37.貴腐人ローザは陰から愛を見守りたい(2)
「ローザはね。どうも、伯爵の実の子どもじゃないみたいなんだ」
ベルナルドとクリスは、一瞬意味を理解できず、ぽかんとした顔になる。
一拍遅れて、
「…………は?」
と声を揃えた。
「それはいったい、どういう……」
「いや、二日前の俺、相当焦ってて、ローザへの輸血を確保しなきゃって息巻いてたでしょ。半分血が繋がってるはずのベルナルド、君のものが一番適合しやすいはずだと踏んで、離宮に戻ってきた後、確認用の採血までしたよね」
「はい。結局、輸血には及ばないと判断されたはずですが……」
「そう。輸血自体は実際不要だったんだけど、その時の君の血が、ローザの血の型とまったく一致しなくて、俺はあれっと思ったんだ」
アプトには、血液の「型」から血縁関係を鑑定する技術があってね、と、ラドゥは説明した。
「君が最近になって伯爵の『隠し子』として現れたとは聞いていたから、失礼だけど最初は、もしかして君が、伯爵の息子だと偽っていたんじゃないかと思った。でも、君は貴族特有の外見をしているし、魔力も持っている。なにかおかしい、と引っかかっていたときに、王子の言葉を聞いて思い付いたんだ」
ラングハイム伯は、実の娘に、なんでそんな仕打ちができたのか。
それはもしや――ローザのほうが、実の娘ではないからではないか?
「たまたま伯爵の血液は性病検査で採取したことがあって、記録をひっくり返したら、やはり型としては伯爵とベルナルドが同じで、ローザだけが違った。気になって仕方なかった俺は、王子に頼んで、伯がいる修道院まで転移陣を引いてもらったんだ。それで、強引に採血して……ついさっき、結果が出たよ。ラングハイム伯と、ローザに血の繋がりはない」
「…………!」
「けれど、ローザも貴族的な外見をしているよね。つまり……彼女は、伯爵夫人がほかの男との間に儲けた子どもだったんだ。伯爵も、それにうすうす気づいていた」
ベルナルドたちは、それこそ言葉もなく驚いた。
あの父親とローザの血が繋がっているとは思えない、というのは、領民すべてが一度は口にする思いだし、ベルナルドとて現在進行形でそう思っているが、まさか実際にそうであったとは。
さらに言えば、早くに病死してしまい、どちらかといえば悲劇の女性というイメージのあった伯爵夫人が、まさかしれっと不貞を働いていたとは、思いもしなかったのだ。
(ああ、でも……そうか)
ベルナルドは混乱する額に手を当てて、ふと思い出した。
最期の枕もとで娘に向かって、「あの伯爵と結婚したことだけが人生唯一の失敗」と笑ったと知られる夫人。
(結婚したことだけが失敗。つまり……ほかはすべて、思い通りってことか……!)
そんな場合ではないが、ついベルナルドは夫人に喝采を贈りたくなってしまった。
だが次の瞬間には、ローザの心境を思って憂い顔になる。
伯爵は恐らく、ローザが不義の子と知ったからこそ彼女を疎んだのだろう。
不貞を働いた当人は早々にこの世を去ってしまい、憎しみの矛先を引き受けざるをえなかった幼いローザは、いったいどんな心持ちであったろうか。
(これまでの予言めいた発言を思うに、姉様は間違いなく、「真実を見抜く瞳」とやらを持っている。つまり、自分の出生の秘密にも気付いていたはずだ。父親が自分を憎む理由も理解できてしまうからこそ……反発もできなかったのかもしれない)
振り下ろされる悪意の拳を、諦めた瞳で受け入れるローザを想像して、ベルナルドは心臓を引き裂かれるような心地を覚えた。
なんという痛ましい話だ。
実際のところ、ローザはそれらの秘密に、現在進行形でまるで気付いていなかったし、伯爵の葛藤も「あら、今日もお肉がこちらをもの言いたげに見ているわ。……はっ、さてはわたくしの後ろにいる執事を……?」と斜めにスルーしていたし、そもそも虐待に遭った事実もない。
だが、そうと知らぬベルナルドは、ローザの悲しみを思って声を震わせながら、ラドゥに頷き返した。
「たしかに、そう思えば、姉が自罰的なほどにあの男に寛容だった理由も、説明がつきます。彼女は、厳罰を求める領民を宥めて、しかも放逐されたあの男に、『いつまでもあなたの愛を待っている』とすら、告げたんだ……」
そうして、右の頬を殴られたら左の頬を差し出す、そんなローザの態度は、とうとう伯爵の心をも最終的に溶かしてしまったのだ。
込み上げる義憤と憐憫、そしてローザへの愛おしさに、ベルナルドの瞳がうっすら潤む。
「『自分は薄汚れている』、『腐っている』という言葉は、あの男に刷り込まれたものだと思っていたけれど……本当は、姉様自身が、不義の子である自分をそう思っているのかもしれない。だから、初めて会った時から、『わたくしのものは、すべてあなたのものよ』なんて……。はじめから、与えられたもの全部を、返すつもりで……」
「そうか。それで、すべてを『正統な跡継ぎ』に捧げたうえで、自分は俗世を去ろうとしたのか……。危険を承知でアプトの里を救ったのも、禁忌である自殺という形を取らずに、命を手放せるいい機会だったから。それなら辻褄が合う」
クリスも神妙な顔で頷く。
どれもこれも、真相にはかすりもしていなかったが、恐るべきことに辻褄だけはぴったりと合っていた。
すっかり悲劇の少女と化してしまったローザの、その高潔さと慈愛深さに、一同は胸を打たれて黙り込む。
しかし、ややあって、低い声が沈黙を破った。
「――だが、手放せるものか」
不穏な呟きを口にしたのは、レオン王子だった。
彼は、金色の瞳を強く輝かせ、眠るローザを見下ろした。
「強い魔力と自制心を持っていたはずの親友も、結局、この瞳の前にしては理性を溶かさずにはいられなかった……。だが、それでも、この金の瞳の誘惑に抗ってみせた人間は、ここにいる。その事実に、俺は今、どれだけ救われていることか」
淡々とした告白に、周囲ははっと息を呑む。
高い魔力耐性を持つからと、レオンが心を許して接していたカミル。
けれど彼も、長い期間レオンの強すぎる魔力に晒されることによって、精神の均衡を崩していったのだと、すでに取り調べによってわかっていた。
それは、レオンの心にどれほどの衝撃をもたらしただろう。
そして同時に――あっさり魔眼を撥ね返してしまったローザの存在は、彼にとって、どれだけ重大な存在になりつつあるだろう。
「ローザは以前、『いっそ茶髪茶瞳のままでいられたら』と言っていた。同時に、『それは難しい』とも。恐らくは、魔眼がもたらす宿命のことを、無意識に見通していたんだろうな」
「兄上……」
「そうとも、もう平凡だったころには戻れない。俺は受け入れなくてはいけないんだ、この忌まわしい魔眼を。だが……せめて、希望がほしい。誰もが魔力に溺れるわけではないと、俺に信じさせてくれる存在が」
今ローザを見つめるレオンの瞳には、これまでとは明らかに温度の異なる情熱が籠っている。
長い指で、眠る少女の前髪をそっと払いながら、レオンは静かに笑んだ。
「だいたい、考えてもみろ。ラングハイムの民に文字を授け、土地を豊かにし、色狂いの父親すら諭して導き。陰謀を見抜き、王妃の命を救い、アプトの里を丸ごと助け――こんな偉業を次々に成し遂げていく娘を、修道院で持ち腐れにさせる道理なんて、どこにある?」
なにかを企むような口ぶりに、周囲は目を瞬かせる。
すぐに意図を察し、両手を広げたのは、ラドゥだった。
「……付け加えると、アプトの医術を唯一受け継ぐに足るベルク人でもあるね」
「王女の心を癒した、という項目も加えてほしい」
ついでクリスも、肩を竦める。
「そうとも。こんな稀有な人材は、国を挙げてでも囲い込まねばならない」
レオンは整った唇を引き上げると、ぐるりとほか三人を見渡した。
ローザが伯爵の実子でないという事実を知る、三人を。
「ローザは、高潔なる薔薇の天使。誰より貴族の地位に相応しい、貴婦人の中の貴婦人であり、我々がなんとしても守り慈しむべき姫君だ。――そうだろう?」
それはつまり、ローザの出自を隠匿し、王城内で匿うということだ。
これまで常に、心のどこかで諦念という魔物を飼っていたレオンは、今や、執着を隠しもせずに瞳をきらめかせていた。
「そうだね。アプトの医術を一部身に着けておきながら、ベルクの神のもとに引っ込むなんて許さない」
ラドゥも、笑みを湛えて頷く。
敵国にあって、皮肉っぽく飄々とした態度ばかり取っていた彼もまた、今この時ばかりは、剥き出しの執着を露わにした。
「僕の話し相手という役目を、けっして解任したわけじゃないからな。ローザには当然、傍にいてもらわないと困る」
もちろんクリスも、ふふんと微笑んで請け負った。
「ベルナルド、おまえの意見は?」
「…………」
レオンに見据えられ、ベルナルドは一瞬黙り込む。
ローザと自分の血が繋がっていないという事実は、彼に衝撃だけでなく、興奮をももたらしていたからだ。
(姉様……いや、ローザと俺は、姉弟じゃない。つまり、この想いには、「先がある」……!)
けれどそれはつまり、ローザの出自を伏せている限り、進展は見込めないということでもある。
(それでも、出家、いや、最悪の場合自殺なんてされちまったら、進展どころの話じゃないわけで……)
となれば、答えなど考えるまでもなかった。
「僕ですか? それはもちろん――」
ベルナルドは、あどけなく整った顔に、にっこりと笑みを浮かべてみせた。




