0.プロローグ
書籍発売御礼ということで、第2部を開始しました!
大陸一の栄華を誇るベルク王国から森をひとつ隔てた場所には、小さな国がある。
ベルク教から派生し、聖母ユリアを深く信仰する民が興した、聖ユリア小王国。
なかでもひときわ緑が深く、片田舎と呼んで差し支えない場所に、その救護院はあった。
「姉妹たち。お茶が入りましたよ」
「わあ! ありがとうございます、神父様」
穏やかな木漏れ日が降り注ぐ秋の庭で、百合の花を手入れしていたミアは、救護院の主である神父の呼びかけに、ぱっと顔を上げる。
一緒に作業をしていた「姉妹」たちとともに、庭の片隅に配置されたアイアンテーブルに集まると、繊細な湯気をくゆらせるポットをにこにこと見つめた。
「今日の紅茶はなんですか、神父様?」
「茶葉にバニラと白百合の香りを移したフレーバーティーですよ。とても芳しいでしょう?」
「はい! ほんと、いい匂い!」
「芳しい、と言ってごらんなさい。あなたたちは皆、聖母の愛する淑女たちなのだから」
救護院に身を寄せているのは、主には貧困や暴力等に苦しめられてきた少女たちで、その出自から、言葉遣いは乱雑になりがちだ。
だが、神父が灰色の瞳を優しく細め、穏やかにそう諭すと、ミアたちはかしこまったように頬を赤らめ、ぎこちなく言い直した。
「か……ぐわしい、です」
「素晴らしい」
途端に、神父はふわりと笑みを深める。
端整な顔立ちに、すらりとした痩身。
銀縁眼鏡の奥に光る瞳は知的な灰色で、同じく灰色の髪は、光の加減で銀色にも見える。
その高貴な輝きと、聖母の紋章をあしらった聖衣から、一部では「百合の使徒」とあだ名される美貌の神父を、ミアたちはうっとりと見つめた。
ここにいるのは皆、親に売り払われたり、虐待を受けたりして逃げてきた少女たち。
必然、大人の男に対しては強い警戒心や恐怖を抱く習性があったが、この神父だけは例外であった。
なぜならば、彼はなんの見返りもなく少女たちを助け、この救護院で保護してくれたばかりか、日々、穏やかな時間と教養とを与えてくれるのだから。
建前では子どもの保護を謳いながらも、実際には性的に少女たちを搾取する救護院も多いというが、この百合の使徒は違う。
例えば彼は、こうしてテーブルを囲むときは、必ず複数の少女たちを同席させるし、いじめなどが起こらないよう、少女同士でペアを組ませて、年長者が年少者を教育するよう、きめ細やかにケアしてくれるのだから。
ミアは、己の「お姉様」とこっそり「今日も神父様は素敵ね」と視線を交わし、そんなささやかなやり取りができる日々に、内心で幸せを噛み締めた。
(ああ、あたし、神父様に拾っていただいて、本当に幸せ。天の使いみたいな方って、この世にいるんだなぁ)
拾われたばかりのころ、ひねくれていたミアは神父に、「なにが狙い? あたしを抱くの?」と不躾に尋ねたことがある。
だが、彼はそれに動じることなく、優しくこう答えただけだった。
「これまでさぞ怖い思いをしてきたのでしょうね。ですが安心してください。私はあなたたちに指一本触れませんし、絶対に守ってみせる。あなたたちが安全な場所で、幸せな笑顔で、姉妹たちと触れ合う様を見守る――それが純粋に、私の幸せなのだから」
と。
そんな聖者が、この世にいるものかとミアは思った。
思ったが、その疑念は、神父の誠実な態度に触れつづけるうちに、時間を掛けて溶けていき、今では代わりに芽生えた信頼が、忠誠心にまで成長して全身に根を張っている。
(たしか、十二使徒でいう「百合の使徒」は、清廉と献身を象徴するんだっけ。神父様にぴったりじゃない)
聞いた話では、神父の髪はもともと金髪だったのだが、修道院時代に心労を重ねた結果、色が抜けてしまったのだという。
きっと、世に渦巻く貧困や暴力に心を痛めたのだろう。
(ん? 待って。でも、金髪って、貴族くらいにしかない色だよね。神父様って、元は貴族だったとか?)
ミアは今更ながらの疑問に首を傾げたが、それを口にするよりも早く、向かいの席に着いたアンナが話しはじめてしまった。
「そういえば神父様。あたし、『薔薇の天使』って呼ばれてる人に会ったことがあるんです」
彼女はつい昨日救護院に来たばかりの、赤毛が印象的な少女だ。なんでも、親の借金のカタに奴隷となりかけたのだが、運よく解放され、しかし行く当てもないため、噂を頼りにはるばる隣国ベルクから、この救護院までやって来たらしい。
神父の気を引けるのが嬉しいのか、アンナは身を乗り出した。
「あたし、親から海賊に売られちゃって。このままじゃ身売りさせられるって、船でずっと泣いてたんですけど、そうしたら、とある港で、『薔薇の天使』様に助けていただいたんです」
「へえ、『薔薇の天使』。慈愛深く高潔なる人物ということですか?」
神父が興味を惹かれたように、眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。
アンナは「はい!」と頷くと、その人物がいかに素晴らしい人物であったかを語りはじめた。
「あたしよりも少し年下なんですけど、本当にきれいな子で」
「ほう。美少女なのですか」
「それはもう! 天使みたいな顔をしたお貴族様なのに、あたしたちのために魔力を惜しみなく使って縄を解いて、海賊からもかばってくれたんです。彼女に手を取られたとき、あたし、馬鹿みたいに泣いちゃって」
「手を。そうですか、それは泣きますね」
興奮のあまり捲し立てるアンナを、神父は叱るでもなく、真摯に相槌を打つ。
「薔薇の天使」が、その場にいたすべての女性を解放してくれたこと、困窮する者へは当座の路銀まで手配してくれたことを話し、それからアンナはほう、と溜息をついた。
「それであたし、旅費を貯めるためにしばらくベルクにいたんですけど、聞いた話では彼女、その後王都に招かれたんですって。それで、そこでも次々と奇跡を起こして、今じゃ、色男って評判の王子も、王女も、あとは外国の王子も、彼女に夢中なんだとか。物語みたい!」
「それはそれは。本当に物語か歌劇のようですね」
「でしょう? 今、ベルクの王都では彼女の噂で持ちきりなんですよ。このままお妃様になっちゃうんじゃないかって。でも、納得だなぁ。金髪に、紫の瞳がきれいな、ほんとに薔薇の花みたいな子で……。あっ、ローザ、っていう名前なんですけど」
「ローザ……」
それまで丁寧に紅茶のお代わりを注いでいた神父が、静かに呟いて手を止める。
急に黙り込んでしまった彼に、話を聞いていたミアは首を傾げた。
「あの、どうかなさいましたか、神父様?」
「…………」
「アントニー神父様?」
ぼうっとしている彼に、名前まで含めて再度呼びかけると、ようやく相手は我に返ったようであった。
「……いいえ、なんでも」
緩く首を振り、紅茶を注ぎ直す。
彼はミアに向かって安心させるように微笑んだが、次の瞬間には、その灰色の瞳は、山のほう――ベルク王国のある方角へと向けられていた。
「少し、懐かしい気持ちになっただけですよ」
そう告げた彼の背後でふと風が吹き、真っ白な花弁を湛えた百合が、さわさわと不穏な音を立てた。
***
勤勉なベルク王城の朝は、鶏が鳴きはじめる前から始まる。
火を熾し、鎧戸を開け、朝の澄んだ空気を取り入れる。
そうして、空がしっかりと白みはじめた頃には、いたるところから、使用人たちの活気ある声が響き渡っている。
いまだカーテンを下ろしたままの寝室で、もぞりと体を起こしたその人物は、ぼんやりと宙に視線をさまよわせながら、シーツごと膝を引き寄せた。
膝を抱えた腕の中に顎を埋め、しばし耳を澄ませる。
それは、この国に嫁いできたときからの、彼女の習慣だった。
扉の向こうに、敵はいないか。
悪意ある噂は、嘲笑は、蔑みの囁きは。
すでに主人が起きていると知らない小姓たちは、続きの部屋で世間話に花を咲かせている。
わざわざおしゃべり好きな女ではなく、多少は口の堅いだろう男の小姓たちを侍らせているというのに、気難しい主人が寝ていると思うからか、こんなときの彼らは驚くほどよく話すのだ。
もっとも、それを盗み聞くのは、自身の安全にも繋がることだったので、彼女はそれをあえて窘めようとはしなかった。
王子の凛々しさ、異国の癒術師の有能さ。
最近兄妹仲が良好になった王女の成長。
政治的駆け引きの断片。市井の噂。
それからそう、王妃の快癒に対する喜び。話題はころころと転じる。
それらを耳で拾いながら、彼女は形のよい唇を片方だけ持ち上げた。
「……取って付けたように言うこと」
独り言さえ、いつしか母国語ではなく、ベルク語になった。
そのままぼんやり扉を見つめていると、やがて小姓たちはいよいよ声に熱を込める。
「――それで、昨日俺もついに見たんだ、薔薇の天使を!」
あからさまに弾んだ声を聞いて、彼女はぴくりと眉を上げた。
薔薇の天使。
ローザ・フォン・ラングハイム。
彼女がまだ病床にあったとき、王女の話し相手として離宮に誘導した娘だ。
そして、「アプトの奇跡」を起こした、聡明で献身的な娘。
「本当にきれいな子だったよ。図書室に本を探しに来ていたみたいなんだけど、書物をめくる姿すら、一幅の絵画のようで」
「いや、でも、この前倒れたばかりじゃなかったか? たしか、病み上がりの体を押して、癒術習得に精を出しすぎたとかで……」
「そう、そう! それなんだけどさ!」
噂好きらしい若い声の小姓が、興奮したように声量を上げる。
ローザは「アプトの奇跡」で魔力切れを起こしたにもかかわらず、意識を取り戻すやアプト神話の通読に没頭していること。
病み上がりのためか、読書中にしょっちゅうふらついたり、気絶までしていること。
それでも周囲の心配を振り切り、癒術習得に取り組んでいるのは、おそらく「癒術を解する癒力者がいれば、カミルの悲劇は起こらなかったのでは」という自責の念からではと、王子たちは捉えていることなどなど。
熱っぽく語っていた小姓は、図書室での一幕を思い出したのか「ああ」と声を上げた。
「いじらしいローザ様に、王子殿下たちもすっかり夢中のようでね。ローザ様が無茶をしないかと、しょっちゅう張り付いているわけだ。高い本棚に向かって背伸びしようものなら、背後からはレオン殿下、左からはクリス殿下、書架の裏側からは癒術師殿が、一斉に支えようと手を伸ばしたりするわけ」
「すごいな。案外、ローザ様って男好きなんじゃないか?」
「いいや、それが、離宮勤めの侍女の話では、あんなにきれいだっていうのに、ちっとも男っ気がないんだって」
揶揄混じりの言葉には、即座に否定が返る。
噂好きの小姓は、つらつらとローザについての情報を補足した。
いわく、レオン王子や癒術師、そして離宮付きの騎士団員たちから、ちょっとした贈り物をされることも多いのに、そのすべてを弟のベルナルドに渡してしまう。
男女のゴシップにはちっとも興味を示さず、それよりも難解な医術書や聖書の通読に精を出している。
かといって堅物というわけではなく、侍女たちの世間話には目を輝かせて参加し、学の低さに悩む者があれば熱心に書き取りの指導をし、貧しさに悩む者があれば、高価な書物をあっさりと手渡してしまう、などなど。
「なんだそれ、そんな天使みたいな子、本当にいるのかよ」
「だから『薔薇の天使』なんだよ。ラングハイム時代からの異名は、どうやら本物みたいだな」
「にわかには信じられないなぁ」
小姓ともう一人が驚くのを扉越しに聞き、寝台に腰掛けたままの彼女は、皮肉っぽく肩を竦めた。
「奇遇ね。わたくしもそう思うわ」
だが、小姓たちが続けた言葉を聞くと、彼女はすっと表情を消した。
「でも、本当だとしたら、うちの王妃陛下と違って、なんて貞淑な子だろうね!」
「おい、聞こえるぞ!」
慌ててもう一人が窘めるが、言葉とは裏腹に、寝室の主がとっくに目を覚ましているのだとは思いもしていないのだろう。
小姓たちは特に悪びれる様子もなく、一通りの朝の支度を済ませ、それから恭しく寝室の扉を開けた。
「おはようございます。ドロテア王妃陛下」
「…………」
部屋の主――ドロテアは、さも今起きたかのように、気だるげに髪を掻き上げる。
小姓たちが統制の取れた動きで開け放った窓から、さっと陽光が差し込み、彼女の眩いばかりの金髪を照らし出した。
ほっそりとした肢体は、シルクの寝間着に包まれてなお妖艶な曲線を描き、緩く波打つ金髪と、くっきりとした緑の瞳はむせ返るような色香を帯びている。
一カ月前の「アプトの奇跡」を機に、一気に取り戻した美貌。
ドロテアは、鏡台に映るそれを冷めた目で眺め、それから、ふと小姓たちに向き直った。
「――ねえ」
蜜を煮詰めたような、甘い声。
奔放で、気まぐれで、高貴――まるで猫のような。
「お茶会を開きたいわ。たまには、娘と、その友人でも招いて、他愛のないおしゃべりをしたいもの。招待状の準備をしてちょうだい」
ドロテアは、獲物を見定めた獣のように、小姓たちの奥に広がる窓、そしてその先にある王女クリスティーネの離宮に向かって、そっと目を細めたのであった。
毎日20時に投稿予定です。
本日は第2部初日拡大スペシャルで、22時にもう1話投稿させていただきます。