10.ローザはフラグを回避したい(4)
(叔父様がわたくしに合図してくることはない。つまり、順調ということね)
一方、ローザはといえば、マティアスと話し込むアントンの姿をちらりと見やって、こっそりと胸をなでおろしていた。
ローザが空回りしたらフォローすると請け負ってくれたアントン。
そんな彼が会話を楽しんでいるということは、つまり現状問題なしと取っていいだろう。
(うまくやれるかと緊張していたから、よかった。わたくし、頑張ったわ)
ローザはご満悦で、ここまでの自分を振り返る。
遅刻、ドレスコード違反、会話放棄にマナー違反。
バリエーションに富んだ、多角的かつ完璧な嫌われ者ムーブだ。
先程からクリスはやたら顔を強張らせ、しきりと「おい、ローザ。もういい、もう帰ろう」と小声で促してくるし、レオンやラドゥからも、ちらちらともの言いたげな視線を感じる。
これは相当、自分がやらかしていることの証左だろう。
(ドン引きさせてごめんなさい、皆さま。けれどわたくし、最愛のベルたんを裏切ることだけはなんとしても避けたいのです……!)
腐った自分でも受け入れてくれたレオンやラドゥ、クリスたち。そんな彼らに、こんな残念な姿を見せつけねばならない状況をローザは悲しく思う。
けれど、万が一ローザがレオンの婚約者候補などに収まってしまったとして、それを聞いたベルナルドが、あの青い瞳から涙を一粒こぼしでもしたらと思うと、ローザの心臓は千に引き裂かれそうになるのだった。
(ダメ……! それだけはダメ! 殿方が泣いていいのは三度だけ。生まれたときと、母君を亡くしたとき、そして理想の「攻め」と結ばれたときだけよ……!)
そう、「受け」を泣かせていいのは「攻め」だけなのだ。
ローザは気を引き締め、今度は騎士モノ恋愛小説の話題で盛り上がりはじめた令嬢たちから、静かに視線を逸らした。
大人気の本だと言うが、タイトルは聞いたこともなかったし――男女間恋愛っぽい名前だと、あまり食指が動かないのだ――、渡りに船とばかりに黙り込む。
(そんなことより、王妃陛下の小姓たちって、皆さまなんてハイレベルなのかしら)
と、逸らした視線の先で、きびきびと働く職業男子の群れを見つけてしまい、ついそちらに意識を取られた。
優美系、ガテン系、子犬系、やんちゃ系。
各種美少年が取り揃っていて、しかも二人一組で行動しているので実に妄想が捗る。
特に、栗色の髪をした釣り目の小姓と、体格のいい小姓の組み合わせが、けんカップルっぽくて実によい。
(ふふん。さすがのローザ・フォン・ラングハイムも、新刊の話題にはついてこられないようね。いい気味だわ)
一方、すっかり口を閉ざしてしまったローザを見て、意地悪い笑みを浮かべたのは、誰あろう、ペトロネラ・フォン・ヒューグラーであった。
彼女はローザのせいで離宮を強制退去させられるわ、子分のアリーナを反抗させられるわで、恨みが積もり積もっていたのである。
よって彼女は、ここでローザに身の程を弁えさせるべく、聞き役に回っている相手を、強引に会話の輪へと引き入れた。
「ねえ、ローザ様。ずっとお黙りになってどうなさったの? まさか、今、王都中で評判の『石塊の騎士と愛の姫君』を、お読みになったことがないとは言わないでしょう?」
「まあ、ペトロネラ。そんな風に言うものではないわ。王都ですら品薄で、ある程度の伝手がないと買えないのですもの。ラングハイム領から出てきたばかりの、お父君もいらっしゃらない彼女にそれを求めるのは、少々酷というものよ」
すかさず、王妃が窘めるふりをしながら、さらりと追い打ちをかける。
見かねたクリスが、「意地悪を仰いますな」と割って入った。
「ローザは、登城してからこちら、ずっと僕に熱心に仕えていて、とても城外に本を買いに行くような時間はないのです。浮かれた恋物語の感想をまくし立てる時間もね」
「まあ、クリス。それは女主人としてのあなたの資質が問われることだわ」
だが、忙しさを理由にフォローしたクリスに、今度は王妃が反論する。
彼女は美しい眉を片方だけ持ち上げ、わずかに首を傾げてみせた。
「ラングハイム嬢はあなたの侍女であり、友人であるはず。なのにあなたは、上等な菓子や話題の恋物語、そうした女の楽しみを一切与えずに、相手を鄙びた存在に貶めてきたというの?」
「…………っ」
これにはクリスも顔を歪める。
王妃は、ローザにかこつけて、いまだに「女らしい」振舞いをしないクリスのことを非難しているわけだ。
クリスの男装には、娘を道具としかみなさぬ母親への反抗の意味があった。
それを欠片も解さず、しかも大切な友人のことまで「田舎者」と言い捨てたドロテアに、クリスは拳を握り、頬を紅潮させた。
それを見て勝利を確信したペトロネラは、ねちねちとこの話題を続けることにする。
彼女は扇を開いて、わざとらしく溜息をついた。
「ああ、残念。まさかローザ様が話題の本すら嗜まれない方とは思いませんでしたわ。わたくし、連日王城図書室に通うほどの才女だというローザ様なら、『メルゴの謎』を解説してくださるのではないかと、楽しみにしていましたのに」
「メルゴ……?」
その名を聞き取ったローザが、目を瞬かせる。
主人公の名も知らないのだ、と、いよいよ愉快になったペトロネラは、厭味ったらしい猫なで声で解説してやることにした。
「いやだ、主人公の名前ですわ。岩を操る精悍な騎士メルゴと、美貌の姫君エーファ。王都の人間で今この名前を知らないなんて、恥もいいところですわ。よくって、『メルゴの謎』というのはね、エーファ姫が敵に襲われた瞬間、それまで無敵を誇っていたメルゴが、突然灰になって死んでしまうラストのことを言うの。わたくしたち読書通の間では、宗教的な意味があるだとか、打ち切りになって無理に話を畳んだだとか、いろいろな説が持ち上がっていて――」
「ああ、『エメスの死』のことですね!」
だが、ペトロネラ渾身の「解説」は、ローザの軽やかな声で打ち破られた。
見れば彼女は、どこかすっきりしたような顔で、両手を打ち合わせている。
「登場人物の名前を聞いて、皆さまがなんの本で盛り上がっているのか、ようやくわかりました。その作品は恐らく、原題では『エメスの死』と呼ばれる小説のことではありませんか?」
「え……? 原題……?」
「ええ。わたくし、クシュマル語版のオリジナルならば、数年前に読んだことがあります。ベルクでも翻訳されはじめていたのですね。寡聞にして知りませんでした」
照れたように微笑むローザに、その場の誰もが度肝を抜かれた。
そう、実は彼女は、かつてクシュマル語を猛勉強した際、かの言語の小説を片っ端から読み漁っていたのだ。
「エメスの死」は、姫君との恋愛要素はさておき、攻め攻めしい主人公のキャラ造形が素晴らしく、また、地の文章も秀逸な良作だと記憶していた。
「なにしろあの作品は、言葉遊びが多いではないですか。きっとベルク語ではわかりにくいだろうなと思っていたので、翻訳されたということ自体が意外で」
「こ、言葉遊び……?」
今ベルクで大人気の作品を、すでに数年前、それも外国語で読んでいたという少女に、ペトロネラはざっと青褪める。
呆然と反復した彼女に、ローザは無邪気に答えた。
「ええ。ほら、例えば題名にもなっている、ゴーレムに命を吹き込む呪文。原文だと、「真理よ宿れ」なのですが、エメスとはラティア語で『真理』という意味で、頭文字のEを失うとメス、つまり『死』の意味となりますよね」
「え」
なりますよね、と言われても、難解な古典を一般的な令嬢が嗜んでいるはずもない。
「だからこそ、最愛のE、つまりエーファ姫を失ったメルゴは、ゴーレムと同様、石くれと化して死んでしまうのですけど、そのあたり、訳者がきちんと配慮しないと伝わりにくいだろうなぁって」
「えっ」
「そもそもを言えば、メルゴとは、ゴーレムのアナグラムであることとか。つまり、騎士メルゴの正体がゴーレムであることを冒頭から暗示しているわけですが、それも、ベルク語だと、若干わかりにくいですものね?」
「…………!?」
「あとは、エーファというのは、ラティア語で『命』という意味で、だからこそエーファを失った瞬間、物理的にも命を落とすという点とか。よくできているとは思うのですが、だからこそ、わたくしはやはり原書で読んだほうが面白いかな、などとも思い――」
多数の言語に通じたからこそできる深い解釈に、クリス以下、皆がしんと静まり返る。
特に、「メルゴの謎」について、自身がまるで見当違いの解釈をしていたのだと思い知ったペトロネラは、青褪めて身を震わせていた。
(あ……あらっ?)
なんだか皆の様子がおかしいとローザが気付いたのは、そのときだった。
(な、なにかしらっ、この地獄のような静けさは!?)
慌てて自分の言動を振り返ってみて、ある恐ろしい可能性に思い至る。
(腐妄想に没頭していたところに話しかけられたから、考えなしに返してしまったけれど……もしやわたくし、ものすごく盛大なネタバレをしてしまったのでは……!?)
そうとしか考えられなかった。
でなければ、ちょっとした小説トークをしただけで、なぜここまでぎょっとされるのか。
「あ……っ、ああ、あなた……っ」
かわいそうに、ペトロネラなど涙目になっている。きっと、大切に読み進めていたのだろう。
どうやらベルクでは最近発売されたばかりのようだし、ラストまでたどり着いていなかったのかもしれない。
(わたくし、なんという最低な所業を!)
ネタバレ――それはローザからすれば、人類における禁忌中の禁忌。
自分がされたなら一生相手を許せない、おぞましい行為だ。
いくら嫌われ者ムーブに徹するのが今日の目標だったとしても、目指したのは「失敗」であって「悪行」ではない。
いや、これは花泥棒すら超える悪行、もはやれっきとした犯罪と呼んでよいのではないか。
ローザは苛烈な罪悪感に、ぶわっと冷や汗をにじませ、
「あの……申し訳ございません、出過ぎた発言でした……」
小さな声で謝った。
もちろん実際には、ネタバレを異様に気にするローザの価値観がおかしいだけで、その行動にはなんの問題もない。
むしろ観衆は、最先端のさらに先を行く知性を見せたローザに、感心し、圧倒されているだけである。
あえて問題を指摘するならばそれは、聡明さを発揮した後に恐縮してみせるローザの姿が、「本当は目立ちたくなかったのに、大切な友人が馬鹿にされたので我慢できず本気を見せました」という奥ゆかしい少女にしか見えないことくらいだろうか。
(ローザ! おぉおおおおおいイイ!)
男性用テーブルでは、アントンが眼鏡の奥で白目を剥きかけていた。
「――くっ」
と、その場に艶やかな笑い声が響く。
こぶしを口に当て、肩を震わせたのは、ベルク王国王太子、レオンであった。
「これは見事」
彼は獅子のようにしなやかな身のこなしで立ち上がると、ゆっくりと女性用のテーブルに近づいてくる。
だらだらと冷や汗をかいて硬直しているローザの後ろに回ると、王妃たちを皮肉気に見据えながらその髪を掬い、口づけを落とした。
「こんなに愉快な茶会は初めてだ。もっと話をしてやったらどうだ、ローザ?」
(さらに茶会を混乱のるつぼに叩き落とせと仰るの!?)
いいぞ、もっとやれと笑うレオンに、ローザは衝撃を受ける。
(さては殿下、ベルたんとの仲を引き裂く茶会を勝手にセッティングされたこと、相当怒っていらっしゃるのね……!?)
復讐のためなら禁忌すらためらわぬ非情さに、空恐ろしいものを覚える。
いや、ベルたんのためならば自分もこの域まで非道を極めねばならない、だがしかしさすがにネタバレは。
ローザの心は千々に乱れた。
(でも、でも、すでにいろいろ手は尽くしたし、……もう「茶会で大失敗をする」というミッションは十分果たしたのではないかしら)
最終的に良心の呵責に耐え切れず、そんな結論に至る。
「あの……わたくし……。気分がすぐれないので、失礼させていただきたく……」
だが、席を立ち、踵を返そうとしたローザを、思わぬ展開が襲った。
「お待ちなさい、ローザ・フォン・ラングハイム」
王妃が呼び止めてきたのである。