4.ローザは百合に打ち勝ちたい(1)
「ローザ、喉が渇きませんか。クリス殿下が政務からお戻りになる前に、一足先にティータイムの準備を始めましょう」
初冬の穏やかな陽光が差し込む、昼下がりの離宮。
上等な調度品に囲まれながらも、それにまったく恥じぬ品を湛えた美貌の神父――アントンが、静かに声を掛けた。
「まあ、アント……アントニー神父様。あなた様の手を煩わせるには及びませんわ。クリス殿下のお心を慰める役割は、あくまでわたくしに命じられたもの。その喉を潤すお茶の用意も、当然わたくしがすべきなのですから」
すると、まるで天使のような美しさをまとった少女――ローザも、楚々と立ち上がり、部屋の飾り棚の上段から、茶器や茶葉の類を選びはじめる。
白くほっそりとした手は、迷いなく薔薇の花弁入りの茶葉を選び取ろうとしていたが、それを、優雅な裾捌きで腕を上げたアントンが制止した。
「いいえ。小柄なレディに背伸びをさせてまで働かせるなど、とうてい許されることではありません。どうぞ私に、小さき淑女から苦役を遠ざけ、笑顔を守る栄誉を」
そう言う彼は、さりげなく棚の下段に加えられた百合の香りの茶葉を選び取ろうとしていた。
「さあ、ローザ。私にお茶を淹れさせてください。ぜひとも振舞いたいお茶があるのですよ」
「奇遇ですわね。わたくしこそ、ぜひ神父様に召し上がっていただきたい茶葉がございますの」
両者、清廉な美貌に笑みを湛えたまま、見つめ合う。
傍からは、働き者で思いやり溢れる美男美女が、互いを思い合っているようにも見えたが、その実態としては、
「……四の五の言わず、さっさと私の淹れる百合茶を飲みなさい。香気の強い茶を摂取して、君とクリス殿下が同じ香りをまとうに至るシチュのすばらしさが、なぜわからない?」
「笑止。神父様こそ四の五の言わず、薔薇茶をお飲みくださいませ。イケオジとぷんデレ殿下が、ともにポットに残った薔薇の花びらを数える様のほうが、絶対正義に決まっていますわ」
単に、薔薇や百合を追求する狂信者の対決にすぎなかった。
二人は麗しい瞳を細め合い、やがてふいと視線を逸らす。
そして同時に「ちっ」と小さな舌打ちを漏らしながら、中段にあった普通の茶葉を、無造作に掴んで準備台に投げ置いた。
アントンが離宮にやって来てから、すでに三日。
二人は顔を合わせるたびに、こうして互いを互いの沼に引きずり込もうとしては、仕損じているのである。
(くっ、今日こそは叔父様に、薔薇成分を経口摂取していただこうと思っていたのに……!)
飾り本棚の前に移動し、男性主人公の小説が目立つようさりげなく位置を調整しながら、ローザはぐぬぬと歯噛みした。
なにせ今日のために仕入れた薔薇茶は、とっておきのいわくつきだ。
今では高名な男性茶師が、幼馴染の男性のために育て、捧げた茶葉なのである。
なんでも茶師の男性は、もとはディルセンという有名な陶器工房に、幼馴染とともに勤めていたのだが、彼を裏切るような形で工房を飛び出し、茶師の道を進んだらしい。
だが、幼馴染への想いは断ち切れず、「いつか、あいつの作るカップで、俺の作った茶を飲んでもらえれば」との願いを込めて、友人の名を冠した茶葉を育てたとのこと。
なんとも多方向に芳しい茶葉である。
その香り高さを楽しみ、由来を語ることで、薔薇のすばらしさを味覚的にも物語的にも味わってもらおうと思っていたのに。
(薔薇教帰化を促すどころか、わたくしの百合汚染阻止が精いっぱいとは、なんたる強敵)
そう。アントン薔薇教帰化計画は、難航していた。
というのも、ローザがアントンに薔薇のよさを教え込もうとするのと同じだけ、相手もまた百合のよさを刷り込もうと仕掛けてくるからである。
気が付けば、クリスと髪の結び合いをするよう仕向けられていたり、服をお揃いの色にするよう誘導されていたり、席を近付けられていたり。
まあ、ローザもアントンに対し、ベルナルドやクリスとの間接キスを誘導したり、同じセリフを言わせたり、顔を寄せさせたりしているので、この勝負は互角だと信じたい。
(ベルたんは男の子だから、叔父様の魔手が伸びることはないけれど、クリス殿下は、そういえば女の子。うっかり百合に染められてしまわぬよう、わたくしが守って差し上げなくては。当面は、相手の帰化より、百合化阻止を優先すべきね)
ローザはこっそりと拳を固める。
もうすぐ政務を終え、茶休憩に戻ってくるだろうクリスの姿を思い描きながら、三日前のことを思い出していた。
「え? 彼――アントニー神父を数日間離宮に逗留させたい?」
三日前、歌劇場から帰ったローザたちを、クリスは時計とにらめっこしながら待っていた。
燃える本があれば火の中に飛び込み、病める民があれば癒力を揮って気絶するローザを、クリスはかなり心配しているらしく、門限を一分でも越えれば、やはり向こう一年は外出禁止にしようと息巻いていたそうなのだ。
なんとか門限内に帰れたことにほっとしつつ、ローザがアントンを紹介すると、クリスはその猫のような瞳をぱちぱちと瞬かせた。
なお、上級神父の資格を持つのはあくまで「アントニー」という人物なので、ローザたちは帰りの馬車内で、彼を叔父のアントンではなく、あくまでアントニー神父として遇することを決めており、そのように紹介していた。
眼鏡以外はろくに変装もしていないし、あっさり見破られてしまうかな、とも懸念したのだが、驚くべきことに、門番も守衛も離宮付き騎士も、そしてクリス王女も、アントニーが「百合豚アントン」であると気付くことはなかった。
上級神父の身分を保証する紋章や聖衣服を見せたことも大きいだろうが、やはり一番の要因は、この劇的な外見の変化だろうと、ローザとしては思っている。
とにかく、そうした経緯で、離宮逗留においてアントンに身分上の問題はなかった。
あとはクリスの心ひとつ。
嘘や悪意を嫌う王女殿下に、ヨコシマ極まりない本性を見破られたらおしまいだな、と内心気を揉みながらの目通しとなったのだが、実際、クリスは最初、難色を示した。
「見せてもらった身分証は本物だ。母上をはじめ、王族の多くは『お抱え神父』を世話して、慈善行為のひとつとしているわけだから、もちろん僕の離宮に神父を逗留させることは、問題ない。むしろ、戒律の厳しいと評判の、聖ユリアの神父を受け入れるのは、歓迎すべきことですらあるが……」
そこで彼女は、少年のように短く切り揃えた己の髪に触れ、皮肉気に肩を竦めた。
「聖ユリアの教えは、ベルク正教のものより一層厳格に、婦女子に貞淑を求めるものだろう? むしろ神父殿のほうが、僕のような者の住まいに留まるのをよしとしないんじゃないか」
クリスは、いまだに少年のように振舞う自分を受け入れられるものかと、そこを懸念したようである。
「僕だって今や、求められる『王女』像にいたずらに反抗したいわけでもない。だけど、外野から指図されるのではなく、自らの在り方は自らで、時間をかけて決めたい。たとえ敬虔さに基づいたものであっても、貞淑や『女の幸せ』といった諭しは、僕には効かないだろう。神父殿には悪いが、な」
要は、「女らしくしろ」と説教してくる神父ならごめんだ、ということである。
ローザはクリスの言葉を聞いてはっとし、今までそうした反応に思い至らなかった自分の頬を殴りつけてやりたくなった。
(なぜ気付かなかったのかしら! 殿下のお言葉もごもっともだわ。殿下の男装を排し、理想のぷんデレ美少年ぶりを解除してしまうなんて、人類の損失。人道にも悖る愚行よ……!)
もちろん、後悔の八割は、「なぜクリスの複雑な心情を慮れなかったのか」ではなく、「なぜクリスの男装に対する反抗勢力を引き入れてしまったのか」という点にあったのだが。
やはり二兎を追うのはいけない。
慇懃系眼鏡イケオジとベルナルドの絡みは、すごくすごく見たかったが、なんならレオンやラドゥとだって掛け算させてみたかったが、引き換えに、ぷんデレ美少年を失ってしまったら、ローザは死んでも死にきれない。
ここはやはり、翻意のそしりを受けてでも、アントンの離宮逗留はなかったことに――。
と、ローザが悲壮な覚悟を固めたそのとき、隣で異変が起こった。
それまでずっと、礼儀正しい沈黙を守っていたアントンが、突如として床に頽れたのである。
「…………!?」
いや、膝から崩れ落ちたように見えて、その実、彼は床で跪拝のポーズを取っているのだった。
握った左拳の親指の付け根を額に押し当て、右の拳は胸に。天からの祝福を額に押しいただき、胸から溢れる天への忠誠を捧げるという、聖職者特有の姿勢だ。
(なにゆえ跪拝!?)
ローザは慌ててアントンの傍に跪く。
「アント、ニー神父様! どうなさったのですか?」
「男勝りの……わがまま一本気な僕っ子王女様……萌え……」
蹲ったまま、ごく小声でアントンが呟くのを、ローザはたしかに聞いた。
よく見れば、彼は跪拝のポーズを取っているようでいて、単に左手で鼻の付け根を揉み押さえて、右手で胸を掻きむしっているだけなのであった。
――こやつ。
ひく、と口の端が引き攣る。
クリスはローザにとっては薔薇要員だが、アントンにとっては百合要員になりえるということか。
だが、ローザが突っ込みを入れるよりも早く、彼はすっと顔を上げると、口を開いた。
「いいえ、王女殿下。私はあなた様を、古色蒼然とした型に押し込めようなどとは、かけらも思っておりません。この胸を支配する、聖母ユリアの名に懸けて」
眼鏡の奥の瞳は熱っぽい光を湛え、表情はどこまでも真摯である。
突然蹲ったことを、いかにも誓言を紡ぐためであるかのようにしてごまかすアントンに、ローザは唇をひくりと震わせたが、彼の言葉それ自体には嘘がないようだった。
なぜなら、静かに語るアントンのことを、嘘を見抜くはずのクリスは驚きの表情で見つめ返しているからだ。
「おまえ……」
「心からの本音でございます。たとえ少年のように振舞おうと、いえ、そうすることでかえって、あなた様の一途で、清々しい在り方は際立っている。そんなあなた様を、私は心底美しいと思いますし、あなた様が望む姿でいるお手伝いを、ぜひしたいと思うのです」
きっぱりと言い切ったアントンは、傍目には、外見に囚われずに魂の美醜を云々する、敬虔なる宗教人に見えることだろう。
実際、壁に控えて話を聞いていたベルナルドも、感嘆したように目を見開いている。
だが、ローザにだけはわかった。
(叔父様……今のお言葉、百合的なキャラ配置として、男装美少女をアリだと思っただけでしょう……!)
ある種の同類として、アントンが、実に身勝手な都合でクリスを賛美しているにすぎないと、理解できてしまえたのである。
「な、なんだ、そんな大げさなことを言って……っ」
アントンの言葉が本心からのものだと理解したクリスは、顔を真っ赤にして、ぷいと顔を背けた。
「まあ、うるさく説教してこないというのなら、上級神父だし、数日逗留してもいいんじゃないか。べ、べつに、今の言葉が嬉しかったからというわけじゃないけどなっ!」
「ぐ……っ」
おそらくアントンも「ぷんデレ」の概念を理解できるのだろう。
赤面してひねくれた物言いをするクリスに、再び胸を掻きむしる。
(また! そうやって! 殿下はわたくしを喜ばせる……!!)
もちろんローザも、あまりに理想的なぷんデレぶりに、心臓をぎゅっと握りつぶされて、思わずアントン同様、胸を押さえて蹲ってしまった。
もれなく、跪拝する神父と天使、みたいな図の完成である。
流れ的に、寛容さを示したクリスに、感謝したローザが跪いたように見え、絵面的にはなんら問題なかった。
こうして、傍目には実に清らかな感じで、アントンの離宮逗留は決定したのである――。