3.ローザは友に出会いたい(3)
(そっちですかぁあああああああああ!)
その瞬間、一度静止していたあらゆる感情が、先ほどを上回る怒涛の勢いで押し寄せてきた。
なんということだ、腐レンドだと思っていたのに、彼と自分はまるで正反対の方向を見ていたなんて!
しかもアントンはうんうんと頷きながら、
「こんな身近に理解者がいたなんてね。引き換え、修道院時代を思い出すと泣けてくるよ。あそこは本当に、右を見ても左を見ても男ばかり。男からのむさ苦しい恋情――おぇっ――まで向けられる始末だよ。百合成分が欠乏するあまり、私は髪色まで失ってしまってね。ああもう、野郎同士の薄汚い関係に比べて、女性同士というのは本当になんて素晴らしいのか……!」
などと、途中忌々しげに言い放つ。
聞く傍から、己の中のなにかが、ぶちりと音を立てて切れてゆくのが、ローザにはわかった。
「……叔父様?」
今、彼は、おぇっと言った。
男性同士の尊い感情のやり取りを、むさ苦しいと。
薄汚いと。
「先ほどから、いったい、なにを、仰せで?」
声が、拳が、ぷるぷると震える。
公平を期して言うなら、これまでローザは、アントンのいうところの「百合」という概念について、特に忌避を覚えたことはなかった。
それ以上に関心がなかったわけだが、まあ、同性同士の恋愛を尊ぶ点で百合は薔薇の親戚のようなものかな、くらいの感覚だったわけだ。
だが、今は違う。
一度アントンとの出会いに歓喜し、心を許しきってしまったからこそ、彼からの手ひどい裏切りは、ローザの心を激しく引き裂いた。
(アントン叔父様、それはわたくしの敵。百合、それはわたくしと相反するもの――!)
百合、屠るべし!
苛烈な怒りは、ごうっと唸りを上げて、またたく間にローザの魂を燃え上がらせた。
「薔薇を思わせる、殿方同士の芳しい恋情を解せぬ叔父様の感性に問題があるのではございませんこと?」
「……ローザ?」
一歩後ろに距離を取り、ぴしゃりと言い捨ててみせると、アントンはぽかんとする。
「え? なにを……薔薇? 殿方? え? ……もしかして、君――」
彼のほうでも、驚きは衝撃に、そして徐々に、苛烈な敵意へと転じていくのが見て取れた。
「し、信じられない……っ。まさか君は、さっきから男同士の恋愛を賛美していたというのかい!? ありえない! 私の夢のひとときを返してくれ!」
「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますわ。いったいこの世の誰が、悪名高き『百合豚』殿と盛り上がっているだなんて思いましょう!」
「ふはは、その『百合豚』と君は血が繋がっているのだけどねえ!」
指先をローザの鼻に当て、意地悪く持ち上げてみせるアントンの手を、ローザはぐいと押しのけた。
「お戯れを! 親子ならまだしも、叔父と姪の関係ならば、血だってそんなには――」
「――姉様?」
「きゃあ!」
が、そのとき、背後から涼やかな声が掛かって、ローザは小さく飛び上がった。
「探しましたよ」
振り向いてみれば、ベルナルドである。
劇場に戻ってきた彼は、どうやらローザのことを探してくれていたようだった。
「まあ、ベルナルド! 幼馴染殿とのお話は、もうよかったの?」
「はい。会話自体は短くて、すぐに戻ってきたんです。ただ、舞台がもう始まっていたので、こことは反対のロビーの入口で待っていたのですが、姉様の声が聞こえた気がしまして」
ベルナルドは今日も相変わらず、奇跡を感じさせるような麗しい顔だが、しかし今はそこに、ぞくりと背中が震えそうな、剣呑な表情を浮かべている。
「こちらに回ってきたら、そこの男が姉様の顔に手を伸ばしているではありませんか」
完全に追い付いた彼は、そこでローザの腰をぐいと引き、アントンからかばうような体勢を取る。
どうやら、姉が男に絡まれたとでも思っているらしい。
ローザは、ベルナルドの子猫のような威嚇ぶりにきゅんきゅんしかけたが、
――トラブルに遭遇すれば、向こう一年外出禁止。
そこで言いつけを思い出し、ざっと青褪めた。
(ま、まずい……っ!)
ベルナルドの騎士道精神の発露に萌えている場合ではない。
自分はトラブルに巻き込まれたわけではけっしてないと、主張しなくては。
「ち、違うのよ、ベルナルド。あなたが幼馴染殿との再会を楽しんでいたように、わたくしも、叔父様との再会を……そう、喜んでいたの! 顔に触れられたのも、あくまでコミュニケーションの一環というか! トラブルではないのよ。トラブルではないの、全っ然。わたくしは始終安全だったわ」
急にこちらを歓迎しだしたローザに、アントンが「ほぉ~ん?」とでも言いたげな視線を寄越す。
ベルナルドもまた、「叔父?」と怪訝な顔つきになった。
「と言うと……、なんだったかの不祥事を起こして、ベルク社交界を追放された、あの?」
最近になって貴族の仲間入りを果たした彼だが、ローザの叔父が社交界を追放されたことはきちんと把握していたらしい。
さすがに、追放の理由までは知らないようだが。
「追放された人物は、豚のような体格の持ち主だったということまでは、噂で聞き及んでいます。それに、姉様の家系は、総じて金髪の持ち主だったはず。そうした姿と今のあなたは、随分異なるように思うのですが」
情報との齟齬に疑いを捨てきれないのか、ベルナルドは整った眉を寄せ、慎重な声で問う。
だが、年の功とでもいうべきか、アントンはどこまでも泰然としていた。
「社交界追放後の修道院での生活が堪えて、体重と髪色を失ってしまったのですよ。ですが、たしかに私は彼女の叔父、アントンですよ。もちろん、家系図上は君の叔父とも言えるわけですが――ローザの異母弟のベルナルドくん?」
「僕のことをご存じで?」
「ええ。今は隣国で細々と救護院の神父などをやっていますが、それでも、方々から集まる迷える子羊たちから、噂話を聞きますのでね。もっとも、名前は今知りましたが」
ローザがベルナルドの名を呼ぶのをしっかり聞いていたらしい。
そして、いつの間にか、初期の丁寧な口調を取り戻している。
それが基本的な対外仕様ということだろう。
「そうでしたか。それで、このたびはどうしてベルクへ? 失礼ですが、聖職者となった方が、歌劇などご覧になっていてよいのですか?」
「実はこれも修行の一環なのですよ。聖ユリアの神父は年に二週間だけ、清貧の塔から離れて、俗世の弱者へ手を差し伸べる旅に出るのです。戒律の厳しい宗派だからこそ、聖書の説く理想に閉じこもるのではなく、俗世の生々しい苦しみを理解せよ、ということですね」
ベルナルドの、あどけなさを装った鋭い質問にも、アントンはすらすらと答える。
微笑みは清廉な気配をまとい、口調は知的。
現在進行形で、俗世の生々しい感情に身を浸しているとはとても思えない姿だ。
しかも、彼はいけしゃあしゃあと爆弾発言を放った。
「そうしたら、偶然にもローザに再会しましてね。このとおり、随分と再会を喜んでもらえまして、彼女が住まうと言う王城内に、数日逗留させていただくことになったのですよ」
「…………!?」
この状況をいいことに、王城への招待をしっかり確定扱いにされていて、ローザは慄いた。
(なんてこと! 腐レンドだからと招待したにすぎなかったのに! 離宮はあくまで薔薇の苗床予定地であって、百合のしゃしゃり出る幕などなくってよ!)
素直に「そうなのですか」と目を瞬かせるベルナルドを横目に、今や招待は無効だと叫ぶべく、とローザは口を開く。
「いえ、それはあくまで――」
「そう、それはあくまで、彼女の主人――王族の方でしょうか? その方の許可が下りたら、ということになりますが」
が、アントンによって別の向きに言葉尻を奪われてしまった。
「いえあの……っ」
「――そうなのですか。では、逗留が決まった際には、ぜひ僕もご一緒させてくださいね」
なんとか異議を、と身を乗り出すが、今度はベルナルドに出鼻をくじかれてしまった。
え、と目を見開くと、ベルナルドはその愛らしい顔ににっこりと笑みを浮かべて、アントンを見上げているではないか。
「僕、親戚の方と話すのは、初めてなので。叔父様には、聞きたいことがたくさんあるんです」
もちろんベルナルドとしては、ローザ側の唯一の血縁者アントンから、彼女の出生の秘密が聞き出せないかと素早く計算したわけである。
だが、そんなことを露知らぬローザは、きらきらと擬音すら聞こえそうなその尊微笑に心臓を撃ち抜かれ、うっかり気勢をそがれてしまった。
(え? ベルたん的にはウェルカムモードなの? そ、そうか、わたくしにとっては天敵でも、ベルたんにとっては、初めての「親戚」。頼れる大人だものね……中身はアレだけど……)
だとすれば、せっかく推しが興に乗ってくれたのに、水を差すのも申し訳ない。
仲良しのふりをしてしまった手前、ここでアントンを拒否するのも不自然だ。
ついでに言えば、今更ながら、見つめ合うアントンとベルナルドを前に、ローザは思った。
左、銀縁眼鏡がきらりと光る、(表面上は)物腰穏やかな丁寧グレー系イケオジ。
右、上目遣いががっちり決まる、霊長類最受け美少年。
つい、丹田にぐっと力が入る。
(……………………アリじゃない?)
いや、むしろ最強の布陣ではなかろうか。
(例えばよ? アントン叔父様は最初、百合好きのけしからない人物として登場するの。初期の彼にとっては、ベルたんすら路傍の石のごとき存在。「ふ、百合より尊いものなんてないさ」と内心で嘯きながら、慇懃に、そして一線を引いて接する)
気付けば妄想スイッチが起動し、ローザは二人をじっと見つめながら、素早く思考を展開させはじめていた。
(けれど、ベルたんの魅力はあまりに強大だった。会話を重ね、ともに過ごす時間が増えるにつれ、彼の視線はどんどんベルたんへと惹きつけられてしまう……っ)
こんなはずではなかった。
自分は女性同士の恋愛にしか心が動かぬはずなのに、なぜ。
アントンは懊悩しながらも、ベルナルドの前でだけ、男としての己の欲望が引き出されるのを自覚するのだ。
(そんなある日、なんらかの危機がベルたんを襲って――このあたりは今後要補完ね――、大いに焦ったアントン叔父様は、ようやく己の恋情を自覚する。そうして、整えていた髪を乱し、眼鏡すらむしり取り、なにより百合信仰をかなぐり捨てて、荒々しく叫ぶのよ!)
君のせいで、柄にもないことをしてばかりだ。これ以上私の心を搔き乱さないでくれ!
口調すら乱し、ベルナルドの肩を揺さぶるアントン。
意外に大きな手はまさしく大人の男のそれ――今や、彼は一人の男、いいや、激情に震える雄なのであった……!
(よき!!)
ローザは脳内で端的な雄叫びを上げた。
敵教徒という属性すら萌えに昇華させる自分の才能が、いやはや心底恐ろしい。
そうとも、百合好きなのが気に食わなければ、改宗の瞬間を萌えに利用すればよいのだ。
(そう、わたくしは百合を薔薇に変える女……!)
ローザはこほんと咳ばらいをすると、「そうですね」アントンに向き直った。
「ベルナルドもこう申しておりますし、ぜひ、ご招待させてくださいませ」
「そうですか。歓迎していただけるようで、なによりです」
歓迎の姿勢を見せるローザに、アントンが勝利の笑みを閃かせる。
それを殊勝な面持ちで受け入れながら、しかしローザは内心でこう思った。
(わたくしを罠に嵌めたつもりでしょうけれど、嵌まったのはあなた様のほうでしてよ。腐腐腐……覚悟なさいませ、アントン叔父様)
こうして、アントン薔薇化計画、もとい短期逗留の話はまとまったのであった。