8.ローザはフラグを回避したい(2)
さて、それより遡ること数分。
アントンは穏やかな笑みの下から、向かいに座るレオンやラドゥのことを、哀れんでいた。
(やれやれ、あのお嬢さんは、随分と男をたらし込んでいるようで)
それというのも、席に着く少し前から、ローザのことで盛り上がる彼らの会話に耳を澄ませていたアントンには、彼らがどれだけローザに心を砕いているかがわかってしまったからだ。
レオンは文武両道、魔力にも長け、その優れた美貌から、国中の令嬢から好意を寄せられる大国の王子。
ラドゥも、これまでにアントンが聞いた限りでは――神父という職業柄、彼は情報収集が得意だった――、異教徒ながら優れた癒術の腕を持ち、今や王城内での信頼を集めはじめているという。
その二人から思いを寄せられるとは、なかなかのことだ。
(違う、三人か)
ローザを見つめるベルナルドの瞳は、異母弟という身分を越えるほどの熱を帯びていたように思われた。
いや、実のところアントンは、とある事情から、ベルナルドとローザが、半分どころかまったく血が繋がっていないことを知っている。
(……それでも、いや、だからこそ、私は君を応援することはできないのだけどね、ベルナルドくん)
アントンは、この場に参加できず歯噛みしていたベルナルドのことを思い出し、ひっそりと唇を苦笑の形に歪めた。
彼はその鋭い観察眼でもって、ベルナルドが見かけ通りのあどけない少年ではないことを見抜いている。
むしろあれは、ネコ科の幼獣のように、外見だけは愛くるしいが、獰猛で肉食の生き物だろうと踏んでいた。
そんなベルナルドも、今回アントンが茶会妨害計画に協力を申し出たことで、かなりこちらに好意的になっていたのだが、しかしアントン自身としては、ベルナルドの恋路を応援するつもりはさらさらない。
だから、ベルナルドの恋情を、ローザに理解させるなどの野暮はしないのだ。
彼はあくまで、彼の目的のために、ローザの婚約を潰すのだから。
その「目的」自体もいくつかあるが、
(やはり、ローザ。ローザはいい。百年、いや千年に一人の逸材だ。男を宛てがうなんてナンセンス。彼女を百合的に開花させないなんて、人道にももとる愚行だ)
本能に根差した部分で言えば、そこに尽きた。
そう、久しぶりに再会したローザは、身内の欲目を差し引いても、理想が服を着て立っているような美少女だったのだ。
陽光を丁寧に紡いだような金の髪。白い肌はミルクのようで、紫の瞳は繊細な宝石のよう。
抑揚の効いた声は小鳥のさえずりのように耳に心地よく、品のにじむ立ち姿は、まるで下界に天使が顕現したかのようだった。
一見品よく澄ましているくせに、騙されやすかったり、妙なところですっとぼけている様子も好ましかった。
彼は思う、ローザにはドジっ子の素養があると。
(ああ、私はずっと探していたのだよ、理想の『妹』を。繊細で、あどけなくて、庇護欲をくすぐる感じで。でも意外に芯が強くて、歩くだけで『姉』がほいほいされていくような、そういう美少女を……)
どこかの誰かとそっくりの欲望を内心で叫びながら、アントンはテーブルの下でひっそりと拳を握った。
養護院で数多くの少女たちと出会いながら、いや、だからこそ「いるはずがない」と諦めかけていた「プティ」の新星。
だが、いた。それもまさか、こんな身近に。
歌劇場で再会を果たしたとき、アントンは密かに歓喜した。
そしてそれ以上に、ローザもまた百合に目覚めたのだと思って興奮した。
もっとも、その喜びは数分のうちに打ち砕かれたが。
修道院時代、体重を落としてからというもの、同僚の男たちに迫られ続けたアントンにとって、薔薇とは禁忌であった。
(ローザの、あの薔薇趣味には閉口するけれども。それでも見た目や、表面的な言動は文句なしの美少女だ。腐りきった中身は、おいおい「帰化」させればいい。むしろ、ノンケが百合堕ちするのだと思えば堪らない。私としては、なんといっても、クリス殿下とのカプを強く推したい。未来永劫ゆりゆりしてしまえばいい)
アントンからすれば、強気男装僕っ子美少女と、見た目おっとり系年上美少女の組み合わせは至福であった。
実年齢と姉妹関係が逆転しているのも実によい。
そして、それを実現するためには、ローザにはいつまでも清らかでいてもらう必要があった。
男との婚約なんてもってのほか、相手からの恋情を自覚して「どうしよう、レオン殿下がわたくしを……?」などと甘酸っぱいアオハルを演じられるのすらごめんである。
それもあってアントンは、鈍すぎるローザに呆れながらも、けっして彼女に「君、男たちからモテていますよ」とは伝えないのだ。
そんなこととは露知らず、目の前の男たち、とくにレオンは、ローザの登場を心待ちにしているようだった。
その脳裏には、美しく着飾った理想の少女が映っているのだろう。
だがアントンは礼儀正しい佇まいの下で、こうほくそえんだ。
残念。
ローザは、これから君たちの理想像をめちゃくちゃに引き裂くのですよ、と。
既にローザには、アントンからいくつかのアドバイスを与えている。
ドレスコードを無視すること。
始終つまらなそうに、とっつきにくく振舞うこと。
食事や飲み物はがつがつ平らげ、下品さを強調すること。
いざとなれば、空気を読まずに腐トークを炸裂させることなどがそれである。
ローザはそれらの忠言を熱心にメモし、「わたくし自身でもよく考えてみます」と真剣な顔で言ってくれた。よほどこの婚約フラグを叩き壊したいのだろう。
目的が一致さえすれば、ローザというのは意欲的で真面目な、教師からは実に好ましい生徒だった。
(あの子はどうも根が善良みたいで、うまくやれるか心配したけれど。王妃陛下の茶会に遅刻してくるなんて、なかなかの滑り出しだ。あとは、思い切りドレスコードを外した服装でも披露すれば、かなりの悪印象かな)
アントンはふむ、とご満悦で頷く。
ローザにはクリスたちから豪華なドレスが用意されているが、例えばその厚意を踏みにじって、みすぼらしい格好でもして登場すれば、さぞ――。
(――……んっ?)
だがそこで、アントンはばっと顔の向きを変え、テーブルに着く女性たちを改めて凝視した。
そして、ようやく気付いた。
なんか、地味じゃない? と。
(……待ちたまえ)
庭園の向こうから、神父を連れた王妃がやって来る。
彼女もまた、青鈍色の地味なドレスをまとっているのを見て、アントンは嫌な予感を覚えた。
レオンたちとは真逆を向いた、嫌な予感である。
どうも今日の茶会は、予想された華美なファッションショーとは趣を変えて、清貧さを競う会と設定されたらしい。
たどり着いたドロテアが、そんなことを話している。
令嬢たちや、クリス、そしてレオンの表情から察するに、これは王妃の嫌がらせだろう。
愉快そうに空席を見つめていることから想像するに、ローザの遅刻も彼女の差し金なのかもしれない。
事情はわからないが、彼女はローザに、この茶会で恥をかかせたいのだ。
つまり、ローザは王妃に攻撃されるために茶会に招かれたわけであり、べつに、嫌われる努力などする必要はなかったのだ。
だというのに。
(たしか、ローザ、今日は仕立てられたドレスの代わりに、一番古くて地味な、みすぼらしいドレスを着てやると、言っていたような……)
ローザはむしろ、無駄な努力の末、かえってドレスコードにばっちりと寄せてしまったことになるのではないか。
(……いや、落ち着こう。ドレスコードを守れても、それはマイナスにならないというだけで、プラスにはならない。遅刻の失点は返せない……!)
アントンは自分にそう言い聞かせたが、その努力を打ち砕く声が、背後からかかった。
「あら……っ?」
遅刻寸前のタイミングで登場したその人物は、ローザである。
なぜかメイン通路ではなく、庭園の小道から現れた彼女は、可憐な瞳を大きく見開き、口元を両手で覆っていた。
驚いているようである。
だが、その場に居合わせた一同こそが、ローザの姿を見て驚愕に息を呑んだ。
彼女が、あまりに美しかったからである。
身にまとったドレスは、まるで喪服のような薄墨色。
けれどそれは、みすぼらしさを感じさせるよりもむしろ、透き通るような肌の白さや、輝くばかりの金髪を、これ以上ないほどに引き立てていた。
腰も絞らず、レースや刺繍といった装飾すらないシンプルなドレス。
だが、だからこそ、なにげなく覗く鎖骨の繊細さや、腰のほっそりとしたシルエットを、かすかな色気さえ乗せて強調している。
髪は編みもせずに下ろされ、耳の後ろに、まるでふと思いついたというように、いまだ露を湛えた白い薔薇が一輪だけ挿してあったが、その無造作さが、かえって計算を越えた洗練を思わせた。
まさしく、別次元。
俗世の美醜に囚われぬ、清廉なる薔薇の天使が、そこにいた。
「――わたくし、もしかして、出遅れてしまったのでしょうか」
困惑を多分に含んだ、けれど鈴のように美しいその声で、アントンは、ようやく我に返る。
それから、ひくりと唇の端を引き攣らせた。
(待ちたまえ、ローザ。君、遅刻しようとしたわけではないのかい……?)
ローザは、即座にクリスによって「いいや、問題ない」と擁護され、素早く着席させられている。
「よかった、ローザ。遅刻したのかとひやひやしたぞ」
「いえあの、遅刻というよりも……いえ、ところで、皆さま本日は大層シックな装いでいらっしゃるのですね。これは少々予想外……」
「いいや、ローザ。おまえには敵わない。おまえが一番だ」
戸惑い気味に呟くローザを、クリスが熱っぽく褒め上げる。
解釈に悩んだように眉を寄せるローザを見て、アントンは、笑顔のままぴしりと固まった。
(そして君、なんで、そんな地味な格好で優勝してしまえるのだい……ッ!?)
ああ、身内として、しかも薔薇趣味によるマイナス補正で、彼女の美貌の威力を見誤っていたのだ。
まさか、あんな貧相なドレスを、かえって洗練の極みのように着こなしてしまうだなんて。
(なにか、すごく嫌な予感がする……)
アントンは――そう、アントンだけは、ローザの思考を正確に理解できる。
おそらく彼女は、アントンの助言を取り入れ、厚意を踏みにじるために、仕立てられたドレスを無視したのだろう。
みすぼらしく装うために喪服のようなドレスを着たのだろう。
奇抜なセンスを発揮すべく、宝石の代わりにそのへんの薔薇をむしって髪に挿したのだろう。
なのに、この状況下、それがことごとく反対方向に作用するだなんて。
――姉様、ちゃんと人に嫌われるように振舞えますか?
ふいに、不安げなベルナルドの声が蘇る。
なんとなくそれが、予言のように思われて、アントンはじわりと冷や汗を滲ませた。
(え、これ、ここからあと二時間も続くのかい……?)
茶会は、始まったばかりだった。




