11.ローザはフラグを回避したい(5)
「お待ちなさい、ローザ・フォン・ラングハイム」
王妃が呼び止めてきたのである。
彼女は、レオンとクリス、そして青褪めて佇むローザのことを、背筋が凍りそうなほど冷たい瞳で見つめる。
それからなぜか、唐突ににこりと微笑んだ。
「――失礼。わたくし、あなたのことを見くびっていたようだわ。レオンやクリスが見込むほどの子だもの。わたくしも、全力で、向き合わねばいけなかったわね」
「え……?」
話の流れが読めない。
ローザはもちろん、レオンたちもまた怪訝そうに眉を寄せたが、ドロテアはそれを意に介さず、小姓を呼び寄せ、二脚のティーカップを持ってこさせた。
「王妃陛下……?」
「美しく、聡明で、品行方正。慈愛深く、奥ゆかしくて、そこにいるだけで周囲の庇護欲と愛情を掻き立てる。そんな女性がいたなら、この世の誰もが息子の妻にと望むことでしょうね。もっとも――わたくしはそんな人間がいるなんて、信じないけれど」
歌うように告げながら、テーブルの真ん中に置かれていた茶缶の中から一つを取り上げ、紅茶を淹れる。
ローザの持ってきた、薔薇のペタル入りの紅茶だった。
「本音でお話ししましょう。わたくし、あなたのことが、ひどく気に入らないわ。できすぎていて、鼻に付く。よほど後ろ暗い本性でも隠しているのではないかと、疑いたくなるのよ」
剥き出しの敵意に、テーブルがざわつく。
ただし、次に王妃が取った行動にこそ、人々は真に息を呑んだ。
ドロテアは、足元に屈みこんで土を掬うと、芳しい湯気を立てるティーカップ――ローザのカップにだけ、それを放り込んだのだから。
「…………!」
「なにを……!」
「でもね」
声を荒げるクリスたちを、静かに遮る。
女性にしては低いその声は、レオンにすら発言を躊躇わせるほどの気迫に満ちていた。
「これを飲めるのなら、信用してもいいわ。真に清廉な女性であろうが、なかろうが、自分の意志を叶えるために泥を啜れるというのなら、少なくとも芯が強いことだけは、わかるもの。王宮とは伏魔殿のような場所。役割と外聞にがんじがらめになって、それでもなお自分を保つには、芯の強さが必要よ」
ドロテアはそこでくっと喉を鳴らし、いっそ晴れ晴れと微笑みかけた。
「ねえ、ローザ・フォン・ラングハイム。これを飲めば、わたくしもあなたを認めてあげるわ。傍に置き、後見したっていい。どう? 得たいもののために、あなたは濁った泥水を飲み干せるの? あなたの本性を見せてごらんなさい」
壮絶な笑みに、テーブルが凍り付いたような沈黙が落ちる。
だが、我に返ったクリスとレオンが、すぐに牙を剥いた。
「お戯れが過ぎます、母上! そんなものをローザが飲む義理などない!」
「そうです、王妃陛下。いったいなんのつもりです、あなたがローザに報いたいと言ったから、俺たちは体の弱い彼女をこんな場所まで連れてきたというのに」
金の瞳に怒りを浮かべたレオンは、一層苛烈だった。
「わざわざあなたなどに認めてもらわなくても結構。屈辱を与えねば人を測れぬあなたの評価に、いったいなんの意味がある。少なくともこの場で、ローザのほうがあなたよりもよほど芯が強く、優れた女性であると、そう思わない人間はいないでしょう」
彼は、猛る獅子のように、低く告げた。
「国母だと言うのに娼婦の花を与えられ、贅沢と色とに溺れているあなたよりも、ね」
「……それがわたくしへの感想なら、女を見る目がないのね。ますます、あなたの相手はわたくしが見極めてあげなくては、という気にさせられるわ」
対するドロテアも、優雅に眉を持ち上げて応じる。
二人の間で、見えない火花が散った。
(……ええと)
さて、背後をレオンとクリス、斜め後方にラドゥ、そして前方にドロテア、といった布陣に挟まれたローザは、紅茶を淹れられたあたりからパニックに陥っていた。
(待って待って待って、なにがどうしてこうなったの?)
ローザからすれば、自己嫌悪を覚えるほどの完璧な嫌われ者ムーブの末に、紅茶を勧められた格好だ。
それでいて我慢大会のような様相を呈している。
つまり王妃としては、これを飲んでほしいのか飲んでほしくないのか、ちょっとツイストが効きすぎていて、すぐには理解が追い付かない。
(いえ、泥水を本気で勧めることはないでしょうから、陛下としてはやはり、わたくしにこの紅茶を飲んでほしくない……のよね?)
ならばローザとしても、はなから紅茶を受け入れるはずもないので、問題はない。
ただ、無事に自分を嫌ってくれたなら、素直に「こいつきらーい!」と言って済ませてくれればいいのに、なぜこんなまどろっこしいことをするのかと、そのあたりは少し突っ込みたい気持ちにはなる。
どう考えても失態続きの自分を「できすぎ」なんて評してくるところまで含めて、ローザは王妃の考えをさっぱり理解できなかった。
(口調はきついけれど、実はすごく評価の甘い方とか? え、なにそれぷんデレ? 待って、彼女のキャラが全然掴めないわ)
どうも矛盾が多いというか、見た目通りに言動を受け取ってはいけない気がする。
ローザはここにきてようやく、王妃と呼ばれるこの女性がどんな人物なのかを、真剣に考えはじめた。
「ほう、見る目がないと仰る。では聞く耳を持たないのはどちらです? 侍女をすべて下がらせ、見目麗しい小姓たちを侍らせたあなたを、周囲はいったいなんと噂しているか、聞いたことがないとでも?」
「噂がなんだというの? わたくしは、王陛下にやましいことなど、なにひとつしていないわ」
レオンとドロテアは、互いに睨み合いながらの応酬を続けている。
それを聞き、ローザはふと首を傾げた。
(……そういえば、実際のところ、王妃陛下って男好きな感じではないわよね)
実は、小姓を観察していたローザは、王妃に対してそんな印象を抱いたのだ。
色狂いと呼ばれた父親を実際に目にしていたからこそ、ローザにはわかる。
本当に色欲に溺れた人間というのは、場所も時間も弁えず、じっとりとした視線を絶えず異性に向けるものだ。
だが、ドロテアは色気こそ溢れているものの、小姓に対して誘いかけるような表情を、一度たりとも浮かべてはいない。
むしろ、どの小姓に対しても等分に距離を置き、少し離れた場所から、時折彼らを観察するような、そんな視線を送っているようにさえ見えるのだ。
(麗しい小姓たちを、観……、察……?)
ローザははっとした。
女が麗しい男たちを観察する。
そこに色欲がないのだとしたら、それはいったいどんな意味を持つ行為であろうか。
(まさか……王妃陛下……?)
どくりと心臓が跳ねる。
アントンとの一件で、絶望しながら地中に葬った「腐レンド」の文字が、今にわかに土をもたげるのを感じた。
ふと、それまでなにげなく見過ごしていた情報が、ずしりと重みを増して蘇る。
攻め攻めしい騎士が登場する本の購読を「女の楽しみ」とまで言い切った王妃ドロテア。
工房に特注した菓子は、薔薇の花弁入りだった。
チューベローズに紛れて、まるで隠すように咲いていた白い薔薇。
なにより、ペアを組ませた小姓たち。
彼らが囁き合ったり、笑い合ったりするたびに、さりげなく観察の視線を寄越していた彼女。
さらにそこに、突き出された紅茶のカップを改めて見て、ローザは声もなく息を呑んだ。
ディルセン工房製。
ローザお気に入りの茶葉を手掛けた茶師が、元々勤めていた工房だ。
出奔した青年の作った茶葉と、残された青年の作ったカップが、今ここで運命の再会を果たしている。
(こ……っ、これは単なる偶然? それとも……!?)
だめだ。
一度疑いはじめると、なにもかもが黒く、いや、薔薇色に見える。
カップを凝視するローザの脳裏に、王妃の言葉が次々とリフレインした。
――役割と外聞にがんじがらめになって
――後ろ暗い本性
――わたくしが見極めてあげなくては
もしや、ドロテアこそが、王妃という役割や、男好きというイメージに隠された、本当の姿を隠し持っているのではないか。
同時に、彼女はローザの腐った本性に勘付き、必死にそれを見極めようとしているのではないか。
――本性を見せてごらんなさい
そして、
(もしや王妃陛下は、わたくしが腐レンドたりえるかを試しているのでは……!?)
ローザはぐっと瞳の色を深め、目の前の王妃を食い入るように見つめた。