(あれ? あれれれ……?)
鮮血の色を目にした途端、一気に視界が渦を巻く。
耳鳴りがする。
熱い。寒い。痛い。
気持ちが悪い。
どさり、と耳に届いた鈍い音は、倒れた自分の体が立てたのだと気付くのに、随分かかった。
「ローザ! おい、しっかりするんだ!」
『毒だ! くそっ、誰か水と白湯、それから山羊の乳を!』
「ローザ・フォン・ラングハイム! ……ローザ!」
大騒ぎする人々が、周囲をぐるぐる回っているかのように見える。
どんどん遠ざかる音と光の中で、ドロテアが美しい顔を青褪めさせ、凄まじい形相で背後を振り返るのが見えた。
「そこの小姓を捕らえなさい! さっきローザが指さした二人――栗色の髪と、体格がいい者の二人よ!」
(あれ……?)
おかしい。
なぜドロテアはそんなことを言うのだろう。
漫然とそう思ったが、不意に体を強く抱きしめられたのを感じ、うやむやに溶けていった。
「ローザ、この大ばか者! 嘘だろう、しっかりしたまえ!」
自分を掻き抱く腕は、力強い。
ときめきではなく、懐かしさや安堵を感じさせる、大人の腕だった。
誰だっけ、と朦朧とした意識で思う。
「癒術師殿! 銀に反応しないこの毒は、ただの毒ではない! 症状から見て、恐らく腐毒だ。呪われた魔獣の血から作られる、臓腑を腐らせる、腐毒だ――!」
上ずった声で叫ぶアントンの声をぼんやり聞きながら――ローザはゆるりと気を失った。