1.ローザは友に出会いたい(1)
「まあ、見て、あそこの席!」
「しっ、そんな大声出すなよ、気付かれるだろ」
巨大なシャンデリアが目を引く、華麗な歌劇場でのことである。
大量の燭台が紡ぐ明りと、扇越しに交わされる人々の笑い声が、ガラス玉に弾けてきらきらと降り注ぐ、そんな空間にあって、一際目を引く存在があった。
けっして上席とは言えない後方の奥まった場所に、ひっそりと腰を下ろす少女。
歌劇場に向かうには少々年若く、おそらくは十五に届かぬほどだろうと見られた。
上質ながら簡素なドレスに身を包み、ベールまでかぶっているが、合間から覗く金髪の艶やかさや、ミルクのように滑らかな肌、そして息を呑むほどの美貌は隠しきれていない。
そして、今このベルクの王都内で、妖精か天使のように美しい金髪の少女といえば、真っ先に名前が挙がるのは「薔薇の天使」――ローザ・フォン・ラングハイムであった。
「お忍びかしら? こんな下町にもほど近い大衆向けの歌劇場に、一人でいらっしゃるなんて」
「いや、一応エスコート役はいるみたいだぞ。隣の席が空いてる。たぶんデートだろう」
「あら、もしかしたら、ご友人と下町の孤児院を訪問した帰りなのかもしれないわよ」
観客たちは、彼女に気付かれないようこそこそと囁き合う。
自領では民のために尽くして「薔薇の天使」と称えられ、登城するやたちまち王女の心を解し、さらには、伏せられていた王妃の病を見抜いて寛解に導いたというローザ。
さすがに、偉業の詳細は貴族たちしか知らないが、その美貌や、人気の高いレオン王子からも気に入られているという点は、下町の市民たちの関心をもくすぐり、最近のベルク王都は彼女の噂で持ちきりだった。
この歌劇場は、上層市民の住むエリアの一番外れ、下町と溶けあうような場所に位置しており、その立地もあって、上はお忍びデートを楽しむ貴族から、下は晴れの日に奮発する下町の青年まで、幅広い客を擁している。
互いに干渉しないのが暗黙のルールとはいえ、市民と貴族が交わる数少ない場所であり、偶然ローザを目撃した観客たちは目を輝かせながら、せっせと噂の種を仕込もうとするのだった。
「でも、ごらんよ、彼女、そわそわしちゃって……大丈夫なのかしら」
「こんな下町近くまで出てくるのが初めてで、緊張してるんじゃないか? かわいそうに……。エスコート役はなにをしてるんだ。手洗いか?」
「しかも今日の演目は世俗歌劇だぞ。あんな天使みたいな女の子に、不倫だなんだって内容で大丈夫なのかね。どうする? ちょっと話しかけに行ってみる?」
が、視線の先のローザは、どうもそわそわとして落ち着かない。
緊張からか、美しい顔を強張らせているし、何度も入り口のほうを窺っては、困ったように溜息を落としている。
日頃、お高く留まった貴族に対していい印象を持っていない市民たちも、あまりに庇護欲をくすぐるローザの様子に、思わず前のめりになった。
例えるなら、彼女はまるで、初めて舞い降りた下界に困惑する無垢な天使。
その繊細な心が傷付かないよう、できるなら協力してあげたい――一人きりで身を強張らせるローザを見て、彼らはうっかりそう思わされてしまったのである。
が、実際のところ、ローザ本人がなにを考えていたかというと、
(腐腐腐、ぐふふふっ! ベルたんったら、随分長く席を外して……相当盛り上がっているようね。幼馴染の彼と、いったいなにをそんなに積もる話があるのよぅ、このこのっ)
酒の席でいやらしく笑み崩れるおっさんさながらに、人の恋路を想像してはうっとりしていた。
そう。ローザはこの日、異母弟のベルナルドとともに歌劇場に赴いていたのである。
厳密に言えば、「濃厚な恋愛描写が売りのブッファが上演される」と聞き――世俗的で、しかも男声比率の多いオペラ・ブッファは、お堅い宮廷歌劇よりずっと大好物だ――、単身で臨もうとしたところを、なぜか周囲にやたらと心配され、護衛を付けられてしまったのだ。
なにかトラブルに遭遇すれば、向こう一年は外に出さないとまで言われて。
(なんだかわたくし、ここでも病弱だと誤解されているわよね……?)
ローザは不思議に思って、恍惚とする傍ら、ことりと首を傾げた。
カミルの一件があってから、早一カ月。
たしかにその間に、アプト神話を完徹で通読してぶっ倒れたり、ベルナルドの萌え萌えしい言動にやられてふらついたりもしたが、腐バレしている彼らなら、それらはすべて興奮のせいだとわかってよさそうなものなのに。
(は。もしや病弱というより、野に放てない危険人物と思われているのかしら。今日のこれも、外出というより仮釈放、みたいな)
ローザは今更ながらそう思い当たって、ふと真顔になる。
でなければ、ちょっとトラブルを起こしたくらいで一年の外出禁止などとは言われないだろう。
(ま、まあ、いいわ。わたくしの知覚品質なんて、ベルたんのきゃわゆさの前にはごく些細なこと。今日だって、ベルたんと一緒にお出かけできて、結果的にはラッキーだったわ)
ローザは自分にそう言い聞かせ、それから再び、甘美な興奮に身を浸した。
だって、まさか、いくらこの歌劇場が下町にほど近いとはいえ、ベルナルドの「幼馴染」に遭遇するとは思わなかったのだから。
(幼馴染! 幼馴染! 幼馴染! 何度でも声に出して叫びたいベルク語!)
幼馴染、という単語が引き連れてくる甘酸っぱいときめきを思って、ローザは性懲りもせず脳内で、両手で顔を覆い高速首振りをした。
なんと、歌劇場に踏み入ろうとしたまさにそのとき、後ろのほうから「ベル」と声を掛けられたのだ。
ベルナルドに対する親しげな愛称。声変りを済ませたばかりの、若々しい、けれど落ち着いた低音ボイス。
脳にその声が届くやいなや、ローザはもはや脊髄反射で背後を振り返った。
そうして、劇場の階段のはるか下、人ごみの中に、まっすぐにこちらを見上げてくる青年を発見したのである。
クールな人物なのだろうか、青年は軽く片手を挙げると、ふいと雑踏へと踵を返してしまう。
だが、春書暗記スキルを磨くあまり、直観像素質まで開花させたローザにかかれば、一瞬だけ見えたその顔面を記憶するなど造作もない。
首の後ろでくくった黒髪。すらりとした長身。
なにより、黒曜石のような切れ長の瞳と、少しばかり黄みがかった肌。
そう、彼は――
(「攻め」要素を感じさせる、オリエンタルイケメン、キターーーーーーー!)
間違いなく、東洋の血を感じさせる、ラドゥとはまた異なるエキゾチックさを持つイケメンであった。
階段のてっぺんで棒立ちになりながら、ローザはたしかに脳内で後方に吹き飛んだ。
「あいつ……」
と、すぐ傍らにいた最愛の推し・ベルナルドが、驚いたように呟く。
「ベルナルド。知り合いなの?」
「幼馴染です、下町時代の」
返事を聞いて、ローザの中の全ローザが、ガタッと音を立てて身を乗り出した。
「そうなの。幼馴染。ねえ、ベルナルド、追いかけなくていいの?」
「……いえ、べつに、会おうと思えばいつでも会えますから」
「そんなことを言って、今日まで会ってこなかったのでしょう。ならば、今行くべきだわ。せっかく声を掛けてくれたのだから」
いつ行くの? 今でしょ! とばかりに説得すると、ベルナルドが逡巡の気配を見せる。
「ですが、姉様を置いて……」
「まあ、そんなこと、全然気にしなくていいわ。もうここは劇場の敷地内。わたくしだって、一人で座席につくくらいできるもの。ああそうだわ、それならわたくしが、一緒に幼馴染の君を追いかけましょうか?」
「な……っ!」
本気十割を口調だけ軽くして提案すると、ベルナルドはぎょっとしたように目を見開いた。
それから、「そんなことは絶対にさせられません」ときっぱり告げてきたので、ローザは平静を装いながらも激しくがっかりした。
恋の野次馬作戦、失敗。
それでも、ついて来られるよりは、自分だけで行ったほうがいいとでも思ったのか、ベルナルドは最終的に「では、少しだけ」と断りを入れると、階段を駆け下りていったのである。
(ンァアアア! 今頃再会のハグでもしているかしら。それとも互いに会話の糸口を見失って、じっと見つめ合ったまま動けなかったりしているかしら。どちらもイイ! とてもイイ!)
おかげで、ローザはその後入場は済ませたものの、心ここにあらずだ。
絶え間なく興奮の波がやって来るため顔は強張るし、ちらちらと入り口を振り返らずにはいられない。
ベルナルドの呟きから察するに、素直に再会を喜ぶ相手というわけではないのだろう。
それでも、「幼馴染」という言葉選びに迷いはなかった。そこにすごくドラマを感じる。
周囲から心配の視線を集めているなどつゆ知らず、ローザは始終ご機嫌なのであった。
と、ほかの観客たちが声を掛けようとしたのを遮るように、開幕の鈴が鳴る。
周囲は顔を見合わせて、ローザへの働きかけをすごすごと断念し、ローザもまた、「開幕しても戻らず……か。腐腐っ、リアルのほうでどんな物語が開幕しているのやら」とうっとり吐息を漏らすと、意識を切り替えて、舞台に向き直った。
彼女ほどのレベルの貴腐人ともなると、いくら「推し」が気になろうと、同時にほかの薔薇も愛でることができるのだ。
(わたくしは、腐にプライベートを持ち込まない、できる貴腐人……!)
ローザはきりっと、歌い手たちを見つめた。
今日の演目は「恋の手ちがい」。
仲の冷え込んだ二組の男女がいて、それぞれの男性同士、女性同士は親友なのだが、互いに親友の恋仲を復活させようと奔走しているうちに、親友のお相手だったはずの人物と自分がくっついてしまう、という喜劇である。
この作品の醍醐味は、「親友の相手とわかっていてなお惹かれてしまう恋心の機微」といったところにあるのだが、もちろんローザとしては、親友だという男同士の掛け合いに、先ほどから興味をそそられてならなかった。
『おお、友よ。聞いておくれよ、僕の悲しみ』
『友の嘆きは僕の悲しみ。話してごらんよ、十年前のあの雨の日のように』
(おお……! 幼馴染設定!)
気弱な「受け」(※推定)と包容力のある「攻め」(※推定)が幼馴染だと知るや、密かに拳を握り。
『僕の相棒、僕の教師。いっそ殴ってくれ、小心者で愚かな僕を』
『いいや、僕は知っている。君の瞳に輝く知性、弱さにも見える優しさを!』
(くぅっ、重ねた年月だけが実らせる互いへの信頼! よい! やはり幼馴染はよい!)
朗らかに「受け」を勇気づける「攻め」の優しさに撃ち抜かれて、感に堪えぬよう首を振り。
『友よ、勇気をくれ、真実を見に行く勇気を』
『もちろんだとも、さあ一緒に、真実とやらを殴りに行こう』
(はい青春! はい尊い!!)
最後、二人が肩を組んで高らかに歌い上げたそのシーンでは、青春系尊みが天元突破して、ぐっと鼻を押さえてしまった。
(幼馴染、萌えぇえええええ!)
なんていうことはない。
やはり思考リソースをすべて「幼馴染」に持っていかれていたのである。
そのときローザの脳内では、自信を失い俯くベルナルドを、先ほど見かけたオリエンタルイケメンが抱きしめる様子が、ありありと浮かんでいた。
ちなみに舞台上では、女性親友ペアによる同様の掛け合いも同時に披露されており、男声と女声が交互に入り乱れる構造こそ、この作品の見せ場なのだったが、ローザの意識は女声をほぼシャットアウトしている。
「尊い、無理……幼馴染……萌え……」
語彙力の多くを溶かし、ローザはハンカチを口元に押し当てて呟いた。
するとそこに、不思議なことが起こった。
「尊い、無理……幼馴染……萌え……」
まるで山びこのように、まったく同じ言葉が隣の席から聞こえてきたのである。
驚いて見てみれば、ベルナルドのものとは反対側の隣に、一人の男性が腰かけていた。
客席は暗くてよく見えないが、ローザ同様、ハンカチを口元に当ててすすり泣いているようである。
自分と鏡合わせのような姿に、ある予感を嗅ぎ取って、ローザはどくりと胸を高鳴らせた。